【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー Libera me from AI 文体は文学多め。ジャンルごちゃ混ぜ闇鍋パーティー 作:夏目陽光
雨がすべての汚れを洗い流してくれるというのは、三流の感傷小説がつく嘘だ。
硝酸の刺激臭も、凄惨な死体の腐汁の臭いもしない。そんな上等で派手な劇薬は、この湿った路地裏には存在しない。漂っているのは、錆びついたトタン板が吸い込んだ雨水の湿気と、どこか遠くの町工場から風に乗って流れてくる、安物の重油の臭い。それから、俺の指先から立ち上る、フィルターのない巻き煙草の煙だけだ。
築七十年の木造家屋。その一角の土間を強引に改装した俺の店には、今日も今日とてろくな客が来ない。棚に並ぶのは、色褪せたセロファンに包まれた百円のねり飴や、湿気て久しい黒糖菓子。そして、店の奥の薄暗がりに鎮座する、いつから動いていないかも分からない鋳鉄製の黒電話、ゼンマイの切れたアンティークの柱時計、文字盤のいくつかを変形させた古いタイプライターといった、過去の遺物だけだ。
俺の名前は禅。この吹き溜まりのような街で、駄菓子屋兼骨董品屋という、およそ時代の潮流から見捨てられた商売で日銭を稼いでいる。
身に纏うのは、煤けたピンストライプのネクタイに、体に馴染みすぎた黒いジレ。そして、額に落とした影だけが世界の境界線だと主張するかのような、フェドラハット。ハーフボイルド。世間は俺をそう呼ぶかもしれないし、俺自身、その中途半端なぬるま湯のような生き方を否定するつもりはなかった。非情になりきれない男の言い訳。それがこの帽子の鍔の裏に隠された、俺の正体だ。
午前十時を少し過ぎた頃、店先の古びたガラス戸が、軋んだ悲鳴を上げて横に滑った。
入ってきたのは、およそこの薄汚れた路地裏には不釣り合いな、だが同時に、圧倒的な不穏さを身に纏った小柄な影だった。
カラスの濡れ羽を思わせる漆黒のジョーゼット生地のワンピース。胸元で不自然なほどの存在感を放つダークパープルのシルクリボンが、彼女が歩くたびに、まるで生き物のように不規則に揺れている。シフォンプリーツの裾から覗く華奢な脚とは裏腹に、その頭部には、禍々しいとしか表現しようのない巨大な「角」が二本、傲然とそびえ立っていた。
ラプラス・ダークネス。
世界を裏から支配すると嘯く秘密結社Holoxの総帥。それが彼女の自称であり、この街のアンダーグラウンドにおける、もっとも厄介な頭痛の種のひとつだった。
「ふん、相変わらず陰気な店だな、人間。吾輩の崇高な魔力が、この安っぽい木造建築のせいで霧散してしまいそうだぞ」
傲岸不遜な声。しかし、その声のテンポは、彼女が自身の自意識を虚飾で満たそうとすればするほど、早口の銃撃のようにせわしなく刻まれる。動画や配信で見るあのマシンガントークそのままだ。
「悪かったな、総帥殿。うちの結界は安物の杉材でできている。嫌なら表の泥水をすすりながら、世界の支配について考えてりゃいい」
俺はカウンターの奥から動かず、ハットの鍔を指で少しだけ押し上げた。彼女の視線が、店内の棚を、まるで自分の領土を検分する王のように、傲慢に、だが同時に、獲物を探す野良犬のような貪欲さで舐めまわしている。
ラプラスの行動は、常にその肥大化した自意識と、それを維持するための過剰な防衛本能に支配されていた。
彼女は棚の一角に並ぶ、三百円の古びた竹蜻蛉に目を留めた。手垢で汚れたプラスチックのケースに入った、職人の手慰みのような代物だ。彼女はそれを手に取ると、わざとらしく鼻で笑った。
「なんだこれは? 原始的な飛行兵器か? 吾輩の魔力をもってすれば、このような玩具を使わずとも、大気そのものを操って世界を焦土に変えられるのだがな」
「そうかい。だがそいつはただの玩具だ。しかも、そこの羽のバランスが悪くてな。そのままじゃ、ろくに飛びやしねえ不良品だ」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ラプラスはフンと顎をそらし、懐から、およそ玩具の包装を破るには不釣り合いな、研ぎ澄まされた小型のナイフを抜いた。
