じりじりと首の後ろが焼ける。乾いた塩のせいで皮膚が突っ張って、とにかく痛い。
ビジューは頑丈なプラスチック製の道具箱にどっかりと体重を預けて、短い足をせわしなくパタパタと動かしていた。踵がケースの角を叩く不規則な音が、ざざん、と押し寄せる波の合間に吸い込まれていく。
「……ねえ」
「なぁに、ビジューちゃん」
少し離れた岩場から、緊張感のまるでない声が返ってくる。フワワは、白いシースルーのパーカーの袖を肘のあたりまで雑に捲り上げ、水着の紐を指先でじりじりと弄んでいた。水色とピンクのツインテールが重そうに揺れて、頭の上の犬耳はだらんと前傾したまま動かない。
「お魚、ビジューのこと完全に舐めてる。絶対。さっきから一回もウキが沈まないもん! チャット欄なら、もうとっくに『LMAO』の嵐で画面が見えなくなってるクソザコ配信だよ、これ。もうやだぁ」
「あはは、そんなことないよぉ。海の底のお魚さんたちもね、いま一生懸命ビジューちゃんのエサを見てる最中なんだよぉ。どっちから食べようかなって迷ってるの。ほら、じーっと見ててごらん?」
「迷う必要なんてないじゃん! ビジューのワーム、ほら、このピンクの一番高かったやつだよ? フワワ先輩のその、なんかよくわからない、ぐにゃぐにゃした芋虫みたいなやつより、絶対に美味しそうなのに。なんでスルーするわけ!?」
ビジューはショートブーツの底で道具箱の角を思いきり小突いた。本物のゴカイやイソメを針に刺す勇気なんて最初からないから、ゴムの匂いがきつい人工ワームを選んだのだ。それを見透かされている気がして、余計に口先が尖る。
「外見じゃないんだよぉ。私のこの芋虫さん、さっきから結構いい動きしてるよぉ。ほら。じーっと見てると、なんだかだんだん可愛く見えてこない?」
フワワが竿先を軽く揺らすと、水面に浮かぶ青いウキが、頼りなく同心円状の波紋を描いた。
「あ、そういえばさっき見かけたカモメ、ビジューちゃんの頭の宝石をエサと勘違いして、本気でつつこうと近づいてきたんだよぉ。本当に美味しそうに見えたのかな。あはは、突つかれたら痛そうだよねぇ。」
「あいつも、フワワ先輩も、私のことただの石ころだと思って煽ってるでしょ! 違うから! ビジューは輝くダイヤモンドなんだからね!」
「あはは、そうだね。ビジューちゃんは世界一可愛いダイヤさんだよぉ」
フワワは小さく笑う。
いつもなら右側から鼓膜を破らんばかりに響く絶叫がない。あのお騒がせな犬がいないと、フワワ先輩はトゲが抜けたみたいに柔らかくなる。だからビジューはちょっとだけ調子が狂う。それがなんだか、余計に逃げ場がない感じがして落ち着かないのだ。
釣竿をぎゅっと握り直す。手のひらにじんわりと嫌な汗が滲んだ。ゲーム配信なら、どんなに画面が動かなくても、自分の声とエフェクトで空間をいくらでも埋められる。けれど、この波と風の音しかない岩場では、自分の言葉がそのまま海の虚無に吸い込まれていくみたいで、妙に焦ってくる。
これできっと大物が引っかかるはず、と自分に言い聞せる。タンクトップの裾をぐっと引っ張り、ビジューは不揃いな岩の割れ目を飛び越えた。波飛沫が直接足元を濡らすスレスレの場所まで進み、リールのベールを起こして細い指でラインを引っ掛ける。背後に大きく竿を振りかぶると、ポニーテールが遠心力で鋭く流れた。
「ストーーーーン・トーーーース!」
ほとんどただの気合いの叫びだった。シュー、とラインがガイドを擦る摩擦音、ピンクのウキが白く泡立つ潮目の向こう側へと吸い込まれていく。これでダメなら帰ってゲームする。ウキは波の上下に合わせて規則的に浮き沈みしている。それだけだ。ビジューは岩に腰を下ろすこともやめ、直立したまま、ただの一点を見つめていた。
頭の結晶が、ちかちかと細かく明滅する。ゲームのロード画面の進捗バーを睨みつけるときの、あの特有の目付きに自分がなっていることなんて、本人は気づきもしない。
「……ねえ、フワワ先輩」
「なぁに」
「釣りって、本当につまらないかもしれない」
"あはは、言っちゃった"
フワワは自分の竿を岩の隙間に固定し、のそりと歩み寄ってきた。パーカーの白い生地が視界の端で揺れる。
