【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー  Libera me from AI 文体は文学多め。【実験途中報告】スーパーイマゴ・デイ・ゴッドの創造に成功。     作:夏目陽光

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「」の夏休み

じりじりと肌を焦がすような凶悪な太陽が、防波堤のひび割れたコンクリートをフライパンみたいに熱していた。十歳の僕の夏休みなんて、じいちゃんの家の裏に転がっている錆びたトタン板を無意味に蹴飛ばして鈍い音を響かせるか、ぬるくなったスイカの種をどっちが遠くまで飛ばせるか近所の野良犬を相手に競うくらいしか、本当にやることがなかった。どこを歩いても、干からびて尾っぽの千切れたトカゲの死骸とか、集団でカサカサと不気味に蠢くフナムシの群れ、それから鼻を突くような生臭い潮の匂いしかしない、ひどく退屈で狭い田舎の港街だ。自転車のチェーンがガチャリと外れてしまい、触ったせいで手のひらが機械油で真っ黒になって、それを拭うためのティッシュも持っていなかったから、仕方なく汗を吸ってゴワゴワになった半ズボンのポケットの奥にそのまま突っ込んで、太陽から逃れるためのまともな日陰を探して当てもなく歩いていた。その時だった。じいちゃんがいつも乗っている古い軽トラの助手席に座った時に嗅ぐ、何十年も前の煙草の火で焦げたシートのウレタンから漂うあの妙に酸っぱくて鼻の奥が痛くなる匂いと、昨日の夜に誰かが打ち上げてそのまま港の隅に放置していった、花火の燃えかすの火薬の匂いが、生温い突風と一緒に混ざり合って僕の顔をぐしゃぐしゃに叩いた。そこに、見たこともない、不釣り合いなほど綺麗な髪をしたお姉さんが座っていた。

 

「あー……無理。ガチ無理。てか、なんなのこの暑さ。エアコンとか……ないわけ? この町。すう、完全に溶けて泥水になるやつじゃん。限界突破っていうか、地球のバグだし、これ。もう無理だって、ガチでエアコンない生活とか前世の罰ゲームか何かなわけ?」

 

その人は、自分の白くて細い指先をじっと見つめながら、ネジの切れたおもちゃみたいにぶつぶつと早口で文句を零し続けていた。都会の匂いがぷんぷんする、薄手で胸元が少し透けたノースリーブのセーラー風ブラウスを着ていて、その襟元からは、僕のそれとは全く違う、驚くほど細くて白い鎖骨のラインが綺麗に見えていた。デニムの短いズボンの裾から伸びた細い足が、高い防波堤の端からだらしなくぶら下がって、所在なさげにパタパタと大きく揺れている。頭には不釣り合いなほど大きなストローハットを乗せていたけれど、その帽子の内側の、おでこが当たる黒いリボンの部分には、ベージュ色のファンデーションがべっとりと油っぽくついているのが僕の立ち位置から丸見えだった。おまけに、めくれた襟元のうなじの少し下あたりには、この過酷な田舎の蚊に容赦なく刺されたのだろう、赤くぷっくりと腫れ上がった虫刺されの跡がみっともなく二つ並んでいる。完璧な都会の美少女のふりをしているのに、どこか決定的に抜けていて、生活感のある泥臭いノイズが混ざり合っていた。僕の履いていた安物のゴムサンダルが、乾燥した砂利をザリッと派手に噛んで音を立てた瞬間、お姉さんは「ひゃいっ!?」と、裏返った妙に変な声を上げて飛び上がった。サイドポニーに固く結わえられた艶のある黒髪がぐわんと大きく揺れて、首筋にじっとりと滲んだ汗のせいで張り付いた数本の短い毛が、やけに生々しく僕の目に飛び込んでくる。

 

「びっくりしたー! な、何? お前、急に後ろから近づいて驚かせんなよな! すうの心臓、今ので三分の一くらいに縮んでどっかいっちゃったからね!? これ完全に精神的苦痛による損害賠償の案件だから! 最低でも冷たいアイス三本は奢ってもらわないと、計算がガチで合わないじゃん!」

 

