胡の地より   作:遼心

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析律は生来の生真面目な性格で、南進の分析に勤しんでいた。しかしそれは他から見ればいささか異常とも言えるほど、苛烈な姿に映った。そしてその異常さを少しでも和らげようと、一人の男が執務室の戸を叩いた。


第六十三話 職と食

 梁山泊の報告でもう一つ気になるのが、梁山泊の騎馬隊が突然地から湧いてきたように現れた、という報告だった。阿列の報告では、斥候を出していた範囲の内側に、突然騎馬隊が姿を現したという。斥候の運用に問題があったのではないかとも思ったが、析律の頭に、すぐに‘荘軍’という言葉がよぎった。

 荘軍とはかつて旧宋が梁山泊に対してとった作戦で、梁山湖に近い荘(大きな村落)に村民の姿の兵を少しずつ隠密に村に入れ、普通に生活させる。それが号令一下、突然軍として姿を現わす、というものだった。荘軍による大軍の出現により、梁山泊は大いに苦戦させられたという。

 梁山泊の将兵は志で繋がっている。消滅後も何らかの目的で再び集結することは考えられるが、これもやはり目的が見えてこない。

 いや、たかが二千。析律はそう思い定めることにした。一応、虎坊党(金の闇の組織)を使って情報は集めさせてはいるが、今回の南進の障壁となるのは考えにくい。おそらく懸賞が掛けられた楊令の遺児である、胡土児の生存を知り、感情的に救い出しただけだろう。胡土児自体、海陵王の粛清劇の欠片でしかなく、胡土児ひとり取り逃がしたところで、南進の戦略に支障はないはずだ。海陵王も近ごろは胡土児については触れなくなった。

 析律は梁山泊の事を、頭の隅に追いやろうとした。

「丞相、入りますぞ」

 執務室の扉の向こうから声がかかった。入ってきたのは、壺を抱えた阿列だった。

「これは総帥、いかがいたしたのかな」

 析律は、無造作に広げられた卓の書類を除けて椅子を用意した。

「いやいやお気遣いなく。なに、よい酒が手に入ったので丞相にもと思いましてな」

「これはこれは、では今夜にでも拙宅でいかがですかな」

「それはよいですな。ところが今、何故か私の懐には椀が二つ入っているのですよ」

 そう言うと阿列は椀を取り出し、酒を注ぎ始めた。さ、と椀を差し出してきた阿列の笑顔に、析律は思わず吸い込まれそうになった。

「では執務中ですが、一口だけ」

 阿列の笑顔に押し切られるように、析律は酒を口に含んだ。

「これは」

 酒は口の中でとろりと広がり、口の中いっぱいに芳醇な香りが広がる。そして最後にぴりっとした後味を残し、消えていった。

「これは、うまい」

 析律は思わずつぶやいた。阿列が満面の笑みを浮かべている。そして二つの椀に酒を注いだ。

「これは米の酒でしてな。父が昔、たまたま手に入れたのをいたく気に入り、我が家の秘密の地下蔵に蓄えるようになったのですよ。それをひとつ、失敬してきました」

「米の酒とは珍しい。北の地ではなかなか手に入らぬのではないかな」

「私もそう思いましたが、開封府の街の市でも、時々南の産物を目にしますよ。米の酒もありました。近ごろは商人が活発に活動しているのでしょうな」

 析律は商人の活動と聞いて、微かな違和感を覚えた。近ごろ戦の準備に追われて、内政のことまでなかなか手が回っていない。部下が上げてくる重要な採決を下すくらいだった。

「丞相、また仕事のことを考えておられますな。ではこのうまい酒に合う料理をふるまって差し上げましょう」

「あいや、これ以上は。執務に差し支えますので」

「丞相、お見受けしたところかなりご無理をされていますぞ。食事もあまりとられていないのでは。それではよい仕事などできません」

 確かに阿列の言うとおりだった。最近は帰宅せず、庁内の仮眠室に寝泊まりし、食事もここへ饅頭など運ばせて済ませている。軍の調練に比べればここの仕事など楽なものだと、つい考えてしまうのだ。阿列には自分の顔がたいそうやつれて見えるのかもしれない。

「分かりました。では頂くことにしましょうか」

 阿列が頷くと手を叩き、侍女に合図した。侍女は盆を一つ運んできて卓に置いた。盆の上には布が被せてあり、阿列が布を取ると、生の肉の塊が姿を現した。

「これは?」

「鹿の肉です。これを生で頂きます」

「なんと、肉を生で食べるのか」

「まさに。しかし普通は肉を生では食べられません。この肉は今朝絞めた鹿肉を、布で何度もくるんで徹底的に血抜きしてあります。肉の臭みや、硬さを感じるのは血が残っているからです」

「なるほど、手間をかけているのですね」

 阿列は腰の小刀を抜くと、肉を削ぎ始めた。その手捌きは思わず見とれてしまうほど鮮やかだった。

「いくら肉が良くても、切り方が下手では筋すじが残って、肉も潰れてしまい味が落ちます。こうやって手先ではなく、身体全体で切る感じでなるべく薄く切っていきます」

 肉はみるみる捌かれ、皿にきれいに盛られていく。盛られた肉は、ふっくらしていて輝いて見えた。そして阿列は小皿に黒っぽい液体を注いだ。どうやら肉はそれに付けて食べるらしい。

「この液体は?」

「これは酒に山椒、野草、鹿の血、香料などを加えて寝かせたものです。初めは匂いも強烈ですが一年ほど寝かせると、匂いと味が落ち着いていい塩梅あんばいになります」

 析律は試しに鼻を近づけてみた。一瞬つんとしたが、その刺激が食欲を刺激した。

 

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