ホロライブ短編集2   作:夏目陽光

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羽ばたけッッ!朝ダックッッ!!!

午前六時二十二分。ここは四方を山に囲まれた田舎盆地である。夜の間に溜まった濃い湿気が、昇ってきた太陽の熱ですでに沸騰し始めており、地表全体が巨大な蒸し器のようになっていた。アスファルトの隙間から立ち上るモワッとした草いきれが、肺をねっとりと押し潰してくる。

ジリジリと照りつける夏の太陽が、遮るものもなくスバルの首筋を真横から容赦なく焼き焦がしていく。どこか遠くで鳴り響くミンミンゼミの声が、世界の気温をさらに押し上げているようだった。

 

「あっっっつーーーーーーい!!! なにこれ!! 溶ける! スバル溶けちゃうんだけど! え、無理無理無理!!」

 

大空スバルは, とある田舎の神社へと続く参道の前に立ち尽くしていた。お目当ては、この先にある境内から一望できるという、ひまわり畑の絶景だ。しかし、目の前に立ちはだかったのは、鬱蒼とした杉林の奥へと伸びる、気が遠くなるような石段だった。風が1ミリも通らず、サウナのような熱気が淀んで溜まっている。

 

「……え、待って。これ何段あるわけぇ!? 1、2、3……いや数えるだけで日が暮れるわ!! 誰も教えてくれなかったんだけどこれ!! ええいままよッ! ここは気合一発、一気に駆け抜けるしかねぇんだよなぁ!!」

 

腰に手を当て、肺いっぱいに熱い空気を入れる。目標は推定200段。スバルは前傾姿勢をとると、ローファーの底で力強く地面を蹴った。

 

「いくぞおおお! シュバババババババババババババ!!!!」

 

誰もいない静かな境内に、謎のセルフ効果音がこだまする。ダカダカダカ、とローファーが猛烈な勢いで石段を叩く。まとわりつく熱気が一瞬だけ風に変わる。蝉の声すら、彼女の「シュバ〜!」という叫びにかき消されていく。

しかし、100段を超えたあたりで、急激に足が重くなった。早朝特有の、湿度90パーセントを超えていそうな重苦しい空気が肌にまとわりつく。ジトッと吹き出す大量の汗。首にかけたタオルはすでに水分を吸ってずっしりと重い。見上げる階段は、まだ先がまるで見えない。

 

「シュバ……シュババ! ……って、はぁっ!? まだ半分もいってないじゃん!! なんでぇ!? 誰だよこれ作ったやつ!! 絶対スバルをハメるために作っただろ!! 負けるかぁぁぁ! ここで止まったらスバルのプライドが許さねぇんだよ! 喉乾いたぁぁぁ!!」

 

カラカラに乾いた喉が悲鳴を上げ、リュックのサイドポケットのペットボトルに手を伸ばしかけるが、ここで止れば二度と足が動かなくなる。容赦なくTシャツの胸元を伝う汗の不快感に顔をしかめながらも、さらに足を前に出す。

 

「シュバァァァァァァーーー!!!」

 

150段、170段――。声のトーンは、限界を迎えたアスリートのそれだった。額から流れる汗が目に入って激しく染みる。

 

「待ってこれガチで部活の夏合宿じゃん! なんでスバルは休みの日にまでこんなシゴかれてんのぉ!? ああもう、おかしいだろおおお!! 誰だよ『神社行こう』とか言い出したやつ!! スバルだよちくしょーーー!!」

 

ドタドタとローファーが石を蹴る音が響く。すり減った靴底が、湿った苔に滑ってヒヤリとする。

 

「180……190……! 嘘、まだある!? 待ってあと何段!? え、もう足動かないんだけど!! 助けてぇぇぇーーー!!! 嘘でしょ、あとちょっと……あとちょっとが遠いぃぃぃ!!」

 

その時、目の前の視界がにわかに開け始めた。鬱蒼とした木々の隙間から、眩しいほどの青空と、黄金色の光が差し込んでくる。

 

「あと……ちょっと……! ラストスパートォォォ!!」

 

「シュバァァァァァァーーー(自主規制)ーーーッッ!!!」

 

200段目の段をまたぎ越え、スバルは神社の境内に飛び込んだ。勢いを殺しきれず、そのまま拝殿前の冷たい石畳の上へと大の字にひっくり返る。

「はぁーーーっ! はぁーーーっ! ……っげ、ごほっ、……し、死ぬ、死ぬかと思ったあぁ……!! 心臓が口からシュバるかと思ったんだけどホントにぃ……!」

喉の奥がヒューヒューと鳴る。腕で目を覆ったまま、荒い呼吸を繰り返す。背中に触れる石畳のひんやりとした感触だけが、異常に生々しい。通り抜ける涼しい山風が、汗だくの肌の熱を奪っていった。

