【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー  Libera me from AI 文体は文学多め。【実験途中報告】スーパーイマゴ・デイ・ゴッドの創造に成功。     作:夏目陽光

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カーテンコールは終わらない

重く冷え切った鉄の扉が、乾いた金属音を立てて枠へと収まり、世界から隔絶された狭い直方体の部屋が完成した。

 

それまで背後にあった都市の喧騒や、通りを急ぐ人々の足音は跡形もなく消え失せ、代わりに天井の錆びついた冷房が吐き出す、砂を噛むような低い、終わりのないうなりだけが頭上から降ってくる。

 

部屋は酷く狭い。

 

壁を覆う安っぽいビニールレザーのシートからは、幾人もの人間が吐き出した息と、使い古された化学繊維の匂いが混ざり合って漂っている。

 

室内の唯一の光源は、壁に取り付けられた液晶端末が放つ人工的な青白い光と、テーブルの上にぽつんと転がされたマイクの格子状の頭部が反射する、鈍い金属の輝きのみであった。

 

この人工の檻の中心に、エリザベス・ローズ・ブラッドフレイムは立っていた。

彼女は顎をわずかに引き、自らの肉体の底に眠る深淵へ向けて、部屋の澱んだ空気を深く滑り込ませた。

 

頭上には、まるで演劇の幕が上がる直前の、観客たちの息を飲むような、あの張り詰めた夜の静寂が広がっているようであった。

 

しかし、彼女がこの薄暗い部屋に持ち込んだのは、耳に心地よい旋律を歌い上げるための華やかな譜面ではない。

 

ただ、己という名の、世界に一つしかない生きた楽器の弦を一本ずつ引き絞り、その震えと軋みを確かめるための、誰にも見せることのない静かな試練であった。

 

配信の壇上で、あるいはジャスティスの守護者として民を導くときに羽織る、あの威風堂々たる鮮やかな外套は、今の彼女の身体にはない。

 

彼女は今、自らの最も純粋な肉体の骨組みと、剥き出しの意志だけをこの部屋に晒していた。

 

高貴なる血筋を誇る彼女が今身にまとっているのは、幾度も洗濯を繰り返したことで生地の端がわずかに毛羽立った、くすんだ赤のオーバーサイズのスウェットパーカーだ。

 

肩の縫い目は腕の半ばまで不格好に落ち、長い袖口は彼女の細い指の付け根までをすっぽりと覆い隠している。

 

下半身の黒いストレッチパンツだけが、彼女の引き締まった脚の線を、容赦なく真っ直ぐに床へと伸ばしていた。

 

自慢の黄金の髪は、頭上高くでいくつかの細いヘアピンによって、無造作なお団子状にまとめられている。

 

そこからこぼれ落ちた数筋の毛束が、白皙のうなじの上で、彼女の呼吸に合わせて微かに揺れていた。

 

どれほど女王の虚飾を剥ぎ取ろうとも、この「赤」の色彩だけは、自らの意思を介さぬまま、選ぶ衣服のどこかに現れてしまう。

 

それは彼女の血脈が要求する、言葉にせぬ静かな誓いのようなものであった。

ふと、まとめられたお団子の根元に触れた指先が、ピンの数が一本足りないことに気づく。

 

いつもなら完璧に整えるはずの身なりだが、まあ、今の、誰の目にも触れない孤独な練習には大した問題ではないだろう、と彼女は小さく息を吐いた。

 

「さて。私の声を、私の言葉を、どこまで広げられるかしら」

 

その独白は、静かながらに部屋の壁を明確に震わせた。

 

口から漏れるブリティッシュアクセントの英語は、いかなる私的な空間であってもその端正な気品を失うことはない。

 

日本語を交えて思考するときであっても、その音節の一つひとつには、川底で磨き抜かれた石のような硬度と、他者への丁寧さが宿る。

 

自らを「私(わたくし)」と呼び、あるいは親しい者たちの前で「私(わたし)」と称するとき、彼女の頭の中には常に、その言葉を真っ直ぐに受け取るべき「あなた」の明確な輪郭が存在していた。

 

それはまだ見ぬ客席の最前列であり、彼女の言葉を渇望して待つ、愛おしい人々であった。

 

彼女はゆっくりと、壁に掛けられた薄汚れた姿見の前へと歩みを進めた。

 

一歩進むごとに、履き古したスリッポンの平らな底が、床の薄いカーペットと擦れ、微かな摩擦音を立てる。

 