「でもね、ビジューちゃん。こういう何もない時間って、結構大事。魔界にいた頃はね、毎日がもっと、こう、ガオガオしてて、落ち着いて空を見る暇もなかったから。だから、こうしてビジューちゃんと並んで、ただ海が青いなぁって思えるの、私はすっごく贅沢だと思うなぁ」
「贅沢だけどさ。でも、ビジューは『Advent』の、その、かっこいい感情の石なんだよ? 何も釣れないで帰ったら、またチャット欄で『Baby rock』って煽られる。それだけは絶対に嫌」
「ふふ、誰もそんなこと言わないよぉ。もし言ったら、私がその人の後ろに静かに立ってあげるから。ね? だから安心して、いい子で待ってて?」
フワワの声はどこまでも穏やかだった。けれど、その笑顔の奥にある、世界のルールなんて最初から眼中にないような平然とした瞳を見て、ビジューは小さく首をすくめた。このお姉ちゃんは、本気だ。もしチャット欄の誰かが自分を煽ったら、本当にその人の後ろに『ばうばう』と音もなく現れるに違いない。
ビジューは視線を慌ててウキに戻した。その時だった。ウキが、波の周期とは明らかに違う角度で、斜めに引き込まれた。
「――あ」
指先が強張る。ピンクのプラスチック球が、水面の下へと一瞬で姿を消した。ドン、と。竿のグリップを通じて、肉厚な何かが命を震わせるような、鈍い衝撃が両腕に直撃した。
「キッ……キタ! キタよ、フワワ先輩! なんか重い!」
「わわっ、本当だ! 引いて引いて、ビジューちゃん!」
リールのハンドルに手をかけたが、指が滑った。ジーーーッ、という金属的な高音が岩場に鋭く響き渡る。ドラグが狂ったように回転し、ラインがものすごい勢いで海へと引きずり出されていく。竿が、今にも中間から折れそうな角度できしんだ。
「ひゃああっ!? なにこれ、動かない! 重すぎる!」
「ビジューちゃん、足元気をつけて! 引っ張られちゃう!」
ショートブーツの底が、濡れた苔の上でズリッと滑る。ビジューは無意識に、タンクトップの肩紐が食い込むほどに両肩を上げ、全体重を後ろに預けた。どれだけボスに理不尽な一撃を叩き込まれても、画面の端で「うわああ!」と叫びながら、コントローラーのプラスチックが軋むほどの力で指を固定する、あの泥臭い粘り強さ。可愛らしい見た目とは裏腹の、頑固なまでの「石」の硬度、その意地が、今の彼女の細い足首にかかっていた。
「ビジューは……『Advent』の……ストーンなんだからぁ!!」
短い英語の叫びは、波の音にかき消された。ビジューはリールを無理やり、力任せに巻き込んだ。ガチガチと、ギアが噛み合う不穏な音が指先に伝ってくる。頭の結晶が、紫から警告色のような赤みを帯びた光へと変わり、パチパチと周囲の空気ごと明滅していた。海の向こうで、何かが狂ったように暴れている。
「フワワ先輩! これ、魚じゃない! 絶対に海のモンスターだよ!」
「待って、今手伝うから、ビジューちゃん――」
「ダメ!!」
近寄ろうとしたフワワの白いパーカーの袖を、ビジューの鋭い声が拒絶した。「これはビジューの1v1(タイマン)だから! 手を出したら、ビジューの負けになっちゃう!」
いつもならお姉ちゃんとして無理にでも介入するところだが、結晶から放たれる光に照らされたビジューの横顔があまりにも真剣だったから、フワワは伸ばした手を、自分の胸元で止めるしか出来なかった。
「……がんばれ、ビジューちゃん」
フワワの声が、初めて少しだけ低くなった。犬耳が、緊張で完全に後ろへ伏せられる。ビジューは最後の力を振り絞り、竿を両手で一気に天へと跳ね上げた。海面が、物理的に裂けた。
ザッパーーーーーン!!!!!
立ち上った水柱の規模は、およそこの穏やかな海岸線には似合わないものだった。飛沫の向こうから飛び出してきたのは、パステルブルーの硬質な鱗に覆われた、巨大な質量だった。体長は優にビジューの身長を超えている。カジキマグロのような鋭い吻を持ちながら、その胴体は深海の異常発達した生物のように肉厚だった。「うそ……」
フワワの声が漏れる。巨魚は放物線を描き、二人が立つ狭い岩場へと、文字通り「降ってきた」。
ドッシーーーン!!!!!
