その時、焚き火の闇から見知った気が、近づいてきた。
あの日胡土児(コトジ)は、二人を連れて国境付近を哨戒していた。蒙古は雪の季節以外は金国に侵攻しする歴史がある。国境沿いの村などを襲い、略奪を繰り返していた。そのため金国は国境付近に、常に兵力を割いておかなければならない。雪の季節を前に最後の侵攻を試みることもあるが、少し前、大規模な侵攻を叩き潰したばかりなので、油断もあったかもしれない。
三人で野営中、突如数百の刺客に襲われた。蒙古兵に偶然出くわした、というのではなく、明らかに意思をもって胡土児の命を狙ねらったものだった。胡土児は二人を逃がそうとするが二人はそれを肯じず、三人で戦うことになった。三人とも死力を尽くし、まさに力尽きる寸前のところを、蒙古の友人、徒空の騎馬隊に助けられた。
その出来事以来、これ以上、軍にいられないと悟った胡土児は、軍を抜ける決断をした。軍規に背そむく為、ひっそり離れるつもりだったが、軍での生活の中で唯一心を許した、北部総司令の斜律里(しゃりつり)が忍んで見送りにきて、最後の盃を交わした。
軍に未練はなかった。父は死に、金国と胡土児を繋つなぎ止めているものは何もなくなったのだ。襲撃を企くわだてたのが誰だったのか、胡土児にはある見当はついていたが、あえて追及することもなく、むしろ軍を去さるきっかけに都合がよいとも思っていた。しかし共に命を懸けて戦った二人がいる。彼らの気持ちを考えると、胡土児も心が痛むのだが賊徒の仕業だろうという言い訳も、考えると無理があったのだ。
胡土児は黙って、煮えた麦の玉と山菜、肉を椀によそって耶律哥(やりつか)に差し出した。耶律哥はそれを一気に掻かきこんだ。胡土児はそばで眠っている蕭尤(しょうゆう)を見て、こいつも同じ気持ちなんだろうなと思った。
不意に、空気の流れが変わった。焚火の火が、一瞬大きく揺ゆらめく。風向むきが変わったとかではなく、周囲を包む気配が変わったのだ。そして胡土児にはこの気配に覚えがあった。胡土児は一息ついてうつむいた。
「久しいな候真。鹿の肉でも食うか?」
耶律哥が訝しげな眼差しを胡土児に向けようとして、隣に座っている候真に気づき後ずさった。
「安心しろ、耶律哥。こいつはちょっとした知り合いだ。忍の出身なので、ちょっといたずらで俺たちを驚かせようとしただけだ」
「すまんな胡土児。習性(ならいしょう)でな。うまそうな匂いがしたもので、たまらず顔を出してしまった」
「お前、俺たちが森に入ってからずっとつけていたな。うまく鹿が狩れたので出てきたんだろう」
「そういうことにしといてやるよ。酒もあるがやるか?南方の甘蔗から作った強烈なやつだが」
「やめておくよ。酒は断たっている、というかもうあまり手に入らんからな。酔うとおかしなことになりそうだ。それより史進殿はご健在か?」
胡土児は、焼けた肉を候真に差し出した。候真は瓢(ふくべ)の酒を呷ると、肉を頬張ほおばった。
「あの人は不死身だよ。去年の戦で瀕死の重傷を負ったが、今じゃ子午山(しごさん)の大岩に生える樹にぶら下がって鍛錬しているよ。しかし胡土児、お前すっかり猟師生活が板についてきたな」
胡土児は焚火に薪をくべた。炎が粉を上げ、いったん小さくなり、また大きく燃え上がった。
「別に猟師になったつもりはないが、俺は元々森で育った。生きる術は身についている。お前は梁山泊がなくなった今、何をしている」
「梁山泊と致死軍(ちしぐん梁山泊の裏の組織)はなくなったが、裏の組織ってのはいつの時代も働きどころはあるものだ。どうやら俺はもう、まっとうな世界には戻れないらしい」
候真は、苦笑しながら答えた。
「ところで胡土児、吹毛剣(すいもうけん)はいま佩はいているか?」
候真が話を変えた。