ホロライブ短編集2   作:夏目陽光

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秘密結社のある一日 —holoX Off-Time—

未舗装の林道は容赦なくミニバンの車体を跳ね上げ、トランクの奥からバーベキュー用の生肉と、湿った川石の匂いが混ざり合って、生温かい空気が車内に満ちていた。エアコンの吹き出し口からは、カビ臭い風が弱々しく吹き出している。

「うっひょーーー! 見よ、この大自然を! 今日からこの山も川も、全ては吾輩の偉大なる領土、秘密結社holoXの支配下に入るのである! ひれ伏せ、自然の矮小なる被造物どもめ! はーっはっは! これならYouTubeのガイドラインもクソもないからな、何をやってもBANされんぞ! 配信画面の枠に収まりきらない吾輩のカリスマを、この世界に刻み込んでやるのだ!」

ラプラス・ダークネスは、頭上の巨大な二本の角を車の天井に何度も激しく擦りつけながら身を乗り出した。お気に入りの、黒いノースリーブワンピースの裾をバタバタと揺らし、両腕の重々しい鎖をジャラジャラと鳴らしてふんぞり返る。だが、タイヤが深い轍を乗り越えて大きく垂直にバウンドした瞬間、彼女の小さな身体は放物線を描いて宙を泳いだ。

「あだっ!? 痛いのである! なんだこの不敬な重力は! 吾輩の三半規管を殺す気か!」

シートの端を両手でぎゅっと掴み直し、窓の外を流れる激しい白波に視線を落とす。ラプラスはワンピースの胸元を小さく握りしめ、急に静かになった。その指先は、細かく震えている。

「はいはい、ラプラス、暴れないの。角が天井に突き刺さったら、レンタカーの弁償代がいくらになると思ってるの。対人リスクマネジメント的にも、車内での自爆負傷は一番のロスだから。……あー、もう、このルートを選んだのは誰? 営業スマイルの作りすぎで固まった顔の筋肉が、振動のせいでさらに引き攣るんだけど。クレーム対応の電話を百本連続で受けた後の胃の痛みにそっくりだわ……」

鷹嶺ルイはハンドルを握り締めたまま、バックミラーに鋭い視線を走らせた。彼女の右足は、アクセルペダルを踏み込むリズムとは全く無関係に、床をトントンと規則的に叩いている。涼しげなリネン素材のサマージャケットの肩が、小さく強張っていた。

「ルイ、うるさーい! 吾輩は総帥だぞ! 貴様は吾輩の言うことを『イエス・マイ・ダーク!』って聞いていればいいのである! おいルイ! 吾輩のメンタルケアを怠るな! 労働基準法に訴えるぞ! だいたいさぁ、ルイはいつも怒ってばっかりで……たまには吾輩のこと格好いいって言ってくれたっていいじゃんか……! 吾輩、これでも一応、世界を征服する予定なんだぞ……」

言葉の終わりに向けて声は急速にしぼんでいき、その大きな瞳には微かに涙がにじむ。ルイはバックミラー越しにその様子を捉え、長いため息を吐き出しながら、ハンドルを左に切った。

車が河原の指定された駐車スペースに滑り込む。ブレーキが軋む音と同時に、助手席のドアが勢いよく開き、強烈な熱気が車内に流れ込んできた。

「はーいッ! こよりにお任せください! こよりはね、この大自然のマイナスイオンと、渓流の特異な生態系をサンプリングしたくて、もう脳内のシミュレーションが限界突破してるんですから! あ、ルイ姉、その重いクーラーボックスはこよりが持ちますよ! 研究者の筋肉をナメないでくださいね! ね? 助手くんたちもそう思うよね!?」

白衣の裾を真夏の風になびかせながら飛び出してきたのは、博衣こよりだった。アウトドア用の動きやすいデニムのショートパンツの上に、いつもの白い衣を頑なに羽織っている。彼女はせわしなく動き回りながら、手にしたペンのキャップをカチカチと狂ったような速度で鳴らし、ピンク色の髪を指でくるくると弄んでいた。こよりは満面の笑顔を浮かべていた。だが、彼女の視線が川の澱みや、湿った土壌の変色した部分を捉えた瞬間、その口元が不自然なほど吊り上がる。

「あはーは! この渓流の水、少し濁りがありますね……。これを濃縮精製して、対象の神経組織に直接作用する新型のドリンクの溶媒に使ってみたらどうなるでしょうか? あ、死なないですから大丈夫です! たぶん! ちょっと脳細胞が少し壊死するだけですから、誤差ですよ、誤差! ね? みんなで実験させてくださいよぉ! 助手くんたちなら、喜んで被験者になってくれますよね!?」

興奮のあまり急に早口になり、声のトーンが一段低くなる。その目は全く笑っていなかった。嬉々として、満面の笑顔のまま、超早口で相手の尊厳を破壊する実験をしようと迫ってくる熱量がそこにはあった。白衣のポケットの中にある硬い試験管の感触を確かめるように、指先が不自然に痙攣している。

「ひぇっ……! こ, こより、お前の作る薬はいつも怪しいから嫌なのだ! お前の薬はYouTubeのガイドラインに引っかかるからやめろ! 吾輩はもっと、こう、バーベキューのお肉をドカンと食べたいのである!」

ラプラスは岩の上からルイの後ろへと身を引いた。その手はしっかりとルイのジャケットの裾を握りしめ、決して離しようとしない。

「おろ? 皆さん、何をそんなに騒がしくしているでござるか? 自分、早くこの美しい自然の中で、剣の修行をしてみたいで作るよ!」

トランクの奥から、大刀を背負った風真いろはが爽やかな笑顔で顔を出した。薄手の和モダンなノースリーブ羽織をひるがえし、彼女はすぐさまルイの元へと駆け寄り、重い荷物を軽々と受け取った。荷物を受け取るその瞬間、いろはの足元から砂利の擦れる音が一切消えた。彼女の身体の軸は、傾斜した不安定な河原の上で完璧な垂直を保っている。彼女の左手は自然と大刀の柄へと伸び、人差し指が鯉口をほんの数ミリメートルだけ、音もなく押し下げた。

「……周囲の藪に伏兵の気配はなし。しかし、足場が不安定ゆえ、奇襲された場合は一歩引いて上段から叩き斬るのが上策でござるな」

その声は低く、平坦で、抑揚がなかった。楽しげなキャンプ場ではなく、血臭漂う戦場を厳密に凝視しているような眼差し。過剰なまでの防衛本能が、彼女の四肢を完璧な戦闘態勢へと変貌させていた。

「……なーんて、冗談でござるよー! ルイ殿、これくらい自分一人で楽に運べるでござるから、休んでいてくだされ! 風真の名にかけて、皆さんの荷物は一つ残らず安全な場所へ運んでみせるでござる!」

ルイが息を呑んだ次の瞬間、いろははいつもの太陽のような素朴な笑顔に戻っていた。大刀から手が離され、彼女は何事もなかったかのように荷物を運び始める。ルイは背筋に冷たい汗が伝うのを分かった。

「ふぃ〜……、車揺れすぎだよぉ……。沙花叉、酔っちゃうかも……。ねぇ、総帥ぃ、ちょっと寄りかかっていい? あと、なんか外ピリピリしてません?」

最後部座席から傷だらけのサンダルで這い出してきたのは、沙花叉クロヱだった。オフショルダースタイルの薄手の夏用パーカーを深く被り、着崩した衣服からは独特の甘い香りが漂う。彼女の目は、川の浅瀬を泳ぐアマゴの群れをじっと見つめていた。