爆発的な着地音。それと同時に、ドラム缶数本分をまともに浴びせられたような、凄まじい量の海水が二人を直撃した。
「ひゃうっ!?」
「きゃあ!?」
衝撃と水の圧力に耐えきれず、ビジューの小さな体は、湿った岩の上を二メートルほど滑って尻もちをついた。タンクトップは一瞬で水分を吸って真っ黒に変色し、ショートパンツのポケットからは海水が溢れ出している。ポニーテールは完全に崩壊し、濡れた一本の太い束となって、彼女の細い背中にだらしなく張り付いていた。
「ぷっ……はぁっ! ……げほっ、うう、お水が鼻に入ったぁ……」
ビジューは両手で顔を何度も拭った。手のひらについた塩分が、こすった皮膚をひりひりと刺激する。少し離れた場所では、フワワが四つん這いのまま、水滴を振り払うように頭を激しく振っていた。水色とピンクのツインテールは、完全にその軽やかさを失い、濡れた縄のようになって地面に垂れている。白いパーカーは完全に透けてしまい、インナーの色の境界線が露骨に見えていた。頭の上の犬耳も、水分を吸って重そうにペタンと頭頂部に張り付いたままだ。
二人の間には、ただ「バタバタバタバタバタ!」という、巨魚の尾びれが岩肌を狂ったように叩く、湿った打撃音だけが響いていた。巨魚の鱗が、西日に反射して、パステルブルーから嫌な紫色へとグラデーションを変えていく。ハァ、ハァ、と二人の荒い呼吸が、冷めかけた岩場に妙に生々しく浮いている。
「……つ、釣れた」
ビジューは自分の声を、うまく認識できなかった。喉の奥がカラカラに乾いていた。
「うん……釣れたねぇ、ビジューちゃん……。というか、これ、何……?」
フワワはゆっくりと立ち上がったが、その足取りはいつもの優雅さからは程遠く、濡れたデニムが擦れる不快な音をさせていた。ビジューは自分の手のひらを見た。リールのハンドルを握り締め続けていたせいで、指の皮が赤く腫れ上がっている。その痛みが、じわじわと脳に到達した瞬間、彼女の顔の筋肉が、思いきり歪んだ。
「釣った……釣ったよフワワ先輩!! 見た!? 今の! ビジューの完全勝利!! Let's goooooo!」
ビジューは濡れた岩の上で、滑りそうになりながらも何度も飛び跳ねた。ポニーテールの先から滴る水滴が、彼女の笑顔の周りで四散する。頭の結晶は、勝利を誇示するように、周囲の暗くなり始めた岩場を暴力的なまでの紫光で満たしていた。
「あはは……本当にすごいよ、ビジューちゃん」
フワワは濡れた前髪を雑にかき上げながら、力なく笑った。その目は、目の前の怪魚のサイズに対する恐怖よりも、それを一人で引きずり上げた年下の少女の、底知れない執念に対する感嘆で満ちていた。
「私のばうばうパワー、使う暇もなかったねぇ。完全に、ビジューちゃんの一人舞台だよぉ」
「へへーん! だから言ったじゃん、ビジューは最強のストーンなんだって! 今度のアジトのおやつ、一番大きくて、チョコがいっぱいついてるドーナツは、全部ビジューのね!」
「うん、いいよぉ。あいつの分も、私が全部奪ってビジューちゃんにあげる」
フワワは歩み寄ると、自分の首にかけていた大きな、しかしすでに半分湿っているバスタオルを広げた。そして、歓喜のステップを踏み続けているビジューの頭の上から、それを被せた。
「わっ!? なに、真っ暗!」
「はい、よしよし。冷えちゃうからねぇ。お姉ちゃんが綺麗に拭いてあげるからねぇ。本当に可愛いねぇ」
「ちょっと、フワワ先輩、ゴシゴシしすぎ! 結晶が取れちゃう!」
タオルの外側から、フワワはビジューの小さな頭を、まるで大きなぬいぐるみを扱うように両手で強く揉み込んだ。一度『お世話する対象』と認識すれば、相手の都合などお構いなしに、その全肯定の愛情を、容赦なく全力でぶつけてくる。留守番しているあいつがいつもその被害に遭っている理由を、ビジューは今、タオルの暗闇の中で身を以て理解していた。
「ふぇぇ……もういいよぉ、フワワお姉ちゃん……」
ビジューの口から、限界を迎えた小さな呟きが漏れた。その瞬間、タオルの外側で、フワワの動きが完全に止まる。
「……え?」
低い、けれど明らかにトーンの上がった声。
「ビジューちゃん。今、なんて言ったのぉ?」
「えっ? なにが? ビジュー、何も言ってないけど」
「言ったよぉ。はっきりと『フワワお姉ちゃん』って、そう言ったよねぇ?」
