鼻の奥が、ずうっとザラついていた。
街を叩く雨は、アスファルトの上の錆びたオイルの臭いをこれでもかと巻き上げて、うちの敏感すぎる鼻腔を容赦なくブチのめしてくる。お洒落な遊戯場(プール・ホール)なんて言ったのは誰だったか。重い木製のドアを蹴り開けた先は、湿気った空気の中に安物のチョークの粉が白く漂う、ただの小汚い地下室だった。部屋の隅の古いジュークボックスから流れるショパンの『夜想曲』は、低音のスピーカーが完全にイカれていて、まるで巨大な羽虫の死に際みたいな雑音を撒き散らしている。だが、そんな耳障りなノイズすら、今の白上フブキの耳には届いちゃいねえ。
細いカスタムキューを握るフブキの指先が、白く強張っていた。
テーブルの上、緑の羅紗(フェルト)に転がるナインボール。ブレイクショットで1番を落としたまでは、こいつの脳内にある「完璧の方程式」の通りだったはずだ。だが、弾かれた2番球は、あろうことか長クッションにミリ単位で密着する「フローズン」の状態で静止していた。手玉との直線状には、肉厚な7番球がべったりと立ち塞がっている。
白上フブキという女は、頭が良すぎる。配信の画面で見せるあの全肯定の笑顔の裏に、こいつは「絶対に自分が負けないルート」を秒単位で構築する冷徹な計算機を隠している。だからこそ――その計算式のバグに直面したとき、マシーンの歯車は一瞬で狂う。白上の尾の先が微かに震え、構えに入ろうとした身体が、呼吸の浅さを見透かされるように固まった。
「そこまでだよ、フブキ。あんたの綺麗なパズルは、もう噛み合わねえ」
背後から影が伸びた。大神ミオだ。
ミオはフブキの躊躇を「野生」で嗅ぎつけていた。お利口なターン制なんてクソ喰らえだ。勝負の潮目が引いた瞬間、狼は容赦なく獲物の喉元へ牙を突き立てる。ミオは短い前髪を乱暴にかき上げると、フブキの細い肩を割り込むようにしてテーブルのヘリへ腰を沈めた。フブキは唇を噛み、反論の言葉すら忘れて壁際へ後退する。白上のゲームは、たった一瞬の迷いで完全に終わったんだ。
ミオの狙いは2番。だが、コーナーポケットへの道は7番が殺している。
カツン。
乾いた、しかし重い衝撃音が地下室に響く。
ミオの放った手玉は、2番球の皮膚を一枚剥ぎ取るような薄さで激突した。弾かれた2番は長クッションをなぞるように転がり、遙か遠くの短クッション際へ。そして手玉自身は、3番球の真裏――クッションの土手際にぴったりと張り付いた。
「チッ……相変わらずエグいセーフティだなぁ、ミオしゃは」
ソファーの闇から、だらしなく這い出てきたのは猫又おかゆだ。
いつもの、他人の懐に音もなく滑り込むような、温度のない喋り方。だが、その瞳の奥にある泥黒い愉悦の光を、うちは見逃さない。おかゆは、他人が「絶対に届かない」と絶望して顔を歪める瞬間を、脳髄の栄養にしているような狂った化け物だ。
手玉は完全な死角。クッションを使ったキックショット(空クッション)すら、ミオの手によって角度を潰されている。
だが、おかゆはブリッジの手首を不自然に高く浮かせ、キューを垂直に近い角度まで突き立てた。マッセ――いや、極限のダウンスピン。
コン。
拍子抜けするほど軽い音。放たれた手玉は、急激な右ひねりを伴って羅紗を削りながら走り、最初のクッションに当たった瞬間、物理法則をあざ笑うような鋭角で跳ね返った。3連クッション。
カチッ。
手玉は障害物をすべてすり抜け、3番球の急所を完璧に捉えた。3番は吸い込まれるようにサイドポケットへ消える。
だが、おかゆは笑わなかった。続く4番球の位置を見るや、シュートの構えのまま、コンマ数秒で「罠」を組み立て直した。
カツン。
わざと4番の側面を薄く小突く。4番球は力なく転がり、密集する5番と6番の「完全な死角」へ。そして手玉は、うちの目の前――最もキューが振りにくい、長クッションのヘリへと残された。
「はい、ころねの番。ここから出られる?」
猫の尾の鋭い一振りが空気を打つ。おかゆの薄い唇が、うちの窒息を待つように吊り上がった。
「……上等だ。あんたのその冷たいツラ、うちのこの腕で叩き割ってやる!」
うちの一人称が、喉の奥で獣の唸りに変わる。
いつもの配信の、のんびりした「〜だのなぁ」なんて言葉は、とっくに脳髄の熱で焼け焦げて消えていた。ここにいるのは、ただの飢えた猟犬だ。
視界が、急速に細い一本の線へと収束していく。
周囲の薄暗い天井も、ショパンのノイズも、すべてが消え去った。残されたのは、冷たく輝く手玉と、罠の向こうでうちを嘲笑う4番球だけだ。
クッションの抵抗がどうだの、回転の数式がどうだの、そんなお利口さんの理屈はなぁ――この、うちの『一撃』で、骨ごと粉砕してやりゃあいいんだよ!