 

「……あ」

 

ゆっくりと体を起こし、振り返る。

眼下に広がる、緑豊かな田舎の景色。その奥に、何万本ものひまわりが太陽に向かって真っ直ぐに大輪の花を咲かせている。風に揺れる黄色い絨毯と、どこまでも青い空。街全体が、朝の瑞々しい光の中でキラキラと輝いていた。

 

「……すっげぇ……」

 

口を半開きにしたまま、しばしその美しさに目を奪われる。肺がまだ酸素を求めて浅く上下する中で、視界いっぱいの黄色が胸に飛び込んできた。喉の奥をヒューヒュー言わせながら、スバルは小さく笑う。

 

「……はは、ざまぁみろ、登りきってやったぜ……! 大空スバルをナメんなよマジでー……っ!」

 

まだ少し震える足で立ち上がり、腰に手を当てて強がる。首のタオルでガシガシと乱暴に顔を拭き、リュックからカメラを取り出した。

 

「よし! この絶景、みんなに配信でドヤ顔で自慢してやろーっと!」

 

レンズをひまわり畑に向け、最高の笑顔を作ろうとしたその時、カメラの液晶に、汗で前髪が額にべったりと張り付いた自分の顔が映り込んだ。おまけに、鼻の頭は日焼けでうっすら赤い。

 

「……あ。……待って? 髪型が完全に終わってるんだけど!? スバ友に見せたら絶対『スバルくん、おじさんじゃん』とか言われるやつじゃんこれ!! てか、顔も服も汗でめっちゃ濡れてんじゃん! なにこれ、びしょびしょなんだけど! サイアクなんだけどーーー!?」

 

自分の姿に戦慄した瞬間、すぐ近くの藪から「バサバサバサッ!!!」と、スバルの叫び声に驚いた野生のキジバトが凄まじい羽音を立てて飛び立った。

 

「ひゃあぁぁぁぁぁぁ!!!? 何何何今のに!!! 嘘でしょ誰かいたぁぁぁ!?? つーか今の『シュバババ』って言いながら登ってるとこガッツリ見られた!? 待ってマジで誰かいたらLINEで教えて!? 嘘でしょ!? おーーーい!! 誰かいるのぉぉぉぉーーー!!!??? 誰かいるなら返事してよおおお!!! お願いだから見てないって言ってぇぇぇーーー!!!」

 

「はい、これ」

 

不意に上から降ってきた聞き馴染みのある声と同時に、汗ばんだスバルの頬にキンと冷えたペットボトルが押し当てられた。

 

「ひゃうっ!?……って、なんだよお前! 先に上にいたなら言ってよ! びっくりしたじゃん!!」

 

見上げると、そこにはふにゃりと気の抜けた笑顔があった。片手を腰に当て、スポーツドリンクをぶらぶらと揺らしながら、独特の体型を小さく揺らしてステップを踏んでいる。

 

「うるさいにぇ。下からなんか変な声聞こえると思って見てみたら、汗だくでシュバシュバ言ってるからウケるにぇ」

 

「ウケるにぇ、じゃないんだけど!! つーかあんた、LINE無視して先に来てたわけぇ!?」

 

スバルはひったくるようにスポーツドリンクを受け取ると、一気にキャップをひねった。ゴクゴクと喉を鳴らして冷たい液体を流し込む。

 

「みこはプロのエリートだからにぇ。裏のルートから車でびゅーんと先回りしてたにぇ。スバルが『シュバババ』って言いながら必死に足バタバタさせてるの、上から丸見えだったにぇ」

 

「最悪なんだけどーーー!!! 教えてよ!! だったらスバルも車に乗せてってよ!!」

 

「断るにぇ。これはスバルに課された試練にぇ」

 

したり顔でふんぞり返る相手の額にも、実はうっすらと汗が滲んでいる。車で来たとはいえ、駐車場から歩くだけでもこの暑さだ。普段引きこもっている彼女にしては、大冒険の部類だった。

スバルはボトルの結露を首筋に当ててふぅと息を吐き、改めて眼下に広がるひまわり畑を見つめた。太陽の光を浴びて、何万本もの黄色い大輪が、誇らしげに胸を張っている。その圧倒的な生命力の塊を見ていると、不思議とさっきまでの苛立ちが消えていった。