「あはー、総帥、ごめんなさーい。でもね、沙花叉、川の中にすっごく美味しそうな『獲物』見つけちゃってさぁ…….ちょっと『遊んで』きてもいい? え? 魚って生で頭からいくのが一番コスパよくないですか? 骨? 噛み砕けばカルシウムですよ? あの魚たちも, 最後はすっごく綺麗な声で鳴くかなぁ……」

クロヱの指先が、緩やかに曲がり、肉を引き裂くための鉤爪のような形を作る。彼女のクスクスという湿った笑い声が響く。足はすでに水の流れる浅瀬へと向かっており、その歩みは無駄なく滑らかで、まるで水に吸い込まれるようだった。

「……沙花叉、服を濡らすのは絶対に許さないわよ。後始末はちゃんとするんでしょうね? あなた、またお風呂入らないつもり?」

ルイの容赦ない突っ込みが飛ぶ。営業職で培った鋭い眼光が沙花叉を捉えた。

「もちろんだよぉ。沙花叉、掃除屋だもん。骨の一本も残さないで綺麗に食べるよ。ぽえー」

不満そうに部下としての低い愚痴をこぼしながら、ラプラスの近くへと歩み寄る。ラプラスは必死に胸を張った。

「う、うむ……。沙花叉が優秀なのは良いことである! さすが吾輩の配下だな! ……でも、お前がどうしてもって言うなら、吾輩の隣を歩かせてやらんこともない、ぞ?」

ラプラスの小さな足は、砂利に足を取られないよう慎重に進んでいた。

「さぁさぁ! そんなことより設営ですよ、設営! バーベキューの準備を始めましょう!」

こよりが大きなレジャーシートを広げる。

ラプラスは、テントのポールを組み立てようとするものの、パーツが上手く噛み合わず、金属の管を持ったまま立ち尽くしていた。

「ぬぅ……! この棒め、吾輩の言うことが聞けんのか! 不敬であるぞ! 吾輩は総帥だぞ!」

彼女はポールに向かって怒鳴っていたが、その瞳の端には小さな涙がたまっていた。

「あーあ、総帥が泣きそうじゃない。みんな、少しは手加減しなさい。ラプラス、そこはそうじゃなくて、こっちの穴に差し込むのよ。貸してごらん」

ルイが優しく手を差し伸べ、手際よくポールを組み上げていく。

「ルイ。吾輩、泣いてないもん。目に、ゴミが入っただけだもん……」

ラプラスはルイの背中に小さな額を押し付け、小さな声で呟いた。

一方、火起こしを担当することになったのは、いろはとこより、そしてクロヱだった。

「火起こしなら、自分にお任せくだされ! 薪をこうして組み合わせ、摩擦で……」

いろはが二本の木片を手にし、それを擦り合わせようとする。一寸の狂いもなく正確に木材を並べていく。彼女の組んだ薪は、驚くほど完璧な空気の流れを作り出していた。その手つきには、どこか冷徹な効率性があった。

「ちょっと待ってください、いろは殿! そんな原始的な方法じゃ時間がかかります! こよりが開発した試作型液体を使えば、一瞬で爆発的な火力が得られますよ! これで火を起こせば、熱効率が通常の何倍にも跳ね上がります!」

こよりが白衣の奥から取り出したのは、不自然なほど鮮やかな緑色の液体が入った小さなフラスコだった。彼女の顔は、異常に紅潮している。

「こよりちゃん、それ危ないってぇ……」

クロヱが河原の砂利の上に寝転がりながら、だらしなく脚を動かしていた。しかし、彼女の耳は、川のせせらぎの中に混ざる魚たちの小さな身振りを完全に捉えていた。

ようやくバーベキューの火が安定し、網の上で肉や野菜がジューシーな音を立てて焼け始めた。脂の爆ぜる匂いが、周囲の原始的な森の匂いを一時的に覆い隠す。

「うおーーー! 美味そうである! ルイ、一番大きい肉は吾輩のものであるな! 当然だな! 吾輩は総帥だからな!」

ラプラスが皿を両手で握り締め、目を輝かせて網の上の肉を凝視していた。

「はいはい、ラプラス。ちゃんと火が通ってからね。ほら、焦らないの。……よし、今月もノルマ達成、っと。あ、いや、なんでもないわ。みんな、お疲れ様! holoXの益々の発展を願って、乾杯!」

ルイは手際よく肉をひっくり返し、ラプラスの皿に最初の一枚を乗せてあげる。彼女自身が手にした缶ビールを飲み干したとき、深い吐息が漏れた。

「乾杯でござるーーー!」

いろはが冷たいお茶の入ったコップを掲げる。彼女はいつもののどかな調子で肉を頬張っていた。一口ごとに、顎が静かに動き、視線が対岸の鬱蒼とした影をなぞる。

「んむ! 美味い! ルイ、この肉は最高であるな! 貴様を吾輩の専属料理人に任命してやってもよいぞ! んぐ、むにゃ……うむ! 苦しゅうない!」

ラプラスは口の周りにタレをたくさんつけながら、夢中で肉を食べていた。ルイは無言でティッシュを取り出し、その小さな顔を拭いてやる。ラプラスは「うぅ……」と不満そうな声を上げながらも、決してルイの手を拒ろうとはしなかった。

「ねぇねぇ、皆さん! このお肉に、こより特製のソースをかけてみてください! 脳内のドーパミンが通常の数倍分泌されて、飛ぶような美味さが体験できますよ! ちょっと脳細胞が刺激されますけど、誤差です!」

こよりが再び、不気味な粘り気を持ったソースの瓶を差し出してきた。興奮のあまり語尾の「こよ」が消え、彼女の目は、仲間たちがそのソースを口にしたとき、瞳孔がどれほど散大するかを凝視しているようだった。

「こよりちゃん、それ、絶対に普通のタレじゃないよねぇ……。沙花叉、こっちの生の川魚の方が魅力的だと思うなぁ……」

クロヱの手には、いつの間にか、まだ生命の火を灯したままピチピチと跳ねるアマゴが握られていた。ルイが目を離したわずか数秒の間に、彼女は一切の音を立てずに川へ侵入し、その爪で魚の腹を正確に切り裂いていたのだ。

「ちょっと、沙花叉!? いつの間にそんなもの捕まえてきたのよ! ちゃんと網で焼きなさい! 生で食べたらお腹壊すでしょ!」

ルイの悲鳴のような声が響く。現実的な引き戻しをされたクロヱは、「えー、つまんないの」と呟きながら、しぶしぶと魚を網の上に乗せた。しかし、その魚を見る彼女の目は、未だに鋭い光を孕んでいた。

やがて、空の境界が曖昧になり、深い夕闇が渓流の白波を黒く塗りつぶしていった。

直前までの賑やかな喧騒が、冷え込む川風にかき消されていく。岩肌に跳ねる水音が、先ほどよりも一段と大きく、重く響き始めた。炭火の爆ぜる音が、衣服を抜ける風の音に混ざる。