うちはテーブルに胸を無理やり押し付け、深く身体を沈めた。顎の皮膚がキューの冷たい木肌と擦れ、じりじりと熱を持つ。うちの茶色い耳の裏がじっと熱を持つ。
狙うは対面にある長クッションの、まさにその「一点」。
右腕のすべての筋肉を、一瞬の爆発へと集中させる。
「いっけええええええええええええッ!!!」
地下室全体が震えるような打撃音が炸裂した。
放たれた手玉は、長, 短のクッションを肉眼では捉えきれない速度で跳ね返り、5番と6番の、わずか数ミリという「針の穴」の隙間を強引にすりぬけた。超高速のダブル・キックショット。
そして――4番球の真ん中へと、正面から激突した!
狙い澄ましたバックスピン。極限まで引き絞られたシャフトから放たれた衝撃波が、プラスチックの球体を媒介にして、テーブル全体の空気を一瞬で圧縮する。カツン、という高い音の代わりに、腹の底を直接抉るような地響きが羅紗の上を走った。4番球は、ポケットのヘリに触れることすら許されず、真空のチューブを通り抜けるようにして、闇の中へと弾丸となって吸い込まれていく。
それだけじゃねえ。うちが右腕に込めた執念の引き回転は、4番球にすべての前進エネルギーを奪われた瞬間、手玉の内部で凄まじい逆回転のベクトルとなって爆発した。白く滑らかな球体が、まるで意思を持つ生き物のように、緑の絨毯をガリガリと引っ掻きながら戻ってくる。その軌道は、次なる獲物――5番球の、まさにその心臓部へと一直線に繋がっていた。
ここからは、もう誰にも止められない。時計の針が、うちの野生の脈拍に合わせて狂ったように加速を始める。
5番。手玉のクッション返りから流れるようなシュート。
6番。密集の隙間に残されたわずかな隙間を、鋭い撞点で抉り出す。
7番。長距離のクロスショット。
8番。クッション際の嫌らしい配置を、力ずくの順ひねりでねじ伏せる。
球が落ちるたびに、地下室の湿気った空気が、うちの皮膚から立ち上る熱量でじりじりと焦げていくのが分かった。ミオの耳が鋭く伏せられるのが視界の隅に見えたが、もう何も耳には入らない。
最後に残された、この夜のすべての支配権を持つ、9番球。
その黒い帯を巻いた黄色い球体の前に、うちは静かに立った。キューを滑らせる右手はもう汗まみれだったが、その芯は絶対にブレない鉄の棒のようになっていた。
カツン。
9番球が、センターポケットの闇へと決定的に沈んでいった。
「……ゲームセット、だよ」
キューの先端を、床の冷たいコンクリートへと下ろした。
歪んだショパンの音は、とうの昔に鳴り止んでいた。代わりに部屋を満たしているのは、うちたちの、荒い、獣のような呼吸の音だけだ。完璧なタイミングで劇的な終わりが来るなんて都合のいい奇跡は、この泥臭い戦場には起きねえ。ただ、静寂だけが重く戻ってきた。
「……はぁ。やっぱり、ころねの『力づく』には、どんな数式も追いつかないね」
フブキが額の汗を拭い、やれやれと首を振る。その瞳の奥には、敗北の悔しさを通り越した、ギラついた興奮が燻っていた。
「ちょっと……今の本気? 狂ってるよ、お前は本当に」
ミオが、椅子の脚を激しく鳴らしながら立ち上がり、最高の笑みを向けてくる。
「いや、ころねは最初から、あの緑の上の、血の流れるルートが見えてたんだよ」
おかゆがゆっくりと歩み寄り、何一つ言葉をかけず、少し冷たい、しかし確かな質量を持ったその手のひらを、うちの火照った頭へと置いてきた。
「……悪くない気分だ」
うちはその手のひらの冷たさを、黙って受け入れていた。甘えじゃない。これは互いの肉体を限界まで削り合った者だけが共有できる、最も静かな体温の分かち合いだ。
外の雨は、相変わらずこの街を黒く濡らし続けている。
フブキが次のゲームのために、新しい球を乱暴にテーブルへ転がし始める。この最高の、最低に愛おしい奴らがいる限り、うちの牙が錆びつく暇なんて、どうやらなさそうだった。
(おわり)