しかし胡土児が戻ってくると一転、胡土児との立ち合いを望んだ。秦容の見ていた世界とは…
秦容が討たれた。呼延凌はそう直感した。
しかし、実際は秦容率いる五百は、秦容を含め全員気絶させられていただけだった。呼延凌の隊は倒れていた者を馬に乗せ、轟交館へ引き返した。
あれから十日、秦容は一切口をきこうとはしない。
一日中、見晴らしのいい岩の上で、遠くを見つめ立っているだけだった。何を問いかけても何も喋ろうとはしない。こんな秦容を見るのは初めてだったが、今は生きているだけで良しとするべきだった。
何があったかは分からないが、状況から言えば、秦容と五百の兵は全員死んでいてもおかしくなかったのだ。
しばらくはそっとしておこう。呼延凌はそう思った。
「秦容殿は、相変わらずですか」
胡土児(コトジ)が声をかけてきた。胡土児は孔最の救援に向かい、昨日の深夜、轟交館に戻ってきたと報告を受けていた。
「胡土児、戻ったか。孔最はどうだった」
「孔最の奴、華州を陥しました。あらかじめ城内に仲間を潜ませておき、城攻めと同時に内側から門を襲って開門させました。そこで勝敗は決まったようです。俺はただ見ていただけでした」
孔最が、少華山の火計を成功させたところまでは知っていた。一日で華州を陥とす。呼延凌の心がわずかに踊った。
呼延凌は賊徒の集まりなど、腰抜けばかりだと思っていた。世の中に不満があっても起ち上るのではなく、徒党を組んでは弱いものを襲い、食い物や女を奪う。そんな賊徒の慰撫をやらされる胡土児に、呼延凌は同情したくらいだった。
「そうか、孔最は華州を一日で陥したか。あの腑抜けた秦容に、孔最の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだな」
呼延凌は、岩の上に立つ秦容に聞こえるように、大声で言った。秦容は背を向けたまま、微動だにしない。
「呼延凌殿、秦容殿は腑抜けているわけではないと思いますよ。きっと何か深く考えを巡らせているのでしょう」
胡土児が言った。呼延凌にもそれはわかっている。
秦容は、全力で慎思を討ちにいったはずだ。それが見事に打ち伏せられて、殺してさえもしてもらえなかったのだ。
つまり慎思にとっては秦容の全力など、闘いですらなかったのだ。その意味は同じ武人である呼延凌には、痛いほどよくわかった。
誇りを、傷つけられた。それは武人なら、自裁してもおかしくはないことなのだ。
「胡土児、戻ったか。俺と立ち会え」
不意に秦容が叫んだ。胡土児と呼延凌は一瞬戸惑ったが、振り返った秦容の眼は、気力に満ちていた。
胡土児は、牧で秦容と向き合った。手には剣に見立てた調練用の棒を構えている。秦容も同じ棒を持って立っている。
「胡土児、棒か。吹毛剣でもいいのだぞ」
秦容が言った。
「吹毛剣は、抜きません」
「ふん、まあいいか」
胡土児は秦容と向き合った。棒を構え、隙を伺う。
この時、胡土児の全身に粟が立った。身動きが取れない。秦容はただ棒を持って、静かに立っているだけだ。人を圧倒するような気を発しているわけでもない。
打ち込めばやられる。胡土児の頭に浮かんだのはそれだけだった。顎から汗がしたたり落ち、身体がどんどん硬直していく。今、秦容に打たれればどうなるのか。胡土児にはその恐怖心に抗うので精いっぱいだった。
秦容も棒を構えたまま、一刻(三十分)程対峙し、胡土児はついに膝を折った。全身が汗にまみれ、息が上がっている。
「秦容殿、これは一体。武にこんな世界があるなんて」
胡土児が声を振り絞って言った。
「胡土児、俺は思い出したのだよ。王進先生の武をな」
秦容はそう言うと、微笑んだ。