【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー  Libera me from AI 文体は文学多め。ジャンルごちゃ混ぜ闇鍋パーティー   作:夏目陽光

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梅雨前線のダイス

西日が完全に死んでから、アルミサッシの隙間を抜けてくる風がいよいよ湿っぽくなった。

畳のい草が吸い込んだ、昼間の生ぬるい空気と、莉々華の部屋の隅に溜まった、いつのものかも分からないコンビニのレシートの山が発する生活臭が混ざり合って、じっとりと鼻を突く。

二〇二六年、六月。梅雨の終わりというのは、いつもこうだ。雨は激しく叩きつけるわけでもなく、ただ窓ガラスに細かい粒子となってへばりつき、視界を不透明に濁らせている。ローテーブルの端、莉々華のスマートフォンの画面が、Discordの通知か何かで一瞬だけ青白く震えた。画面の隅に表示された午後九時すぎの時刻と、通知バッジの数字。一瞥して、私は視線を戻す。SNSのタイムラインで誰が何を呟こうが、あるいは今夜の配信の同接がどうなっていようが、今の私にはどうでもいいことだった。

 

私の対面にいる一条莉々華は、湿気で少し重くなったコーデュロイのソファに、長い身体をそっくり預けていた。

画面の向こうでリスナーを沸かせている、あの仕立ての良いスーツ姿や、「デキる女」としての隙のない微笑みは、ここには欠片も存在しない。オフの日の彼女は、驚くほど緊張感がない。首元が小さくほつれたグレーのオーバーサイズスウェットに、膝の抜けた黒のスウェットパンツ。頭頂部で雑にクリップ留めされた髪は、すでにいくつかの房が零れ落ちて、白皙の首筋にだらしなく張り付いている。

莉々華は、手元にある古びた任天堂製のトランプを、親指の腹でしごいていた。チック、チック、と、プラスチックが擦れ合う微かな音が、私の耳を一定の周期で刺激する。

「……ねえ、リオナ。本当にこれ、続けるわけ?」

スウェットの袖口を手の甲まで引っ張りながら、莉々華が言った。少し鼻にかかった、それでいてプライベート特有の、どこか粘り気のある気怠げなトーン。配信でのハキハキとした口調とは違う、生の肉体が持つ重みがそこにはあった。

「やるって言い出したの、莉々華じゃん」

私は、だぼだぼの黒いジップアップパーカーのフードを深く被り直した。下は、何度も洗濯して毛羽立ったチェック柄のパジャマズボン。畳の上に直接胡坐をかいていると、お尻の骨が少し痛む。長く座りすぎたせいで、腰のあたりに嫌な疲労感がじわじわと溜まっていた。

「自分で企画持ち込んでおいて、いざカードが配られたらそれ。そういうの、一番ダサいよ。社長さん」

「だ、ダサいって言わないで! 私はただ、この部屋の空気がちょっと重いなって思っただけ。換気扇、回した方がいいんじゃない?」

言い返してくる彼女の語尾が、一瞬だけ上ずる。わかりやすい奴だ。突っ込まれた際、過剰な言葉の弾幕を張って自らの動揺を隠そうとするのは、彼女のいつもの癖だった。彼女はこういう時、一見すると感情に任せて喋っているように見えて、実は相手の追求の矛先をかわすための最適なフレーズを瞬時に選別している。莉々華のくせに、こういう時だけ無駄に頭が回るのが本当に癪に障る。その地頭の良さというか、瞬間的な回路の太さは、普段の配信の切り返しを見ていても釈然としないくらいには悔しい。

 

私たちの間にある低い木製のローテーブルの上には、数枚のカードが静かに並べられている。

莉々華が配ったものだ。彼女の指先は細く長いが、先ほどからトランプを扱う手元がどこかぎこちない。カードの角がカサリ、と不自然に擦れ合う。

莉々華の手元には、表向きの『8』と、裏向きの一枚。

私の手元には、表向きの『10』と、裏向きの一枚。

 

「はい、リオナの番。どうする?」

莉々華はテーブルの上のマグカップに手を伸ばした。インスタントのネスカフェに冷たい牛乳を注いだだけの、中途半端にぬるいカフェオレ。彼女はそれを一口すすると、カップを両手で包んだまま、私の視線から逃げるように目を伏せた。

私は何も言せず、自らの裏向きのカードの端を、人差し指の爪でほんの数ミリだけ持ち上げた。

『7』。合計17。

私はパーカーのフードの紐を右手でゆっくりと弄びながら、莉々華の様子をただじっと見つめていた。

莉々華はカフェオレを口に含んだまま、喉を動かすタイミングを測っている。カードを配り終えたばかりの彼女の肩は、心持ち後ろに引かれていた。強い絵札を握りつぶしているときの、あのいやらしいハッタリの姿勢だ。どうせ裏は10あたりの絵札で、合計18にでもなっているんだろう。

