【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー  Libera me from AI 文体は文学多め。ジャンルごちゃ混ぜ闇鍋パーティー   作:夏目陽光

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水底の王冠

重苦しき大気は澱み、冷え切ったコンクリートの壁が、じっとりとした湿気と、鼻を突く塩素の臭いを、絶え間なく吐き出し続けている。密閉された貸切の室内プールは、外の世界の時間を完全に遮断し、ただ重苦しい水の匂いだけを空気の底に沈めていた。硝子天井の向こうは、救いようのない曇天なるべし、そこから漏れ出る光は、まるで血を失った死者の眼差しの如く、生気なく水面にへばりつく。とき折、天井から床へ、耐えかねたように滴る一滴の結露。その「ぴつん」という湿った破裂音だけが、広すぎる空間に虚しく響いていた。

 

その、死んだように平坦な水面の上で、雪花ラミィはただ無造作に、自らの肉体を放り出していた。

 

画面の向こうで数万の視線を集めるあの、完璧に整えられた薄群青の髪は、今は水分を限界まで吸い込み、まるで意志を持たぬ藻屑のように彼女の首筋や、白すぎる鎖骨にべたりと絡みつく。彼女が身に纏うのは、公式の立ち絵で魅せるあの高貴な雪の結晶の意匠を極限まで削ぎ落とし、ただ実用性と、ほんの少しの諦念だけで選ばれたような、深い夜を思わせるディープブルーのワンピース水着。胸元を飾るはずだった純白のレースは、濡れた重みで憐れなほどに潰れ、彼女の華奢な胸部を容赦なく圧迫している。隠すことでかえって浮き彫りになる、肩から二の腕への肉の薄さ、あるいはそれに反比例するような腰回りの柔らかな女性特有の曲線。しかし、その肉体には、いつもの配信でリスナーを虜にするような「見られるための色香」など微塵もない。ただ、冷たい水に体温を奪われ、皮膚が粟立っていく生々しい生物としての輪郭が、そこには晒されていた。

 

「……はぁ」

 

唇の隙間から、言葉にもならぬ濁った呼気が零れ落ちる。それは、いつもの配信でリスナーのコメントに「もう、何言ってるの!」と声を弾ませてみせる、あの計算された愛らしいテンポとはおよそかけ離れた、ただの肉体的な排泄に近い。彼女の喋り方のテンポは、完全に崩壊していた。脳の片隅では、何かを発しなければ、場を繋がなければという、長年の配信活動で培われた無意識の強迫観念が、錆びついた釘のように突き刺さっている。しかし、喉の奥の筋肉が、凍りついたように動かない。言葉を探そうとするたびに、ただただ重い沈悶の間が、引き延ばされた影のように不格好にのしかかる。

 

彼女の右手の指先が、痙攣するように、濡れて頭皮に張り付いた髪の毛をきつく掴んだ。いつもの癖。指先で毛先をくるくると弄る、あの愛らしい仕草の無残な残骸。濡れた髪は指に絡みつき、ただ頭皮を不快に引っ張るだけで、なんの慰めにもならない。彼女はその手を、まるで他人の肉体の一部であるかのように、諦めて再び水の中へと放り出した。その行動には何の優雅さもない。ただ、身体が、脳が、動くことを拒絶している。その、人間らしい泥臭い疲労だけが、今の彼女の全宇宙であった。

 

薔薇の蕾が朝露の重みに耐えかねて身を震わせるが如く、彼女の濡れた睫毛の端に留まる水滴は、いまにも零れ落ちんとして留まり、少し開いたままの小さな唇は、寒さと恐怖のゆえか、小刻みに、あたかも生まれたばかりの小鳥の羽のごとく震えている。その痛々しいまでの脆さは、観る者の胸を締め付けるどころか、触れればたちまち霧となって消え去るのではないかという、言い知れぬ恐ろしき可憐さを宿していた。これほどまでに繊細にして、かつ今にも崩れ落ちそうな造形が、かつてこの世に存在しただろうか。冷たい水底に横たわる彼女の姿は、ただそこに在るだけで、周囲の凍てついた大気を甘やかに溶かし、現世のあらゆる醜悪さから隔絶された、無垢なる美の極致を体現している。雪の精霊がその最高傑作として現世に遣わしたかのような、言葉を失うほどの愛らしさが、ただ静かに、世界の片隅で息絶えるように震えていた。

 