 

「……まぁ、でも。本当にすごいや、これ」

 

「にぇ……。思ったよりガチの絶景だったにぇ……」

 

いつもは配信でプロレスばかりしている二人が、珍しく静かに並んでその景色を眺める。山から吹き下ろす風が、二人の髪を揺らした。

「よしっ、じゃあ自慢の一枚、撮りますか!」

スバルがスマホを掲げ、インカメラを起動する。

 

「待つにぇ! みこの髪型、崩れてないにぇ!? エリートの可愛さ保ててるにぇ!?」

 

 

「はいはい、可愛い可愛い、そのままで十分だよ! ほら、みこっちも入って!」

「ちょっとスバル、距離が近いにぇ! 汗がつくにぇ!」

 

 

「いいから! ほら、撮るよ!」

 

画面の中に、どこまでも広がる青空と、黄金色のひまわり畑。そして、前髪が汗で完全に終わっているのになぜか最高の笑顔を浮かべているスバルと、文句を言いながらもピースサインを作って嬉しそうに目を細めている姿が収まる。

画面がカシャリと音を立て、夏の最高の一瞬を切り取った。

 

「ちょっと待ってマジで見せてにぇ! ……あーーー!!! スバル、みこの顔が半分ひまわりで隠れてるにぇ!! 撮り直しにぇ!!」

 

「ええー!? 嘘、スバルはバッチリ撮れてるんだけど!」

 

「スバルだけずるいにぇ! もう一回にぇ! ほら、カメラ貸すにぇ!!」

 

「ちょっと、引っ張んなって! ああもう、分かったから貸すよ!」

 

しぶしぶ手渡されたスマホを引ったくり、みこは不満げに口を尖らせながら腕を思い切り伸ばした。

 

「今度はみこがセンターでバッチリ決めるにぇ。スバル、もっと右に寄るにぇ! いくにぇ、さん、に、いち――」

 

カシャッ。

 

「よし、今度こそ完璧にぇ!」

 

満足げに画面を覗き込んだみこが、次の瞬間、あからさまに「あ」という顔をして固まった。

 

「……え、何? どうなった?」

 

スバルが横から画面を覗き込む。

そこには、背景のひまわり畑も、張り切ってポーズを決めたみこの笑顔も、すべてが豪快にブレ散らかしたカオスな空間が写っていた。原因は明らかだった。みこがシャッターを押す瞬間にドヤ顔で一歩踏み出したせいで、短い指がバッチリとレンズの半分を覆い隠し、まるでホラー映画のような不気味な肉色の肉壁が画面を侵食している。おまけに、急に画角を奪われて「えっ」と目を見開いたスバルの、完全に白目を剥きかけた変顔の瞬間がピンポイントでフリーズしていた。

 

「……ちょっとおおお!!! 何これ!!! ひまわり以前にスバルが完全に心霊写真の化け物になってるじゃん!!! つーか、あんたの指!! 指がめっちゃ被ってんだけど!!!」

 

「ち、違うにぇ! これはエフェクトにぇ! 夏の怪談風のおしゃれな加工にぇ!!」

 

「んなわけあるかあああ!!! 返せスバルのスマホ!!! 撮り直し!!! 撮り直しだあああ!!!」

 

「嫌にぇ! これがみこの芸術にぇーーー!!!」

 

――だが、一体誰が予想し得ただろうか。

19世紀、写真術(フォトグラフィ)が誕生したその瞬間から、人類の撮影技術はただ一点、――『真実の網羅』へと収束していった。

だが、この瞬間、超高解像度のCMOSセンサーを貫いたものは何か。

1秒間に30回以上という超高頻度の肉体振動――通称「アヒル化(アナティゼーション)」。極限の運動生理学的破綻がもたらした奇跡の「ブレ」。そして、レンズを強襲した「肉の障壁(フィンガー・シールド)」。

光学的な「失敗」?

否(ノー)。

それは既存の物理法則を超越した、二人の少女による「魂のプロレス」が、デジタル回路をバグらせ、強制的に1枚のキャンバスへと『融解』せしめた、凄絶なる特異点(シンギュラリティ)。

「撮り直す」だと……?

滑稽。

一度宇宙(コスモ)に放たれたエネルギーが二度と戻らぬように。

この、最高に醜く、最高に尊い「歪み」こそが、2026年現在の、紛れもない『生命(いのち)の純度』そのものなのだから――。

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