「言われるまでもない! 吾輩の完璧な演算能力をもってすれば、このような不完全な兵器など、一瞬で至高の領域へと導いてみせる!」
それが彼女の「クソガキらしい行動」だった。他人の指摘を素直に受け入れられず、自分の全能感を証明するために、頼まれてもいない勝負に勝手に飛び込んでいく。
ラプラスは土間の隅にある、苔むした手水鉢の縁に腰を掛け、ワンピースの裾が泥で汚れるのも構わずに、竹蜻蛉の木肌にナイフの刃を当てた。
カリ、カリ、と乾いた音が、静まり返った店内に響き始める。
俺はそれを横目で睨みながら、カウンターの引き出しの奥にある、冷たいリボルバーの安全装置を親指の腹で確かめた。密室の緊張。この少女がどれだけ滑稽に、無防備に見えようとも、彼女の後ろには底知れない闇の組織が存在する。いつ、どの路地から別の「刺客」が牙を剥くかは分からない。それがこの街の、最低限のルールだ。
一時間が経過した。
ラプラスの作業は、当初の威勢の良さとは裏腹に、次第にその手元に「焦り」を滲ませていた。刃物を持つ手の微かな震え。彼女は無意識のうちに、集中が途切れると自分の前髪を指先で激しく弄り、その毛先を小さく噛むような仕草を見せていた。
それは彼女の「無意識の行動」だった。自意識の鎧が少しでも揺らぎそうになると、幼児が母親の温もりを求めるかのように、自身の体に触れることで辛うじて自己を保とうとする、痛々しいまでの退行現象。
「おい、総帥殿。手元が狂ってその細い指を切り落とす前に、少しは休んだらどうだ。そろそろ昼飯の時間だぜ」
俺がそう声をかけると、ラプラスはびくりと肩を跳ね上げ、ナイフを握る手に力を込めた。
「な、何を言うか! 吾輩は、ただ……この兵器の空気抵抗を極限まで減らすための、精密な調整を行っていただけだ! 貴様のような凡俗に、吾輩の深謀遠慮が理解できるはずもない!」
早口のセリフ。しかし、その声は空腹のせいで、わずかに張りを失っていた。
「そうかい。なら、俺は一人でもんじゃ焼きでも食うとするさ。奥の畳が空いてる」
俺はカウンターの後ろにある長火鉢に火を入れ、鉄板を載せた。キャベツを刻むトントントンという小気味よい音が、店内の湿った空気をわずかに弾ませる。ウスターソースの香ばしい、そして暴力的な匂いが土間に広がると、ラプラスの鼻腔がピクリと動いたのを、俺は見逃さなかった。
彼女はプライドを捨てきれない足取りで、しかし匂いに抗うことができず、のそのそと土間から畳の部屋へと上がってきた。ワンピースの裾を乱暴に払うその仕草には、育ちの悪さと、それを隠そうともしない不遜さが同居している。
「ふ、ふん……。人間がそこまで吾輩に慈悲を乞うのであれば、その奇妙な平民の食物とやらを、毒見してやらんこともないぞ」
「ありがたいこってす、総帥殿」
俺は皮肉を込めてハットを軽く傾け、鉄板の上に油を引いた。
ジュウ、という激しい音が、店の片隅に置かれた真空管ラジオの、雑音混じりの音声を掻き消していく。
ラジオからは、低く抑えられたアナウンサーの声が流れていた。
『――次のニュースです。昨夜未明、区内の繁華街において、歩行中の男性が、あたかも空気中に溶けるかのように忽然と姿を消す事件が発生しました。目撃者の証言によると、事件の直前、現場周辺では奇妙な漆黒の霧が立ち込めていたとのことで、警察では――』
ラプラスは畳の上に横座りになり、そのニュースに一瞬だけ耳をそばだてた。彼女のワンピースの袖口には、ねり飴の粘ついた汚れとは明らかに違う、どす黒い小さな染みが付着していた。それが何者の血であり、何者の終焉を意味しているのか、俺は敢えて思考を放棄した。この街では、人が消えるなど、雨が降るのと同じくらい日常茶飯事だ。それが何者の仕業であれ、俺の鉄板の上にあるもんじゃ焼きの焼き加減には関係がない。
「ねえ、人間。人が消えるって、どんな気分だと思う?」