画面の向こうの、あの無数の赤い光の点。チャット欄を狂ったように流れていく文字の濁流。あれは、本当に現実なのだろうか。雪の一族の末裔として、気高く、かつ誰よりも慈愛に満ちた存在であらねばならぬという、自らが選び、あるいは血が求めた「誇り」。その誇りという名の、あまりにも重い衣装を纏うために、彼女はどれほどの言葉を、針の穴に通すような精密さで選び続けてきたことか。誰も傷つけず、誰もが笑顔になれる場所。それを維持するための細き指先は、今や、水の中で完全にその感覚を失いかけている。劇作家の描く悲劇の王たちが、王冠の重みに頭蓋を締め付けられ、玉座の下の針に気付きながらも、微笑んで立ち続けねばならなかったように、彼女もまた、自らが作り上げた「完璧な癒やし」という名の偶像の重さに、息を詰まらせていた。

 

「……も、どらなきゃ。……あ、でも」

 

ぽつりと言葉が零れたが、その語尾は自らの喉に引っかかり、消えた。彼女の無意識の喋り方は、他者を意識しない空間において、恐ろしきほどに平坦で、生気を欠いている。リスナーが愛してやまない、あの少し高めの、耳に心地よく響く「ラミィちゃん」の声音は、今や、この冷たいプールの底に沈んだ、動かぬ貝殻のなかに閉じ切られていた。

 

「……神様、みんなが。みんなが、笑顔で……。ラミィの、ラミィのこの声が、届く場所が、どうか、ずっと優しいままでありますように……」

 

それは、配信の終わりにいつも祈るような、あるいは動画の向こうのリスナーへ向ける、あの慈愛に満ちた聖母の如き祈りの、剥き出しの原型。誰に聞かせるでもない、この暗い水の底で、彼女の無意識は、自らの存在理由を繋ぎ止めるためだけに、その細い祈りを喉の奥で震わせていた。しかし、その祈りすら、今の彼女の肉体にとっては、肺を圧迫する苦痛に他ならない。

 

人間らしい疲労は、彼女の五感を均一に麻痺させてゆく。水着のディープブルーは、プールの深い青と溶け合い、彼女の肉体はその境界を曖昧にしていく。仰向けになり、耳を完全に水に浸すと、世界のすべての音が消え去った。聞こえるのは、自身の肋骨の裏で、どくん, どくん, と、驚くほどゆっくりと、あるいはどこか投げやりなテンポで打たれる、心臓の音だけ。それは、終幕を迎えた劇場の、誰もいない客席に響く足音のよう。

 

これが、彼女の内しょう。自らの誇りと、自らの限界が、暗い水底で静かに交差する場所。

 

彼女は、お酒を飲んで、その感覚を濁らせることを、今日の自分には許さなかった。なぜなら、その霧の向こうにある救いは、明日、再びあの光の中に立つための、本当の力にはならないことを、彼女の誇りが知っているからだ。今の自分があの甘やかな琥珀色の液体を喉に流し込めば、胃の底から這い上がる生々しい拒絶感と吐き気に、ただ無様に打ちのめされるだけだと、冷え切った身体が本能で察知していた。ただ、今お酒の匂いを嗅いだら、本当にここで胃液を吐いてしまう。そんな最悪に生々しい、泥臭い人間の生理的な恐怖が、彼女の脳裏を過り、彼女は小さく身震いした。彼女は、この汚れなき、開いたままの意識のままで、自らのなかの「空っぽ」の深さを、一歩ずつ、冷酷に測らなければならなかった。

 

「みんな、待ってるかな……」

 

それは、問いかけというよりは、ただの確認。彼女の喋り方のテンポは、さらに遅くなる。一音を出すのに、まるで深い井戸から泥水を汲み上げるような労力を要している。無意識に、彼女は自らの柔らかな唇を、痛むほどに噛み締めた。唇の端から赤みが消え、白くなっていく。その不完全な表情こそが、彼女が今、ただの記号ではなく、血の通った一人の少女として、ここで苦しんでいることの証拠。

 

水着の胸元にあしらわれた純白のレースが、彼女の浅い呼吸に合わせて、小さく、不規則に上下している。その微かな動きは、まるで凍てついた湖の底で、辛うじて生き長らえている小さな魚の、エラの動きのようでもあった。彼女の容姿が持つ、あの圧倒的な美しさは、この暗がりの空間においては、かえって、その持ち主を苦しめる枷のように見える。美しすぎることは、それ自体が、静かな絶望を引き寄せる磁石。

