「その男は友人に近づき、なんと頭を下げたのだ。そして耐えてくれ、いつかきっと兵役もない国を作って見せる、と言った。友人は何も言うことができず、ただ頷くだけだった。宋の役人は一番下っ端の奴でも、俺たちを虫けらのように扱った。しかしその男は、楊令と名乗ったその男は、俺たちに頭を下げたのだ」
「楊令殿は交易を中心とし、民の負担の少ない国を目指した。民のための国だ」
「楊令は、調練の合間にもしばしば現れ、俺たちと語ってくれた。俺は楊令に惚れこみ、この男こそ宋の帝になるべきだと思った。しかしそれを言っても、楊令は微笑んで首を横に振るだけだった」
梁山泊の中でも、宋を滅ぼし楊令を帝に押し上げようという声は多かった。しかし楊令は、それを頑として聞き入れなかった。
「その楊令が、岳飛の戦で命を落としたと聞いたときは、肺腑が抉えぐられる思いをした。死ぬはずもない男が、死ぬ。俺はしばらく何も手につかなかった」
「楊令殿は、常に戦場の前線に立っていた。戦の死とは、いつも突然訪れるものだ」
「楊令が死んでも、俺は梁山泊がなくなるとは思わなかった。史進や呼延凌など百戦錬磨の将軍も健在だったからな」
候真には何となく、馬来が梁山泊を忌み嫌う理由が、分かった気がした。
「しかし梁山泊は、消滅した。市中に突然だされた触れは、梁山泊がなくなる、という衝撃的なものだった」
候真は何も言えなかった。
「その後は容易に想像がつくだろう。金から役人が派遣され、いきなりの重税と徴兵だ。俺たちの生活は一変した。そして梁山泊の民の心は廃れ、俺もふさぎ込むようになり、小さな喧嘩が元で、牢に入れられた」
候真を押さえている者の腕も、震えていた。
「候真、お前ならわかるのだろう?梁山泊はなぜなくなった?金との戦に負けたわけではないのだろう?」
この男は一年もの間、その問いを何度も何度も、心の中で叫び続けていたに違いない。
「結局梁山泊は、何十年もの間、俺たち民の心を弄んだのだ。楊令がいなくなって、梁山泊は楊令の心を継ぐことなく、民を放りだして逃げたのだ」
違う、と候真は叫びたかったが、できなかった。説明したところで解るはずもない。しかし馬来の言うことも、彼の立場に立てば理解することもできた。
「言えよ、候真」
馬来の声が、また低くなった。場が、重い空気に包まれていく。
「分かった。教えてやるから、放せよ」
候真は静かに言った。
「お前ら、もういい」
候真を押さえていた力が、消えた。候真は、居住まいを正した。正対する馬来の心が、乱れている。
「馬来、よく聞け。梁山泊は消えたわけではない。少し見えないところに行っただけだ。梁山泊に関わった人間は、それぞれ別の場所で活動している。とはいっても領土を統治することは無くなった。そう言う意味ではお前の言うとおり梁山泊は無くなった。それで民の生活が困窮する結果となったことについては、受け入れてくれ、としか言いようがない。俺も梁山泊を統括する部署にはいなかったのだ。詳しくは分からない」
「俺は、梁山泊が無くなった理由を聞いている」
「梁山泊の志は別の者に託された。一年もの間ここにいたお前には分からないだろうが、世の中はその者の働きで、少しずつ変わりつつある。お前がそれを確かめるためには、ここを出るしかない」
馬来は、少し考える素振りを見せた。
「候真、お前はここからら俺たちを出すといったが」
馬来の候真を見る目が、変わった。暗闇の中だが、候真にはそれが分かった。