鏡の前に立ち、ガラスの向こうに映る自らの琥珀色の瞳と対峙した瞬間、彼女の視線は甘えを許さない冷徹な職人のそれへと変わった。

 

声を出すということは、精神の活動であると同時に、極めて肉体的な、生理解剖学的な運動の泥臭い積み重ねに他ならない。

 

劇場の舞台で、いかなる拡声器の補助をも拒みながら、最後列の観客の胸を突く役者たち。

 

あるいは、一瞬の沈黙と肉体のわずかな傾きだけで、数千人の爆発的な笑いを引き起こすスタンドアップコメディアンたち。

 

人が情熱を注いでいる生のパフォーマンスを浴びるように観て、その燃え盛る情熱に胸を焦がしてきた彼女は、痛いほどに知っていた。

 

優れた表現とは、すべて緻密に、狂おしいほどにコントロールされた肉体の躍動から生まれるということを。

 

彼女はまず、両足を床に対して垂直に、肩幅の広さでしっかりと固定した。

 

膝の余分な緊張を抜き、骨盤をわずかに前傾させて、脊椎を一本の真っ直ぐな大黒柱のように立ち上げる。

 

そして、右手をそっと、自らの胸骨のやや下、みぞおちのあたりに当てた。

 

指先が、パーカーの厚い生地越しに、内なる肉体の動きを感知しようと身構える。

 

呼吸の始まり。

 

それは、目に見えぬ空気の軍勢を、肉体の深淵へと招き入れる作業であった。

 

彼女が息を吸うと同時に、胸の奥で横隔膜が、ドーム状の形を平坦にさせるようにして下方へと力強く押し下げられる。

 

これに連動し、外肋間筋が収縮して、彼女の肋骨全体をまるで鳥籠が広がるかのように、前後左右へと立体的に押し広げた。

 

肺は、胸腔内の陰圧に引っぱられる形で急速に膨張し、冷たい空気が気管を通り、無数の気管支の末端へと流れ込んでいく。

 

胸を不自然に突き上げるような、浅く、見栄えだけの呼吸ではない。

 

背中や腰のあたりまでが膨らむような、深く、均一な吸気。

 

満ちていく。

 

私のなかの空虚が、言葉の種子で満たされていく。

 

吸いきった一瞬の静寂の中で、今度は呼気への転換が行われる。

 

押し下げられた横隔膜が緩やかに上昇を始め、腹直筋や腹横筋が適度な緊張を保ちながら、肺の中の空気を一定の圧力で上方へと押し出し始める。

 

空気が気管を駆け上がり、喉頭へと達する。

 

そこには、彼女の表現の門番たる声帯が待ち構えていた。

 

エリザベスは唇をそっと閉じ、歯の間にわずかな空間を作った。

 

軟口蓋を、まるで驚きに目を見開いたときのように上方へと引き上げ、喉の奥の空間、すなわち咽頭腔を大きく広げる。

 

そして、左右の声帯ひだが中央でぴたりと合わさった。

 

「んーーーーーーーー……」

 

押し出された呼気が、閉鎖された声帯の隙間をこじ開けるようにして通り抜ける。

 

その瞬間、声帯は毎秒数百回という驚異的な速度で振動を始めた。

 

微細な肉の震えが、広げられた咽頭腔で増幅され、さらに鼻腔の骨へと伝わって、心地よいハミングの残響となって室内に漏れ出す。

 

彼女の思考は、今や完全にその喉頭のコントロールへと没入していた。

 

筋肉をわずかに緊張させれば、声帯は厚みを増し、チェストボイス、すなわち胸を鳴らす低い響きが生まれる。

 

逆に、別の筋肉を働かせて声帯を前後に薄く引き伸ばせば、音程は滑らかに上昇し、頭蓋骨のてっぺんを突き抜けるようなファルセットへと変化していく。

 

彼女はその筋肉の綱引きを、指先で触れるかのように繊細に、感覚の中で操っていた。

 

低い音から、高い音へ。

 

そして再び、奈落の底のような低い音へ。

 

音階を歌うのではない。

 

ただ、母音の手前にある純粋な「響き」だけを、均一な息の長さで保ち続ける。

 

「んーーーーーーー……あ、あ、あ、あ」

 

ハミングから、滑らかに口を開き、母音の「あ」へと移行する。

 

その瞬間、彼女の舌の根元が緊張で盛り上がり、喉を塞ごうとする動きを起こしかけた。

 

喉の奥に小さな、ザラついた冷たい針がシャッと走るような感覚。

 

鏡の中の彼女は、そのわずかな喉元の膨みを見逃さない。

 

