油めいてねっとりと、重き泥を孕んだ東京の川風が、容赦なくそのうなじをなぶる。午後一時をまわったばかりの土手には遮る影とてなく、じりじりと灼けた黒いアスファルトが、靴底を透かして小さな五体をじかに焼きにかかるようであった。
およそ、異国の雛鳥が迷い込むにはあまりに無慈悲な酷暑。公式の重々しき収録、あの張り詰めた日本語ばかりの檻からどうにか這い出してきた古石ビジューは、額の汗を手の甲で乱暴にぬぐった。しかしその手の甲には、先ほどスタジオの廊下でうっかり引っ掛けた、干からびたセロハンテープの切れ端が、うっとうしく張り付いたままである。剥がそうと爪を立てるが、べたつく糊が指に移るばかりで、どうにもいらいらとする。そういえば、あのスタジオの片隅に置かれていた、誰も手をつけないひび割れたプラスチックの丸椅子も、なぜか座面が奇妙にねばついていた。あの冷え切った、異様なまでに無機質な部屋の微かな記憶が、この炎天の下で、じっとりと脂汗に変わって滲み出してくるかのようである。
なぜこうも暑いのか。頭の芯がぼうっとして、せっかく覚えた単語が熱に溶けていく。これなら配信で高難度ボスの理不尽な即死攻撃に何度も沈められるほうが、まだいくらか涼しい。だいたい、あの収録ブースの冷房は効きすぎていて、まるで冷気という名の見えない氷の刃で全身を刻まれているようだったのに、一歩外へ出た途端にこの地獄のような熱気である。この極端な温度差は、まるでゲームのエリア移動の暗転を挟んだ瞬間に、氷雪のステージから溶岩の火山へと放り出されたかのような、理不尽極まるシステム上のバグに違いないと彼女は本気で憤っていた。そんな彼女の足元、枯れ草の隙間から一本の古びたプラスチックのストローが、やはり陽炎に歪んで不気味に曲がったまま転がっている。誰が捨てたとも知れぬそれは、炎天下で異様に白く爆ぜ、まるで行き倒れた芋虫の抜け殻のようにも見えた。
「Phew... official recording is finally over... MY GOD, I was so nervous!! But I did it! 完璧(Kanpeki)!」
誰も見ていない路上だからこそ、剥き出しの異国の言葉となって唇からこぼれ落ちた。
ぴょこぴょこと、どこか落ち着きのない足取り。
それにあわせて、耳元からだらしなく伸びた白い有線のイヤホンコードが顎をせわしなく叩いているが、彼女自身は全く気にする様子もない。
「I forgot to charge my AirPods again! ていうかワイヤレスはすぐ失くすからね、ビジュー絶対どこかにドロップしちゃうじゃん? だからこれが一番セーフティなの、へへへん!」
誰に言い訳するでもなく、満足げに鼻を鳴らした。
その鼓膜の奥、有線の向こうで狂ったように鳴り響いているのは、かつてのアニメ『そらのおとしもの』の、あの不条理極まる『チクチク・B・チック』の電波メロディである。ネットの底の、そのまた混沌を泳ぎ慣れてきた彼女にとって、過酷なスタジオ作業を終えた脳髄を麻痺させるには、これ以上ない劇薬であった。あまりにも頭脳を酷使した反動か、今はただ意味の崩壊した音の羅列だけが心地よい。頭上を不意に、一羽の大きな烏が濁った声で鳴きながら横切ったが、今の彼女の耳にはそれすらベースの重低音の一部のように歪んで聞こえていた。その烏の羽からこぼれ落ちたのか、風に舞った一枚の黒い風切羽が、土手の斜面の泥に突き刺さるようにして静かに止まった。
最初は、ただ唇をかすかに震わせる程度。
だが、安っぽいシンセサイザーの音がせわしなく跳ね上がるにつれ、彼女の小さな靴底は、土手の泥を容赦なく踏み荒らし始める。右、左、そしてちょん、と不規則にステップを踏むたびに、有線のコードが大きく弧を描いて揺れた。
「……きもちのいいとことび出てる? ボクたちキミたちとび出てる? ……ひゃはははは! What is this song?! 歌詞まじで狂ってる、やばすぎでしょ!」
過呼吸寸前のイルカが鳴くような、あの高音の笑い声が、真昼の土てに響き渡る。リスナーを容赦なく煽り倒し、どんなにクソエイムと罵られようとも「ビジューはギガチャドだからノープロブレム!」と押し通す、あのクソガキめいた万能感が、彼女の身体を支配していく。
「神様が決めたことなの、、? ピクピクふるえて怖いよ、、、やさしくその手で触れてごら〜ん?(イェーイ!!)……いけないよその手つき、スリスリ! だけどやめてほしくない、プリーズ……って、吸って、つまんで、チクチク俺の、俺の、チクB――Wait, what am I――」
突如、喉がひきつったように歌が止まった。
前方、きらきらと光る川面の向こうから、犬を連れた制服姿のお巡りさんが、怪訝そうな顔でこちらへ歩いてくるのが見えたからである。
「Holy crap!!」
心臓が跳ね上がる。ビジューは瞬時に歌声を噛み殺し、何事もなかったかのようにすっと背筋を伸ばした。いかに内面が不敵なギガチャドであろうとも、日本の路上で、よりによってこの電波ソングを熱唱している姿を公権力に見られるのは、社会的破滅を意味する。すれ違う一瞬、彼女は乾いた喉を精一杯鳴らし、「ただ景色を眺めている無害な外国人観光客」を必死に装って見せた。その際、不自然なほど大袈裟に、遠くのちぎれ雲を指差すような仕草をしてみせたが、それがかえって不審者の挙動そのものであることには露ほども気づいていない。川向こうの古びた鉄橋を、錆びついた貨物列車がガタゴトと重苦しい音を立てて通過していくのが、異様に長く感じられた。あの貨車の一両一両に、一体何が詰め込まれているのだろう、そんな脈絡のない疑問が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
そのとき、お巡りさんの連れている、妙に胴長で不恰好に太ったフレンチブルドッグが、ふんふんと鼻を鳴らして彼女の足元に擦り寄ってきた。
(Oh my god! Dont sniff me!! 嗅がないで、ビジューは怪しい石じゃないからね!?)