誰も口を開かなかった。昼間の熱気が嘘のように、周囲の原始的な森は急速にその夜の顔を現しつつある。

「ふぅ……。片付けも終わったわね。みんな、怪我はなかった? あー、もう, 心臓に悪いわね……。残業代は出ないから、手際よく終わらせましょうね」

ルイが全員を見渡しながら、最後の確認をする。その立ち姿には、深い疲弊が濃厚に漂っていた。

「ルイ殿、お疲れ様でござる。周囲の警戒は、自分が夜通しで行うので、安心して眠ってくだされ。風真の名にかけて、この平和な寝顔を絶対に守るでござるよ」

いろはが静かに刀の柄に手を置きながら言った。その瞳は、暗闇に包まれた山林の奥を見据えていた。足音を完全に消した歩法が、暗闇の中でさらに自然なものとなっていた。

「こよりはね、この夜の闇の中でしか採取できない、発光細菌のサンプルを採りに行ってきます! 暗闇で光る未知の物質……あは、新しい兵器の材料になるかも!」

こよりがランタンを片手に、再び目を輝かせながら林の奥へと歩み出そうとする。興奮で息が荒くなり、早口の科学的専門用語がポロポロと漏れ出ていた。

「こより、遠くに行っちゃだめよ。……沙花叉、あなたもこよりをちゃんと見ててね」

ルイの指示に、クロヱはフードの奥からクスクスと笑った。

「はーい、沙花叉、こよりちゃんの後ろをついていくよぉ……。でもね、夜の森って、ちょっと新鮮かもぉ……」

彼女の指先が、暗闇の中で何か柔らかいものを引き裂くような動作を繰り返していた。

「貴様ら……吾輩を一人にするなーーーッ!」

テントの前で、ラプラスの悲鳴が響き渡った。

「みんな、どっか行っちゃうの嫌だ! 暗いし、怖いし、吾輩、ここにいるの寂しいじゃんか! ルイ、どこにも行かないで吾輩と一緒にしろ! 吾輩を置いてけぼりにするなーーーッ!」

ラプラスはルイの服の裾をぎゅっと握り締め、地団駄を踏んだ。

「はいはい、分かったわよ、ラプラス。私はどこにも行かないから。ほら、一緒にテントに入りましょうね。よしよし、ラプラス。大丈夫よ」

ルイは微笑み、ラプラスの小さな身体を抱きしめるようにして、テントの中へと導いた。

こより、いろは、クロヱの三人も、ラプラスの声を聞いて、それぞれの気配を引っ込め、テントへと歩み寄る。

「もー、総帥は寂しがり屋なんだからー! じゃあ、こよりの実験は明日の朝にします!」

こよりは弾けたトーンでランタンを消し、テントへと駆け寄る。その手にはスマホが握られ、画面の明かりの中で、何かの計算式が目まぐるしく更新されていた。

「自分も、テントの入り口で守りを固めるでござるよ!」

いろはも刀から手を離し、優しく微笑んだ。だが、寝息を立てるラプラスの毛布を無言で直してやりながらも、彼女の耳だけは、外の虫の声の不自然な途切れを冷たく探り続けている。

「沙花叉も、総帥と一緒に寝るー。あーあ、総帥泣いちゃったぁ。じゃあ、沙花叉がよしよししてあげるねぇ。ぽえー」

クロヱもだらしのない足取りで、テントの中へと滑り込んでいく。彼女の脳裏には、先ほど引き裂いた魚の感触がまだ鮮明に残っているようだった。

夜の渓流のせせらぎが、テントの向こうで規則正しく響いていた。大自然の静寂の中に、五人の寝息と、時折漏れる小さなお喋りの声が混ざり合う。

「……誰も、いなくならないでね」

ルイは小さく呟き、ランタンの芯を下げて夜の闇を迎え入れた。

未舗装の林道は容赦なくミニバンの車体を跳ね上げ、トランクの奥からバーベキュー用の生肉と、湿った川石の匂いが混ざり合って、生温かい空気が車内に満ちていた。

「うっひょーーー! 見よ、この大自然を! 今日からこの山も川も、全ては吾輩の偉大なる領土、秘密結社holoXの支配下に入るのである! ひれ伏せ、自然の矮小なる被造物どもめ! はーっはっは! これならYouTubeのガイドラインもクソもないからな、何をやってもBANされんぞ! 配信画面の枠に収まりきらない吾輩のカリスマを、この世界に刻み込んでやるのだ!」

ラプラス・ダークネスは、頭上の巨大な二本の角を車の天井に何度も激しく擦りつけながら身を乗り出した。お気に入りの、黒いノースリーブワンピースの裾をバタバタと揺らし、両腕の重々しい鎖をジャラジャラと鳴らしてふんぞり返る。だが、タイヤが深い轍を乗り越えて大きく垂直にバウンドした瞬間、彼女の小さな身体は放物線を描いて宙を泳いだ。

「あだっ!? 痛いのである! なんだこの不敬な重力は! 吾輩の三半規管を殺す気か!」

シートの端を両手でぎゅっと掴み直し、窓の外を流れる激しい白波に視線を落とす。ラプラスはワンピースの胸元を小さく握りしめ、急に静かになった。その指先は、細かく震えている。

「はいはい、ラプラス、暴れないの。角が天井に突き刺さったら、レンタカーの弁償代がいくらになると思ってるの。対人リスクマネジメント的にも、車内での自爆負傷は一番のロスだから。……あー、もう、このルートを選んだのは誰? 営業スマイルの作りすぎで固まった顔の筋肉が、振動のせいでさらに引き攣るんだけど。クレーム対応の電話を百本連続で受けた後の胃の痛みにそっくりだわ……」

鷹嶺ルイはハンドルを握り締めたまま、バックミラーに鋭い視線を走らせた。彼女の右足は、アクセルペダルを踏み込むリズムとは全く無関係に、床をトントンと規則的に叩いている。涼しげなリネン素材のサマージャケットの肩が、小さく強張っていた。

「ルイ、うるさーい! 吾輩は総帥だぞ! 貴様は吾輩の言うことを『イエス・マイ・ダーク!』って聞いていればいいのである! おいルイ! 吾輩のメンタルケアを怠るな! 労働基準法に訴えるぞ! だいたいさぁ、ルイはいつも怒ってばっかりで……たまには吾輩のこと格好いいって言ってくれたっていいじゃんか……! 吾輩、これでも一応、世界を征服する予定なんだぞ……」

言葉の終わりに向けて声は急速にしぼんでいき、その大きな瞳には微かに涙がにじむ。ルイはバックミラー越しにその様子を捉え、長いため息を吐き出しながら、ハンドルを左に切った。

車が河原の指定された駐車スペースに滑り込む。ブレーキが軋む音と同時に、助手席のドアが勢いよく開き、強烈な熱気が車内に流れ込んできた。

「はーいッ! こよりにお任けください! こよりはね、この大自然のマイナスイオンと、渓流の特異な生態系をサンプリングしたくて、もう脳内のシミュレーションが限界突破してるんですから! あ、ルイ姉、その重いクーラーボックスはこよりが持ちますよ! 研究者の筋肉をナメないでくださいね! ね? 助手くんたちもそう思うよね!?」

白衣の裾を真夏の風になびかせながら飛び出してきたのは、博衣こよりだった。アウトドア用の動きやすいデニムのショートパンツの上に、いつもの白い衣を頑なに羽織っている。彼女はせわしなく動き回りながら、手にしたペンのキャップをカチカチと狂ったような速度で鳴らし、ピンク色の髪を指でくるくると弄んでいた。こよりは満面の笑顔を浮かべていた。だが、彼女の視線が川の澱みや、湿った土壌の変色した部分を捉えた瞬間、その口元が不自然なほど吊り上がる。

「あはーは! この渓流の水、少し濁りがありますね……。これを濃縮精製して、対象の神経組織に直接作用する新型のドリンクの溶媒に使ってみたらどうなるでしょうか? あ, 死なないですから大丈夫です! たぶん! ちょっと脳細胞が少し壊死するだけですから、誤差ですよ、誤差! ね? みんなで実験させてくださいよぉ! 助手くんたちなら、喜んで被験者になってくれますよね!?」

興奮のあまり急に早口になり、声のトーンが一段低くなる。その目は全く笑っていなかった。嬉々として、満面の笑顔のまま、超早口で相手の尊厳を破壊する実験をしようと迫ってくる熱量がそこにはあった。白衣のポケットの中にある硬い試験管の感触を確かめるように、指先が不自然に痙攣している。

