頭上の葉脈を焦がすような陽光が、容赦なく首筋を灼く。
まとわりつく草の青臭い匂い。
耳の奥を圧迫する蝉の爆音。
アスファルトが途切れ、湿った黒土と剥き出しの岩肌が混ざり合う境界を踏み越えた。
「ふにゃあ……あつ、いです……。ジジ、お水。お水はどこですか。もうセシリアの体の中の水分、全部からからになって、ただの古い紙みたいになっちゃいました……」
セシリア・イマーグリーンは、頭よりも分厚い緑の古書の角を白くなるほど指先で掴んだまま、泥の浮いた坂を這うように進んでいた。
衣服の下で、奇妙な繊維の擦れる音がする。
生身の歩幅に無理に合わせようとする、どこか中心の狂った軌跡。
汗で額に張り付いた深緑の髪の隙間から、ただ陽炎の向こうを睨んでいた。
「ほらほら、セシル、しっかりして。まだ登り始めてから一時間も経ってないよ。はい、お水!」
隣を跳ねるジジ・ムリンの腰に下げた、場違いなほど大きな黄色いランタンがカチャカチャと騒がしく鳴る。
リュックの紐には、何に使うのか分からない、奇妙な細い金属製の工具がぶら下がっていた。
ジジはボトルを抜き取り、セシリアが一番腕を伸ばしにくい、絶妙に高い位置へ突き出した。
「あ……ありが、とうございます……」
セシリアは肘の関節を直角に固定したまま腕を持ち上げ、ボトルを引ったくるように受け取った。蓋を回す指先が強張っている。
ちびちびと喉を鳴らす彼女を、ジジは横から覗き込んだ。
ジジの瞳の奥で、小さな悪戯の火花がちりちりと爆ぜている。
旅人の荷物の紐をこっそり切り刻む、古い伝承の妖精めいた薄暗い愉悦がその口元に浮かんでいた。
「ぷはぁ……。生き返りました。でも、ジジはどうしてそんなに元気なんですか。その……腰のランプ、重くないですか。太陽が出ているのに、灯しておく必要はあるのでしょうか」
「重くないよ。それより見て、あの雲お肉の形に似てない。ねえ、美味しそう!」
「……人の話を聞いてください。まったく、ジジはいつもそうやって、都合が悪くなると、すぐ」
ジジが細い指で近くのクヌギの根元を指差した。
「あ。見て見て、セシル。あそこに何かいる!」
樹液の滲む黒い幹に、大人の手のひらほどもあるミヤマクワガタが、鈍い黒光りを放つ大顎を休めていた。
「わあ……。すごい。大きいよ。セシル、あれ、なんていう虫。クワガタ。カブトムシ」
ジジは音を立てずに近づいていく。
その足取りは恐ろしくしなやかで、同時に、獲物の喉元を狙うような危うさがあった。
「あれは……ミヤマクワガタ、ですね。頭部の突起が……」
ブン。
空間を切り裂くような、重く鋭い羽音に混じって、大気そのものが軋むような奇妙な不協和音が微かに響いた。黒と黄色の斑模様が、二人の頭上を掠める。巨大なスズメバチだ。
「ひゃあうっ!?」
短い悲鳴を上げてジジの背中にしがみついた。
人間の肌とは異なる、冷たく硬質な弾力がジジの背に押し付けられる。
肩の接合部が無理な角度で固定されたまま、セシリアの手元から緑色の古書が滑り落ちた。
本は斜面を転がり、カサカサと乾いた音を立てて、崖下の深い茨の茂みへと消えていった。
「あ……っ、私の、本が……! あ、う、動け……っ」
ハチは二人の周囲を怒り狂ったように旋回する。
ジジの顔から笑顔が消え、野生の獰猛な輝きがその目に宿った。
紐からあの工具を抜き取る。ハチの目の前で鋭く、機械の螺子を無理やり引き抜くような音を立てて振った。
不快な金属音に狂わされたのか、スズメバチは方向を失い、そのまま鬱蒼とした藪の奥へと飛び去っていった。
「……終わ、りましたか」
「ハチは行ったけど……セシル、本が大変!」
急斜面の遥か下、泥と茨の間に本が引っかかっている。
「私の、命の次に大切な記録が……!」
セシリアは顔を真っ青にし、すぐにでも崖を降りようとしたが、その太腿の付け根はどこか球体を思わせる不自然な軌道を描き、カクカクとした足取りのせいで、乾いた土を崩して滑りそうになる。
「危ないってば。ジジが取ってくるから!」
ジジは斜面を滑り降りた。
細い枝を掴み、泥に塗れながら、重力を無視したような動きで本を掴み取る。
バサリと音がした。
鋭い茨の棘が、ジジの指先を浅くかすめていく。
岩に引っかかった。リュックの底が裂けている。
カラフルなスナック菓子の袋がいくつか、転がり落ちていく。
「あーあ、破けちゃった。はい、セシルの本!」
ジジは泥だらけの顔で笑いながら、斜面を駆け上がって本を突き出した。
「ジジ……! ありがとうございます、本当に……。でも、その、お顔が泥だらけです。リュックも,そんな」
セシリアはハンカチを取り出すと、手首の角度を一定に保ったぎこちない手つきで、ジジの頬の汚れを拭った。
二人は再び歩き出した。傾斜はさらに増し、周囲の木々の密度が濃くなっていく。
セシリアは、時折、自分の長い髪の毛先を指先でくるくると弄っていた。不自然なほど一定のリズムで。
