【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー  Libera me from AI 文体は文学多め。ジャンルごちゃ混ぜ闇鍋パーティー   作:夏目陽光

39 / 42
じじ、じ 【百鬼あやめ】

アスファルトが熱を吐き出している。長雨が去ったばかりの湿った大気が、風のない路地に溜まっていた。

 

四年に一度の、アジアの都市で開催される大規模な競技会を告げる色褪せたポスターが、古い木造の塀に張り付いている。電柱の影の足元には、折れ目の白いプラスチックのごみ箱と、青いネットに覆われた半透明の袋が積まれていた。分別が細分化される前の歪な生活臭。頭上の電線は幾重にも絡み合い、不規則に明滅するナトリウム灯のオレンジ色を切り裂いている。じじ、じ、とフィラメントの擦れる音が響き、光の傘のなかで羽虫の塊が軌跡を描いていた。

 

少し離れた幹線道路からトラックの低いロードノイズが届く。だが、路地を曲がるたびにその音は遠ざかり、代わりに靴底がコンクリートを叩く、乾いた音だけが残る。

 

白いマウンテンパーカーの薄い生地が、歩行の振動に合わせて小さく擦れ合う。前を開けたナイロンの内側には、薄手の藍色のノースリーブワンピース。額の乱雑な髪の隙間から、二本の白い突起が、街灯の薄闇のなかで硬質な光を捉えていた。パーカーの裾の裏から、膝の裏まで届く二本の包帯のような髪が、足運びに連動して左右に揺れる。

ふと、歩調が緩む。

 

指先がパーカーのポケットの縁を強く掴んだ。右の手首が、腰のあたりで小さく、円を描くように動く。何もない空間を掴みかけ、指はそのまま自分の白い髪の毛先へと滑り、それを弄び始めた。

 

喉が低く鳴る。

「……ん」

 

吐き出された息は、湿った空気に吸い込まれて消えた。高音の、誰かを歓迎するための響きはない。ただの呼吸の塊。

坂道の途中に、自動販売機があった。まだ発光ダイオードの冷たい白ではなく、内側の蛍光灯が筐体を内側から照らしている。厚みのある古いプラスチックのボタン。そのなかの、青いラベルの缶を選び、指先で押し込む。

 

ガコン。

 

重い金属音が路地に響き渡り、すぐに静寂がそれを押し潰した。取り出したアルミ缶の表面に、水滴が結ばれていく。プルタブを引き抜く音が、鼓膜を短く突いた。

一気に喉へ流し込む。冷気が食道を通り、胸の奥へと落ちていく。缶を握ったまま、結露した冷たい手のひらを、右の頬へと押し当てた。皮膚が微かに強張る。

 

「……暑いなぁ」

 

呟きは短く、語尾は小さく弾んで消えた。いつもののんびりとしたテンポのまま、しかし言葉は後を追わない。

缶をリサイクルボックスの穴へと落とする。カラン、という軽い音が、奥行きのない闇の奥へ吸い込まれていった。

 

ふと、口元が緩む。暗がりの向こうを睨みながらも、喉の奥で明日の昼の品書きを無意識に数えている自分に気づき、小さな苦笑が漏れかける。どんなに薄暗い道が続こうとも、角の向こうに美味しい甘味処でも見つかるのではないかといった、そんな屈託のない意識の揺らぎが、彼女の歩みのリズムには最初から溶け込んでいた。人ならざる者としての長い生涯を、ただ楽しげに通り抜けてきた楽観。それが、湿った夜の重圧をどこか受け流すように、彼女の爪先に微かな弾みを与えていた。

 

再び歩き出す。爪先から静かに地を踏み、重心を低く保ったまま進む足運び。その歩行の軌跡だけが、周囲の古い面影を残したトタン塀やアロエの植木鉢の並びから、奇妙に浮き上がって見える。どの家も遮光カーテンを締め切り、古びた室外機だけが、ぶうぅぅん、と重い低音を唸らせて、狭い通路に熱風を撒き散らしていた。

その音が、耳の奥で、別の質の振動へと切り替わる。

 

カサ。

 

コンクリートの斜面を、硬い爪がこするような音。

歩行が止まる。

右の手首が、再び内側へ駆動した。実戦の記憶が、存在しない二振りの柄の感触を脳裏に呼び起こす。だが、手のひらが触れたのは、マウンテンパーカーの薄いナイロンの質感だけだった。

 

「……気のせい、かな」

 

喉の奥で呟く。そのテンポは、誰かに向かって語りかけるときの速度を完全に失い、ただ自身の心音を確かめるように遅い。

首を、ゆっくりと右へ巡らせる。

民家と民家の隙間。大人一人が横向きにならなければ入れないような、暗い犬走り。そこには、乱雑に積まれた半透明のごみ袋の影があった。

その影の輪郭が、微かに歪んだ。

街灯の届かない奥底。そこに、形を持たない何かが、じっと佇んでいる。

頭部だけが異常に膨れ上がった肉塊のようでもあり、あるいは、いくつもの細い四肢が不自然に接合された影のようでもある。明確な目鼻はない。ただ、そこにあるだけで、周囲の空気が急速に冷えていくような、圧倒的な異物感。