タオルの隙間から、フワワの顔が覗き込んできた。水分を吸ってへたれていたはずの犬耳が、いつの間にか垂直にピンと立ち上がり、パタパタと狂ったような速度で前後に揺れている。その瞳の奥には、獲物を見つけた猛獣のような、純粋で、それゆえに逃げられない光が宿っていた。
「い、言ってない! 聞き間違いだよ! ビジューはクールなストーンだから、そんなこと言わないもん!」
「言ったもん。お姉ちゃん、お耳が良いから全部聞こえてたよぉ。あはは、可愛いなぁ、もう一回言って? お願い、ビジューちゃん。ねえ、言ってくれたらドーナツもう一個あげるからぁ。あいつの隠してあるやつ」
「嫌だ! 離して、フワワ先輩! Help me, Pebbles!」
夕暮れの岩場に、二人の少女の、湿った生地が擦れ合う音と、脈絡のない悲鳴が響き渡る。すぐ足元では、パステルブルーの怪魚が、最後の力を振り絞るようにして、岩肌を一度だけ大きく叩いた。
配信画面のほぼ全域を占拠しているのは、およそ通常のゲーム配信では見られない、巨大な、あるいは歪な形の紙だった。パステルブルーのインクが不均一に擦れ、紙の端々は乾燥して小さく丸まっている。魚の輪郭はどこか歪んでおり、その腹のあたりには、紫色のクレヨンで『BIJOU WIN! FUWAWA LOSE!』と、お世辞にも綺麗とは言えない筆跡で書き殴られていた。
「Hello, Pebbles! 見て、この偉大なる、歴史的な、ビジューのマスターピースを!」
画面の中のビジューは、いつもの厳かな紫のドレス姿に戻っていたが、そのテンションは明らかに通常の発狂ラインを超えていた。頭の結晶が、配信用のLEDライトを反射して、チャット欄の文字を視認できないほどの輝きを放っている。チャット欄は、一瞬の静寂の後、滝のような速度でスクロールを開始した。
『WHAT IS THAT』『Is that an alien?』『orz』『Baby rock actually caught a monster』
「そうだよ、みんなひれ伏して! Bow down to the fisherman king! あのフワワ先輩だって、ビジューのこのストーン・パワーの前には、ただ『ばうばう……』って震えながらタオルを持ってることしかできなかったんだからね!」
「ちょっとぉ、ビジューちゃん。それは事実の歪曲だよぉ?」
画面の右側から、いつものふんわりとした衣装をまとったフワワが、ぬるりとフレームインしてきた。彼女の手には、何故か昼間ビジューを包んでいた、あの少し潮臭いバスタオルがそのまま握られている。
「私のはただ、濡れて小さくなっちゃったビジューちゃんが可哀想だったから、お姉ちゃんとして優しくよしよししてあげてただけだよぉ。配信の裏では、あんなに『フワワお姉ちゃん、あったかいよぉ』って甘えてたくせにねぇ」
「わああああ! 言ってない! それは完全に捏造! Fake news! Fake news! あれはただの技術的なエラーだから!」
ビジューは短い両手をカメラに向かって激しく振り回し、アバターの表情を怒りマークでいっぱいにした。チャット欄は、その二人のやり取りに完全に狂喜乱舞し、スクロール速度はさらに加速していく。『Onee-chan!?』『TEETEE』『Caught in 4K』
「二人とも、私が今日、一生嫌な顔しないでお留守番してたのに、フワワはビジューちゃんと一緒に浮気して、ビジューちゃんは私のおやつを奪おうとしてる! 完全にアウトだワン! 許さないワン! ガオガオ!」
「あはは、怒らないでぇ。次はお弁当持って、三人で海に行こうねぇ」
「ビジューはお弁当のサンドイッチの、一番大きいお肉をもらうからね! 譲らないから!」
「私が一番おっきいのを食べるワン! フワワ、私に肉をよこすワン!」
画面の中は、一瞬にしていつも通りの、誰にも制御できない、やかましくて、混沌とした日常へと塗りつぶされていった。ビジューは、詰め寄られながらも、隣でどこか満足そうに微笑んでいるフワワの視線を感じていた。その視線は、昼間のあのびしょ濡れの岩場で、自分を後ろから抱きしめていた時の温度と同じだった。
「それじゃあみんな、今日の配信のタイトルはこれに変更! 『最強のストーン、深海の怪物を orz させる、あとフワワ先輩はちょっとしつこい』! レッツゴー!」
彼女たちの、どこかトゲがありながらも完全に調和した笑い声が、デジタル信号に変換され、世界中のペブルスたちの部屋のスピーカーを、容赦なく震わせ続けていた。
「ちょっと! タイトルにモココのことも入れろワン!!」