ラプラスが、もんじゃ焼きの土手をスプーンで突つきながら、不敵な、だがどこか底の抜けたような笑みを漏らした。
「さあな。溶けた奴にしか分からんさ。ほら、出汁を流し込むぞ。溢れさせるなよ」
俺は鉄板の中央に作られたキャベツの土手の中に、白い出汁を流し込んだ。ジュワ、と湯気が立ち上り、ラプラスの顔を白く覆う。彼女は熱気に顔を顰めながらも、小さなヘラを両手で握りしめ、鉄板の上に広がる茶色の液体を、まるで未知の生物を警戒する野良猫のように注視していた。
「あふっ、あつっ……! む、美味いではないか、人間! これは、吾輩の領土における標準食に指定してやってもよいぞ!」
ハフハフと口を動かしながら、彼女は必死にヘラを動かす。口調こそ総帥のそれだが、その食べ方はただの飢えた子供のそれだった。焦げ付いたソースの匂いが、ラジオの不穏なニュースを完全に塗りつぶしていく。
食べ終わる頃には、ラプラスの顔には明らかな疲労の色が浮かんでいた。午前中の竹蜻蛉削りと、慣れない熱い食事。そして、常に周囲を警戒し、自身の「総帥」としての記号を維持し続けようとする精神的な摩耗。
彼女の小さな頭が、こっくり、と揺れた。
「吾輩は……まだ、眠ってなど……世界を……征服……」
「寝ていいぞ、総帥殿。ここは安全だ。俺が保証する」
俺は引き出しの奥にある拳銃の安全装置を親指で再度確かめ、窓の外の追手や、組織の電脳追跡の可能性を視野に入れながらも、静かに空いた皿を片付け始めた。外では人が消えるような街だ、いつ牙が剥かれるかは分からない。だが、少なくともこの築七十年の古い家屋の畳の上だけは、俺のハーフボイルドなプライドが、彼女の安眠を守る盾となる。
ラプラスは、右手で自分が削りかけの竹蜻蛉をぎゅっと握りしめたまま、畳の上に倒れ込むようにして眠りに落ちた。その寝顔は、世界を征服せんとする悪の組織の首領などではなく、ただの、愛されたいと願う寂しがり屋の子供そのものだった――などという甘い言葉は、俺の文体には存在しない。ただ、無防備な肉塊が、そこに転がっている。それだけだ。
夕方になり、雨が本格的に路地裏を叩き始めた頃。
店のガラス戸が、昼間よりも静かに、しかし明確な意思を持って開かれた。
入ってきたのは、漆黒のタイトスカートに、軍服を思わせるカッチリとしたジャケットを羽織った、長身の女だった。
鷹嶺ルイ。
Holoxのナンバー2。この組織の実質的な最高権力者であり、ラプラスの「保護者」でもある。
彼女の目は完全に裏社会を回す冷徹なナンバー2のそれだった。店内の黒電話やタイプライターといった骨董品には一瞥もくれず、ただ一直線に、奥の畳で眠るラプラスへと視線を向けた。
「お迎えが早いな、女幹部殿。うちの店は、まだ閉店時間じゃねえよ」
俺はカウンターの奥で煙草を揉み消し、帽子を深く被り直した。
ルイの表情は冷たい。彼女は元の冷酷な目をさらに細め、眠るラプラスの首筋に刻まれた、微かに発光する「呪印」を冷酷に確認した。組織の最高機密であるその印に、俺のような部外者の視線が触れることすら、一歩間違えれば殺し合いになるかもしれない一瞬の視線の火花を散らす。
「……本当に、手のかかる子供です」
ルイはふっと冷たい、だがどこか歪んだ笑みを漏らし、ラプラスの華奢な身体を、まるで壊れやすい硝子細工でも扱うように、抱き起こした。
「ありがとうございました、マスター。この子の『棘』を、少しだけ丸めてくださって。……ですが、次、この子に余計な真似をしたら、あなたも『空気の中に溶ける』ことになるわよ」
「俺はただの、ハーフボイルドな店主さ。街の迷子に、三百円の竹蜻蛉の作り方を教えただけだよ。余計な火の粉はごめんだ」
ルイは何も答えず、眠ったままの総帥を背負い、雨の降る路地裏へと消えていった。
俺は一人、静まり返った店内に残された。
鉄板の上には、もう何も残っていない。
これでいい。男の仕事は、いつだって報われないものさ。
俺はハットの鍔を指で弾き、再び、終わりのない夜の闇へと視線を向けた。