ここでステイを選べば、17のままじわじわと殺される。そんなの真っ平だ。莉々華が勝ったと思って安心しているなら、そのツラを引き剥がしてやりたかった。私のフードの奥で、唇の端を僅かに吊り上げた。

「……ヒット」

その声は、重苦しい静寂を小さく破った。

「えっ、いくの!?」

莉々華の眉が跳ね上がる。カップを持つ指先に、わずかに力がこもる。

 

莉々華は山札の一番上からカードを一枚、滑らせるようにして私の前に置いた。

めくられた数字は、『3』。

合計20。

よし、と心の中で小さく拳を握る。顔には出さない。

「ステイ」

「……20、でしょ。それか、ぴったり?」

莉々華は上体を少しだけ前に傾け、私のフードの奥を覗き込もうとする。

莉々華の指先が、今度は自分の裏向きのカードへと向かった。爪がトランプの裏面を軽く叩く。規則的な、しかし先ほどよりも早いテンポの音が室内に響く。

トランプの厚みだけが、二人の間の空間を支配していた。

莉々華は自分の裏のカードを、親指の腹で強く押さえつけた。

「……私も、ヒット」

かすれた声。彼女の喉が小さく上下するのを、私は見逃さなかった。

私は何も言わない。ただ静かに山札から次の一枚を指先で弾き、莉々華の領域へと差し出した。

 

めくられたカードの数字が、蛍光灯の下で白く浮き上がる。

『2』。

「……あ」

莉々華の唇から、小さく、しかし明確な、熱を帯びた溜息が零れ落ちた。

「20。……これできっと、タイ。ねえ、リオナ、あなたの数字は?」

莉々華の瞳に、生々しい光が灯る。

私は自らの裏向きのカードを、人差し指で弾くようにして表返した。

 

『7』。

10、3、7。合計20。

「タイ、だね」

私は、フードの奥で小さく息を漏らした。……が、正直に言えば、背中を冷や汗が伝っていた。

莉々華がひっくり返したもう一枚のカードは、10でも絵札でもない、ただの『7』だったからだ。

8と7で、合計15。

つまり、あのとき私が大層なプロファイリングを気取って「あいつの裏は10だ!」と確信してカードを引かなければ、17のままで普通に勝てていたのだ。私は勝手に相手のハッタリに怯え、自滅のリスクを冒して、たまたま運良く3を引いただけで、戦術もへったくれもないただの薄氷の勝利だった。

恥ずかし死ぬ。脳内大演説が完全に空振っている。危うく一人でバーストして泥をすするところだった。こういう私の、変に回り道をして墓穴を掘りかける思考回路の悪癖と、それを強引にねじ伏せるための悪知恵は、莉々華のそれとはまた違う種類の、ひねくれた地頭の悪さ、あるいは良さなのだろう。勝てばよかろうなのだ、と自分に言い聞かせるが、耳の後ろがじわじわと熱い。

「な、んだ……。結局、二人とも20だったわけじゃない。もう、本当に心臓に悪いわよ。リオナとやると、寿命が縮まる気がする」

莉々華は、コーデュロイのソファに今度こそ完全に身体を投げ出し、天井の薄汚れた蛍光灯を睨みつけた。

 

ぬるいカフェオレを飲み干した莉々華が、小さく舌を鳴らしてカードを混ぜ始める。

 

「もう一回」

私は、テーブルの上のカードを、細い指先で一枚ずつ丁寧に集めながら、低く呟いた。自分の大ポカを隠すために、わざと声を低く、冷静に保つ。

「ええー? まだやるの? もう外、真っ暗だよ?」

「莉々華、タイは負けと同じって、どっかの偉い社長が言ってなかったっけ。私はまだ、勝ちも負けも、何も手に入れてない」

私はカードをシャッフルしながら、フードの隙間から莉々華の顔を覗き込んだ。

「……ふん、いいよ。言っておくけど、次は容赦しないからね」

莉々華はスウェットの袖を再び捲り上げ、ソファから上体を起こした。

 

二戦目。配られた私の手札は、合計『14』という最悪の数字だった。莉々華の表向きは『9』。

ここで私がステイすれば、莉々華はそのまま逃げ切るだろう。しかし、私が引けばバーストの闇が待っている。

莉々華はスウェットの襟元を無意識にきゅっと掴み、それから私の顔を真っ直ぐに見つめてきた。

「ステイ、かな」

その声は驚くほど澄んでいた。自信に満ち溢れた、配信のときの「社長」の顔だ。

いや、待て。この状況でその真っ直ぐな視線は逆におかしい。本当に19や20を持っているなら、私の動揺を誘うためにもっと「困ったフリ」をして、私に無理なヒットを仕掛けさせるはずだ。このあからさまな「デキる女」のハッタリ顔は、自分の手札がどうしようもない数字であることの裏返しに違いない。