「ひぇっ……! こ、こより、お前の作る薬はいつも怪しいから嫌なのだ! お前の薬はYouTubeのガイドラインに引っかかるからやめろ! 吾輩はもっと、こう、バーベキューのお肉をドカンと食べたいのである!」

ラプラスは岩の上からルイの後ろへと身を引いた。その手はしっかりとルイのジャケットの裾を握りしめ、決して離しようとしない。

「おろ? 皆さん、何をそんなに騒がしくしているでござるか? 自分、早くこの美しい自然の中で、剣の修行をしてみたいで作るよ!」

トランクの奥から、大刀を背負った風真いろはが爽やかな笑顔で顔を出した。薄手の和モダンなノースリーブ羽織をひるがえし、彼女はすぐさまルイの元へと駆け寄り、重い荷物を軽々と受け取った。荷物を受け取るその瞬間、いろはの足元から砂利の擦れる音が一切消えた。彼女の身体の軸は、傾斜した不安定な河原の上で完璧な垂直を保っている。彼女の左手は自然と大刀の柄へと伸び、人差し指が鯉口をほんの数ミリメートルだけ、音もなく押し下げた。

「……周囲の藪に伏兵の気配はなし。しかし、足場が不安定ゆえ、奇襲された場合は一歩引いて上段から叩き斬るのが上策でござるな」

その声は低く、平坦で、抑揚がなかった。楽しげなキャンプ場ではなく、血臭漂う戦場を厳密に凝視しているような眼差し。過剰なまでの防衛本能が、彼女の四肢を完璧な戦闘態勢へと変貌させていた。

「……なーんて、冗談でござるよー! ルイ殿、これくらい自分一人で楽に運べるでござるから、休んでいてくだされ! 風真の名にかけて、皆さんの荷物は一つ残らず安全な場所へ運んでみせるでござる!」

ルイが息を呑んだ次の瞬間、いろははいつもの太陽のような素朴な笑顔に戻っていた。大刀から手が離され、彼女は何事もなかったかのように荷物を運び始める。ルイは背筋に冷たい汗が伝うのを分かった。

「ふぃ〜……、車揺れすぎだよぉ……。沙花叉、酔っちゃうかも……。ねぇ、総帥ぃ、ちょっと寄りかかっていい? あと、なんか外ピリピリしてません?」

最後部座席から傷だらけのサンダルで這い出してきたのは、沙花叉クロヱだった。オフショルダースタイルの薄手の夏用パーカーを深く被り、着崩した衣服からは独特の甘い香りが漂う。彼女の目は、川の浅瀬を泳ぐアマゴの群れをじっと見つめていた。

「あはー、総帥、ごめんなさーい。でもね、沙花叉、川の中にすっごく美味しそうな『獲物』見つけちゃってさぁ…….ちょっと『遊んで』きてもいい? え? 魚って生で頭からいくのが一番コスパよくないですか? 骨? 噛み砕けばカルシウムですよ? あの魚たちも、最後はすっごく綺麗な声で鳴くかなぁ……」

クロヱの指先が、緩やかに曲がり、肉を引き裂くための鉤爪のような形を作る。彼女のクスクスという湿った笑い声が響く。足はすでに水の流れる浅瀬へと向かっており、その歩みは無駄なく滑らかで、まるで水に吸い込まれるようだった。

「……沙花叉、服を濡らすのは絶対に許さないわよ。後始末はちゃんとするんでしょうね? あなた、またお風呂入らないつもり?」

ルイの容赦ない突っ込みが飛ぶ。営業職で培った鋭い眼光が沙花叉を捉えた。

「もちろんだよぉ。沙花叉、掃除屋だもん。骨の一本も残さないで綺麗に食べるよ。ぽえー」

不満そうに部下としての低い愚痴をこぼしながら、ラプラスの近くへと歩み寄る。ラプラスは必死に胸を張った。

「う、うむ……。沙花叉が優秀なのは良いことである! さすが吾輩の配下だな! ……でも、お前がどうしてもって言うなら、吾輩の隣を歩かせてやらんこともない、ぞ?」

ラプラスの小さな足は、砂利に足を取られないよう慎重に進んでいた。

「さぁさぁ! そんなことより設営ですよ、設営! バーベキューの準備を始めましょう!」

こよりが大きなレジャーシートを広げる。

ラプラスは、テントのポールを組み立てようとするものの、パーツが上手く噛み合わず、金属の管を持ったまま立ち尽くしていた。

「ぬぅ……! この棒め、吾輩の言うことが聞けんのか! 不敬であるぞ! 吾輩は総帥だぞ!」

彼女はポールに向かって怒鳴っていたが、その瞳の端には小さな涙がたまっていた。

「あーあ、総帥が泣きそうじゃない。みんな、少しは手加減しなさい。ラプラス、そこはそうじゃなくて、こっちの穴に差し込むのよ。貸してごらん」

ルイが優しく手を差し伸べ、手際よくポールを組み上げていく。

「ルイ。吾輩、泣いてないもん。目に、ゴミが入っただけだもん……」

ラプラスはルイの背中に小さな額を押し付け、小さな声で呟いた。

一方、火起こしを担当することになったのは、いろはとこより、そしてクロヱだった。

「火起こしなら、自分にお任けくだされ! 薪をこうして組み合わせ、摩擦で……」

いろはが二本の木片を手にし、それを擦り合わせようとする。一寸の狂いもなく正確に木材を並べていく。彼女の組んだ薪は、驚くほど完璧な空気の流れを作り出していた。その手つきには、どこか冷徹な効率性があった。

「ちょっと待ってください、いろは殿! そんな原始的な方法じゃ時間がかかります! こよりが開発した試作型液体を使えば、一瞬で爆発的な火力が得られますよ! これで火を起こせば、熱効率が通常の何倍にも跳ね上がります!」

こよりが白衣 of の奥から取り出したのは、不自然なほど鮮やかな緑色の液体が入った小さなフラスコだった。彼女の顔は、異常に紅潮している。

「こよりちゃん、それ危ないってぇ……」

クロヱが河原の砂利の上に寝転がりながら、だらしなく脚を動かしていた。しかし、彼女の耳は、川のせせらぎの中に混ざる魚たちの小さな身振りを完全に捉えていた。

ようやくバーベキューの火が安定し、網の上で肉や野菜がジューシーな音を立てて焼け始めた。脂の爆ぜる匂いが、周囲の原始的な森の匂いを一時的に覆い隠す。

「うおーーー! 美味そうである! ルイ、一番大きい肉は吾輩のものであるな! 当然だな! 吾輩は総帥だからな!」

ラプラスが皿を両手で握り締め、目を輝かせて網の上の肉を凝視していた。

「はいはい、ラプラス。ちゃんと火が通ってからね。ほら、焦らないの。……よし、今月もノルマ達成、っと。あ、いや、なんでもないわ。みんな、お疲れ様! holoXの益々の発展を願って、乾杯!」

ルイは手際よく肉をひっくり返し、ラプラス의 皿に最初の一枚を乗せてあげる。彼女自身が手にした缶ビールを飲み干したとき、深い吐息が漏れた。

「乾杯でござるーーー!」

いろはが冷たいお茶の入ったコップを掲げる。彼女はいつもののどかな調子で肉を頬張っていた。一口ごとに、顎が静かに動き、視線が対岸の鬱蒼とした影をなぞる。

「んむ! 美味い! ルイ、この肉は最高であるな! 貴様を吾輩の専属料理人に任命してやってもよいぞ! んぐ、むにゃ……うむ! 苦しゅうない!」

ラプラスは口の周りにタレをたくさんつけながら、夢中で肉を食べていた。ルイは無言でティッシュを取り出し、その小さな顔を拭いてやる。ラプラスは「うぅ……」と不満そうな声を上げながらも、決してルイの手を拒もうとはしなかった。

