【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー Libera me from AI 文体は文学多め。ジャンルごちゃ混ぜ闇鍋パーティー 作:夏目陽光
どこからともなく湧き出た雲が、杉の巨木の梢を隠すようにして這い回り、足元の黒い土は昨日の雨をたっぷりと吸い込んで、まるで底なしの沼のように我が靴を引っ張る。このような陰惨とも言える湿気の中を、なぜわたくしがわざわざ重い画架を背負って登らねばならぬのか、今となっては自分でもよく分からない。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。ある小説の、妙に小難しい、けれどどこか脳裏にこびりつく言葉を思い出したのは、他でもない、この筑波山の御幸ヶ原コースという、初心者向けという甘言に満ちた山道が、あまりに容赦なくわたくしの太ももをいじめてくるからであった。トスカーナの乾いた、どこまでも透き通った夏の太陽が今さら恋しくなる。あちらの光はすべてを明瞭に、残酷なまでにくっきりと描き出すが、この常陸の国の空気は、まるで生ぬるいスープのように粘り気があり、衣服を肌に縫い付けて離そうとしない。
「ふう……っ、ふう……。ちょっと、これ……本当に、ハイキング、なのかな……?」
緑の迷宮のただ中で、わたくしの口から零れ落ちた声は、いつもの配信でみんなが「おねんねのテンポだ」などとからかうあの穏やかさを完全に失っていた。細く、ちぎれそうな呼吸の合間に、どうにか言葉の形を取り繕うのが精一杯である。一歩を刻むごとに、太ももの大きな筋肉がみしりと言い、膝の皿が小刻みに震えた。日頃、空調の効いた室内でペンタブレットの滑らかな硝子の上にだけ滑らせていたわたくしの指先は、今やこのむき出しの、ごつごつとした花崗岩と杉の根がのたうち回るリアリティの前に、ただただ圧倒されて、泥にまみれるのを待つばかりだった。
今日のわたくしは、いつものあの黒く引き締まった、ゴシックで完成された装いをクローゼットの奥に仕舞い込んできた。この日本の、肌にべったりと吸い付くような湿気を本能的に警戒したためである。代わりに身に纏ったのは、薄手で風通しの良い、ペールトーンのピンクと白が溶け合うルーズなフード付きパーカーであった。
「あつい、なぁ……」
気がつけば、右手の手指が空中で小さく円を描いていた。これは画布に向かう前や、何か面白い造形を見つけたときに自然と出てしまう、自分でも制御できない癖なのだが、いまはその指先も、額から流れる大粒の汗を拭うためにしか使われず、すぐに力なく垂れ下がった。じっとりと背中に張り付いたパーカーの生地を浮かせようと、胸元をパタパタと煽るが、入ってくるのは山の濃厚な青臭い匂いと、ぬるい水蒸気だけだった。
震える手で大きめのフードをぐっと深く頭に被り直した。
視界を狭めるためである。このまま上を見上げてしまえば、まだ延々と続くらしい緑の絶壁に心がポキリと折れてしまうのが分かった。フードの影に顔を隠し、ただ自分の足元の、湿った土の茶色と、そこに混じるきらきらとした長石の微粒子だけを凝視して進む。
(でも……もし、ここでわたくしが泣き言を言って転がり落ちたら、みんな、なんて言うかな。『ラオーラ、やっぱりおねんねの時間だね』って、からかわれるに決まってる。それは、ちょっと……いや、すごく恥ずかしい……。班長としての威厳が、迷子になっちゃう)
汗の塩分とともに脳裏をかすめるそんな思考に、自らの尾の先が、パーカーの裾の裏側で不安げにぴこぴこと揺れる。わたくしはもう一度、重い足を前に踏み出した。
ここまでの道程で、わたくしの精神を最も摩耗させたのは、肉体の疲労それ自体よりも、むしろ執拗に顔の周りを飛び回る、名前も知らぬ小さな羽虫の一群であった。黒い点のような彼らは、わたくしが呼吸を乱して熱い息を吐き出すたびに、その二酸化端素の温もりに引き寄せられるようにして、目の前を乱舞する。手で払っても、フードをどれほど深く被り直しても、耳元で「ぷーん」という微小な羽音を立ててまとわりつき、視界の端をちろちろと掠めていく。
「もう、あっち行ってよぅ……」
終いには声を出す気力もなくなり、ただ不機嫌に口を尖らせるしかなかった。さらに悪いことに、さっきの急斜面で靴の隙間から滑り込んだらしい、小さな花崗岩の欠片が、右足の親指の付け根あたりで、歩くたびにチクチクと不快な主張を繰り返している。靴を脱いで砂を払うそのひと手間さえ、今のわたくしには、途方もない大仕事のように思えて忌々しい。こうした、絵画の美しさとは1ミリも関係のない、泥臭い現実のノイズこそが、非人情の旅を目論む画工の足を引っ張る。