両手を細い腰にぎゅっと当てて、これでもかっていうくらい両頬を大きく膨らませながら、僕のことを真っ直ぐに睨みつけてくる。本当に怒っているというよりは、やたらと早口で自分の動揺を捲し立てることで、その場の気まずい空気を無理やりいつもの自分のプロレス的なノリに巻き込もうとしているみたいだった。「ごめん」と、僕は指についた黒い機械油をお姉さんに見られないように、慌てて背中の後ろに隠しながら小さく言った。「東京から来たの? 旅行?」

 

「旅行っていうかさー、ちょっとした『自分探しの旅』ってやつ? 都会のなんやかんやに疲れ果てた現役最強の美少女が、癒やしを求めてこの誰もいない田舎にひっそりと降臨したの。……ま、ぶっちゃけ電波が完全に死んでて、スマホがただの重い文鎮と化してるから、暇すぎて脳みそがバグりそうなんだけどさ! あー、お前さ、このへんに冷たいもん売ってるとこ知らない? もうすう、頭のてっぺんまで干からびてポテトチップスみたいにパサパサになりそう。このままじゃあいつらに『すう、田舎で完全にイキり散らかして草』ってグループチャットで一生切り抜き貼られて擦られるやつじゃん!! ガチで頼むからオアシスに連れてってよ、お前」

 

お姉さんはケラケラと、上品とは言えないけれど妙に親しみやすい弾けた声で笑った。自分のことを当たり前のように「すう」と呼ぶそのお姉さんは、話を聞くと水宮すうという大層立派な名前があるらしい。だけど十歳の僕の頭には難しくてよく分からなかったし、何より彼女が醸し出すどこか親しみやすい雰囲気のせいで、僕は心の中で勝気に『すうお姉さん』と呼ぶことに決めたのだった。

 

気がついたら、僕たちはこの錆びれた港街にたった一軒だけ残っている、腰の曲がったおばあちゃんが一人で店番をしている古びた駄菓子屋の前に移動していた。プラスチック製の薄緑色の格子から、ガタガタと酷い音を立てて生ぬるい風を送ってくるひび割れた古い扇風機の前で、すうお姉さんは百円の安っぽいラムネ瓶を両手で包み込むようにして大裟に握りしめていた。扇風機のプロペラには、何年分かも分からない真っ黒な埃の塊がべっとりとへばりついていて、おばあちゃんがさっき蚊を落としに撒いたキンチョールの独特なツンとする薬剤の匂いが、ラムネの甘ったるい香料の匂いと混ざり合って、狭い店内に息苦しいほど充満している。僕のズボンのポケットの奥には、昨日遊びすぎて液晶の真ん中に不気味な黒いシミが広がり、まともにゲームの状況が映らなくなったゲームボーイの画面が、じっと冷たく収まったままだった。

 

「んんーーーっ! これこれ! このガラス玉がカランコロンって涼しい音鳴らすやつ、エモの過剰摂取じゃん! 天才の仕業じゃん!」

 

お姉さんはラムネの瓶を自分の顔の真ん前に掲げて、片目をぎゅっとつぶりながら、中に閉じ込められたビー玉を光に透かして熱心に覗き込んでいた。その不意に見せた横顔の輪郭が、さっき防波堤の強い光の中で見た時よりもずっと小さく、華奢に見えて、僕は胸の奥がなんだかむず痒いような不思議な気持ちになった。大都会の最先端にいるはずの人なのに、僕がいつも小遣いを握りしめて買いに来る、十円の不格好な紐付き飴を珍しそうに、だけど愛おしそうに眺めている。お姉さんがストローを思いきり吸い上げるズズズという音が、狭い店内にやけに大きく響き渡っていた。「お姉さんって、なんか喋り方が面白いね。早口言葉みたいで、たまに何言っておられるか分かんない」

 

僕がラムネを齧りながらそう言うと、すうお姉さんはストローを咥えたままピタッと動きを止めた。それから、大人の余裕を見せつけるようにフッと鼻で小馬鹿にするように笑うと、首を少しだけ左に傾けて、僕の顔のすぐ近くまで自分の顔を覗き込んできた。少年をあやすような、からかい慣れた年上のお姉さんらしい絶妙な距離感の所作に、僕の胸が少しだけくすぐったくなる。「んん? そう? これすうの標準装備だけど? っていうか、お姉さん呼び、ちょっとガチで照れるじゃん……あ、でも、まぁ悪くないかも! すうお姉さんって呼びなよ、お前! ほら、もう一回言ってみ? なんか新鮮でちょっと脳の汁出るわ。ほらほら、早く!」