「ねぇねぇ、皆さん! このお肉に、こより特製のソースをかけてみてください! 脳内のドーパミンが通常の数倍分泌されて、飛ぶような美味さが体験できますよ! ちょっと脳細胞が刺激されますけど、誤差です!」

こよりが再び、不気味な粘り気を持ったソースの瓶を差し出してきた。興奮のあまり語尾の「こよ」が消え、彼女の目は、仲間たちがそのソースを口にしたとき、瞳孔がどれほど散大するかを凝視しているようだった。

「こよりちゃん、それ、絶対に普通のタレじゃないよねぇ……。沙花叉、こっちの生の川魚の方が魅力的だと思うなぁ……」

クロヱの手には、いつの間にか、まだ生命の火を灯したままピチピチと跳ねるアマゴが握られていた。ルイが目を離したわずか数秒の間に、彼女は一切の音を立てずに川へ侵入し、その爪で魚の腹を正確に切り裂いていたのだ。

「ちょっと、沙花叉!? いつの間にそんなもの捕まえてきたのよ! ちゃんと網で焼きなさい! 生で食べたらお腹壊すでしょ!」

ルイの悲鳴のような声が響く。現実的な引き戻しをされたクロヱは、「えー、つまんないの」と呟きながら、しぶしぶと魚を網の上に乗せた。しかし、その魚を見る彼女の目は、未だに鋭い光を孕んでいた。

やがて、空の境界が曖昧になり、深い夕闇が渓流の白波を黒く塗りつぶしていった。

直前までの賑やかな喧騒が、冷え込む川風にかき消されていく。岩肌に跳ねる水音が、先ほどよりも一段と大きく、重く響き始めた。炭火の爆ぜる音が、衣服を抜ける風の音に混ざる。

誰も口を開かなかった。昼間の熱気が嘘のように、周囲の原始的な森は急速にその夜の顔を現しつつある。

「ふぅ……。片付けも終わったわね。みんな、怪我はなかった? あー、もう、心臓に悪いわね……。残業代は出ないから、手際よく終わらせましょうね」

ルイが全員を見渡しながら、最後の確認をする。その立ち姿には、深い疲弊が濃厚に漂っていた。

「ルイ殿、お疲れ様でござる。周囲の警戒は、自分が夜通しで行うので、安心して眠ってくだされ。風真の名にかけて、この平和な寝顔を絶対に守るでござるよ」

いろはが静かに刀の柄に手を置きながら言った。その瞳は、暗闇に包まれた山林の奥を見据えていた。足音を完全に消した歩法が、暗闇の中でさらに自然なものとなっていた。

「こよりはね、この夜の闇の中でしか採取できない、発光細菌のサンプルを採りに行ってきます! 暗闇で光る未知の物質……あは、新しい兵器の材料になるかも!」

こよりがランタンを片手に、再び目を輝かせながら林の奥へと歩み出そうとする。興奮で息が荒くなり、早口の科学的専門用語がポロポロと漏れ出ていた。

「こより、遠くに行っちゃだめよ。……沙花叉、あなたもこよりをちゃんと見ててね」

ルイの指示に、クロヱはフードの奥からクスクスと笑った。

「はーい、沙花叉、こよりちゃんの後ろをついていくよぉ……。でもね、夜の森って、ちょっと新鮮かもぉ……」

彼女の指先が、暗闇の中で何か柔らかいものを引き裂くような動作を繰り返していた。

「貴様ら……吾輩を一人にするなーーーッ!」

テントの前で、ラプラスの悲鳴が響き渡った。

「みんな、どっか行っちゃうの嫌だ! 暗いし、怖いし、吾輩、ここにいるの寂しいじゃんか! ルイ、どこにも行かないで吾輩と一緒にしろ! 吾輩を置いてけぼりにするなーーーッ!」

ラプラスはルイの服の裾をぎゅっと握り締め、地団駄を踏んだ。

「はいはい、分かったわよ、ラプラス。私はどこにも行かないから。ほら、一緒にテントに入りましょうね。よしよし、ラプラス。大丈夫よ」

ルイは微笑み、ラプラスの小さな身体を抱きしめるようにして、テントの中へと導いた。

こより、いろは、クロヱの三人も、ラプラスの声を聞いて、それぞれの気配を引っ込め、テントへと歩み寄る。

「もー、総帥は寂しがり屋んだからー! じゃあ、こよりの実験は明日の朝にします!」

こよりは弾けたトーンでランタンを消し、テントへと駆け寄る。その手にはスマホが握られ、画面の明かりの中で、何かの計算式が目まぐるしく更新されていた。

「自分も、テントの入り口で守りを固めるでござるよ!」

いろはも刀から手を離し、優しく微笑んだ。だが、寝息を立てるラプラスの毛布を無言で直してやりながらも、彼女の耳だけは、外の虫の声の不自然な途切れを冷たく探り続けている。

「沙花叉も、総帥と一緒に寝るー。あーあ、総帥泣いちゃったぁ。じゃあ、沙花叉がよしよししてあげるねぇ。ぽえー」

クロヱもだらしのない足取りで、テントの中へと滑り込んでいく。彼女の脳裏には、先ほど引き裂いた魚の感触がまだ鮮明に残っているようだった。

夜の渓流のせせらぎが、テントの向こうで規則正しく響いていた。大自然の静寂の中に、五人の寝息と、時折漏れる小さなお喋りの声が混ざり合う。

「……誰も、いなくならないでね」

ルイは小さく呟き、ランタンの芯を下げて夜の闇を迎え入れた。

車体を激しく揺さぶる林道の砂利は、ただの乾いた石ころに過ぎなかった。

ミニバンの後部座席で頭上の角をぶつける紫色の少女も、それを注意しながら、自分の指先が覚えている数千枚の領収書の冷たさを思い出している鷹嶺ルイも、ただそこに座っている。

「吾輩の国にするのだ」とラプラスは言う。その声は小さく、林道を走るタイヤのノイズに半分ほどかき消されていた。

白衣の袖をまくり上げて、川の水をプラスチックの容器に汲み取る博衣こよりの指先は、ひどく正確で、ひどく速い。彼女は「誤差ですよ」と笑う。その笑顔の裏で、彼女は水の分子が引き起こす化学変化の数式を、網膜の裏側に直接書き連ねていた。

風真いろはが荷物を運ぶ。彼女の足跡は、湿った砂利の上にはほとんど残らなかった。彼女はただ、背中にある鉄の塊の重さを確かめるように、時折肩をすくめるだけだ。

沙花叉クロヱは、浅瀬の水を足首まで浸しながら、ただじっと下を見つめていた。彼女の視線が固定された場所には、小さな魚の影があった。彼女の手が動く。それは、呼吸をするよりも自然な動作だった。

夜が来る。

火の粉が爆ぜ、肉が焼ける。

ラプラスはルイの差し出した皿から、一番大きな肉を口に押し込む。口の端から垂れたタレを、ルイが白い布で拭う。そのとき、ラプラスの身体がほんの少しだけ、ルイの側に傾く。

「おいしいな」

誰かが言った。

それは、秘密結社の言葉ではなかった。

ただの、真夏の夜の、冷たい川風の中でのことだった。

ランタンの光が、五人の影を、大きな岩の表面に長く、歪に映し出していた。

それだけだった。

未舗装の林道は容赦なくミニバンの車体を跳ね上げ、トランクの奥からバーベキュー用の生肉と、湿った川石の匂いが混ざり合って、生温かい空気が車内に満ちていた。エアコンの吹き出し口からは、カビ臭い風が弱々しく吹き出している。