 

思考は、さらに深く、光の届かない領域へと沈んでいく。

 

(このまま、誰も私を見つけなければいいのに。この水の青さに、私のすべてが吸い尽くされて、ただの綺麗な泡になってしまえば、どれほど楽だろう)

 

それは、彼女の誇りが、決して口にすることを許さぬ、しかし、彼女の無意識が、夜毎に紡ぎ出す甘美な破滅の誘惑。完璧な「雪花ラミィ」という偶像を生かすために、今ここで息を絶え絶えにしている、この生身の少女は、徐々に殺されていく。その、音のない、しかし確実な内なる闘争が、静かな貸切プールの中で、ただ静かに続けられていた。

 

彼女は、水中で、力なく指先を動かした。何かを掴もうとするわけではない。ただ、水の冷たさを確認するためだけに。だが、指の間をすり抜けていく水は、彼女に何の答えも与えない。彼女は、自分がどれほど無力であるかを、この孤独のなかで、嫌というほど思い知らされていた。どれほど多くの人々に囲まれ、愛されようとも、この、自分自身の魂と対峙する瞬間において、彼女を救える者、その重荷を肩代わりしてくれる者など、この世のどこにもいない。

 

「……だめ。そんなの、ラミィじゃない」

 

現代の、少し尖った、しかしひどく脆い言葉が、自らを縛る鎖のように発せられた。彼女は、ゆっくりと身体を起こし、プールの縁へと泳ぎ寄った。その動きは緩慢で、まるで水に濡れた重い衣服を引き摺っているかのよう。大理石の縁に頭を預けると、薄群青の髪から水滴が滴り、彼女の額を、頬を、あるいは細い鎖骨へと、冷たい線を引いて伝い落ちた。その一滴一滴が、彼女の体内で澱んでいた、現世の毒素のよう。

 

劇作家の描く悲劇の主人公たちが、己の運命の過酷さに天を仰ぎ、言葉の限りを尽して神々を呪ったように、彼女の地の文は、その沈黙の苦悩を饒舌に物語っている。しかし、彼女の口から出るのは、あくまでも現代の、静かな、諦念と小さな決意が混ざり合った、短い言葉だけ。この、文体と言葉の乖離こそが、彼女が生きる現代という時代の歪みであり、彼女が背負うVTuberという存在の、切実なリアリティであった。

 

彼女の喋り方のテンポは、すぐには戻らない。呼吸は依然として浅く、胸元を締め付ける水着の重みは、彼女の体力を確実に奪い続けている。無意識のうちに、彼女は自らの水着の胸元を整えようとしたが、指先がうまく動かず、レースの端を少し弄っただけで諦めてしまった。誰も見ていない、誰も評価しないこの場所においてすら、彼女は「美しくあること」の呪縛から、完全に解き放たれることはない。誇りは、すでに彼女の肉体の一部となっており、それを剥ぎ取ることは、彼女の生命そのものを終わらせることに等しかった。

 

「……もうちょっとだけ、こうしてよう」

 

呟きは、誰に聞かせるものでもない。彼女は、再び目を閉じ、プールの縁に身を委ねた。人間らしい疲労は、何一つ解決していない。肉体は鉛のように重く、魂の摩耗は、明日になればまた加速する。しかし、彼女はその疲労を、排除すべき敵としてではなく、自らが戦い続けてきたことの、唯一の勲章として、静かに受け入れようとしていた。それこそが、雪花ラミィという一人の女性の、真の気高さ。

 

水面は、彼女の激しい内省を静かに飲み込み、再び元の、鏡のような静寂を取り戻していく。ガラス窓からの光が、彼女のディープブルーの水着を照らし、一瞬だけ、彼女の身体が、夜空に浮かぶ孤独な星のように輝いた。揺蕩う時間は、ゆっくりと、あるいは確実に、その終わりへと向かっていた。

 

彼女は、すぐには立ち上がらなかった。立ち上がれなかった、と言うべきか。

 

肉体にしみついた疲労は、彼女の想像以上に深く、その華奢な両脚は、大理石の床を踏みしめるだけの力を、まだ取り戻していなかった。水着から滴る水が、静かに、しかし絶え間なく床へと落ち、小さな水たまりを作っていく。彼女は、その水たまりを、ただじっと見つめていた。

 

「明日、みんな、どんなお話してくれるかな」

 

