「ああ、今も佩いているよ。あれから手入れの時以外は抜いていないが」
胡土児(コトジ)は腰に佩いた、何の飾り気もない鞘を、少し持ち上げた。
胡土児は、常に二本の剣を佩いている。一本はごく普通の剣。もう一本は吹毛剣(すいもうけん)と言って、梁山泊で代々受け継がれていた剣だ。前の所有者は陽令という梁山泊の元頭領だ。どうやら俺は、その楊令という男の遺児らしい。楊令は金国開国の租、完顔阿骨打(アクダ)の盟友で、北の地で共に戦っていた時代に、俺は生まれた。ただ楊令はその後梁山泊の頭領となり、北に戻ることなく、南宋で岳飛との戦で死んだ。
吹毛剣はその後、長らく梁山泊で保管されていたが、受け継がれるべきものの手に渡るべきだと、史進が胡土児の前に現れて渡したのだ。自分が楊令の子供だという事実よりも、史進が目の前に立った時の衝撃の方が忘れられない。圧倒的な気の前に、まともに話すらできなかったのだ。
「そうか。それはよかった」
「なにがよかったのだ?」
「お前の岩山の家だがな、今頃、数千の兵に襲われているぞ」
「なんだと」
耶律哥(やりつか)が弾はじかれたように顔を上げ、候真を睨にらみつけた。蕭尤(しょうゆう)もいつの間にか起きて話を聞いていた。
「どこの兵だ、蒙古の兵か」
「いや、金の帝、海陵王(かいりょうおう)の兵だ。間違いない」
「海陵王だと、なぜだ?」
「なぜだってお前、心当たりがないわけじゃないだろう?」
確かに思い返せば、以前俺たちを襲った刺客も、海陵王が仕向けたものに間違いなかった。俺は金軍総帥兀朮(ウジュ)の養子として、常に父の傍にいた。父は海陵王の叔父にあたる。血筋から行けば父が帝でもなんら不思議ではなかったが、戦人でいたいが為、兀朮は即位を拒み続けていた。そして父は俺に戦人としての心構えを叩き込んできた。海陵王がそれを妬み、恐れたとしてもおかしくはない。しかし軍を抜け、ひっそりと暮らす俺を襲うなど想像もしなかった。
「海陵王の狙いは、おそらく吹毛剣とお前の首だ」
「何のために」
「海陵王の性格はお前も知っているだろう。軍を率いるたび梁山泊軍に弄ばされた。去年の戦では、漢人の罪人を死に兵にしてまで奇襲を試みたが、高亮将軍にあっけなく蹴散らされた。女真(じょしん)族の国である金は、漢族を戦に出してはならない、という暗黙の掟がある。兀朮殿はそれを貫いた」
「戦での死がない代わりに、金領の漢族は重い税に苦しむことになる」
「そうだ。海陵王にその流儀は理解できない。どんなに惨敗しても、その失敗から学ばないのは、もはや奴にとって美学にすらなっている。その歪んだ心がお前の首を望んでいる」
「そんなことをして何になる」
「海陵王は野望に燃える帝だ。去年の戦のあと、残った女真の兵をまとめ燕京(えんきん現北京)に引き上げた。女真の兵は五万程に減ってしまったために、契丹(きったん)族からも徴兵し、徹底的に調練を重ねている。おそらく南宋に侵攻するつもりだな」
「父という歯止がなくなり、もはや海陵王を止められる者がいなくなったというわけか」
「その奴の唯一の心の障害がお前だ。お前を捕縛し、吹毛剣でお前の首を刎ねることで心の劣等感を拭い去り、南へ兵を向けるつもりだ。雪解を待たずに行動に移したのも、奴の肚が煮えている証拠だろう」
「奴の身勝手な儀式に付き合うつもりはない」
「だがどうする。岩山には、北に向かう真新しい馬の蹄の跡が残っているのだろう?明日にはこの森にたどり着くぞ」
「いったん北の蒙古領に逃れ再起を図る」
「お前らしくないな。それに海陵王は一帯の蒙古の族長に、莫大な額の懸賞金をお前の捕縛にかける触れを出した」
胡土児は椀の汁を飲み干し、くっくと笑い出した。
「候真、お前やたら事情に詳くわしいな」
候真も、いつの間にか熱が入っていることに気づいたのか、ばつが悪そうに瓢(ふくべ)の酒を呷った。