「うっひょーーー! 見よ、この大自然を! 今日からこの山も川も、全ては吾輩の偉大なる領土、秘密結社holoXの支配下に入るのである! ひれ伏せ、自然の矮小なる被造物どもめ! はーっはっは! これならYouTubeのガイドラインもクソもないからな、何をやってもBANされんぞ! 配信画面の枠に収まりきらない吾輩のカリスマを、この世界に刻み込んでやるのだ!」

ラプラス・ダークネスは、頭上の巨大な二本の角を車の天井に何度も激しく擦りつけながら身を乗り出した。お気に入りの、黒いノースリーブワンピースの裾をバタバタと揺らし、両腕の重々しい鎖をジャラジャラと鳴らしてふんぞり返る。だが、タイヤが深い轍を乗り越えて大きく垂直にバウンドした瞬間、彼女の小さな身体は放物線を描いて宙を泳いだ。

「あだっ!? 痛いのである! なんだこの不敬な重力は! 吾輩の三半規管を殺す気か!」

シートの端を両手でぎゅっと掴み直し、窓の外を流れる激しい白波に視線を落とす。ラプラスはワンピースの胸元を小さく握りしめ、急に静かになった。その指先は、細かく震えている。

「はいはい、ラプラス、暴れないの。角が天井に突き刺さったら、レンタカーの弁償代がいくらになると思ってるの。対人リスクマネジメント的にも、車内での自爆負傷は一番のロスだから。……あー、もう、このルートを選んだのは誰? 営業スマイルの作りすぎで固まった顔の筋肉が、振動のせいでさらに引き攣るんだけど。クレーム対応の電話を百本連続で受けた後の胃の痛みにそっくりだわ……」

鷹嶺ルイはハンドルを握り締めたまま、バックミラーに鋭い視線を走らせた。彼女の右足は、アクセルペダルを踏み込むリズムとは幕外に、床をトントンと規則的に叩いている。涼しげなリネン素材のサマージャケットの肩が、小さく強張っていた。

「ルイ、うるさーい! 吾輩は総帥だぞ! 貴様は吾輩の言うことを『イエス・マイ・ダーク!』って聞いていればいいのである! おいルイ! 吾輩のメンタルケアを怠るな! 労働基準法に訴えるぞ! だいたいさぁ、ルイはいつも怒ってばっかりで……たまには吾輩のこと格好いいって言ってくれたっていいじゃんか……! 吾輩、これでも一応、世界を征服する予定なんだぞ……」

言葉の終わりに向けて声は急速にしぼんでいき、その大きな瞳には微かに涙がにじむ。ルイはバックミラー越しにその様子を捉え、長いため息を吐き出しながら、ハンドルを左に切った。

車が河原の指定された駐車スペースに滑り込む。ブレーキが軋む音と同時に、助手席のドアが勢いよく開き、強烈な熱気が車内に流れ込んできた。

「はーいッ! こよりにお任せください! こよりはね、この大自然のマイナスイオンと、渓流の特異な生態系をサンプリングしたくて、もう脳内のシミュレーションが限界突破してるんですから! あ、ルイ姉、その重いクーラーボックスはこよりが持ちますよ! 研究者の筋肉をナメないでくださいね! ね? 助手くんたちもそう思うよね!?」

白衣の裾を真夏の風になびかせながら飛び出してきたのは、博衣こよりだった。アウトドア用の動きやすいデニムのショートパンツの上に、いつもの白い衣を頑なに羽織っている。彼女はせわしなく動き回りながら、手にしたペンのキャップをカチカチと狂ったような速度で鳴らし、ピンク色の髪を指でくるくると弄んでいた。こよりは満面の笑顔を浮かべていた。だが、彼女の視線が川の澱みや、湿った土壌の変色した部分を捉えた瞬間、その口元が不自然なほど吊り上がる。

「あはーは! この渓流の水、少し濁りがありますね……。これを濃縮精製して、対象の神経組織に直接作用する新型のドリンクの溶媒に使ってみたらどうなるでしょうか? あ、死なないですから大丈夫です! たぶん! ちょっと脳細胞が少し壊死するだけですから、誤差ですよ、誤差! ね? みんなで実験させてくださいよぉ! 助手くんたちなら、喜んで被験者になってくれますよね!?」

興奮のあまり急に早口になり、声のトーンが一段低くなる。その目は全く笑っていなかった。嬉々として、満面の笑顔のまま、超早口で相手の尊厳を破壊する実験をしようと迫ってくる熱量がそこにはあった。白衣のポケットの中にある硬い試験管の感触を確かめるように、指先が不自然に痙攣している。

「ひぇっ……! こ、こより、お前の作る薬はいつも怪しいから嫌なのだ! お前の薬はYouTubeのガイドラインに引っかかるからやめろ! 吾輩はもっと、こう、バーベキューのお肉をドカンと食べたいのである!」

ラプラスは岩の上からルイの後ろへと身を引いた。その手はしっかりとルイのジャケットの裾を握りしめ、決して離しようとしない。

「おろ? 皆さん、何をそんなに騒がしくしているでござるか? 自分、早くこの美しい自然の中で、剣の修行をしてみたいで作るよ!」

トランクの奥から、大刀を背負った風真いろはが爽やかな笑顔で顔を出した。薄手の和モダンなノースリーブ羽織をひるがえし、彼女はすぐさまルイの元へと駆け寄り、重い荷物を軽々と受け取った。荷物を受け取るその瞬間、いろはの足元から砂利の擦れる音が一切消えた。彼女の身体の軸は、傾斜した不安定な河原の上で完璧な垂直を保っている。彼女の左手は自然と大刀の柄へと伸び、人差し指が鯉口をほんの数ミリメートルだけ、音もなく押し下げた。

「……周囲の藪に伏兵の気配はなし。しかし、足場が不安定ゆえ、奇襲された場合は一歩引いて上段から叩き斬るのが上策でござるな」

その声は低く、平坦で、抑揚がなかった。楽しげなキャンプ場ではなく、血臭漂う戦場を厳密に凝視しているような眼差し。過剰なまでの防衛本能が、彼女の四肢を完璧な戦闘態勢へと変貌させていた。

「……なーんて、冗談でござるよー! ルイ殿、これくらい自分一人で楽に運べるでござるから、休んでいてくだされ! 風真の名にかけて、皆さんの荷物は一つ残らず安全な場所へ運んでみせるでござる!」

ルイが息を呑んだ次の瞬間、いろははいつもの太陽のような素朴な笑顔に戻っていた。大刀から手が離され、彼女は何事もなかったかのように荷物を運び始める。ルイは背筋に冷たい汗が伝うのを分かった。

「ふぃ〜……、車揺れすぎだよぉ……。沙花叉、酔っちゃうかも…….ねぇ、総帥ぃ、ちょっと寄りかかっていい? あと、なんか外ピリピリしてません?」

最後部座席から傷だらけのサンダルで這い出してきたのは、沙花叉クロヱだった。オフショルダースタイルの薄手の夏用パーカーを深く被り、着崩した衣服からは独特の甘い香りが漂う。彼女の目は、川の浅瀬を泳ぐアマゴの群れをじっと見つめていた。

「あはー、総帥、ごめんなさーい。でもね、沙花叉、川の中にすっごく美味しそうな『獲物』見つけちゃってさぁ…….ちょっと『遊んで』きてもいい? え? 魚って生で頭からいくのが一番コスパよくないですか? 骨? 噛み砕けばカルシウムですよ? あの魚たちも、最後はすっごく綺麗な声で鳴くかなぁ……」

クロヱの指先が、緩やかに曲がり、肉を引き裂くための鉤爪のような形を作る。彼女のクスクスという湿った笑い声が響く。足はすでに水の流れる浅瀬へと向かっており、その歩みは無駄なく滑らかで、まるで水に吸い込まれるようだった。