筑波山という山は、遠目には優美な二つの耳を持つ猫の頭のようにも見えて、どこか親しみやすい調和を保っているように思える。しかし、その胎内を這う者にとっては、ここは巨大な岩石の怪物がうごめく彫刻の森であった。
「弁慶七戻り」と呼ばれる、今にも頭上から崩れ落ちそうな巨岩の隙間に差し掛かったとき、わたくしは思わず足を止め、その圧倒的な量塊を見上げた。花崗岩の表面は、何千年の時を経て荒々しく削られ、その窪みという窪みには、日本の梅雨が残していった深いエメラルド色の苔が、じっとりと、けれど生き生きとした湿り気を帯びて張り付いている。
ふと見れば、崩れかけた社の下、濡れた岩の窪みに小さな水溜まりができていた。その底を覗き込もうとして、わたくしは思わず息を呑んだ。水鏡に映っていたのは、汗にまみれ、息を乱した情けない自分の顔――の、すぐ隣で、猫のそれによく似た、けれどはるかに獰猛で、同時にこの上なく優美な一対の耳が、湿った山の風を捉えてぴくぴくと小刻みに震えている姿だった。トスカーナの陽光を浴びて育った、あの野生の豹の、神聖で、かつ冷徹なまでの美しさが、泥に汚れたはずの己の輪郭のあちこちに、残酷なほどの鮮烈さで宿っている。自分の肉体でありながら、その異質な、けれど完成された造形の美しさに、わたくし自身がほんの一瞬、魂を奪われて立ち尽くしてしまった。
この奇異なる岩の割れ目を見つめていると、ふと麓の看板に書かれていた「がまの油」の伝承が頭をよぎった。己の醜い姿を四面の鏡に囲まれ、驚き恐れてたらりたらりと流した冷や汗を煮詰めたもの。それがこの山の有名な妙薬なのだという。鏡に映った己に怯えるカエルの姿を想像すると、気の毒ながらもどこか愛らしく、不思議な可笑しみが込み上げてくる。いま、この大自然の威容に圧倒され、己のあまりの無力さにじっとりと冷や汗を流しているわたくしの姿は、まさにあの四六のがまと少しも変わらないではないか。わたくしもこのまま油になってしまえば、この足の痛みも消えてなくなるだろうか。そんな奇妙な親近感を覚えながら、衣服に滲む汗を小さく呪った。
足の裏の不快な小石の痛みが、一瞬の思考の隙を突いて脳を刺す。しかし、その苦痛の直後、ハッと息を呑むような瞬間が訪れた。岩の隙間から差し込んだ一筋の光が、苔の群生を照らし出したのだ。
(あ……この緑、きれい……)
それまでの絶望が嘘のように、頭の中の雑音が静まり返る。わたくしの脳内にある色の引き出しが、音を立てて開き始めた。この苔の、奥深くにある影の暗がりは、決して単なる黒ではない。かつてフィレンツェの古い教会で見かけた、夜の帳のような深い青。そこに、ほんの少しだけ焦げ茶色の沈殿物を混ぜ合わせ、さらにこの日本のまとわりつくような湿った空気の層を表現するためには、わずかに濁った紫色を重ねなければ、この空気感は出ない。デジタル画面の、あの均一で清潔な光の三原色では、この泥臭い物質の重みは絶対に表現できない。
「ふふ……おもしろい。これ、どうやって描こうかな……」
言葉のテンポが、自然といつもの穏やかな、一つ一つの音を確かめるような速度に戻っていく。手が、リュックサックの中のスケッチブックを求めてかすかに動いたが、いや、まだここではない。もっと高いところへ、この世界のすべてが見渡せる、あの頂へと行かなければ、この衝動は本当の形にならない。
再び歩き出す。相変わらず喉はゼーゼーと鳴り、パーカーのフードの中は蒸し風呂のようだったが、わたくしの眼は、周囲の木々の葉の重なり、岩肌のひび割れ、空中を浮遊する金粉のような塵のきらめきを、貪欲に網膜へと焼き付け続けていた。
男体山と女体山の分岐点である御幸ヶ原へ辿り着いたときには、山の上の空気はいくぶん水分を減らし、通り抜ける風にわずかな涼しさが混じるようになっていた。観光客の笑い声や、茶屋から漂う醤油の焦げた香ばしい匂いが、非人情の世界に浸りかけていたわたくしの感覚を、ふっと現実の、愛おしい人間の世界へと引き戻す。
(あ、お団子……すごく美味しそう……。みたらしかな、それとも磯辺焼きかな……。いや、だめ、描くのが先。描いたら、二本食べる。ううん、三本食べちゃうんだから)
そんな可愛いらしい食い意地を脳内で爆発させながら、わたくしは最後の目的地、女体山の山頂へと続く険しい岩場へ向かった。
最後の手すりを握り、一歩、また一歩と、すっかり泥に汚れた靴底で岩を噛む。花崗岩のざらざらとした、どこか温かみのある感触が、手のひらを通してダイレクトに伝ってくる。そして、最後の視界を遮っていた巨岩を回り込んだ。