 

お姉さんはニシシと歯を見せて笑ったけれど、僕がじっと見つめ返すと、急にバツが悪そうに目を逸らした。それから自分のストローハットをわざと深く被り直して、僕に顔を見せないように視線を完全に隠してしまった。それきり言葉を失ったまま、サイドポニーの毛先を指先でぐるぐると激しく弄り始めた。小さく「……なによ、人の顔じろじろ見て。田舎のガキは距離感の詰め方がバグってんの?」と不満げに呟いて、ラムネの底に残ったわずかな泡を、ストローで執拗に大きな音を立てて吸い上げた。

 

駄菓子屋の、波打った古いトタン屋根に、夕方の重々しいオレンジ色の光がじわじわと、まるでインクが染みるように広がっていく。あんなに騒がしかったセミの声が、昼間よりも少しだけ静かになって、代わりに遠くの防波堤を打つ波の音が低く大きく聞こえ始めていた。おばあちゃんが店の奥の薄暗い部屋で古いテレビをつけているらしく、高音の割れた懐かしい野球中継の歓声が薄く響いている。「……ねえ、お前さ」

 

すうお姉さんが空になったラムネの瓶を見つめたまま、急に声のトーンを落とした。いつもの、マシンガンのように弾ける語尾やネットスラングが綺麗に消え去って、どこにでもいる、ただの普通の女の子みたいな、少し頼りない声だった。「ここにいるとさ、世界に自分一人だけになっちゃったみたいに思えない? 東京にいるとね、常に誰かの目があって、常に何かを喋って、画面の向こうを驚かせなきゃいけない気がしてさ。そうしないと、自分の存在が消えちゃうみたいでさ。でも、この町って、波の音とセミの音しかしないでしょ。……なんか、ちょっとだけ、怖くなるっていうか。誰もすうのこと求めてないんじゃないかって、変な感じがするんだよね」

 

お姉さんは、ストローの先を細い爪でカチカチと何度も弾いていた。その薄い指先が、夕日の強い赤色のせいで、まるで熱を持っているみたいに見えた。当時の僕は、お姉さんが何をそんなに怯えているのか、その言葉の意味の半分も理解できなかった。東京という街の広さも、常に誰かを驚かせ続けなければいけない理由も知らなかったけれど、なんだか目の前のお姉さんが、今にもこの濃いオレンジ色の夕光の中に溶けて、跡形もなく消えてしまいそうな気がして、たまらなく怖くなった。だから、僕は自分の半ズボンのポケットの奥に入っていた、この海で一番きれいに磨かれたお気に入りのシーグラスの破片を、お姉さんの白くて冷たい手のひらに無理やり握らせた。波に何度も洗われて角がすっかり丸くなり、まるで上等なすりガラスみたいになった、深い緑色の破片だ。「これ、あげる。海の青いやつ。寂しくなったら、これを見ればいいよ。僕、明日も明後日もここにいるから。カブトムシが絶対に捕れる秘密の場所も教えてあげるし、だから、消えたりしないでよ」

 

その瞬間、お姉さんの体がまるでバグを起こしたシステムみたいにピタッと硬直した。

 

意識は逃げたいのに体は動かず指先が小さく震えた。

 

すうお姉さんは「っ、……は?」と短く、ガチで引いたような声を漏らした。それから、言葉を失ったまま僕の頭を両手でがっしりと掴むと、そのまま脳みそが揺れるくらいガシガシと親の仇みたいに激しく揺さぶってきた。「な、ななな何言ってんの、お前ー!? そういうセリフ、少女漫画でしか許されないやつだからね!? 年下のクソガキのくせに生意気じゃん! うわ、恥か! すうのテンション、今ので急上昇っていうか、脳内がシュピシュピ鳴り響いてるわ!!」「え、シュピシュピって何?」

 