背中に冷や汗が流れるのを堪えながら、必死に無表情を貫く。お巡りさんは「これこれ、これ、駄目だよ」と犬のリードを軽く引き、申し訳なさそうに会釈をして通り過ぎていった。あの犬の鼻息がストッキング越しに妙に生温かく、心臓に悪いことこと上なかった。
お巡りさんの足音が完全に遠ざかり、その背中が小さくなる。それを見届けてから、一気に崩れ落ちるように息を吐いた。
「Oh my god, that was close... ビジューの心臓、止まるかと思ったじゃん……。もう歌うのはストップ! Unluckyすぎ!」
急激に緊張が解けたことで、せき止められていた熱が一気に噴き出してくる。スタジオで慣れぬ声を張り上げ、今また冷や汗をかいた彼女の喉は、完全に限界を迎えていた。じわじわと体温が上昇し、視界の端が陽炎のように歪む。
「I'm so thirsty!! 喉まじでカラカラ。一歩も動けないんだけど……」
愚痴をこぼしながら、重い足取りで土手を上りきったその先。アスファルトの路傍に、色褪せた赤い自動販売機が、まるで砂漠のオアシスのようにぽつねんと佇んでいるのが見えた。彼女の目が、らんらんと輝きを取り戻す。
「Oh! 自販機発見! たすかったー!」
駆け寄り、ボタンの前に立ち塞がる。ずらりと並んだ見本を前に、人差し指を顎に当てて小首を傾げた。ゲームの複雑なスキルツリーを睨みつけるときと、全く同じ真剣そのものの眼差しであった。
「うーん……何にしよう。Green tea? いや、いまはそういう気分じゃないな。……Oh, ドクペあるじゃん! でもこっちの超炭酸も美味そう……」
喉の渇きと、ジャンクな誘惑。彼女の脳内で、激しい葛藤が数秒間火花を散らす。
燃え立つような太陽の下で、どれが一番自分の干からびた身体を素早く潤してくれるのか、必死の計算が頭を駆け巡る。自販機の下の隙間には、いつのものとも知れぬ潰れた空き缶が転がっており、その薄汚れたアルミの肌が日光を反射して鈍く光っていたが、今の彼女にはそれすらもダンジョンのオブジェクトのように見えていた。その薄暗い隙間から、一匹の小さな蟻が這い出し、自販機の白い塗装をよろよろと登っていくのが妙に目につく。その蟻の細い脚の動きが、さっきスタジオの床で見つめた、ひび割れたPタイルの模様とどこか重なって見え、彼女は小さく頭を振った。
「Okay, I decided! やっぱり、ここはこれっしょ!」
小さな鞄から、がさごそと音を立てて財布を引き出す。滑り込ませた小銭が、チャリン、と硬質な音を立てて真昼の静寂に響いた。彼女の指が、迷いなく目的のボタンへと伸びる。隣のコーラの見本缶に、小さな羽虫が止まって死んでいるのが見えたが、構うものか。水分を切望する本能のままに、親指で、ぎゅっと力強く押し込んだ、その瞬間に響いた、ガコン。
──しかし、取り出し口に手を突っ込んだ彼女の指先が触れたのは、およそこの酷暑には似つかわしくない、そして見覚えのない渋色の円筒であった。引っ張り出してみれば、それは「ぬくもり長持ち」と色褪せた文字で書かれた、完全に常温へと冷め切ったおしるこの缶に他ならない。ビジューは数秒間、その缶を凝視したまま化石のように硬直し、それから絶望のあまり、真昼の東京の空に向かって、今日一番の甲高いイルカの悲鳴を響かせることになるのであった。