「して、丞相。南進の首尾についてだが」
どうやら海陵王は南進計画の確認に来たようだ。こんな夜更けに来るとは、なにやら不穏なことを言い出すのではと考えていた析律は、胸をなでおろした。
「は、陛下。軍議でお話しした通り、水陸から南宋に攻め下ります。阿列総帥率いる禁軍五万、慎思将軍率いる十万が淮河の国境を越え侵攻、陸路より臨安府を目指します。水路では梁山湖停泊中の大型船二十隻、中型船二百艘、水軍兵二万が汴河を下り、揚州を攻め水寨を築き、陸軍と共に臨安府を海より攻めます」
海陵王は湯に手を伸ばし、啜りながら聞いていた。
「勝算は?」
「南宋の高宗は暗愚です。この情勢になっても、ろくな迎撃態勢をとっておりません。淮河の国境を越え、長江までは激しい抵抗は受けることはないかと思われます」
「しかし、わが軍は新兵が多い。それに岳家軍の抵抗はどう予測する?」
南宋攻略最大の障害が、岳家軍だった。盡忠報国の志を受け継いだ岳霖は、南宋各地を回り、旧南宋地方軍に徹底的に調練を課しているという。
しかし、もともと岳飛が南宋に侵攻した際の岳家軍は三千五百程だった。それに小梁山の秦容と連携し、程雲の首ひとつを狙い討ち、少数でも南宋を混乱させ、臨安府を攻め獲ったのだった。そう考えると、絶対的な精鋭部隊は少ないはずだ。
「岳霖がたとえ直々に調練して、精鋭と呼べる軍を作ったとしても、訓練期間からいってもせいぜい二万から三万程ではないかと思います。地方軍をかき集めたとしても二十万程でしょう。わが禁軍も梁山泊との決戦で多くの将兵を失い、今禁軍は五万程ですが、これは大戦を経験した間違いのない精鋭です。それをあの阿列が率いるのです。戦力に不足はないかと思います」
海陵王が腕を組んで考え込んだ。いつもは強気な態度だが、今日は慎重なものの言い方だった。
「陛下、何かご不安な事でもございますか?この析律、万全の態勢で戦に臨む所存です」
「丞相、そなたの尽力は心得ておる。水軍の創設をはじめ、よくこの短期間でここまで準備を整えた。侵攻作戦にも遺漏はない」
「ならば」
「いかに作戦が完璧でも、朕の心から、何故か翳が消えぬのだ」
やはりか、析律はそう思った。
「陛下の心に翳を落とすもの。それは胡土児(コトジ)です」
目を閉じていた海陵王の眉が、少し動いた。
「胡土児は陛下が何度も命を狙いながら、生き永らえております。さらに梁山泊の残党と手を組み、領内で潜んでいるようです。彼らが何かしらの妨害工作をする恐れも、否定できません」
梁山泊と聞いて、海陵王は明らかな動揺を見せた。はためにはわかりにくいが、つむった瞼の裏の眼が、微かに動いている。
海陵王は皇太子の頃より、梁山泊には散々な目に遭わされてきた。海陵王は軍才乏しく、兵を鍛える事すらままならなかった。兀朮(ウジュ)はその資質を見抜き、戦には関わらないように諭してきたが、太祖(阿骨打アクダ)の直系という誇りが、戦場への執着心を生んだのだろうか。海陵王は自ら兵を率いることをやめようとはしなかった。
しかし、元来性根の暗い性格が災いし、梁山泊のもう一つの故郷ともいえる子午山を二万の兵で囲んだ。そのことが史進の逆鱗に触れ、わずか三千の遊撃隊によって、二万の兵はいいように討たれた。
また梁山泊戦では、漢民族の罪人を死に兵に使うという愚を犯し、憤慨した高亮に即座に奇襲を受け、再び二万もの兵を失うことになった。兀朮と呼延凌の間には、金国は漢族を戦に起用しない、という暗黙の掟があったのだ。
しかしそんな失敗を重ねても、海陵王は戦場に出ることをやめなかった。そんな海陵王を兀朮は憐れに思いながらも、見捨てることはしなかった。女真の男として、戦う事への誇りは持っていたからだと、析律は思っていた。
「胡土児と梁山泊が、手を組んだだと?」
海陵王が目を開いて言った。