だめよ、静まりなさい。

 

私の舌よ、お前は声を阻む壁ではなく、声を導く滑り台でなければならない。

 

彼女は意識的に顎の力を抜き、舌を口底へと平らに沈めた。

 

喉頭の位置が理想的な低さに保たれ、響きは一気に透明感を増して、カラオケボックスの壁を震わせた。

 

上手くいった。

 

その確信が得られた瞬間、彼女の琥珀色の瞳に、微かな、しかし確かな歓喜の灯がともる。

 

誰に見せるためでもない、己の肉体を完全に統御できたという職人的な喜び。

 

配信で「ハハハ!」と口を大きく開けて豪快に、かつ品よく笑うたび、あの愛おしいコメント欄がその笑い声を歓迎するように激しく揺れる。その画面の向こう側の熱を、彼女は喉の奥に思い出していた。あの飾らない笑い声は、どれほど高貴な衣装を纏っていても、彼女が血の通った一人の愛すべき人間であることを伝える大切な絆なのだ。今、この静かな部屋でも、彼女の喉はその純粋な躍動の記憶を確かに刻みつけていた。

 

彼女はコントロールパネルの前に戻り、置かれていたマイクを取り上げた。

 

スイッチは入れない。

 

ただ、その冷たい金属の塊を右手に握りしめる。

 

その重量感が、彼女の脳に観客の前に立っているという心地よい緊張感を呼び覚ますための、一種の儀式であった。

 

彼女が次に挑んだのは、ホロライブの先輩たちのものまね、すなわち他者の肉体を自らの喉に憑依させるという高度な声の演技であった。

 

演劇を愛する彼女にとって、ものまねとは単なる表面的な形態模倣ではない。

 

その人物が、いかなる体格を持ち、いかなる肺活量で、喉のどの位置を響かせて話しているかという、解剖学的な推測の結実であった。

 

まず彼女がイメージしたのは、独特のハスキーさと、胸の奥から絞り出すような温かみを持つ、ある先輩の声だった。

 

彼女は自身の声帯をイメージする。

 

先ほどまでのように全体を均一に振動させるのではなく、声帯の後ろ側にわずかな隙間を残し、そこから意図的に未振動の息を漏れさせる。

 

同時に、喉頭の位置をわずかに引き上げ、咽頭腔の容積を狭めることで、高音域の倍音を強調する。

 

「……こんにちは。今日も、良い天気だね」

 

口から漏れたのは、エリザベス自身の声でありながら、完全にその先輩の「空気感」を纏った、驚くほどリアルな響きであった。

 

語尾の瞬間に、筋肉の緊張をふっと緩め、息を投げ出すように抜く。

 

その特徴的な表現までもが、完璧に再現されていた。

 

そう、この感覚。

 

彼女の呼吸は、私よりも少しだけ浅く、回転が早いのね。

 

肺の上部を使って、言葉の頭にリズミカルなアタックを入れる。

 

自分の喉でありながら、全く異なる人間の楽器として機能している不思議。

 

エリザベスはその感覚がたまらなく愛おしく、楽しかった。

 

彼女の表情には、趣味に没頭する若者のような、純粋な熱が浮かんでいる。

 

間髪入れず、今度は別の先輩の声へと切り替える。

 

今度は、圧倒的な高音の透明感と、頭蓋骨の前面を激しく共鳴させる喋り方だ。

 

彼女は即座に喉の奥を強く収縮させ、声帯を極限まで薄く引き伸ばした。

 

同時に、軟口蓋をさらに高く押し上げ、息の通り道を鼻腔へと集中させる。

 

声帯の閉鎖力を高め、息が一切漏れない、鋭いエッジボイスの成分を微かに混ぜ合わせる。

 

「わぁ! すごい! 本当に綺麗だね!」

 

部屋の中に、鈴を転がすような、しかし芯のある高音が響いた。

 

エリザベスの胸のパーカーの生地は、今はほとんど動いていない。

 

呼吸の圧力を、喉頭の閉鎖力だけで完璧にコントロールし、最小限の息で最大限の鳴りを生み出しているのだ。

 

彼女はマイクを握る左手を、無意識のうちに小さく胸元で握りしめていた。

 

その仕草は、彼女が素晴らしいコンサートや演劇を観たときに、興奮のあまり座席の肘掛けを握りしめてしまう、あの瞬間の肉体の記憶と直結していた。

 

人が情熱を注ぐ姿に惹かれる彼女は、今、自分自身が声の演技という名の情熱の炉の中に、身を投じている。

 

