「まあ、それはいい。俺は子午山というところに住んでいるのだが、最近少華山の方角に妙な気配を感じるようになった。少華山は俺が住処にしていた所でもある。おかしな連中が巣くっていやがったら、尻でも蹴り上げてやろうと思ってここまで来たのよ」
「子午山だと?ここから五百里は離れているぞ、そこからここの気配を感じたというのか」
「まあ、軽い遠乗りのつもりでもあったのだがな。実際来てみると、いきなり少華山が燃えやがった。そして炎の中からお前が飛び出してきた。それを見て、俺は久しぶりに心が熱くなったぞ」
心が熱くなったと聞いて、孔最は悪い気はしなかった。
「歩兵の指揮もまあまあだったが、騎馬隊の存在を認知できなかったのが、惜しかったな」
「俺にとって初めての戦だった。爺さんが来てくれなかったら危ないところだった。それについては礼を言わせてもらう」
孔最がそう言うと、史進はおう、といってまた笑った。史進という男は、こういう無鉄砲な行動が嫌いではないのかもしれない。
孔最は史進と話をしていて、妙な違和感を覚えた。なんというか身体が岩のように固い、史進があまり命あるもののように感じない、妙な感じだった。
「俺の身体が気になるのか?」
孔最の視線を感じたのか、史進が言った。
「前の戦でな、身体の方々の筋(きん)を斬られたのだ。切れた筋がうまい具合に引っ付かなくて、今でもあまりよく動かん」
史進が肘を曲げ、ぐるりと回した。肘の動きに合わせて、肩の骨がいびつな動きをした。
「よくそんなんで剣が振れるな。それにその剣も見たことのない形をしている」
「この剣は、日本の砂鉄で作った日本刀という刀だ。業物で今まで刃こぼれ一つしてこなかったぞ」
史進が日本刀を鞘から抜きながら、横に薙いだ。空気が切り裂かれ、一瞬にしてまた鞘に収まった。孔最の頬の皮が裂けたが、血は出ていなかった。孔最は、身動きがまったくとれなかった。
「孔最、お前は三度、俺を爺と言った。その礼さ」
史進が笑いながら言った。よく笑う爺さんだと孔最は思ったが、言葉にはしなかった。
「やはりまだ、爺と認めていないではないか、史進殿」
孔最は、自然に史進を殿とつけて呼んだ。史進には志こそ感じられないが、梁山泊の将として戦場を駆け抜け、この年齢まで生き残り、こんな身体にまでなってもなお刀を振るい続けている。並みの人生であるはずはない。
「なに、爺でもただの爺ではない、そう思い始めたのさ」
孔最は初めて他の人間に、敬意と呼べる感情を抱いていることに気づいた。史進を見つめる巨骨の目が、輝いている。こんな巨骨の表情を見るのもまた、初めての事だった。
「やはり刀を振ると、方々が軋んで痛みが走る。しかしこれもまた、生きている証なのだがな」
史進が、ぼやくように言った。
「それでも史進殿は、日本刀を振るうのでしょう」
「曲、口を離れず、拳、手を離れず、というやつさ。ところで孔最、お前なぜこんな戦を仕掛けた。あのまま続けていれば危ないところだったぞ」
「俺は、今の金のやり方が気に入らない。今まで散々重税をかけておきながら、今度は徴兵までかけやがった。俺も軍にいたが、軍も腐りきっていて、賊を追い払うこともせず、民から財産を奪うようなことしかしない。俺はこんな腐った世の中を変えてやろうと思って、みんなに声を掛けた。そしたらこれだけの仲間が集まったのだ。これで起たなかったら男ではない。そうだろう?史進殿」
史進がしばし、遠い目をしたような気がした。
「俺の友たちも昔、お前と同じ想いで立ち上がったのだ。長年命を懸けて戦ったが、どうやら世の中を変えるには、至らなかったようだな」
それは史進が見せた、初めての哀しい眼だった。
「梁山泊の存在は、俺たちの心の支えになっている。正しいことのために戦うことは、結果がどうあれ、決して無駄なことではない、と俺は思っている」
孔最は懐から『替天行道』を取り出した。それは汗で滲んで読めなくなっていたが、そうなると孔最はいつも新しい紙に、すべて書き直していた。内容はすでに諳んじている。
史進がじっと、その汗で滲んだ『替天行道』を見つめた。
遠くから、馬蹄が響いてきた。それはものすごい勢いでこちらに向かってくるようだ。孔最はあたりを見回した。
史進は一度宙に目をやると、すぐに目を閉じ、口元で微笑んだ。乱雲も耳を立て、首を起こした。
「あれは、まさか胡土児(コトジ)か?」