確かに金国は、梁山泊との同盟を一方的に破棄して、岳飛と交戦中だった楊令の背後を襲った。
楊令はからくも危機は脱するも、大きな損害を受け、軍の撤退を余儀なくされた。
「陛下、あの出来事は勅命によるものだったのですか?」
析律は狼狽した。梁山泊が金国に対し造反の疑いがあり、先手を取ったのばかり思っていたのだが、海陵王の言が正しければ、楊令討伐の計画は、それ以前から練られていたことになる。
「太祖(阿骨打アクダ)も、楊令を恨んでいたのでしょうか?」
海陵王が目をつむった。その胸の奥にある感情を押さえようとするかのように、微かに震えている。
「祖父は、いや太祖は楊令を畏れていた。宋を倒しても帝にならず、交易を中心とした国造りを始めた得体のしれない楊令を。そして楊令を建国の戦に関わらせたことを、ひどく後悔していた」
「それは、なぜ?」
「当時太祖は、同じ女真族を攻めることに躊躇していた。そんなとき現れた漢族の楊令に、熟女真攻撃を肩代わりさせてしまったのだ。楊令は熟女真を殺戮し、城郭を滅ぼしていった。そんな楊令の姿を苦々しく思いながらも、心の何処かでは安堵していたのだ。自ら同族を殺すことを免れた想いでな。そしてその、ほんの少しの良心が仇となり、その後の金の混乱を招いた」
「ほんの少しの、良心」
「よいか丞相、王たる者、時には非情にならねばならぬ。国を統べるとは常に強者である必要がある。 外敵に対してはもとより、国内においても絶対的存在でなければならん。他者に侮られては、王は務まらんのだ」
「太祖は、王になり切れなかったと?」
「太祖にとって熟女真殲滅は、いわば天から課せられた試練だったのだ。その試練を乗り越え、絶対的な王にならなければならなかった。しかし太祖はそこから逃げた」
析律は、言葉を返すことができなかった。
「太祖は、王になりきれなかった。本来皇太子の指名を、嫡子の斡本(おべん)にすべきところを、弟の呉乞買(ウキマイ)にしてしまった。そのことが金国の後継争いの火種となってしまったのだ。古来より国が滅びる原因は、同族による内乱であることが多い」
析律は海陵王が言った、血を糺す、という言葉が脳裏をよぎった。
「太祖はその後悔を、まだ幼かった俺に語り続けた。そしてお前は大きくなって、楊令を越えろ、そして本物の王となれ、と。そして太祖は、自分を呪うように病に侵され、死んでいった」
いつの間にか、海陵王の頬を、涙が伝っていた。
「陛下、楊令は青蓮寺の刺客によって毒殺されました。その遺児である胡土児を葬って、楊令の血を絶やすことで、太祖の後悔に決着をつけるのですね」
「胡土児の首を、太祖の墓前に捧げる。そこから俺の覇道が始まるのだ」
析律は嬉しかった。海陵王がここまで自分に想いを吐露したことが。
「陛下、この析律の命、いかようにもお使いください。必ず胡土児の首を獲り、陛下を本物の王にして御覧に入れます」
海陵王は、無言で頷いた。
丞相府から見える開封府の街は静まり返り、闇が一層濃くなっていた。
翌日、宣戦の儀が盛大に執り行われた。呉乞買の時代には宮殿の建築が盛んとなり、開封府にも、最大級の宮殿が築かれている。
海陵王は文武百官と、禁軍の精鋭一万を宮殿の前に並べ、ゆっくりとその階を登っていった。
毎夜忠烈王が夢枕に立ち、南宋攻略が実現できなかった無念を訴えてくるという。その無念を今こそ晴らし、金国史上、最大の繁栄と栄華をもたらす。女真族の男は戦うことで独立を勝ち取り、国を大きくした。海東青鶻旗に誇りを抱き、前に進み闘うのだ。先人の恩に報いる時が来たのだ、と。
海陵王の演説は尊大で、聴く者の心に訴えるものだった。場は熱狂し、いつまでも鬨の声が響いていた。
析律はその兵の姿と鬨の声を聞きながら、これから始まる戦に、不安とも高揚とも取れない、複雑な想いを感じていた。