【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー  Libera me from AI 文体は文学多め。【実験途中報告】スーパーイマゴ・デイ・ゴッドの創造に成功。     作:夏目陽光

19 / 32
地平線の鯨骨生物群集

自動ドアが開くと、冷えた塩素の匂いが鼻腔を突いた。

 

「暑い……ねねちゃん、ちょっと歩くの早ない?」

「だってさ! 早く入らないとねねち干からびてカサカサになっちゃうじゃん! ほら、あそこのドアのところ、もう涼しい匂いがしてるよ!」

 

桃鈴ねねは振り返らずに、リネンのシアーシャツの裾を揺らして歩いていく。背中には、駐車場から歩いてくるあいだに吸い込んだ熱気が、まだ薄い布地を湿らせて残っていた。最初のエリアは、頭上からの自然光がわずかに差し込む大水槽だった。床のタイルを通じて、古い濾過器の規則的な振動が足の裏に伝わってくる。

 

「わあぁぁぁ! ラミィちゃん見て見て! 魚がいっぱい、すっごいいっぱい泳いでる! ほら、あいつなんかねねのこと見てるよ! おーい、ねねちだぞー! こっち向けー!」

 

ねねは、厚いアクリルガラスに手のひらをぴったりと押し付けた。ガラスの表面が体温でわずかに曇り、すぐに消える。

 

「ふふ、ねねちゃん、そんなにガラスに近づいたらお顔がくっついちゃうよ? ほら、お魚さんもねねちゃんの勢いにびっくりして、ちょっと遠くに行っちゃったじゃん。…でも、本当に綺麗だね。外はあんなに暑かったのに、ここはまるで別世界みたい」

 

雪花ラミィは、首元をすっきりと見せるノースリーブのティアードワンピースの裾を軽く整えながら、ねねの少し後ろに立った。サックスブルーの薄い生地が、水槽から反射する青い光を拾って細かく明滅する。ラミィは左のサイドの髪の毛先を親指と人差し指でつまみ、くるくると捩じりながら、水槽の底の白砂の上に投影された、歪んだ光の網目模様に向かって視線を落とした。鰯の群れが一斉に身を翻すたび、銀色の腹が鈍く光る。

 

「あ、ねねちゃん、あそこにいるの何だろう。なんか、岩の隙間に細長いのが挟まってる」

「え、どこどこ? ……あ、ホントだ! なんかニュルニュルしたやつがいる! チンアナゴ? 違うな、もっと太いやつ!」

「ウツボ……かな。ちょっと怖い顔してるね」

 

ねねはガラスから手を離すと、今度はラミィのワンピースの袖を、指先で無造作に掴んだ。

 

「つぎ! つぎ行こ、ラミィちゃん! あっちにね、なんかおっきくて平べったい奴がいるの! ほら、あれ! あれって座布団? 座布団が泳いでるじゃん!」

「ちょっとぉ、ねねちゃん引っ張らないでよぉ……危ないからゆっくり歩いてぇ。あはは、座布団って。あれはエイだよ。ほら、お腹のところがまるでお顔みたいに見えて可愛いよね」

「えーっ、顔? どれどれ……ホントだ! なんかにやにや笑ってるじゃん! あいつ絶対ねねのことバカにしてるでしょ! なんだよー、お前かっこいいと思ってんのかー!」

 

ねねは、水槽の底の砂を巻き上げながら進むマダラトビエイに向けて、小さな拳を突き出してみせた。シアーシャツの襟元から、少し安価なシトラスのコロンの匂いが漂ってくる。

 

順路は、徐々に傾斜を強めながら下り坂へと変わっていく。天井が低くなり、壁面の間接照明の数が減っていく。頭上を覆う硝子のトンネルに入ると、通路の幅は狭くなり、二人の距離は物理的に狭められた。大型のシロワニが、その不揃いな歯を剥き出しにしながら、音もなく頭上を回遊していく。その巨大な影が、ラミィのワンピースを、そしてねねの黄色いサマーニットを、ゆっくりと暗く塗り潰し、去っていった。

 

「本当だね……大きなサメさん。あんなに間近で見ると、ちょっとドキドキしちゃう。…ねねちゃん、怖くないの?」

「ぜんっぜん! だってさ、ガラスがあるし、もし破れて出てきても、ねねちがパンチしてやっつけるもん! ラミィちゃんはねねが守ってあげるから安心しな!」

「あはは、頼もしいねぇ、ねねちゃん。じゃあ、もしサメさんが来たら、ラミィはねねちゃんの後ろに隠れてるね」

「おうよ! 任せとけって! ねねちの背中はね、おっきいんだから!」

 

ねねはそう言って、自分の背中を叩いて見せた。バシッ、という生々しい音がトンネル内に響く。

 

