胡の地より   作:遼心

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刺客の昏矢(こんし)が趙眘に降り注ぐ。岳霖は、己の不明を嘆くも冷静に趙眘を守るため馬腹を蹴った。


第六十六話 不可視

 趙眘(ちょうしん)は咄嗟に馬にしがみつき矢を躱すと、馬を返し原野に向けて方向を変えた。共の百騎からは死角で見えない。

「殿下」

 岳霖もすぐさま駆け出した。五人。駆け寄りながら、岳霖はまず騎射で一人を射倒した。矢はそれで尽きた。

 趙眘の馬は、放たれて来る矢に興奮して棹立ちになり、趙眘はそれを何とか抑え込もうとしている。岳霖は趙眘の盾になる位置に馬を進め、飛来する矢を剣で払い落とした。

 残りの四人は短剣を抜き、低く身を屈めながら岳霖を遠巻きに避け趙眘に駆け寄る。速い。並みの動きではない。相当訓練された刺客のようだ。趙眘の馬は刺客に怯え駆け出すが、速度が出ない。このままでは追いつかれる。

 岳霖が最後尾の刺客に追いすがり剣を横に一閃、一人の首を飛ばした。さらに馬から跳躍し、着地と同時に背後から一人斬り裂いた。残り二人。間に合わない。

 岳霖が剣を投げると、一人の背中に突き立ち、倒れた。最後の一人が跳躍し趙眘に襲い掛かる。

 次の瞬間、刺客の眉間を、趙眘の剣が貫いた。刺客の頭は、柄のあたりまで篦深く突き刺さっている。趙眘は絶命した刺客の重みで崩れそうになったが、趙眘が剣を横に薙ぐと刺客の頭が割れ、身体が地面に転がり、あたりに脳漿が散らばった。

 周囲にはもう、害意はない。

 岳霖は趙眘に駆け寄り、跪いた。

「殿下、この岳霖の不手際、どうか総帥の印綬を取り上げ獄へお繋ぎください」

 趙眘は、未だ興奮する馬をなだめている。

「何を言う岳霖。そなたの武の鍛錬のおかげで、事なきを得たのだ。早く馬に乗れ」

「しかし」

「よいか、狩りに出かけ、奇妙な猿を五匹狩ったのだ。それだけの事だ。これは、とても食えるものではないがな」

 岳霖が一度平伏し、馬に乗った。そして死んだ刺客に目を落とした。趙眘は初めて人を斬ったはずなのに、息ひとつ荒げていない。

「岳霖、付いてこい」

 趙眘が駆けだす。岳霖はようやく追いついてきた兵に待機の合図を出し、趙眘を追った。趙眘は見晴らしのいい丘の上で馬を止めた。

「岳霖、盡忠報国とは、いったいなんなのだ」

 突然の問いに、岳霖は戸惑った。

「は、忠を尽くして国に報いる。父岳飛から受け継いだ志です」

「そなたの父、岳飛は南方より南宋に戦を仕掛け、秦檜と程雲を打ち破り、その勢いで金を攻めた。その行動のどこに、忠を尽くす姿がある」

「岳飛は志半ばで斃れました。岳飛の志は中華の北半分、金に虐げられている漢民族の同胞を救う事です」

 趙眘は丘の向こうへ、視線を向けたままだ。

「民族を持って国と成す、という事か。そなたも同じ想いを抱くのか」

「盡忠報国は、私が私たるもの。そう胸に刻んでおります」

「岳飛か。南宋の民は英雄として、岳飛を祀っているという。さぞ勇敢であったのだろう。その勇猛さ、羨ましくもある」

「武人でありました」

 趙眘はしばらく黙っていた。丘を吹き抜ける風が心地いい。

「岳霖、金が我が国に戦を仕掛けようとしているらしい」

 趙眘が、静かに言った。

「は、いたずらに民心を乱してもならぬゆえ、伏せておりますが、金の侵攻には万全の策で臨みます。何も心配されることはありません」

「金は、水軍を創設したというが」

「すでに聞き及んでおります。水軍については虞允文(ぐいんぶん)に対策を命じています。彼なら安心して対応を任せられます。そして金軍の大半は、今年徴兵された新兵です。恐れることはありません」

 虞允文は秦檜の下で働いていた文官だが、軍事の才もあり岳飛が南宋を平定した時、地方軍の再編にも尽力した。彼のおかげで大きな混乱もなく、南宋軍は一つにまとまったといっていい。岳霖が最も信頼する、文官の一人だ。

「岳霖、武術指南役は今日を持って、その任を解く。金侵攻の対応に専心せよ」

「仰せのままに」

「それと、お前は宣凱という者と交友があろう。彼らとよく連携せよ。此度の戦、私は決して甘くはないと感じている。必要な助けがいる場合は私に言え。よいな」

 岳霖は趙眘の言葉を聞いて、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。宣凱とは今も書簡のやり取りをしている。水軍などの情報は宣凱がもたらしたものだった。この男は一体どこまで物事を見通しているというのか。悠然と風を受けるその後ろ姿に、岳霖は言い知れない畏れのような感情を抱いた。

 友を求めているのか。武術指南役として自分を求めてくる趙眘について、岳霖はそう思うことがしばしばあった。幼いころから後宮で過ごした趙眘に、同年の友などいないはずだ。

 しかし、それが思い過ごしであると、この時岳霖は自嘲を持って確信した。趙眘は友など求めてはいない。自分を理解するものなど、必要としていないのだ。

 趙眘が求めるもの。それが何か、岳霖は考えるのをやめた。

「もう一つ、今のうちに言っておくことがある」

「は、何なりと」

「金への北伐、私は認めぬ」

 岳霖の胸に、暗い炎のようなものが燃えるのを感じた。岳霖は平伏したまま、顔を上げることができなかった。

 

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