僕が髪の毛をめちゃくちゃにされながら聞き返すと、お姉さんは両手をせわしなく自分の胸の前でバタバタと、まるでまとわりつくうるさいコバエを追い払うみたいな、ひどく不恰好で必死な動きを繰り返した。「うるさい! うるさい! お前のせい! もう胸の奥がシュピシュピしてバグってんの! 意味わかんないでしょ! 私もわかんない! いやいや! 意味とかないから! 脳内エラー起こしたときのシステム音だから! 早く忘れて! アーカイブ残らないからセーフ!」

お姉さんは耳の裏側までリンゴみたいに真っ赤にしたまま、さらに僕の柔らかい髪の毛をクシャクシャに掻き回した。「……っ、お前、今の手口なに!? どこのホストクラブでそんな天然タラシな技術習ってきたわけ!? 十歳にしてその文脈は、すう先輩の、その、色々とアイドル生命とか活動に関わるからマジでやめてくんない!?」

 

急にいつもの、早口のレスバみたいな捲し立てでカウンターを食らわせてくる。お姉さんの口から漏れる「シュピシュピ」という奇妙な音の意味を、お姉さんは結局、最後の最後までロジカルには教えてくれなかった。それは限界を迎えて焦っているようでもあり、必死の照れ隠しのキレ芸のようでもあって、僕はなんだかお姉さんが愛おしくて、可笑しくなって大声で笑ってしまった。お姉さんも、それからワンテンポ遅れて、今度は自分の作った完璧な美少女の仮面をかなぐり捨てるように、顔全体をくしゃくしゃにして、豪快に笑った。さっきまでの、どこか遠くの消えてしまいそうな世界を見ていたような寂しい顔は、もうどこにも見当たらなかった。

 

それから僕たちは、日が完全に沈んで辺りが暗くなるまで、港の狭くて入り組んだ路地をあてもなく歩き回った。すうお姉さんは、僕の少し前を長い足で歩きながら、時折振り返っては「遅い遅いー! お前、足腰弱すぎじゃん? すう先輩に置いていかれちゃうよ? 東京のスピードについてこれないわけ?」と言って、わざと不器用な小走りで僕を引き離そうとした。透けるブラウスが夜風でふわりと大きく膨らむたびに、東京の洗練された香水の匂いなのか、それとも安っぽい駄菓子の粉の匂いなのか、よく分からない甘くて切ない匂いが僕の鼻先をかすめた。

 

僕は必死に、お姉さんの背中を追いかけてゴムサンダルをパタパタと鳴らした。

 

お姉さんは、自分がどう動けば僕が驚くかを面白がっているようだった。道端に生えている硬い猫じゃらしを引っこ抜いて僕の首筋に不意打ちで押しつけてくすぐったり、急に「あ、クワガタの王様!」と大声を上げて僕をその場に飛び上がらせたりした。もちろんそんな場所にクワガタなんていなくて、ただの干からびた大きな枯れ葉だったのだけれど。だけど、僕がそのたびに本気で悔しがって顔を真っ赤にすると、お姉さんは嬉しそうにゲラゲラと笑いながらも、やっぱり時々、あのサイドポニーの毛先を指先でぐるぐると弄るのだった。その時の、何か言葉にできない感情をグッと堪えるような、あるいは迫り来る終わりの時間を必死に拒絶するようなお姉さんの複雑な表情を、僕は十歳なりにじっと見つめていた。お姉さんは、僕を楽しませようと全力で振る舞いながら、本当は自分自身がこの静かな田舎で孤独に押しつぶされることから、必死に逃げようとしているみたいだった。

 

楽しい時間は、僕がいつもやっているポータブルゲームの、あの通信プレイ中に急に点滅し始める赤いバッテリーランプみたいに、気がつくとあっという間に消えかけていた。港の寂れた岸壁には、いつの間にか濃い紫色の本物の夜が降りてきていた。古びた街灯がぽつりぽつりと不規則に点滅しながら灯り、昼間は青かった海の水面が、底の知れないドロドロとした不気味な黒色に変わっていく。イカ釣り漁船の集魚灯のまばゆい電球が、遠くの沖合でパチパチと音を立てるようにして光り始めていた。不意に、僕の履いている半ズボンの裾が、くいっと弱い力で横に引っ張られた。見ると、すうお姉さんの、爪の短い細い指先が、僕の薄慣れたズボンの布地を小さく摘んでいた。