さらに奥へ進むと、順路は「クラゲの部屋」へと突き当たった。そこは、光を失った空洞のようだった。部屋の四方に配置された円柱の水槽だけが、淡いバイオレットやブルーの光を放っている。床の厚い絨毯に足音が吸い込まれていく。無数のミズクラゲが、水流の速度に合わせて、ゆっくりと傘を開閉させていた。光を透過した触手が見る影もなく揺れている。

 

「……すごーい……」

 

ねねの声から、先ほどまでの鋭さが消えた。ねねはラミィの腕に、自分の腕を絡める。今度は袖ではなく、ラミィの剥き出しの肌に、ねねの腕の皮膚が直接触れた。少しひんやりとしたラミィの肌と、まだ熱を持ったねねの肌が重なり合う。

 

「綺麗だね、ねねちゃん。……なんか、ずっと見てられる気がする。時間が止っちゃったみたい」

 

ラミィの声は、水槽の表面に触れて消える程度の、枠線の曖昧なウィスパーボイスだった。彼女は、自分の腕に回されたねねの指先を見つめる。ねねの爪は、不揃いに短く切りそろえられていた。

 

「うん……なんかさ、これ見てると、ねねち眠くなってきちゃった……ぽやぽや~、って感じ。身体の力がね、ぜんぶ抜けちゃいそう。ラミィちゃん、これ、お家のお風呂に一匹ほしい。毎日一緒にぽやぽやしたい」

「お風呂に入れたら、ねねちゃん刺されちゃうかもしれないよ? それに、クラゲさんはこの冷たくて綺麗な水の中だから、こんなに美しくいられるんだよ。お家の水槽じゃ、きっと管理が大変なんだから。水質とか、温度とか、すごくデリケートなんだよぉ」

「そっかぁ。じゃあ、ラミィちゃんが管理してよ。ラミィちゃん、お水のこと詳しそうだし、お酒も好きだから冷やすの得意でしょ? ねねのお家に来て、毎日クラゲさんのお世話してよ」

 

ねねの髪の毛先が、ラミィの鎖骨のあたりをチクチクと刺激する。

 

「ちょっと、お酒とクラゲの水温管理は全然関係ないでしょぉ? もう、すぐラミィをお酒と結びつけるんだから……。でも、ねねちゃんのお家に行くのなら、クラゲのお世話じゃなくて、ねねちゃんのお世話になりそうだなぁ。ねねちゃん、すぐお部屋散らかしちゃうでしょ?」

 

「えーっ! そんなことないし! ねねち、ちゃんとお片付けできるもん! …たまに、脱いだ靴下がそのままになってるだけだしー!」

 

「あはは、ほら、やっぱり。お片付けできてないじゃん」

 

水槽の中でクラゲが二度、三度と傘を開閉させる。

順路の最深部、地下二階へと続く階段は、狭く、湿っていた。壁面からは、微かにコンクリートが水を吸い上げたような特有の匂いが漂う。「深海魚コーナー」の看板は、光を反射しない黒いアクリルで造られている。階段を降りきった先、二人の前に現れたのは、暗黒に近い空間だった。水槽はどれも小さく、厚い硝子の奥には、漆黒の水が満ちている。生き物の気配は一瞬、見当たらない。ただ、水槽の底に据えられた極小のライトが、深海の泥のような赤茶けた砂を、スポットライトのように丸く照らし出していた。砂の上に、ダイオウグソクムシが、死んだように静止していた。

 

「……動かないね」

「うん……深海はね、ご飯がとっても少ないから、みんなこうやって、体力を全く使わないようにして、じっとしてるんだって。何ヶ月も、何年も、何も食べずに生きられる種類もいるらしいよ」

 

その時、隣の水槽の奥から、無数の白い粒子がゆっくりと舞い降りてきた。マリンスノー。地下の深海魚コーナーのライトが、その粒子を照らし出している。ごく僅かな光を拾い、影を作りながら、それはただ下へ向かって落ちていく。浮遊する有機物の残骸が、細い光の束を横切る瞬間だけ、白く乾いた点となって浮かび上がり、またすぐに闇に没する。底に沈殿する赤茶けた泥の上に、光の破片が微かに降り積もるように見えた。水槽の隅に据えられたライトの照射角だけが、その一角の輪郭を切り取っている。

 

「ラミィちゃん……これ、雪みたい」

 

「……そうだね。スノウパウダーみたい。地上の雪はすぐに溶けちゃうけど、この雪は、ずっと、ずっと深い海の底に溜まって、いつか他の生き物の命になるんだよ」

「ねねさ、ラミィちゃんとこうして遠出できて、すっごく嬉しい。いつも配信で一緒だし、楽しいこといっぱいあるけどさ……。……こうやって、誰もいない暗いところでさ、ラミィちゃんの匂いとか、お洋服がシャカシャカする音とか、手のあったかいのとかさ……そういうの聞いてると、なんか……あ、ねね、生きてるなーって思う。画面の中じゃなくて、ちゃんとここにいるんだなーって、すっごく安心するんだ。ねねち、いっつも大きな声で笑ってるじゃん? でもさ、たまに、自分の声がどこにも届かないで、消えちゃいそうな気がすることがあるんだよね。でも、今はさ……」