「……ヒット」

指先がわずかに震えた。山札から引き抜いたカードは『6』。合計20。

莉々華の顔から一瞬だけ血の気が引く。私が手札を開けさせると、案の定、彼女の裏は『5』で合計14だった。

「うわー、引くんだそれ! もう、リオナの勘はバケモノすぎる!」

莉々華は悔しそうにソファを叩いたが、その声には私への奇妙な信頼のようなものが混じっていた。

 

畳の上に散らばったスペードの黒が、蛍光灯の光を鈍く跳ね返していた。

 

三戦目。莉々華が「これでラストね」と宣言して配った最終局。

私の手札は『12』。莉々華のアップカードは『9』。

ブラックジャックの基本セオリーに基づけば、相手のアップカードが7以上の強い数字である場合、こちらの12はバーストの恐怖を押し殺してでもヒットするのが鉄則だ。ステイしたところで、相手が17以上を完成させて自滅を免れる確率の方が遥かに高いからだ。私は呼吸を整え、山札から一枚を引き抜いた。

滑り込んできたのは『8』。

よし、合計20。私は安堵を悟られないよう、静かに手札をテーブルに伏せた。

 

視線を莉々華へ移す。彼女のダウンカードは『9』だった。つまり、表の『9』と合わせて、彼女の現時点での手札の合計は『18』。

通常のブラックジャックであれば、ディーラーである莉々華は17以上になるまでヒットし続けなければならないが、今私たちがやっているのは、カジノのような冷徹な固定ルールに縛られない、ディーラー不在のタイマン勝負だ。互いにどこでステイしても構わない、純粋な一対一の頭脳戦。

 

莉々華は、私が『12』から即座に、何の躊躇もなくヒットしたというその一連の挙動を、じっと見つめていた。

いつものポンコツならここで「えー、リオナ勝負師じゃん!」とか言って思考を止めるはずなのに、今のあいつの目は、私のカードをめくる速度や、伏せた時の指の残像をじっとトレースしている。あいつのこういう、土壇場で急に濁りの消える野生の勘みたいなやつが、本当にタチが悪い。この土壇場で、相手のわずかな挙動の速度差から全体の確率を補正し、自分の行動を最適化できるのは、間違いなく彼女が持つ本質的な聡明さによるものだった。

 

そのとき、莉々華の喉が微かに動く。彼女はマグカップのふちを指先でなぞりながら、私の目を真っ直ぐに見据えた。いつもなら他人の評価を気にして揺れるはずの瞳が、今は獲物を狙う肉食獣のように鋭く座っている。

「ねえ、リオナ」

莉々華が低く、囁くような声で言った。

「あなたはさっき、迷わずに引いた。12から8を引いて20。あるいは、最初からもっと低くて、もう一枚引くスペースを残しているのか……。ベッドの上でゴロゴロしながらくだらない数字を計算してる時とは、明らかに違う。でも、あなたのその、フードを深く被り直すタイミング。それって、自分の予測が『完全に決まった』ときに出る、一番悪い癖だよ」

心臓がどくり、と跳ねた。見抜かれている。私の身体が、無意識のうちに勝利の予感に反応してしまっていたのだ。莉々華は私の微細な挙動から、私の手札がバーストしていないこと、それどころか極めて高い数字を完成させたことを確信していた。

だが、莉々華のその指摘自体が、彼女自身の焦りの裏返しでもあった。彼女は私の20を警戒するあまり、自分の18という数字をどう動かすか、脳内で凄まじい速度の計算を巡らせている。もしここで彼女が引けば、10や絵札を引いて自滅する確率は約38%。だが、ステイすれば私の20に確実に敗北する。

私は、テーブルの上に置いた左手の指先を、わざと不自然に一ミリだけ浮かせた。カードを追加で欲しているかのような、あるいは自分の数字に不満があるかのような、微小なノイズ。

莉々華の視線が、私の指先に吸い付けられる。彼女の脳内で、確率の天秤がガタガタと音を立てて揺れるのが分かった。リオナは本当に20なのか、それとも、13や14といった中途半端な数字で止まっていて、私を揺さぶるためにハッタリをかましているのか。

張り詰めた沈黙が、部屋の湿気と同化して、私たちの皮膚をじりじりと灼いていく。

 

