「見つけたぞ。羅辰(らしん)」
薄暗く深い森の中、小屋の前でうずくまる男の背に、候真は声をかけた。
「帰れ」
男は振り返りもせず、呟いた。
「なぜ生きている。いや、生きているなら何故ここにいる」
男はうずくまりながら何かをしているが、ここからではよくは見えない。
「帰れ、と言っている」
「語れ。俺には聞く権利がある」
「権利だと?もう梁山泊と致死軍は無くなったはずだ。お前に語らねばならない謂れはない」
男は相変わらず、うずくまったまま何かをしている。
「梁山泊と致死軍は確かになくなった。しかし俺の心の中には未だ、それらは消えない光としてある」
「光?闇の間違いではないのか?」
「そうとも言える。俺の人生そのものだからな。どちらでもいい」
「面白いな」
男はゆらりと立ち上がり、頭に被っていた布と、巻いていた包帯をほどいて地に落とした。
振り返った男の頭部は、およそ人のそれではなかった。髪はおろか、目や鼻、唇の境目は爛れて分からず一つになり、瞳だけが異様な光を放っている。
「これが今の俺だ。分かるか。候真」
候真は息をのんだ。眼を閉じ、かつての羅辰を思い出そうとした。よく、思い出せない。
「分かる。お前が今の羅辰だ」
候真はにやりと笑った。羅辰が候真を見つめたまま、しばらく黙り込んだ。
「何をしに来た」
羅辰が低い声で言った。それは猜疑心と敵愾心で満ちていた。
「もちろん、お前を殺しに来たのだ」
また、羅辰が黙った。
「こんな化け物の命ひとつ、奪ってなんになる」
「お前は化け物ではない。元致死軍副隊長の羅辰だ」
羅辰は息をついた。
「理不尽だな。だが一応、処断の理由を聞いておこうか」
「致死軍隊長の俺の許可なく、象山の造船所の焼き討ちを決行したこと。それに伴い、致死軍の兵百二十四名を死に至らしめたこと、だ」
「造船所の焼き討ちは成功し、南宋の造船能力は無くなった。結果、張朔は全船隊を南に向けることができた」
「結果ではない、行動を問題としているのだ」
羅辰はゆっくり包帯と布を拾い上げると、頭部を覆った。
「俺も黙って殺される気はない。殺し合う前にお前に聞きたいことがある」
「なんだ」
「お前が全てだといった梁山泊、統括である宣凱が消滅させるのを、肯んじたのか」
「肯ずる、というより受け入れた。致死軍での仕事はやり切った。後悔もしていない」
「そうやってお前は、周りの決定や時流に流されて生きてきたのだ。俺にはわかる、お前の孤独が」
「なんだと」
「お前の人生は、父親が高俅に殺されたところから始まる。楊令を探しに北へ旅し、武松、燕青に死ぬ思いまでして体術を叩き込まれた。楊令と出会ってからは幻王軍の将校として黒騎兵を率い、ようやく騎馬隊の隊長としての才を開花させようとしたところ、公孫勝に致死軍を託される」
「聚義庁の決定は絶対だ」
「お前は黒騎兵にいたかったはずだ。自分の気持ちは押し殺し、組織に従う。そして仇である高俅は自滅し、闇の騒乱の中、唯一愛した女も殺された。そして寂しさを紛らわすために、或いは理不尽な人生を呪うために、戴宗のように酒に溺れようとしたが、それすらもできなかった」
「羅辰、お前は何が言いたいのだ」
「孤独だ。つまりお前に志などない。お前にあるのは、自分を押し殺し続けた結果、生まれてしまった孤独だけだ」
黙れ、と言いかけた候真は口を噤んだ。
「象山の焼き討ちを決めた俺は、部下の百五十名と毎夜話し合った。計画を打ち明けても誰も口外はしない。誰もが梁山泊のために、百五十名一人残らず死んでも構わない、と言った連中だけを連れて行ったのだ。俺は、俺の志のために焼き討ちを決行した」
致死軍は、中華の北は候真が、南は羅辰が率いるようになって、お互い言葉を交わすこともなくなった。その長い時間が、羅辰の心に変化をもたらしたのか。
「言いたいことはそれだけか羅辰。致死軍の兵は志を持ってはならんのだ。任務に疑問は抱かず、名もなく死ぬことを肯ずる。俺みたいな男が隊長になったばかりに、お前のような男を生んでしまった。その責任を今、俺は取らなければならない」
候真はゆっくりと、間合いを取った。
「俺が生き残った訳を、聞かなくてもいいのか」
「関心がなくなった。お前は今ここで、死ぬ」
「俺が死ねば、本当のお前を知る者はいなくなる。俺を殺して、永遠の孤独を勝ち取れ、候真」
候真の心が、心地よく沈んでいく。
「公孫勝殿が、最後にお前に与えた任務を覚えているか?」
「候真という男を、殺せ」
「そうだ。その任務を今こそ果たせ。そして失敗し、あの世にいる公孫勝殿に詫びろ。任務を果たせませんでした、とな」
候真と羅辰の間に気が満ちていく。致死軍の体術に構えはない。二人は腕をだらりと垂らしたまま、ただ向かい合った。風のざわめきや、鳥の囀りが鮮明に聞こえてくる。この緊張感、久しぶりだ。
風が一瞬、強く吹いた。