だが、頂に立った瞬間にわたくしを襲ったのは、瑞々しい感動などではなかった。ただ、圧倒的な疲労の塊だった。膝ががくがくと笑い、視界の端が白く明滅する。肺が酸素を求めてひび割れたふいごのように鳴り、景色を見る余裕などどこにもない。わたくしはその場にリュックサックを投げ出し、岩肌にごろりと横たわった。パーカーのフードが頭から外れ、じっとりと濡れたピンクの髪が、冷たい風に煽られて顔にへばりつく。天を仰いだまま、数分間、ただ荒い呼吸を繰り返した。心臓の激しい鼓動が耳の奥で太鼓のように鳴り響き、それが次第に、山の静寂と同化していくのを待った。
ようやく上体を起こしたとき、初めて、その世界が眼前に滑り込んできた。
「あゝ……なんと、素晴らしい、世界……」
その言葉は、もはや配信のカメラを意識したものでも、誰かに向けて繕ったものでもない、わたくしの魂の底から絞り出された、純粋な讃美の息づかいであった。
眼下に広がる関東平野は、夏の強烈な湿気を含んだ空気の層によって、どこまでも、どこまでも、淡い青の霧の彼方へと融けていっている。遠くに見える霞ヶ浦の輪郭は、陽光を反射して、まるで熟練の職人が画布に落とした一本の細い銀の箔のように、静かに輝いていた。地平線は緩やかな弧を描いて、この世界が地続きであることを示し、その上には、言葉を失うほどに巨大な入道雲が、まるで意志を持った漆喰の彫刻のように、もくもくと、圧倒的な質量感をもって聳え立っている。
イタリアの光は、すべてを残酷なまでにくっきりと描き出す。けれど、この筑波山から見下ろす日本の光は、湿気という名の、巨大な水の筆で、世界を優しく、曖昧に、けれどこれ以上ないほどに滲ませている。
わたくしは、泥に汚れることなど目もくれず、スケッチブックを膝の上に広げた。
手にした鉛筆を持つ指先は、長時間の登山のせいでまだ小刻みに震えている。けれど、その震えさえも、いまのわたくしには愛おしかった。機械のように完璧な、ブレのない線など、この圧倒的な自然の前には何の価値もない。この肉体の疲労、この乱れた息づかい、指先の微細な揺らぎ、それらすべてが、紙の上に落とされる黒いグラファイトの線の中に、泥臭い、そしてこの場所でしか生まれ得ない足跡となって刻み込まれていく。
カリ、カリ、カリ……。
静かな山頂に、鉛筆が紙の繊維を削る音だけが、わたくしの呼吸と同期しながら響き始める。
まず、あの大胆な入道雲の輪郭を、大きく、大らかに捉える。わたくしの思考は、すでに自らの身体という境界線を失い、目の前の青い霞そのものへと溶け出していた。
「ここは、もっと……優しく。そう、焦らないで、ゆっくりね……」
独り言が、いつもの、あの少し語尾の伸びるテンポで漏れる。
(……あ、でもやっぱり、お団子の匂い、まだここまで漂ってくる気がするな。お腹、すいちゃった)
絵筆を動かしながらも、ふっとそんな雑念が頭をもたげる。世界は美しく、そしてやはり、わたくしはどこまでも俗で、愛おしい生身の存在なのだった。そんな己の小ささに苦笑しながらも、だからこそ、言葉は、この世界の美しさを切り取るにはあまりに不自由で、あまりに狭いのだと思う。だからこそ、わたくしはこうして色を置き、線を引くのだ。
パレットの固形水彩に筆を浸し、水をたっぷりと含ませて青を溶かす。
紙の上に置かれた一滴の絵の具が、平野の霞を、空の広がりを、見る見るうちに吸い込んで、美しいグラデーションを描き出していく。
完璧な絵を描こうなどとは思わない。ただ、この筑波山の頂で、肉体の限界の先に出会った「この世界の美しさ」を、わたくしというフィルターを通して、ほんの少しだけ世界へと還してあげたい。その純粋な祈りのような心地が、筆を動かす腕を満たしていた。
描き終える頃には、山の端に、うっすらと茜色の絵の具が混じり始めていた。
スケッチブックを閉じ、ふう、と、今日一番の、深い、充実したため息を吐き出す。
汗に濡れたピンクの髪を、筑波山の、少し涼しくなった夕方の風が優しく撫でて通り過ぎていった。
達成感に浸るわたくしの元へ、一匹の小さなアマガエルが跳ねてきて、スケッチブックの隅にちょこんと乗った。
「……にゃ、にゃあ!?」
よりによって、かつてフィレンツェの石畳で犬に吠えられた時でさえ出さなかったような、酷く情けない悲鳴が、山の静寂をぶち壊して響き渡る。その場で激しく飛び退いてしまったわたくしは、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、指の隙間からこっそりカエルを睨みつけた。
肉体は確かに疲弊し、明日の筋肉痛は免れそうにない。
けれど、心の中の泉は、かつてないほどに澄み切っていた。
住みにくい人の世であるからこそ、こうして自然の美しさに魂を浸し、それをまた、画面の向こうで待っている「みんな」へと届ける。それこそが、わたくしがこの極東の島国で見つけた、たった一つの、確かな生きる意味なのであった。