 

ドク、と心臓が大きく脈打った。

胸の奥で、執拗に早鐘を打つ鼓動。それは、闇の中で懐中電灯の光が怪異の輪郭を捉えてしまった瞬間の、あの逃れられない拒絶の響きそのものだった。

怯えではない。しかし、肉体が冷えていく。かつて遠い過去、現世との境界が曖昧だった時代に、山の背後や森の澱みで見かけた、名もなき残滓たちの気配。

 

「……こんなところにも、いるんだ」

 

息をごくりと飲み込む。

昼間の文明によって覆い隠されていた街の土、行き場を失った過去の記憶が、夜のひび割れたアスファルトから染み出してきている。それらが、すべて見えてしまう。

ポケットの中で、拳を強く握りしめる。爪が手のひらの肉に食い込み、微かな痛みが走る。武器はない。職務から離れた今の自分は、ここで異形として目立ってはならなかった。ただの、少し変わった服を着ただけの少女として、この静寂をやり過ごさなければならない。

目を逸らし、前を向く。

 

歩調は変えない。走れば、背後のモノが加速することを知っている。

カツ、カツ、カツ。

足音が路地に響く。

背後から、ずるり、ずるり、と、湿った何かが地面を引きずる音が、彼女の足音の隙間を埋めるようにして付いてくる。

下唇を小さく噛み、視線を路面の一点に落とす。パーカーのフードを無意識に引き下げ、額の角を隠すように首をすくめた。

 

「大丈夫……もうすぐ、だから」

 

言葉は途切れがちで、テンポはさらに遅くなる。からからとした笑い声の残像はどこにもない。大都市の片隅に完全に孤立した、ただの剥き出しの身体。

路地が直角に折れ曲がり、小さな児童公園の前に出た。

錆びついた鉄製のブランコ。塗装の剥げかけたコンクリートの滑り台。中央の砂場の縁には、泥に汚れた赤い子供用の靴が、片方だけぽつんと置かれている。

公園の奥は、うっそうとした木々が茂る神社の裏手へと繋がっていた。

その境界の闇から、ぬらぬらと光る巨大な眼のようなものが、いくつも湧き出してくる。ベンチの下、木の葉の隙間。ひとつではない。

 

「……っ」

 

足が止まる。前方の路地にも、黒い澱みがにじみ出していた。

圧倒的な寂しさが押し寄せる。世界中の生き物がすべて消え去り、自分だけがこの空間に置き去りにされたかのような、深い拒絶。壁の向こうには何百万人もの人間が眠っているはずなのに、この一画だけが、完全に現世の調律から外れている。

胸が締め付けられる。

だが、その無意識の底から、別の輪郭が立ち上がる。

液晶画面の青白い光。その向こうから、無数に流れていく温かい言葉の列。自分を定義づけてくれる、あの騒がしくも愛おしい空間の記憶。

それが、恐怖に冷え切った肉体に、かすかな熱を戻す。百鬼組の存在が怪異を追い払うわけではない。ただ、前へ進むための、肉体の強度を取り戻させる。

 

深く、息を吐き出す。

「……そこ、通してね」

 

低く、地を傷つけるように平坦な声。誰の耳にも届かないはずの現代文の拒絶が、夜気を微かに震わせる。

視線は落としたまま、泥を固めるように一歩を踏み出す。前方の黒い澱みが、彼女の放つかすかな熱に圧されるようにして、不器用に向きを変えた。闇は退かない。じわりと距離を詰めようとする。その気配のなかで、右足に僅かな力を込め、踏み出す。爪の擦れる音が、背後へと遠ざかっていく。

 

公園の柵を通り過ぎ、最後の直線に入る。

視界の端に、高層マンションの白いエントランスが滑り込んできた。自動ドアの向こうには、無機質な現世の光が満ちている。

一度だけ、立ち止まり、振り返った。

 

通り抜けてきた坂道には、もう何もいなかった。ただ古びたナトリウム灯が、湿った夜気をオレンジ色に染め、無人の路地を静かに照らし続けている。

 

「……帰ったら、みんなに会いに行こうかな。配信、しよ」

 

呟いた声には、いつもののんびりとした、少し甘えたような明るさが戻っていた。

足音が軽くなる。

パーカーの袖で額の汗をぬぐい、彼女は光の射す方へと歩いていった。夏の夜の匂いが、ゆっくりと背後で薄れていく。

 