その言葉には、先ほどまでの絶望的な響きはなかった。しかし、同時に、かつての完璧な「偶像」としての、あの弾んだ明るさもなかった。それは、疲弊した現世の人間が、辛うじて未来に繋ぎ止めようとする、細い、しかし切れない糸のような言葉。彼女の喋り方のテンポは、依然として遅いままであったが、その中には、確かに彼女自身の意志が、静かに宿り始めていた。

 

彼女は、ゆっくりとプールの階段を上った。一歩進むごとに、水着の重みが彼女の身体を引き摺り下ろそうとする。純白のレースは、すっかりその形を失い、彼女の肌に張り付いたままであったが、彼女はそれを気にする余裕すらなかった。ただ、一歩、また一歩と、現世の光が待つ出口へと、その重い足を進めていく。

 

壁に掛けられた鏡の中に、自らの姿が映った。そこには、髪を乱し、唇の色を失った、一人の哀れな女の姿があった。しかし、彼女はその姿から目を背けなかった。劇作家が「己を知る者は、いかなる王よりも偉大である」と書いたように、彼女は今、自らの最も脆弱な部分を、その瞳に焼き付けていた。

 

「よし。……いかなきゃ」

 

現代の言葉が、自らに言い聞かせるように、短く発せられた。彼女は、備え付けられた白い大きなタオルを手に取り、それを乱暴に肩から羽織った。ディープブルーの水着とその上のレースは、一瞬にして白い布の向こうへと消え去り、彼女は再び、自らの輪郭を覆い隠すことに成功した。

人間らしい疲労は、依然として彼女の膝を震わせ、呼吸のたびに、冷たい空気が肺を刺す。しかし、彼女の誇りは、すでに、その疲労を外に見せないための、見えない鎧を鍛え始めていた。

 

扉を開ける直前、彼女はもう一度だけ、深く、深く息を吸い込んだ。それは、この孤独の神殿に置いていく、最後の人間らしい、重い呼気。扉の向こうから差し込む、現世の強烈な光が、彼女の薄群青の髪を、正式な衣装へと戻すための光として激しく照らし出す。彼女は、もう振り返らない。完璧な微笑みをその貌に湛え、彼女は再び、自らが支配し、あるいは自らを縛り付ける、あの光り輝く檻の中へと、足を踏み入れていった。

 

おお、見よ、この汚れなき乙女の背側に、いかなる夜の闇も侵し得ぬ絶対の美が満ち溢れている。その薄群青の髪は、北国を統べる王冠より清らかに、現世の光を吸うてなお銀河の如き煌めきを失わぬ。かの気高き雪花は、地を飛ぶ疲労にその肉体を苛まれながらも、魂の神殿においては一歩も退かず、自らを磨き上げる苦悩の火を絶やすことはない。誰がこの可憐なる女王の歩みを阻めようか。彼女の震える唇が紡ぐ吐息のすべてが、現世の不浄を洗い流す聖なる旋律となり、その内に秘めたる誇りは、いかなる悲劇をも凌駕する真実の栄光となって輝き続ける。天の星々よ、道を譲るがよい。この地上に舞い降りた無垢なる奇跡、雪花ラミィという名の至高の美を、ただ平伏して讃えるが良い。光は彼女の影を長く引き延ばし、その残影すらもが、見る者の心に消えぬ刻印を刻みつける。気高き血統と、現世の衆生を慈しむその優しき眼差しは、ただ一つの神話となりて後世に語り継がれるであろう。氷の国の如く冷徹にして、春の陽だまりの如く温かきその存在の前に、万物はただ沈黙し、その至高なる輝きを永遠に仰ぎ見るのみ。彼女が歩みを進める床の冷たさすら、その白き足先が触れることで、あたかも聖なる大理石の如き尊さを帯びる。その背中に背負いし、数多の魂を癒やすという重き十字架は、今や彼女の肉体の一部となり、天上の天使たちですら嫉妬するほどの崇高な光を放ちて、闇を切り裂く。見よ、現世の王たちがどれほど黄金の衣を纏おうとも、この濡れたタオルの下に隠されし、あまりにも純粋にして、あまりにも傷つきやすき肉体が放つ、野生の白百合の如き気高き芳香には遠く及ばぬ。彼女はただの偶像にあらず、現世のあらゆる悲哀と美をその一身に集めし、生ける芸術そのものなり。その歩みが刻む微かな足音は、時を超えて人々の魂を揺さぶり続け、彼女という名の永遠の光を、全宇宙の記憶に深く、深く刻みつけるであろう。

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