そして自分は今、何をなすべきか。
南宋軍総帥の印綬を受けて半年、岳霖は軍を強くすることだけに腐心してきた。南宋の各地に駐屯していた旧地方軍に、岳家軍の精鋭を送り込み、徹底した調練を課した。
金国はいずれまた南宋に侵攻してくるはずだ。しかし岳霖には、父のような軍人としての実績はない。命令に反発する将も少なからずいたが、岳霖は可能な限り各地を回り、将兵と語り合い、調練に参加した。風雨を厭わない岳霖の将としての姿に、次第に地方軍はまとまっていった。
岳霖は当初、総帥の印綬を固辞し続けた。自分はその器ではないと。父に比べ、自分は経験も実績も遠く及ばない。岳家軍の中で自分は一将校に過ぎなかったのだ。
しかし、その印を受けることを強く求めたのは孟遷だった。孟遷は父に鍛えられた将軍だった。もともと盗賊だった孟遷は父と出会い、死すれすれの調練を経て、その才を開花させた。今では最も父を知る軍人だ。
岳霖は孟遷と幾日も語らい、剣を交え、時には殴り合った。
父から軍学や武術、軍の指揮について学んだことは一度もない。岳霖は常にその背中を見て、付き従っただけだ。父は息子を特別扱いせず、あくまで一兵士、将校として接してきた。 この武骨さが父の人柄であり、息子に対する愛情でもあった。
孟遷は岳霖を説得することはしなかった。ただひたすら拳と想いで、父を語っただけだった。
ある日岳霖は幕舎の中で、食と水を断ち瞑想した。兵の掛け声、馬蹄の響き、風の音、差し込む陽の光。あらゆる現象と己の想いに向き合った。
三日後、おもむろに立ち上がり、幕舎を出た岳霖の目の前に、新しい世界が広がっていた。
盡忠報国を想い、生き切る事。
幕舎の前で孟遷が、笑っていた。
鍛錬を終えて岳霖が幕舎で岩を担いでいると、外から聞き慣れた馬蹄が聞こえてきた。
「またか」
岳霖は苦笑し、担いでいた岩を下ろすと、椀と酒を用意した。
「岳霖、入るぞ」
男は息を荒げ幕舎に入ってくると、胡床にどかりと腰かけ、勝手に椀に酒を注いで一息に飲み干した。
「今度は何があったのです、梁興殿」
「やはり中華の物流がおかしい」
梁興は、椀に酒を注ぎながら言った。
梁興は漢陽を拠点とする商人で、父を物資の面で支え続けた人物だ。やや血の気の多い性格で、利益度外視で気に入った男を食客にして用心棒にし、腕試しなどさせていた。
そんな中父と出会い、意気投合した。それ以来、岳家軍の兵糧や武具を支援してきた。軍の運営に無頓着の父にとって梁興の考え方は心に沁み、かけがえのない友となっていった。
父の死後、梁興は意気消沈としていたが、ある日突然、取り憑かれたかように、仕事に没頭し始めた。今は貴石や小梁山しの南の海で採れる珊瑚を、蒲甘や大理だいりを中心に捌いている。
梁興は二杯目の酒を飲み干した。
「というと?」
「ここに来る途中、田舎の食堂に入ったのだが、普通に饅頭が出されたのだ」
「饅頭の何がおかしいのです?」
「いいか岳霖、商いというのはな、物が余っているところで安く買い、足りないところまで運び、高く売るから利が生まれるのだ」
「それくらいの理屈は、俺でもわかりますよ」
「それで、饅頭の原料は麦だ。麦は主に中華の北で栽培される。南は温暖な気候により米がよく取れる。つまり北では米が高く売れ南では麦、という具合だが、ここ近年の戦続きで、中華全体の物資が不足気味だ」
「戦は、民を苦しめてばかりです」
「戦のあった年は、普通どこも物資は不足する。ましてや北の麦が南に流れてくるところなど、まずありえない」
「それで饅頭が出てきたのがおかしい、というのですね」
「しかも都市ではなく片田舎にだ。これは驚愕な事実だ。商人は戦が始まるとなると、まず麦や米を買い集める。その動きが去年はまるでなかった。いま中華で何かが起きている。麦だけじゃない。生活に欠かせない物資が、十分でないにしろ小さな村にまで行き渡っている感がある」
「悪いことではないと思いますが」
「民にとってはな。だが俺みたいな商人にとっては由々しき事態だ。どこに物を運んでも高く売れん」
「梁興殿にとっては、それは解明せねばならない命題、というわけですね」
「店の主人に麦の出所を聞いたが、分からないといった。市場に仕入れに行くと、何気なく売られていたという」
梁興は椀に酒を注いで、岳霖の前に突き出した。岳霖は椀を手に取り飲み干し、その椀にまた酒を注ぎ梁興の前に出した。
「岳霖、俺は北に行く。今ある情報を統合すると、北に何かがある。それが南に波及しているようだ。それを見極める」
「そのようなことをなさらずとも、梁興殿はすでに貴石と珊瑚の交易の道を築き、商人としては成功されていますが」
梁興は激しく卓を叩いた。椀が転がり、酒がこぼれた。
「貴石と珊瑚の交易の道か。欲しければお前にくれてやる。俺はすでに出来上がったものに関心はない。見えないものを、見えるようにする。それが利に繋がる」
「それが梁興殿の志ですか」
梁興はもう、甕ごと酒を飲んでいる。
「志だと?梁山泊の連中が喜びそうな言葉だが、俺はそんな言葉は使わん。志など、自分のやっていることに不安を抱いていたり、自信がない奴が吐く言葉だ。男なら言葉ではなく行動で示すものだ」
梁興の眼が据わっている。勢いに任せ、酒を呷ったからだろう。
「俺には盡忠報国があります」
「そうだ。それでいい、それでいいのだ、岳霖」
そう言うと梁興は卓に突っ伏し、鼾をかいて眠った。岳霖は梁興を担ぐと自分の寝台へ梁興を横たえた。
岳霖の目には泪が浮かんだ。
梁興は北の民を救う気なのだ。南の豊富な物資を北に運び、北の民の困窮を救う。その志が岳霖には痛いほどよくわかった。梁興の中の盡忠報国の志。今日はそれを、岳霖に伝えに来たのだ。
梁興の盛大な鼾が、幕舎の中に響いている。