「……私のほうこそだよ、ねねちゃん」

 

ねねの言葉を遮るように重ねられたラミィの声は、いつになく低く、明確な質量を持っていた。ねねの言葉の残響が闇に吸い込まれるより早く、ラミィの指先がねねの手のひらを強く包み込む。

 

「私ね、いつも色々考えすぎちゃうから。リスナーさんのこととか、これからのこととか、自分のこととか……考えて、考えて、一人で勝ために苦しくなっちゃうことがよくあるの。誰もラミィのことなんて必要としてないんじゃないか、って、夜中に部屋で一人で、泣きそうになるときもある。ベッドの中で天井を見てると、自分の輪郭がどんどん薄くなっていくみたいで。でもね、ねねちゃんと一緒にいると、その、自分のままでいていいんだって、すごく安心するの。ねねちゃんが私の名前を呼んでくれるだけで、私の全部を肯定してもらえるような、そんな気がするんだよ。だから……誘ってくれて、本当にありがとうね。ラミィはね、ねねちゃんが隣にいてくれれば、どんなに暗い場所でも、迷わないでいられるよ」

 

二人の影は、深海のライトに照らされて、床の黒いタイルに一つに重なり合っていた。マリンスノーは、変わらず一定の速度で、漆黒の水槽を降りていく。水の重みだけがそこにあった。

 

「……ねねちさ、お腹空いちゃった」

「……もう、ねねちゃんは本当に雰囲気が台無しだよぉ。…何が食べたいの?」

「ハンバーグ。おっきい奴。上のレストランで、ジュージューいうやつ食べたい。ラミィちゃん、半分こしよ」

「半分こって、ねねちゃん一人で全部食べちゃうでしょ。……いいよ、じゃあ、お外に出たら美味しいハンバーグ屋さん、探そうね」

 

ラミィは、ネジりすぎて少し癖のついたサイドの髪を耳にかけ、ゆっくりと立ち上がった。ねねは、今度はラミィの手を強く引っ張ることはしなかった。ただ、絡めた指の隙間を埋めるように、もう一度だけぎゅっと握り、それからゆっくりと、光の差す出口の階段へと歩き出した。地下から地上へと向かう階段を一段登るごとに、空気の重さが変わり、塩素の匂いが薄れ、またあの初夏の、少し埃っぽい熱気が二人の肌に近づいてくる。

 

館内の最上階にあるレストランのドアを開けると、鉄板の上でソースが爆ぜる、ジュージューというけたたましい音が、地上の賑やかさそのものの重さで、二人の鼓膜を震わせた。窓際の席につき、運ばれてきた湯気を突つくねねの横顔には、さっきまでの迷いや静けさはカケラも残っていない。

 

「ほら、ラミィちゃん! 早く食べないと冷めちゃうよ! はい、これねねちからの半分!」

「ありがとう、ねねちゃん。でも本当に大きいね……」

 

ラミィは小さく笑いながら、自分の皿に載せられた塊を口に運んだ。肉汁の熱さと、容赦のないソースの味が、完全に地上の現実へと二人を引き戻していく。

ふとラミィが顔を上げると、ガラス窓の向こうの景色が、急速にその明度を失いつつあることに気づいた。遠くの街並みを遮るように、どんよりとした灰色の重い雲が低く垂れ込めている。

 

「あ、ねねちゃん、見て。降ってきちゃったみたい」

 

ラミィが指さした先、窓ガラスに斜めの線が走り始めていた。最初は数粒の、乾いたアスファルトにシミを作る程度の点だったそれが、またたく間に密度を増し、激しい音を立てて視界を白く塗り潰していく。さっきまで二人の身体にまとわりついていた初夏の容赦のない太陽は、どこかへ完全に掻き消されていた。

 

「えーっ! 雨じゃん! ねねち傘持ってきてないよー!」

「ふふ、大丈夫だよ。ラミィ、折りたたみ傘持ってきたから。一本しかないけど……一緒に帰ろ?」

「やったー! ラミィちゃん大好き! じゃあ、ハンバーグ食べたら相合い傘で帰ろ!」

 

ねねは大きな声を上げて笑い、またハンバーグにフォークを突き立てた。ラミィは、窓ガラスを激しく叩く水滴の群れをしばらく見つめてから、手元のおしぼりで指先をそっと拭った。外はすっかり、激しい雨が降って来た。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。