エントランスの自動ドアが静かに閉まり、ガラス一枚を隔てた向こう側に再びあの夜が押し込められる。冷たい人工的な風がロビーを満たし、白く無機質な蛍光灯の光が、彼女の白いパーカーと群青のワンピースを隈なく照らし出す。外界の湿気から解放された肌が、微かに粟立つ。エレベーターを待つ間、鏡面仕上げのステンレス扉に映る自身の姿をじっと見つめていた。薄暗い路地を歩いていたときの、あの鋭く研ぎ澄された相貌は、現世の光に晒されることで急速に霧散していく。

 

部屋の鍵を開け、静まり返った空間に足を踏み入れる。玄関の灯りを点けると、そこには日常を過ごす、いつもの安心な世界が広がっていた。パソコンの電源を入れ、ディスプレイが放つ青白い光が顔を照らす。配信ソフトを立ち上げるその指先は、先ほどの張り詰めた緊張から完全に解き放たれ、軽やかさを取り戻していた。

 

配信開始のボタンを押す。画面の向こうの、大好きな、騒がしい光の海へと飛び込むために、いつものからからとした声を喉の奥で用意した。窓の外。遠い街頭の陰に、何か黒い影が、じっとこちらを見上げているような気がした。カーテンを引き絞る。アルミのレールが、しゃ、と小さく鳴いた。それきり、部屋のなかも、外の暗闇も、完全に音を失った。ただ、遠くの踏切の警報機だけが、いつまでも、誰もいない夜を叩き続けている。

 

じじ、と電灯が瞬く。青白いモニターの光すら、その闇の深さには届かない。液晶の向こう側から聞こえる無数の声。けれど、それらはすべて、冷たい硝子の表面で弾き返されていく。部屋の隅、クローゼットの僅かな隙間から、じっと、何かが、こちらを見つめている。伸ばしかけた手のひらが、凍りついたように止まる。室外機の唸りさえ聞こえないこの部屋で、電柱の頂部で鳴っていた、じじ、じ、というフィラメントの爆ぜる音が、液晶画面の奥から、じり、じりと、冷たく響き始めていた。

 

液晶の向こうの文字列は熱を失ったただの記号へ変わり、そのノイズだけが耳の奥を深く削り取っていく。部屋の奥底からずるりと這い出す影が、彼女の足元から冷気を吸い上げていく。叫ぼうとした喉は乾き、室内に白い息だけが弾けた。モニターの文字の隙間から、赤くにじんだ泥のようなものがゆっくりと滴り落ちて、畳を汚していく。網目に吸い込まれる黒いシミは、じわり、じわりと彼女の素足の指先へと距離を詰めていく。もう、踏切の音すら聞こえない。部屋の温度が急速に下がっていく。吐き出す息はどこまでも白く、ただ冷たい床を走るだけで、誰の耳にも届かない。

 

暗闇の底から、自分の声に酷似した、けれど決定的に平坦な何かの音が、鼓膜の裏側で小さく笑った。お嬢、もう明るい場所には戻れない。耳を劈くような静寂のなかで、自身の部屋の輪郭がゆっくりと薄れて溶けていく。現世の記憶も、温かい光の残響も、すべては届かない遠い場所の出来事のようだった。振り返る余裕すらなく、ただ、自分のスピーカーが刻む不吉な爆ぜる音だけが、誰もいない部屋を満たし続けている。冷たい指先が、首筋に、そっと触れた。

その指先は、皮膚の熱を一切通さず、凍りついた鉄の針のように肉へと深く沈み込んでいく。暗闇のなかに固着した身体は、抵抗の術をとうに奪われていた。視界を覆う黒い澱みのなかで、点滅を繰り返す青白いモニターだけが、もはや現世とは繋がらない無機質な砂嵐を放ち、冷たいノイズを撒き散らしている。鼓膜を内側から引き裂くようなじじ、じという金属的な爆ぜる音は、すでに部屋の四隅を埋め尽くし、天井から静かに降り注ぐ黒い泥の雨の音と同化していた。

 

息を吸うことすら拒絶された肺腑に、どこか遠い場所で鳴り響く、誰のものでもない無人の踏切の警報機が、一定の、救いのない規則正しさで、絶望をただ刻み続けている。逃げ場など、この世界のどこにも最初から用意されていなかったという事実が、皮膚を這い上がる無数の細い指の冷たさとなって、生々しく脳髄を侵食していく。

 

すべてが薄れ、完全に溶け去っていく。かつて浴びていたはずの、あのまばゆい光の海も、耳をくすぐっていた騒がしい歓声も、いまや届かない忘却の底の幻影にすぎない。ただ、冷え切った部屋の底から湧き上がる、自分自身の声に極めて酷似した、しかし一切の感情を欠いた平坦な嘲笑だけが、永遠の静寂のなかで、いつまでも、いつまでも、鼓膜の奥を削り続けていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。