「……私は、ここでステイするわ」

莉々華が不敵な笑みを浮かべ、スウェットの袖を少し引き上げて宣言した。

彼女は自分の『18』という数字に十分な勝算を感じていた。私がバーストして0点になっているか、あるいは中途半端な数字で止まっているならば、リスクを冒して3枚目を引く必要はない。私のわずかな指の動きを「ハッタリ」と読み替え、18のまま安全圏で私を迎え撃つ。それが彼女の選択だった。

 

「私の勝ちね、リオナ。あなた、本当は引きすぎてバーストしたでしょ? そんなにすぐ伏せるなんて怪しいと思ったんだから!」

莉々華は勝ち誇ったように笑い、自分の裏向きだった『9』を勢いよくひっくり返した。合計18。

「残念」

私は、自分の手札をゆっくりと裏返した。

『12』、実を言えばこの数字を見たとき、私の脳裏にはいくつかのセオリーと、それを裏切るための泥臭い打算が、まるで配信の段取りを組み替えるときのような速度で火花を散らしていた。そして後から引いた『8』。

「……ぴったり、20」

莉々華の笑顔が、言葉通り完全に凍りついた。突きつけられた『20』という現実の数字を前に、彼女の大きな瞳が何度も往復する。

「え……? 18でステイして待ってたのに……それを、超えてたの? バースト、してない……?」

「うん。莉々華、私のことバーストしたと思って、ちょっと口元緩んだでしょ。配信で悪巧みしてる時と同じ顔。だから私も20で手札を隠して待ってた」

莉々華の視線が、私の手元のカードから、私の目の奥へと突き刺さるように移動した。彼女の細い指先が、今度は自分の手札の端を不自然に強く押し潰す。

「……待って。おかしいわよ。リオナ、あなた最初の時点で『12』だったってことは、あの私が一枚目の『9』を引いた瞬間の、私のわずかな視線の揺らぎを狙ってた? あのとき、一瞬だけ山札の残りに目をやったのを、私の思考を誘導するための材料にしてたの?」

「気づくの遅いよ、社長」

私はフードをさらに深く被り、膝を抱え込んだ。私の頭が、莉々華のカードを配る指のわずかなもたつきや、言葉を詰まらせたタイミングから、彼女の裏の数字の予測値を冷徹に弾き出していたことを、彼女は嗅ぎつけていた。こういう時の、私のわずかな手癖から計算の存在を察知する彼女の野生的な勘の鋭さは、本当にタチが悪い。普段はポンコツだの何だの言われて身を隠していても、こういう時に見せる彼女の他者の内面を構造として捉える地頭の良さには、どうしても恐怖に近い何かを感じてしまう。

「あなたは私がバーストする確率を『12からのヒット』という記号だけで都合よく見積もりすぎた。私は莉々華がそうやって、私の行動を自分の都合のいいストーリーに回収しようとする瞬間をずっと待ってたんだよ」

 

莉々華は、ハッと息を呑んだ。その顔には、少しも悔しそうじゃなかった。むしろ、私が仕掛けた意地悪な罠の全容を答え合わせするように、子供みたいに目を輝かせている。

「あはは……完全にハメられたわけだ。私の思考の癖まで、全部ダシに使われたってことね。でもさ、リオナ」

莉々華は前傾姿勢になり、テーブルを両手で叩いた。

「私がもし、あなたのそのハッタリを見抜いて、もう一枚めくって『3』を引いていたら、21で私の大勝ちだった。リオナ、あなた私が『安全なステイ』を選ぶって決め打って、自分のバーストのリスクを無視したでしょ。計算じゃなくて、ただの性格の悪い嫌がらせじゃん、これ」

莉々華の言葉に、私の背筋が微かに震える。

こいつには、私の歪んだ打算が全部筒抜けなのだ。お互いに相手の性格を最悪だと知っているからこそ、単純なブラフが複雑な網の目になって、最後にはこうして二人で泥沼に転がり落ちる。

「……もう無理。リオナ、頭良すぎる。降参、私の負け」

莉々華はコーデュロイのソファに今度こそ完全に崩れ落ち、頭を抱えながら、しかしどこか晴れやかな、すべてを出し切った者だけが持つ心地よい笑みを漏らした。私の耳の後ろに残っていた熱も、彼女のその投げやりな笑顔を見て、ようやく静かに引いていくのが分かった。

 

「……次、莉々華が負けたらマック奢りね」

「いいよ、その代わりリオナが負けたら部屋のレシートの山片付けてよね」

新しく配られたカードをめくりながら、そんなくだらない約束を交わす。窓の外では、まだしつこい雨がガラスを濡らし続けていた。

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