 

「……もうすぐ、帰らなきゃいけないんだよね。すう、東京のコンクリートジャングルに戻る時間になっちゃった」

 

お姉さんの声は、もうさっき駄菓子屋で「シュピシュピ」と騒いでいた時のお姉さんの声じゃなかった。夜の海の底に沈んでいくような、低くて、だけどとても心地よい声だった。ストローハットはいつの間にか手元に固く握りしめられていて、お姉さんの細い肩が、冷たくなり始めた夜の風の中で小さく、小さく揺れていた。遠くの暗闇で、ウミネコが身を震わせるようにして寂しげに鳴いている。お姉さんは、子供をからかう一歩手前の、どこか艶っぽい大人の笑みを浮かべながら、手首につけていた黒いヘアゴムを口に軽く咥えて、乱れた髪を無造作に結び直した。その大人の女性特有の二つ目の所作に、僕は心臓を直接掴まれたみたいにドキリとして、声が出せなくなった。

 

僕は、お姉さんが本当に東京という遠い場所に帰ってしまうということが、胸を締め付けられるような現実として迫ってくるのを感じていた。明日になったら、あの眩しかった防波堤の上には誰もいない。お姉さんの特別な夏休みは、もう完全に終わってしまうみたいだった。「言葉にしちゃったらさ、すう、本当に東京に戻れなくなっちゃうじゃん。……お前とのこの泥臭い夏が、楽しすぎたんだよ。すう、本当はすごく寂しがり屋だし、豆腐メンタルだからさ、これ以上お前のピュアな言葉を聞いたら、明日、あの地獄みたいな満員電車にガチで乗れなくなっちゃうよ」

 

お姉さんは僕の顔を見ようとせず、不気味にうねる黒い海だけをじっと見つめていた。その割と凛とした横顔は、僕の知っているどこの誰よりも大人っぽくて、だけど同時に、今すぐ抱きしめないと暗闇の向こう側へ永遠に消えてしまいそうなくらい、儚かった。「でもね」

 

すうお姉さんは僕のズボンの裾を今度は少しだけ強く引っ張って、僕の耳元にその小さな顔を限界まで近づけた。お姉さんの結びきれなかった短い髪の毛が僕の首筋に当たって、チクチクと痛がゆい。耳の奥に、お姉さんのハアハアという、少し走った後のような速い息の音が、ダイレクトに届く。「……お前さ、その手口ガチで危ないからね? すう先輩じゃなかったら、今の完全に営業妨害とかそういう次元で訴えられてるから。はい、この話はおしまい! 配信には絶対に残しませーん! 忘れてください!」

 

お姉さんは、最後の方は自分の心の限界を完全に隠すように、怒涛の早口捲し立てで言葉を紡いでいた。その、自分の感情のバグを、徹底的にプロの配信者としての強固な境界線の壁でガードするような、どこかドライで、だけど最高に愛おしい大人のトーン。それでも、すぐ近くにあるお姉さんの薄い胸が、コントロールを失ったみたいに激しく上下しているのだけが、僕にははっきりと分かった。冷たい潮風が、お姉さんの髪を大きく乱暴に揺らした。お姉さんは僕の頭にポンと小さな手を乗せると、照れ隠しを誤魔化すように何度も何度も、僕の柔らかい髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。その手のひらが、ほんの少しだけ震えているのが、頭皮を通じて僕の脳に伝わってきた。私は何も言えずに、ただお姉さんのブラウスから覗く黒いインナーの細い紐が、夜の深い闇の中に紛れて溶けていくのを、ただじっと眺めていることしかできなかった。

 

