胡土児(コトジ)が目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。そばで秦容が焚火を焚き、肉を焼いている。胡土児が身体を起こす。不思議と、身体の痛みはあまり感じなかった。
「目を覚ましたか、胡土児」
秦容が、焚火に目を向けたまま言った。
「俺は、一体」
胡土児が呟いた。
「胡土児、お前が最後に経験したのが、死域というものだ」
「死域、ですか?」
「そうだ。人は体力の限界の先に、まだ力を残している。それが死域と呼ばれるものだ」
「そういえば、もう身体が動かない、と思ったとき不意に体が軽くなりました」
「体力の限界を超え、さらに強い意志が働いたときに、人はしばしば死域に入る。しばらくは鬼人の如く身体が動くが、そのまま動き続けると、死に至る」
「それで死域、ですか。あんな感覚は初めてです。王進先生の武は、死域の事なのでしょうか?」
「いや、王進先生の武は想いとは無縁なのだ。今はそう確信している」
「想いと、無縁」
「俺は長らく狼牙棍を使っていた。それは俺の親父の秦明が愛用していたのが狼牙棍だったからだ。梁山泊の拠点、二竜山を統べる父を誇りに思っていたからな。子供としては当然の感情、と言える」
「梁山泊の湖寨が、童貫に陥落させられる以前の話ですね」
焚火を見つめる秦容の眼が、穏やかになっていく。暑さの盛りはすぎ、夜風が心地いい季節になってきている。
「その狼牙棍が、慎思にたやすく二つに割られた。そして狼牙棍が俺の武を曇らせる、と言ったのだ。つまり俺の武に、親父への想いはあってはならんことなのだ、と思ったよ。王進先生も、武に関しては一切の私情は挟まなかった」
「大切なものを守る、得たいものを得る、そのために強くなることも、あると思いますが」
「ある程度までは、だ。武を極めるとはそれら一つ一つを、捨て去ることで近づいていく」
秦容が、肉に手を伸ばした。
「胡土児も食っておけよ。明日から毎日鍛錬だ。俺の兵が合流したら、玄旗隊と部隊調練も行う。全員、死域を克服せねばならん」
「慎思の軍は、秦容殿にそう思わせるほど、それほど強かったのですね」
胡土児も肉に喰らいついた。遠火でじっくり焼いたので、噛むと肉の旨味が口いっぱいに広がった。生きている、という実感が沸きあがってくる。
「俺はあの軍に、あの将に勝ちたい。慎思はあえて俺を殺さなかった。その意味を見つけるためにな」
戦う意味、胡土児の脳裏にその言葉が何度もこだました。
翌日から、過酷な調練が始まった。
まず山野を駆け回った。一日分の食糧と水筒だけを持ち、三日間山を駆ける。決められた刻限に間に合わなかったものは、もう一度同じ工程を駆ける。
三人一組で駆け、助け合うことや、水を確保することは認めたが、山で食料を得ることや、分け合うことは禁じた。途中死域に入るものがいたら打ち倒し、気絶させることも徹底した。
中には心を失なくし暴れる者もいたが、他の二人が支えながら、みな山を駆け抜けていった。
胡土児は秦容、呼延凌と組んで、最も早く山を駆け抜けた。
玄旗隊の面々も駆けて来る。玄旗隊では耶律哥(やりつか)、蕭尤(しょうゆう)、宋万の組が最も早く駆け抜けた。久しぶりに見た宋万は、胡土児がおやと思うほど成長していた。体つきもそうだが、目の色が変わっていた。
宋万は以前、皆に投げ飛ばされて己の無力さを痛感したという。その弱さを受け入れて、ひたむきに鍛えていたようだ。武術の腕も相当上がり、今では玄旗隊の中でも宋万に適うものはあまりいないという。
人とは変わるものだ、と胡土児はつくづく思った。民の命をいたずらに奪っていた賊徒の頃とはまるで違う。玄旗隊の中で、宋万なりに何かの想いが芽生えてきたのだろう。