「親父の遺品を整理していたら、そいつが出てきた。俺は夢中でそれを読んだ。読み終わるころ、俺は涙を流していた。いや、涙を流していることに気づかぬほど、心を打たれたのだ。この本には人が人として正しく想い、それを誇りに生きていくことが書いてあった。そして不正を糺す志を持つことを。俺が叛乱で命を落としても、誰かが俺の行動を見て、立ち上がると信じている」
胡土児(コトジ)は目を閉じた。金軍の将校だったころ『替天行道(たいてんぎょうどう)』は軍の資料の中にあり、胡土児も読んだことはあったが、特に感銘を受けた覚えはなかった。
『替天行道』は梁山泊の原典だが、他国の書物、というくらいの認識でしかなかった。それがこの若者には、人生観を変えるほどの影響があったのだ。この冊子は紙の端が擦り切れていて、文字は薄くなったのか、上から墨でなぞった跡まである。長い年月、何度も読み返したのだろう。
「あの千もの若者は、どうして集まった?」
「俺と巨骨(ここつ)は食料を、軍の兵糧庫を襲って手に入れた。俺は軍にいたので、兵糧庫の位置や警備体制などは熟知していたからな。俺と巨骨なら警備の兵や追手を蹴散らすなど、造作もないことだった。ついでに銀の袋を奪い、道にばら撒いてやったさ。それが噂になり、あっという間に五百、千と集まってきた。俺と同じ思いの若者がこれだけいたのだ。親父はなぜ『替天行道』をもっと早く俺に見せてくれなかったのか。そしたら俺の生き方も変わっていたかもしれん」
「俺には親父殿の気持ちがわかる。『替天行道』をお前に見せなかったのではない。見せられなかったのだ」
「なに?どういうことだ」
「むしろ死の間際まで『替天行道』を処分しようか迷っていたのだろう。しかし、それができなかったのだ」
「知ったようなことを言うな胡土児。お前に何がわかる」
「わかるさ。そもそも千の若者がおまえと同じ気持ちだというのが、間違いだ」
孔最が青筋を立て、肩を震わせている。怒りのあまり言葉も出ないようだ。その様子を見て、胡土児はかえって冷静になった。
「さっき俺を囲んでいた若者達、剣を佩いているものも少なかった。顔色もよくない。食い物もあまり食っていないのだろう」
「当たり前だ。食糧庫を襲うにも限界がある。民の物を奪うなどもっての他だ。武器は攻めてきた官軍の物を奪えばいい。志を持つならば、多少の飢えにも、耐えて当然ではないか。死ぬ気で挑めば活路は必ず見えてくるはずだ。俺は集まった若者ひとりひとりと語り合った。誰も俺の話に、異論は言わなかった」
孔最が息を巻いた。
「目を覚ませ、孔最。ここに来る途中、罠の一つもなかった。お前は毎日ここに登り、官軍が攻めてくるのを心待ちにしているのだろう。早く俺を殺しに来い、と。お前ひとりは死ぬ気で官軍に立ち向かう気かもしれないが、集まった若者たちは違う。死ぬ為にここに来たのではない。生きる希望を見出すために、ここに来たのだ」
言われた孔最の、目の色が変わった。しばらく沈黙した後、立ち上がって後ろを振り返り、少華山の樹々に目を落とした。
「胡土児、お前の言うとおりだ。俺は志という言葉に、逃げていただけなのかもしれん」
孔最が、声を絞るように言った。
「巨骨がお前に従順なのも、お前の目に同じ哀しみの光を感じたからなのかもしれん。しかし、哀しみを宿すもの同士がいくら集まっても、それを癒すことはできんのだ」
孔最は、少華山の樹々から目を離すことができないようだ。
「胡土児、俺はどうしたらいい。いっそお前がここの頭領となり、『替天行道』の旗を揚げるか?」
「甘えるな孔最。死ぬ気でここまで来たのであろう。なら死ぬ気で考えろ。生きるために、志のためにやるべきことをすべてやれ。考えつく限りだ」
孔最が胡土児に振り返り、ふっと微笑んだ。孔最の眼の色が、変わっていた。
「お前、不思議な男だな。巨骨には言葉でなく拳で向き合った。そして俺には言葉で心を打った。この前、おかしな若者二人と部隊がやってきた。若者は巨骨に志を持てなどと言ったが、通じるわけがない。まさか、お前の所縁の者ではないよな」
胡土児は、苦笑するしかなかった。
「それにしても巨骨の奴、喜んでいるだろうよ。お前は、あいつの拳に真っ向から向き合った。あいつは拳でしか想いを表現できないのだ。俺もあいつを理解しようとしたが、まるで子ども扱いされるだけだった」
「俺はひと目あいつを見た時に、何故かそうしようと思っただけだ。深い理由はない」
孔最の目に、光が宿っている。
「分かった、胡土児。やるだけやってみよう。この少華山に集まった者たちが、生きる希望を持てるような寨にしてみようではないか。根拠はないが、できるような気がしている」
「ああ、それができた時、また会おう。孔最」
その時、とてつもない咆哮が響いてきた。それは哀しみを帯びてはいるが、どこか力強く、決意に満ちたものの様に、胡土児には感じられた。
そしてその咆哮は、少華山の山々に吸い込まれていった。