静かな昼下がりのキッチン。癒月ちょこはエプロンの紐をグッと引き絞った。指先から、配信用の「癒月ちょこ」が抜けていく。カウンターのスマホが気になって二度見した。エゴサの誘惑。いや、今日は見ない。画面を上にしたまま放置。完全なプライベート。昨日からSNSで見て頭から離れなかった、あのチンジャオロースを現実に引きずり出す。
片手鍋に水道水をジャーと注ぐ。あ、ちょっと多すぎ。シンクに適当に捨てた。鶏ガラスープの素、薄口醤油、みりんを数滴。「スープはね、最初に少しみりんを入れておくのがちょこ流。味がまろ〜んって落ち着くのよね」低い声が静けさに溶ける。温まった湯に、乾燥わかめをふたつまみ放り込む。海の旨味を強引に引き出すためだ。手のひらの上で豆腐をペティナイフでさいの目に切り、滑り込ませる。弱火に落とし、水溶き片栗粉でゆるいとろみをつけ、最後にごま油。炒め物が完成した瞬間、一番美味しい状態で食べるための先回り。
まな板に向かう。ピーマンは3個。あ、1個ちょっと傷んでる。まあいいや、削れば。ヘタを親指でくり抜き、包丁を横に構えた。繊維を断ち切るようにザクザクと刻む。顎に響くくらいバリバリ言う、最強の食感にする。トントン、と不均等な音が響く。断面から、一瞬だけ生々しい夏の匂いがした。タケノコの水煮は、そこまでこだわらなくていい。適当にトントンと切って、ピーマンの横に雑に避けた。
豚肩ロース肉は、1時間前から冷蔵庫を出して常温に戻してある。野菜と同じ太さに切り分け、ガラスのボウルへ。あえて素手で触る。「ここからが、ちょこ特製の魔法。んふふ」酒、醤油、おろし生姜を指先で肉の繊維の奥まで揉み込んでいく。水分を吸い尽くしたのを見計らい、サラダ油を数滴。これで水分を閉じ込める。仕上げに片栗粉を薄く。この順番なら、外側の片栗粉が後からのせるタレを完璧に吸着する。あ、手がベタベタ。最悪。先に調味料のボトルのフタ、全部開けておけばよかった。少し後悔しながら、肘で蛇口を押し上げて手を洗う。小さな器にオイスターソース、醤油、酒、砂糖、鶏ガラスープの素を合わせ、準備を終えた。
小さなボウルに卵を2個。塩と牛乳を少し。「牛乳を入れておくと、冷めてもふわっふわの、とろっとろになるのよね〜」フライパンに少し多めのごま油を引き、黄色い卵液を滑らせる。一気に膨らむ塊を菜箸で大きく動かし、まだ生の部分が残る半熟で一度ボウルへ戻した。空いたフライパンに乱切りのトマトを入れ、強火でサッと転がす。角が少し丸くなり、果汁がじわりと滲んだ瞬間、卵を戻す。中華だしと塩胡椒を振り、フライパンを大きく煽って小鉢へ移した。「ちょっとつまみ食い……は、まだ我慢、我慢」エプロンの端で手を拭く。
フライパンをペーパーでサッと拭き、いよいよ本番。冷たい油の段階からにんにくと生姜の細切りを入れ、弱火でじっくり香りを油に移す。細かい泡が立ち、香ばしさが支配した瞬間、目が少しだけ真剣になった。「よし、ここからはスピード勝負っ」下味をつけた豚肉を投入。音が跳ね上がる中、菜箸でお肉を一本ずつ解きほぐす。表面が白っぽくなり、八割方火が通ったところで、タケノコとピーマンを一気に重ねた。
強火のまま、手首を返してフライパンを大きく振る。ピーマンが油を纏い、鮮烈なエメラルドグリーンに化ける。「ここで、合わせ調味料を……一気にいっちゃいます!」鍋肌の最も熱い部分を狙ってタレを滑らせると、焦げた醤油とオイスターソースの匂いが爆発的に弾けた。全体が茶褐色のツヤを帯び、お肉の表面の片栗粉がタレをがっちりとホールドする。仕上げにごま油をひと回し。
炊飯器の蓋を開けると、真っ白な湯気が視界を覆った。ご飯もいい感じ。
ランチョンマットへ、器を迷いなく並べていく。左手前に白ごはん、右側にスープ。奥側にトマトと卵の炒め物。中央に圧倒的な熱気を放つチンジャオロースをどっしりと置いた。冷たいお茶をグラスに注ぎ、椅子に腰掛ける。
「それじゃあ、いただきま〜す」
そっと手を合わせ、大本命のチンジャオロースに箸を伸ばす。お肉、ピーマン、タケノコをまとめて口へ運んだ。口元が自然と緩む。横に切ったピーマンは狙い通りパリパリと音を立て、新鮮な水分を弾き出す。油と片栗粉の膜で守られた豚肉は驚くほど柔らかく、噛むたびにジューシーな旨味が溢れた。濃いめのタレがお米の甘みを限界まで引き出していく。噛むのをやめるのがもったいない。「やっぱりね、チンジャオロースと白ごはんの組み合わせは天才的。これ大正解だわぁ……」
箸休めにトマトと卵の炒め物を。卵のふんわりとした甘みのあとから、トマトの爽やかな酸味が弾け、濃厚になった口内を優しく洗ってくれる。そして、先に出汁を出し切っておいたスープを一口。ごま油の香ばしさの奥から、乾燥わかめから引き出された海の香りと、優しいお出汁がじんわりとお腹に落ちていく。喉を通る熱さが心地よく、肩の力が完全に抜けていくのがわかった。
外からは時折鳥の鳴き声が聞こえるだけ。配信でみんなと賑やかに「ガチ恋距離〜!」なんてお喋りしながら過ごす時間も大好きだけれど、自分の作ったお料理と一対一で向き合うこの静けさも、今の自分には等しく必要だった。最後の一口を惜しむように咀嚼し、冷たいお茶を半分ほど飲み干した時。
不意に、スマートフォンの画面が「ピコン」と短く震えた。画面を上にしたままだったから、通知の白い光が容赦なく天井を照らす。マネージャーからのリマインド。あー、見なきゃよかったな。現実の引き戻しに小さく息を吐き出しながら、ちょこはエプロンの紐に手をかけた。「あ、アーカイブのチェック、まだ残ってたっけ……」苦笑しながらも、お腹の底に残る確かな温かさが、不思議と次の仕事への軽い足取りを支えてくれるようだった。椅子を引く音が、静かな部屋に少しだけ雑に響いた。シンクに溜まったフライパンは、夜に洗えばいいや。