「ねえ、セシル。この山ってさ、上まで行くと何があるの。セシルが『ここに行きたい』って言ったからついてきたけど、ジジ、よく分かってないんだよね」
「前にも説明したはずですが……。この先には、古い観測所の跡地があるのです。そこは周囲に遮るものがなく、夏の星座を観察するのに最適な場所だと、古い文献にありました。私は、そこで夜空の記録をとりたいのです。……ジジが、星を見たいと言ったから、調べたのですよ?」
最後の一言は、ほとんど蝉の時雨に消えそうなほど小さな声だった。本で顔の下半分を隠すようにしている。
「えッ。ジジのために。わあ……。セシル、やっぱり大好き。ジジ、星、たくさん見たい。きらきらしたやつ!」
ジジは後ろ向きに歩くのをやめ、セシリアの元へと駆け寄ると、その細い体を軽く抱きしめた。
「ひゃっ、ちょっと、ジジ。暑いですから離れてください。衣服が擦れて痛みます!」
ジジの泥だらけの肩に、そっと顎を乗せた。
鬱蒼とした森が終わりを告げた。目の前が明るくなり、視界が大きく開ける。
山の斜面を丸く切り取ったような、緩やかな傾斜の草原だった。
中央には、石造りの古い建物の残骸が、ツタに覆われた状態でひっそりと佇んでいた。かつての天文観測所だ。
「……着きました。ここが、目的の場所です」
セシリアは深く息を吐き出し、胸に抱えていた本をようやく少し下ろした。強張っていた肩のラインが、ストンと位置を落す。
「すごーーーい。ひろーい。セシル、見て。空がすっごく近いよ!」
ジジは、底の裂けたリュックを乱暴に放り出すと、草原の真ん中へと走り出した。
両腕を大きく広げて、その場に大の字になって寝転がった。
「あはは、草がチクチクして気持ちいい。セシルも来なよ。ここ、すっごく涼しい風が吹いてる!」
開けた山頂付近には、下界の熱気を忘れさせるような、心地よい冷気を含んだ風が吹き抜けていた。草原の草たちが、さわさわと音を立てて波打っている。
セシリアは少し躊躇した。
自分のリュックから丁寧に敷物を取り出して地面に敷くと、膝を折り畳むようにして、その上に腰を下ろした。
座って足を伸ばし、風を肌に感じた瞬間、体から完全に力が抜けた。
「……あ。本当に、涼しいですね……」
その喋り方は、完全に素の、掠れたようなトーンだった。
抱えていた本を枕のようにして、その場にゆっくりと横たわった。シートからはみ出さないよう、肘と膝を直角に曲げた収まりの良い姿勢で。
ジジは、少し離れた場所からセシリアのその様子を、じっと見つめていた。
寝転んだまま、芋虫のようにモゾモゾと動いて、セシリアのシートの端まで近づいていく。チャンスを伺う泥棒猫のような滑らかさで。
セシリアの顔のすぐ近くに、自分の顔を寄せた。
「セシル、お疲れ様。がんばったね」
ジジの声は、優しく低めのトーンだった。セシリアの額にかかった髪を、細い指先でそっと払った。
「……ジジ。近いです。……でも、ありがとうございます」
セシリアは目を閉じたまま、小さく微笑んだ。
「……ところでジジ、肝心の、夜間観測用の機材や、望遠鏡はどちらに。そちらの裂けたリュックの中でしょうか」
ジジは髪を弄る指をぴたりと止め、視線を泳がせた。
「え。ジジのリュック。ええとね……中身は、たくさんのお菓子と、着替えと、あ、あとね、すっごく大きいレジャーシート!」
「……は?」
セシリアの目が点になった。
肘の関節を直角に固定したまま上半身を跳ね上げ、ジジを凝視した。
「望遠鏡は……。星を近くで見るための、あの筒は……」
「あ、セシルの本に書いてあるから、ジジは持ってきた気になってた!」
ジジはてへっ、と頭を軽く叩いて、悪びれもせずに笑った。
「ジジ……! 私の、私の徹夜の計算が、ただの夜のピクニックになるというのですか……!?」
「いいじゃんいいじゃん。星は目で見てもきらきらで綺麗だよ。機材なんてなくても、ジジのこのランプが、セシルの手元をずーっと明るく照らしてあげるからさ!」
ジジは腰のランタンをぽんぽんと叩き、悪戯っぽく胸を張った。
セシリアはあまりの理不尽さに呆れ果て、こめかみを押さえた。ジジのその屈託のない笑顔を見ていると、それ以上怒る気力も失せていく。
「……まったく、あなたという人は。これでは、ただの夜更かしの遠足ではありませんか。星が綺麗でなければ本当に怒りますからね」
「大丈夫だよ! あ、でもねセシル、さっき落としたお菓子の袋、底が破けて中身全部アリさんにあげちゃったみたい!」
「……は?」
「これだけ!」
誇らしげに差し出された手のひらを見て、セシリアの思考が、今度こそ完全に停止した。
白い。
四角い。
そして、無残にひしゃげている。
「……マシュマロ、ですか。たった一個の、潰れた」
「うん! 半分こね!」
セシリアの体からカチリと音がして、完全に動きが止まった。
「……お断りします。私は、絶対に、怒っていますからね」
「えー、美味しいのに!」
暮れなずむ山頂に、腹の虫の音がふたつ、情けなく響いた。