「ふふ……でも、油断すると私のベースの低音が混ざってしまうわね」

 

彼女は元の声に戻り、小さく首を傾げた。

 

その際、お団子から垂れた髪が揺れ、彼女の白い頬をなぞる。

 

自分の声を耳の奥で咀嚼し、分析する時の、彼女の固有の動きであった。

 

今度は、彼女自身の最大の武器である、包容力に満ちた低音へと意識を戻す。

彼女は再び、肺の底から空気を押し上げる準備をした。

 

横隔膜をゆったりとコントロールし、一定の、しかし太い息の流れを作る。

 

声帯はリラックスさせ、筋肉の働きによって肉厚な状態を保つ。

 

喉頭をぐっと下げ、胸骨の振動を最大化させる。

 

「……そんなに根を詰めなくていいのよ、あなた。疲れたときは、いつでも私の胸に飛び込んできてちょうだい」

 

その声は、重く、深く、それでいて耳を撫でるような優しさに満ちていた。

 

カラオケの防音壁さえもが、その低い周波数に同調して微かに震えるかのようだった。

 

この声を出すとき、彼女の表情から笑みは消え、代わりに慈愛と、どこか憂いを帯びた大人の女性の輪郭が浮かび上がる。

 

彼女の中にあるリーダーとしての責任感と、他者を救いたいという本能的な願いが、声帯の厚みと息の深さという物理的な現象となって現れているのだ。

 

配信を見守ってくれる人々に向けて、彼女がふいに口にする「You」という二人称の響き。それを受け取る側が言葉にできない安心感に包まれるのを、彼女自身もよく分かっている。それは決して不特定多数への記号などではなく、画面の向こう側にいる孤独な魂一人ひとりの手を取り、優しく引き上げるための、深い慈愛に満ちた呼びかけなのだ。

 

少しのフリートークの練習を挟むため、彼女はスタンドアップコメディのテンポ感を自らの肉体に課した。

 

コメディアンたちの喋りは、音楽に似ている。

 

言葉を並べる速度、

 

そして何よりも、言葉を発した後に訪れる沈黙の質。

 

彼女はマイクを口元に近づけ、少しだけ前傾姿勢をとった。

 

背筋の張りは保ったままだ。

 

「聞いてちょうだい、あなた。この前、街を歩いていたら、一羽の鳩が私をじっと睨みつけてきたの。本当に、一歩も動かずにね」

 

彼女はそこで、ぴたりと息を止めた。

 

横隔膜の動きを静止させ、次の言葉を待つ「間」を作る。

 

鏡の中の彼女の目は、まるで客席の反応を推し量るかのように、鋭く、かつユーラスに細められていた。

 

「私は思ったわ。あら、あなた、もしかしてジャスティスの新しい秘密の監視員かしら? ってね」

 

言葉の終わりに、わざと喉頭を少し緊張させてコミカルなニュアンスを加え、その直後、自ら大笑いした。

 

「あっははは!」

 

横隔膜を激しく上下させて破裂するような笑い声を放つ。

 

一人芝居、一人コメディ。

 

客席には誰もいない。

 

しかし、彼女の頭の中には、彼女の言葉に一喜一憂し、笑顔を弾けさせる「YOU」の姿が、何千、何万と敷き詰められていた。

 

その想像力こそが、彼女の肺を動かし、喉を震わせる真の原動力であった。

 

長く声を出し続けたことで、筋肉に乳酸が溜まり始めるのを感じる。

 

特に声帯を内転させる筋肉のあたりに、微かな熱が宿っていた。

 

彼女はテーブルの上の常温の水に手を伸ばした。

 

ボトルのキャップを開ける指先が、微かに湿っている。

 

一口、静かに水を口に含み、喉の奥を潤すようにゆっくりと飲み下した。

 

ちょっとぬるすぎてプラスチックの変な味がしたが、冷たい水は筋肉を収縮させてしまうため、この常温の水こそが彼女の喉への、徹底された配慮であった。

 

水が食道を通り、そのすぐ前方に位置する気管と喉頭の周囲の筋肉が、微かな冷涼感とともにリラックスしていく。

 

「あ、い、う、え、お。か、き、く、け、こ」

 

彼女は再び鏡の前に立ち、今度は日本語の滑舌の修練を始めた。

 

英語に比べて、日本語は口輪筋や頬筋、そして舌の細かな動きが要求される。

 

彼女は口を正確に四角く、あるいは丸く開き、軟口蓋の上げ下げを繰り返した。

 