「……沙花叉、服を濡らすのは絶対に許さないわよ。後始末はちゃんとするんでしょうね? あなた、またお風呂入らないつもり?」

ルイの容赦ない突っ込みが飛ぶ。営業職で培った鋭い眼光が沙花叉を捉えた。

「もちろんだよぉ。沙花叉、掃除屋だもん。骨の一本も残さないで綺麗に食べるよ。ぽえー」

不満そうに部下としての低い愚痴をこぼしながら、ラプラスの近くへと歩み寄る。ラプラスは必死に胸を張った。

「う、うむ……。沙花叉が優秀なのは良いことである! さすが吾輩の配下だな! ……でも、お前がどうしてもって言うなら、吾輩の隣を歩かせてやらんこともない、ぞ?」

ラプラスの小さな足は、砂利に足を取られないよう慎重に進んでいた。

「さぁさぁ! そんなことより設営ですよ、設営! バーベキューの準備を始めましょう!」

こよりが大きなレジャーシートを広げる。

ラプラスは、テントのポールを組み立てようとするものの、パーツが上手く噛み合わず、金属の管を持ったまま立ち尽くしていた。

「ぬぅ……! この棒め、吾輩の言うことが聞けんのか! 不敬であるぞ! 吾輩は総帥だぞ!」

彼女はポールに向かって怒鳴っていたが、その瞳の端には小さな涙がたまっていた。

「あーあ、総帥が泣きそうじゃない。みんな、少しは手加減しなさい。ラプラス、そこはそうじゃなくて、こっちの穴に差し込むのよ。貸してごらん」

ルイが優しく手を差し伸べ、手際よくポールを組み上げていく。

「ルイ。吾輩、泣いてないもん。目に、ゴミが入っただけだもん……」

ラプラスはルイの背中に小さな額を押し付け、小さな声で呟いた。

一方、火起こしを担当することになったのは、いろはとこより、そしてクロヱだった。

「火起こしなら、自分にお任せくだされ! 薪をこうして組み合わせ、摩擦で……」

いろはが二本の木片を手にし、それを擦り合わせようとする。一寸の狂いもなく正確に木材を並べていく。彼女の組んだ薪は、驚くほど完璧な空気の流れを作り出していた。手つきには、どこか冷徹な効率性があった。

「ちょっと待ってください、いろは殿! そんな原始的な方法じゃ時間がかかります! こよりが開発した試作型液体を使えば、一瞬で爆発的な火力が得られますよ! これで火を起こせば、熱効率が通常の何倍にも跳ね上がります!」

こよりが白衣の奥から取り出したのは、不自然なほど鮮やかな緑色の液体が入った小さなフラスコだった。彼女の顔は、異常に紅潮している。

「こよりちゃん、それ危ないってぇ……」

クロヱが河原の砂利の上に寝転がりながら、だらしなく脚を動かしていた。しかし、彼女の耳は、川のせせらぎの中に混ざる魚たちの小さな身振りを完全に捉えていた。

ようやくバーベキューの火が安定し、網の上で肉や野菜がジューシーな音を立てて焼け始めた。脂の爆ぜる匂いが、周囲の原始的な森の匂いを一時的に覆い隠す。

「うおーーー! 美味そうである! ルイ、一番大きい肉は吾輩のものであるな! 当然だな! 吾輩は総帥だからな!」

ラプラスが皿を両手で握り締め、目を輝かせて網の上の肉を凝視していた。

「はいはい、ラプラス。ちゃんと火が通ってからね。ほら、焦らないの。……よし、今月もノルマ達成、っと。あ、いや、なんでもないわ。みんな、お疲れ様! holoXの益々の発展を願って、乾杯!」

ルイは手際よく肉をひっくり返し、ラプラスの皿に最初の一枚を乗せてあげる。彼女自身が手にした缶ビールを飲み干したとき、深い吐息が漏れた。

「乾杯でござるーーー!」

いろはが冷たいお茶の入ったコップを掲げる。彼女はいつもののどかな調子で肉を頬張っていた。一口ごとに、顎が静かに動き、視線が対岸の鬱蒼とした影をなぞる。

「んむ! 美味い! ルイ、この肉は最高であるな! 貴様を吾輩の専属料理人に任命してやってもよいぞ! んぐ、むにゃ……うむ! 苦しゅうない!」

ラプラスは口の周りにタレをたくさんつけながら、夢中で肉を食べていた。ルイは無言でティッシュを取り出し、その小さな顔を拭いてやる。ラプラスは「うぅ……」と不満そうな声を上げながらも、決してルイの手を拒もうとはしなかった。

「ねぇねぇ、皆さん! このお肉に、こより特製のソースをかけてみてください! 脳内のドーパミンが通常の数倍分泌されて、飛ぶような美味さが体験できますよ! ちょっと脳細胞が刺激されますけど、誤差です!」

こよりが再び、不気味な粘り気を持ったソースの瓶を差し出してきた。興奮のあまり語尾の「こよ」が消え、彼女の目は、仲間たちがそのソースを口にしたとき、瞳孔がどれほど散大するかを凝視しているようだった。

「こよりちゃん、それ、絶対に普通のタレじゃないよねぇ……。沙花叉、こっちの生の川魚の方が魅力的だと思うなぁ……」

クロヱの手には、いつの間にか、まだ生命の火を灯したままピチピチと跳ねるアマゴが握られていた。ルイが目を離したわずか数秒の間に、彼女は一切の音を立てずに川へ侵入し、その爪で魚の腹を正確に切り裂いていたのだ。

「ちょっと、沙花叉!? いつの間にそんなもの捕まえてきたのよ! ちゃんと網で焼きなさい! 生で食べたらお腹壊すでしょ!」

ルイの悲鳴のような声が響く。現実的な引き戻しをされたクロヱは、「えー、つまんないの」と呟きながら、しぶしぶと魚を網の上に乗せた。しかし、その魚を見る彼女の目は、未だに鋭い光を孕んでいた。

やがて、空の境界が曖昧になり、深い夕闇が渓流の白波を黒く塗りつぶしていった。

直前までの賑やかな喧騒が、冷え込む川風にかき消されていく。岩肌に跳ねる水音が、先ほどよりも一段と大きく、重く響き始めた。炭火の爆ぜる音が、衣服を抜ける風の音に混ざる。

誰も口を開かなかった。昼間の熱気が嘘のように、周囲の原始的な森は急速にその夜の顔を現しつつある。

「ふぅ……。片付けも終わったわね。みんな、怪我はなかった? あー、もう、心臓に悪いわね……。残業代は出ないから、手際よく終わらせましょうね」

ルイが全員を見渡しながら、最後の確認をする。その立ち姿には、深い疲弊が濃厚に漂っていた。

「ルイ殿、お疲れ様でござる。周囲の警戒は、自分が夜通しで行うので、安心して眠ってくだされ。風真の名にかけて、この平和な寝顔を絶対に守るでござるよ」

いろはが静かに刀の柄に手を置きながら言った。その瞳は、暗闇に包まれた山林の奥を見据えていた。足音を完全に消した歩法が、暗闇の中でさらに自然なものとなっていた。

「こよりはね、この夜の闇の中でしか採取できない、発光細菌のサンプルを採りに行ってきます! 暗闇で光る未知の物質……あは、新しい兵器の材料になるかも!」

こよりがランタンを片手に、再び目を輝かせながら林の奥へと歩み出そうとする。興奮で息が荒くなり、早口の科学的専門用語がポロポロと漏れ出ていた。

「こより、遠くに行っちゃだめよ。……沙花叉、あなたもこよりをちゃんと見ててね」

ルイの指示に、クロヱはフードの奥からクスクスと笑った。

「はーい、沙花叉、こよりちゃんの後ろをついていくよぉ……。でもね、夜の森って、ちょっと新鮮かもぉ……」

彼女の指先が、暗闇の中で何か柔らかいものを引き裂くような動作を繰り返していた。

「貴様ら……吾輩を一人にするなーーーッ!」

テントの前で、ラプラスの悲鳴が響き渡った。

「みんな、どっか行っちゃうの嫌だ! 暗いし、怖いし、吾輩、ここにいるの寂しいじゃんか! ルイ、どこにも行かないで吾輩と一緒にしろ! 吾輩を置いてけぼりにするなーーーッ!」

