「さ、頂きましょう」
析律は恐る恐る肉をたれに付け、頬張った。口の中で肉がとろけ、噛むたびに深い味わいとなり、たれのぴりっとした刺激とともに消えて行く。
「うまい、これはうまい」
析律は箸を止めることができなかった。肉は噛むほどに口の中でほぐれ、柔らかく溶けていく。阿列も酒を飲みながら、ひとつふたつと肉をつまんだ。
「肉にこんな食べ方があるなど、思ってもみなかったです」
「故郷の友人に猟師がいましてね、何日も山に籠って猟をするときによく作るそうです。鮮度が命なので市場や食堂に出すことはできません。なので皆知らないのでしょう」
「このたれも、刺激が強いが癖になる味です」
「肉の濃い味わいに、深みが出ますね。これも少量しかないので、その友人に分けてもらった分しかありませんが」
皿の肉はあっという間になくなった。析律は肩の力がすっと抜けていくのを感じた。
「いや、これは大層なご馳走を頂いた。なにやら力が湧いてきましたぞ」
阿列が微笑んだ。
「最近丞相が根を詰められていると思いましたので、たまには郷土の料理で息抜きして頂こうかと思いましてね」
析律には、阿列が将兵から慕われている理由が、何となくわかるような気がした。
「いやはや面目ない。これからは少し身体を休めて食事もちゃんと取りましょう。しかし総帥は強いだけでなく、料理の才もおありですね」
「その総帥、という呼び名はまだ面はゆいですね。丞相といるときは阿列で結構ですよ」
「では私のことも丞相ではなく、析律とお呼びください」
「では、そうさせていただきます」
しばらくは故郷の話や、幼いころの話をした。いままであまり他人と親しく接してこなかった析律には、新鮮な時間だった。
「ではお父上の鍛錬は、相当厳しいものだったんですね」
「それはもう、生きていることを後悔するほどのものでした。しかしいくら棒で打たれても怪我をすることはありませんでしたし、立てなくなるほどの鍛錬をしても、不思議と翌日には身体が動くのです。今思えば父は、鍛錬と休息の釣り合いをよく考えていたのだと思います」
「ほう、ただ闇雲に身体を虐めて鍛えればいい、というわけではないのですな」
「そうです。そして厳しい鍛錬の後には、必ず旨いものをたらふく食わせてくれました。それで身体も強くなっていったのです。うまいものが食える、と思うとつらい鍛錬でも、またやる気も湧いてきます」
析律は鍛錬のやり方など考えたことはないが、それはそれで奥が深く、面白そうなものだと感じた。
「ではお父上が鍛えた契丹兵は、さぞ精強になったでしょうね」
「さて、十万もの兵の鍛錬です。生半可なものではないでしょうが、どんな軍に仕上がっているか、私も楽しみですね」
「軍といえば阿列殿、梁山泊の呼延凌と秦容、実際に対してみていかがでしたか」
析律がそう言うと、急に阿列の表情が変わった。何か触れてはいけないものに触れてしまったのかと、一瞬思った。
「何もできなかった。いや、二人が現れた瞬間に、私の敗北が決まっていたのです。こんな経験は初めてです」
「胡土児(コトジ)を救出して、去っていったとか。ではもう現れないのではないでしょうか」
「いや、彼らとはまたいずれ、必ず相まみえます。これは軍人としての勘のようなものですが、次対するときは、私の軍人としての誇りに駆けて、必ず二人を討ち果たします。そのための調練をしてきたつもりです」
阿列の言葉は今までと違い、一段深く重くなり、人が変わったのではないかと思うほどだが、発せられる気は、武人のそれそのものだという事が析律にもはっきりと感じられた。
「梁山泊が南進の障害となるのでしょうか。しかしそうだとしても、まだその目的がはっきりしません」
析律は少し声を重くしていった。武人と向き合う圧に耐える、とはこういうことなのだろうか。
「梁山泊は、今は消滅しています。利害を超えた何かで動いているのでしょう。いきなり二千騎が原野に出現したことも気になります」
「それについては、以前旧宋が、荘軍という屯田兵のような策を用いて、梁山泊を欺いたことがあります。普段は民として生活し、招集がかかると速やかに集結する。きっとそれと同じような手法なのでしょう」
析律は壺を取って、阿列と自分の椀に酒を注いだ。
「このうまい米の酒が不意に現れるなら、いつでも大歓迎ですがね」
析律が冗談を言った。杯を重ねるうちに、何となくそんなことを言う心の余裕が出てきたのかもしれない。南の特産、物流、梁山泊の消滅と荘軍、利害を超えた何か。それらが析律の頭の中を駆け巡った。
突然、析律が両手を勢いよく卓に叩きつけて立ち上がった。阿列が唖然としている。
「誰か、丞相府の人間をこれへ呼んでくれ。誰でもいい」
析律が外に向かって叫ぶと、侍女が驚いて駆けて行った。析律は落ち着きなく室内を歩き回った。一人の男の存在。析律の頭の中はそれだけで一杯になった。
「析律殿、どうされたというのだ」
そう言った阿列を見た析律の目が、燃えている。
「阿列殿、分かりましたぞ。この米の酒のおかげですな」
析律は笑って壺を掲げた。阿列は何のことかわからない、という顔をしている。
しばらくすると内政官が駆けこんできた。
「丞相、何事ですか」
「すぐ中華の金国領の物流を調査してくれ。主要品目だけでなく、嗜好品や日用品などを含めてだ。ここ半年間の物の流れと値だ。虎坊党も使っていい。できればひと月でやってくれ。出陣前に終わらせたい」
「正気ですか。膨大な量になりますぞ」
「よい、そこの二部屋を空けておく。書類はすべてそこに運んでくれ。いいな、金国の未来のためだ、大変だろうが頑張ってくれ」
内政官が駆けていった。析律は息を荒げている。
「析律殿、よくはわかりませんが、何か新しい世界が見えたようですな」
析律は、微笑みかけてきた阿列を見つめ、頷いた。