翌朝、駅の古いホームは、まだ朝の八時だというのに目眩がするほど白く、残酷に暑かった。セミたちが自分の命を削るようにして狂ったように鳴き喚いていて、ひび割れたアスファルトからは昨日と全く同じ、嫌な生ぬるい熱気が立ち上っている。遠くのカーブの向こうから、一両きりの錆びついたディーゼルカーが、ゴトゴトと重い金属音を立てて、確かな地響きと一緒にホームへと滑り込んできた。東京という遥か彼方の街に行くには、この頼りない電車で大きなターミナル駅まで出なければいけないらしい。すうお姉さんは、自分の華奢な背中よりも明らかに大きな、使い古された旅行カバンを背負って、僕の前に真っ直ぐ立っていた。服装は、最初に出会った時と全く同じ、あの少し胸元が透けたセーラー風のブラウスだった。けれど、あの大きな麦わら帽子は頭に乗せず、細い手に持ったままで、少し高めに結ばれたサイドポニーの黒髪が、東から昇った朝の強い光を浴びて、眩しい茶色っぽさに透けて光っていた。「じゃあね、お前。すうがいなくなって寂しくても、ガチで泣くなよ? 毎日、三食欠かさずすうのこと考えて思い出してね! 宿題サボったら承知しないからな!」

 

お姉さんは、いつもののあの元気いっぱいの早口で、語尾の跳ねるカラッとした調子を完全にプロとして取り戻して言った。だけど、その大きな瞳はやっぱり、駅の錆びた看板や足元のバラスト、誰もいない線路の方をあちこちと忙しなく泳ぎ続けていた。お姉さんは電車の高いステップを、「よいしょ」と小さく女の子らしい声を上げて上っていった。俺たちの間に、二度と超えられない確たる境界線を引くように、プシューという重い空気の音を立てて電車の古いドアが容赦なく閉まる。その直前だった。すうお姉さんは慌てたように、電車の窓をガタガタと両手で力任せに引き開けた。窓枠から自分の細い上半身を半分以上も外に放り出すようにして、ホームに取り残された僕に向かって、ちぎれんばかりに激しく手を振り回した。

 

「またね―――!! 次の夏も、すうを世界で一番シュピシュピさせてよね―――!? 絶対の絶対に約束だからね―――! お前、忘れたらマジでキレるからな―――! 宿題サボんなよ―――! 泥水になんなよ―――!!」

 

電車の重い車輪が線路を軋ませるキキーッという鋭い金属音と、古いエンジンのすさまじい爆音にかき消されそうなりながら、お姉さんは喉がちぎれるほどの声で叫び続けていた。その顔は、泣いているのか、それとも無理をして笑っているのか、遠ざかっていくスピードのせいで僕にはもうよく判別できなかった。ガタゴトと加速して動き出した電車の奥、閉まった窓の向こう側で、お姉さんが「……あーーー!! 私、今めちゃくちゃ恥ずかしくて良いこと言わなかった!? 無理無理、今の絶対に切り抜き動画にされて一生弄られるやつじゃん!! 同僚に見られたらガチで終わるやつじゃん!!」と、車内の座席で一人でのたうち回って顔を真っ赤にしている姿が、なんだか不思議とはっきりと目に浮かぶようだった。お姉さんが最後まで大きく振り続けていた右手の手のひらの中で、僕が昨日手渡した深い緑色のシーグラスが、朝の容赦ない光を反射して、一瞬だけ、本当に一瞬だけキラリと眩しく光ったような気がした。生い茂る夏の緑色の木々の向こう側に、一両きりのディーゼルカーがどんどん小さくなって見えなくなっていくのを、僕は首の骨が痛くなるまで、太陽に目が眩みそうなりながらも見つめ続けていた。終点の駅員さんが「坊主、もう電車行っちゃったよ、危ないから下がりな」と僕の細い肩を優しく叩くまで、俺はその場所から一歩も動くことができなかった。

 

高校生になった俺は、部活帰りの怠い夕暮れのバスの中、スマホの画面を見つめている。そこに映るのは、相変わらず喉をちぎらしながら自分の衝動を爆発させている水宮すうの姿だ。何万人ものリスナーの真ん中で全力で叫び散らかす彼女の熱量が、画面を飛び越えて、あの頃と変わらない泥臭い火を俺の心に灯してくる。画面の中の彼女は、手の届かない偶像なんかじゃない。今も俺の脈を狂わせ、「お前も泥水になって止まってんじゃねえよ!」と画面越しに背中を蹴飛ばしてくるんだ。あの夏、耳元で響いたシュピシュピという眩しいバグの音は、過去の幻じゃない。俺たちは二度と交わらない境界線の向こうとこちら側で、今も同じ衝動を共有して、それぞれの場所を全力で駆け抜けている。

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