「す、し、す、せ、そ。……『し』の瞬間に、息が横から漏れているわ。もっと舌の両端を上顎の歯列に密着させて、中央だけに息の通り道を作らなきゃ」

 

ささやくような声で、子音の「S」と「SH」の違いを、喉頭の振動を伴わない純粋な摩擦音だけで繰り返す。

 

し、し、し。

 

彼女の薄い唇が、正確な形状を刻み続ける。

 

そのストイックな横顔は、名剣を鍛え上げる鍛冶屋のようであり、一切の妥協を排した美しさがそこにはあった。

 

彼女はパーカーの袖を少し捲り上げ、白く細い前腕を露わにした。

 

全身の熱が、スウェットの内部に籠もっている。

 

空調の冷たい風がその肌に触れ、微かな鳥肌を立てたが、彼女は気に留めない。

 

彼女の意識は、次なる、あるいは今日最後の最も重い扉――感情の極限状態における発声へと向っていた。

 

ジャスティスの長として、あるいは物語の悲劇を締めくくる主役として、冷徹さと怒りを内包した声を出す。

 

彼女は深く息を吸い、胸腔を大きく広げた。

 

しかし、次の瞬間、呼気を送り出す際、声帯の閉鎖を通常よりも遥かに強くした。

 

喉を「絞る」ような形状を作る。

 

「……そこまでよ。これ以上進むなら、私はあなたを、決して許しはしない」

 

部屋の壁にぶつかったのは、地を傷つけるような、あるいは冷たい氷の刃で抉るような、冷酷な響きであった。

 

声帯が過度の密着によって微かに悲鳴を上げるような、しかし完全にコントロールされた歪みが混ざっている。

 

彼女の琥珀色の瞳は完全に据わり、鏡の中の自分を射抜いていた。

 

その瞬間、彼女はエリザベスでありながら、エリザベスを超越した「正義」の体現者へと変貌していた。

 

劇的な物語の主人公のような、あの気迫に満ちた演技を披露するとき。一瞬だけチャットの進みがピタリと止まる、あの心地よい静寂(しじま)を彼女は大切に思っている。普段の愛らしい姿からは想像もつかない重みと狂気が、まるで劇場の特等席へと引き込むようなカタルシスを生む。その瞬間を、もう一度「YOU」に味わわせるために、彼女は喉を鍛え上げていた。

 

数秒の静寂の後、彼女は喉の力を完全に抜き、大きく息を吐き出した。

 

「ふはぁ……」

 

緊張から解放された声帯が、元の柔らかな状態へと戻っていく。

 

彼女は首を左右に振り、肩をすぼめて、自らの肉体に宿った緊張の残滓を追い払った。

 

「ふぅ……やっぱり、この発声は喉への負担が大きいわね。筋肉の過度な緊張を、横隔膜の支持でもっとカバーしなくては」

 

彼女はスウェットの襟元を整え、お団子から完全に解けてしまった髪を、手ぐしで結び直した。

 

時計の針は、部屋に入ってからすでに数時間が経過したことを示している。

 

一度も歌を歌わず、ただひたすらに吸気と呼気の物理的連動、筋肉の緊張と弛緩、そして他者の肉体の模倣だけに費やされた時間。

 

ふと、彼女は自分の指先を見た。

 

マイクの金属を握り締め続けた手のひらは、じっとりと汗ばみ、どこか泥臭い労働の後のような熱を帯びている。

 

高貴なる生まれ、完璧なるステージ。

 

けれどその裏側にあるのは、いつだってこのような、誰も見ていない密室での無骨な足掻きだ。

 

上手くいかずに喉を詰まらせ、水で流し込み、何度も泥を捏ねるようにして声を形作っていく。

 

その不格好なまでの執念こそが、彼女の血を最高に沸き立たせるものだった。

 

液晶端末の画面には、まだ一曲も予約されていない真っ白なリストが光っている。

 

彼女はマイクをもう一度強く握り直し、今度はその黒いスイッチに親指をかけた。

 

カチリ、と小さな、けれど確かな音が部屋に響く。

 

喉の奥の熱はまだ引いていない。

 

むしろ、この数時間で、自分の肉体という楽器はこれ以上ないほどに熱せられ、歌を欲して疼いている。

 

「さあ、お待たせ。次は、あなたのための歌を」

 

その唇に、いつもの、すべてを包み込むような眩しい笑顔が戻っていた。

歌声はまだ放たれていない。

 

しかし、彼女が息を吸い込んだその瞬間、狭いカラオケボックスの空気は、すでに目に見えぬ極上の旋律で満たされようとしていた。

 

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