ラプラスはルイの服の裾をぎゅっと握り締め、地団駄を踏んだ。

「はいはい、分かったわよ、ラプラス。私はどこにも行かないから。ほら、一緒にテントに入りましょうね。よしよし、ラプラス。大丈夫よ」

ルイは微笑み、ラプラスの小さな身体を抱きしめるようにして、テントの中へと導いた。

こより、いろは、クロヱの三人も、ラプラスの声を聞いて、それぞれの気配を引っ込め、テントへと歩み寄る。

「もー、総帥は寂しがり屋なんだからー! じゃあ、こよりの実験は明日の朝にします!」

こよりは弾けたトーンでランタンを消し、テントへと駆け寄る。その手にはスマホが握られ、画面の明かりの中で、何かの計算式が目まぐるしく更新されていた。

「自分も、テントの入り口で守りを固めるでござるよ!」

いろはも刀から手を離し、優しく微笑んだ。だが、寝息を立てるラプラスの毛布を無言で直してやりながらも、彼女の耳だけは、外の虫の声の不自然な途切れを冷たく探り続けている。

「沙花叉も、総帥と一緒に寝るー。あーあ、総帥泣いちゃったぁ。じゃあ、沙花叉がよしよししてあげるねぇ。ぽえー」

クロヱもだらしのない足取りで、テントの中へと滑り込んでいく。彼女の脳裏には、先ほど引き裂いた魚の感触がまだ鮮明に残っているようだった。

夜の渓流のせせらぎが、テントの向こうで規則正しく響いていた。大自然の静寂の中に、五人の寝息と、時折漏れる小さなお喋りの声が混ざり合う。

 

「……誰も、いなくならないでね」

 

ルイは小さく呟き、ランタンの芯を下げて夜の闇を迎え入れた。

車体を激しく揺さぶる林道の砂利は、ただの乾いた石ころに過ぎなかった。

ミニバンの後部座席で頭上の角をぶつける紫色の少女も、それを注意しながら、自分の指先が覚えている数千枚の領収書の冷たさを思い出している鷹嶺ルイも、ただそこに座っている。

「吾輩の国にするのだ」とラプラスは言う。その声は小さく、林道を走るタイヤのノイズに半分ほどかき消されていた。

白衣の袖をまくり上げて、川の水をプラスチックの容器に汲み取る博衣こよりの指先は、ひどく正確で、ひどく速い。彼女は「誤差ですよ」と笑う。その笑顔の裏で、彼女は水の分子が引き起こす化学変化の数式を、網膜の裏側に直接書き連ねていた。

風真いろはが荷物を運ぶ。彼女の足跡は、湿った砂利の上にはほとんど残らなかった。彼女はただ、背中にある鉄の塊の重さを確かめるように、時折肩をすくめるだけだ。

沙花叉クロヱは、浅瀬の水を足首まで浸しながら、ただじっと下を見つめていた。彼女の視線が固定された場所には、小さな魚の影があった。彼女の手が動く。それは、呼吸をするよりも自然な動作だった。

夜が来る。

火の粉が爆ぜ、肉が焼ける。

ラプラスはルイの差し出した皿から、一番大きな肉を口に押し込む。口の端から垂れたタレを、ルイが白い布で拭う。そのとき、ラプラスの身体がほんの少しだけ、ルイの側に傾く。

「おいしいな」

誰かが言った。

それは、秘密結社の言葉ではなかった。

ただの、真夏の夜の、冷たい川風の中でのことだった。

ランタンの光が、五人の影を、大きな岩の表面に長く、歪に映し出していた。

それだけだった。

 

車体を激しく揺さぶる林道の砂利は、ただの乾いた石ころ。ミニバンの後部座席で頭上の角をぶつける紫色の少女。それを注意しながら、自分の指先が覚えている数千枚の領収書の冷たさを思い出している鷹嶺ルイ。ただそこに座っている。「吾輩の国にするのだ」とラプラスは言う。その声は小さく、タイヤのノイズに半分ほどかき消されていた。白衣の袖をまくり上げ、川の水を汲み取る博衣こよりの指先はひどく正確で速い。「誤差ですよ」と笑う裏で、彼女は水の分子が引き起こす化学変化の数式を、網膜の裏側に直接書き連ねていた。風真いろはが荷物を運ぶ。彼女の足跡は、湿った砂利の上にはほとんど残らなかった。背中にある鉄の塊の重さを確かめるように、時折肩をすくめる。沙花叉クロヱは、浅瀬の水に足首まで浸しながら、ただじっと下を見つめていた。彼女の視線が固定された場所には、小さな魚の影。彼女の手が動く。それは、呼吸をするよりも自然な動作だった。夜が来る。火の粉が爆ぜ、肉が焼ける。ラプラスはルイの差し出した皿から、一番大きな肉を口に押し込む。口の端から垂れたタレを、ルイが白い布で拭う。そのとき、ラプラスの身体がほんの少しだけ、ルイの側に傾く。「おいしいな」誰かが言った。それは秘密結社の言葉ではない。ただの、真夏の夜の、冷たい川風の中でのこと。ランタンの光が、五人の影を、大きな岩の表面に長く、歪に映し出していた。それだけだった。

 

車体を揺さぶる砂利。ミニバンで角をぶつける紫色の少女。指先が覚えている領収書の冷たさを思い出している鷹嶺ルイ。そこに座っている。「吾輩の国にするのだ」とラプラスは言う。声はタイヤのノイズにかき消されていた。川の水を汲み取る博衣こよりの指先は正確で速い。「誤差ですよ」と笑う裏で、数式を網膜の裏側に書き連ねていた。風真いろはが荷物を運ぶ。足跡は砂利の上には残らなかった。鉄の塊の重さを確かめるように肩をすくめる。沙花叉クロヱは、浅瀬の水に足首まで浸し、下を見つめていた。小さな魚の影。彼女の手が動く。呼吸よりも自然な動作だった。夜。火の粉が爆ぜ、肉が焼ける。ラプラスはルイの皿から肉を口に押し込む。タレをルイが拭う。ラプラスの身体が少しだけルイの側に傾く。「おいしいな」誰かが言った。秘密結社の言葉ではない。真夏の夜の、冷たい川風の中でのこと。ランタンの光が、五人の影を岩の表面に歪に映し出していた。それだけ。

 

砂利。角をぶつける少女。領収書の冷たさを思い出すルイ。そこに座っている。「吾輩の国に」とラプラス。声は消えていた。水を汲むこよりの指先。「誤差ですよ」と笑う裏の数式。荷を運ぶいろは。足跡は残らない。鉄の重さを確かめる。水に浸るクロヱ。魚の影。手が動く。自然な動作。夜。火の粉。肉。ラプラスは肉を口に。タレを拭うルイ。身体が傾く。「おいしいな」誰かの声。秘密結社の言葉ではない。冷たい川風の中。影が岩に映る。それだけ。

 

車。少女。ルイ。座っている。ラプラスの声。水を汲むこより。笑う。いろは。足跡はない。鉄の重さ。水の中のクロヱ。魚。手が動く。夜。火。肉。食べる。拭う。傾く。「おいしい」川風。影。それだけ。

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