ホロライブ短編集2   作:夏目陽光

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雨上がり、ペトリコールの街で

 

不完全燃焼のガソリンと、濡れた犬の毛並みが混ざったような匂いがした。雨水がマンホールの鉄蓋の上で油膜をひろげ、ねっとりとした濁った虹色を反射している。夕立に洗われた街路樹の、むっとするような青葉の生臭さが、熱い地面から立ち上ってきた。

 

「ねえねえ、ぼたんちゃん。水たまり」

 

ポルカは喋りながら足元の泥水を見つめていた。濡れたローファーの爪先で、小さく水面を弾く。

獅白ぼたんはコートのポケットに両手を突っ込んだまま、歩調を緩めた。右の指先だけが、ポケットの中でキーボードを叩くようにトントンと動いている。プラタナスの葉から落ちた大きな雫が、彼女の白い髪をかすめて落ちた。

 

「んー、ポルカ。足元ばっかり見てると、マジで電柱にぶつかるぞ」

「んえっ!? ぶつからないもーん。ポルカの動体視力、舐めないでよねえ、んふー」

 

ポルカは急に早口になって体を揺らす。ぼたんは一瞬真顔になり、すぐにいつもの眠そうな目で前を向いた。

街を濡らしていた夕立は、いつの間にか上がっていた。排気ガスを吐き出しながら走り去る2ストロークの原付バイクの音が、湿った空気の中にしばらく尾を引く。雲の切れ間から差し込む強い西日が、トタンや剥き出しのコンクリート壁の湿気を一気に蒸発させ、肌にまとわりつくような不快な熱気が足元から這い上がってきた。汗ばんだ首筋が不快にじっとりと湿る。耳の奥には、さっきまでスタジオのモニター前で浴びていた電子音の残響が、低い羽音のようにまだ残っている。ポルカは無意識に、自分の左の耳たぶをきゅっと引っ張った。

 

「……あそこ」

 

ぼたんが顎で示したのは、細い路地の奥だった。錆びついたトタン屋根の下、色褪せた赤い暖簾が、風もないのに少しだけ揺れている。かすれた文字で『だがし』と書かれていた。湿気で膨んだ錆びたトタンが、太陽の熱を浴びてギチ、と小さく軋む。

 

「ひゃあああ! 駄菓子屋さんじゃん! まだ生きてたあ!」

「ちょっと寄る? 小腹減ったし」

「突撃だああ!」

 

ポルカは次の水たまりを大きく飛び越えた。着地した瞬間、ずるりとローファーが滑り、おっとっと、と不恰好に両腕を回す。「ガラガラ……」と立て付けの悪い引き戸の音が路地に響いた。

薄暗い四畳半の空間には、埃をかぶったプラスチックのケースが天井まで積み上がっていた。乾いた大豆の匂いと、古い紙の匂いが混ざり合っている。奥の暗がりに、去年の夏から置き去りにされたような、蚊取り線香の煤けた匂いが微かに残っていた。

 

「いらっしゃい」

 

店の奥、電源の切れた電気ストーブの前に置かれた座布団から、小さくなったおばあちゃんが、老眼鏡の奥の目を細めた。おばあちゃんの膝の上で、茶色い猫が小さく耳をピクつかせる。

 

「こんにちはー! お邪魔するよお」

「ちわーす。おばあちゃん、ちょっと見てくね」

 

ぼたんは短く頭を下げると、すぐに狭い棚の隙間に体を滑り込ませた。天井の古びた扇風機が、カタカタとプラスチックの破片が擦れるような頼りない音を立てて首を振っている。ポルカが真っ先に手を伸ばしたのは、怪しいピンク色の木苺の餅だった。

 

「懐かしいな、それ。最後の一個が爪楊枝で刺せなくてさ」

「そうそう! 楊枝がポキリと折れるやつ! でもポルカはプロだから、一気に三粒いくからね!」

「あははは、ただの食いしん坊じゃん。ほら」

 

ぼたんは鼻を鳴らして笑うと、近くにあった緑色のプラスチックカゴをポルカの胸元に押し付けた。

 

「ルール。一人、予算三百円な」

「三百円! 燃えるねえ!」

 

ポルカはカゴを覗き込んだまま、目をキョロキョロと動かし始めた。ぼたんは無言のまま、棚の最下段にある『タラタラしてんじゃねーよ』と『よっちゃんイカ』、それから『ブタメン』のとんこつ味を機械的な手つきでカゴに入れた。

 

「おばあちゃん、お湯もらえる?」

「はいはい、そこのポット使いなさいね」

 

ポルカのカゴは、うまい棒のめんたい味、コーンポタージュ味、それから束になったタコ糸の先にぶら下がる飴。彼女は糸の一本を凝視しながら、喉を小さく鳴らした。

 

「運試し……ふんぬっ!」

 

ポルカが鋭く引き抜いたのは、親指の爪ほどの、不揃いに平べったいイチゴ飴だった。

 

「あ、あれ……? 特大のやつじゃない……」

「あはははは! 最高。やっぱりポルカだわ」

 

息を吸い込むような独特の引き笑いで、ぼたんの肩が大きく揺れる。ポルカは首をすくめ、露骨に口を尖らせて飴のパッケージの裏面を読み込み始めた。

 

「美学の問題だもん……」

 

ぼたんはカゴに『ココアシガレット』をそっと追加した。自分の白い前髪を、人差し指でくるくると弄りながら。

レジの古いピンク色の電話の横で、おばあちゃんがそろばんでパチパチと乾いた音を立てる。二人の合計は575円。お釣りを受け取る時、おばあちゃんの硬い手のひらから、10円ガムが一個ずつ二人の手の中に転がった。

 

「おまけ。気をつけて帰るんだよ」

「あざす。おばあちゃん、ありがと」

 

店の外、西日を浴びて半乾きになった木製のベンチに二人は並んで腰掛けた。ポルカは落ち着かないのか、ベンチの端にある錆びたボルトを爪でカリカリと引っ掻いている。

ぼたんがブタメンのフタを剥がすと、ジャンクなとんこつの湯気が白く立ち上った。

 

「うわあ、いい匂い……一口ちょうだい!」

「熱いからな」

 

フォークを受け取ったポルカが、ハフハフと派手な音を立てて麺をすする。スープが小さく跳ねて彼女のシャツの袖に小さなシミを作ったが、本人は気づいていない。

 

「んんー! コレコレ!」

「だろ」

 

ぼたんもフォークを取り返し、残りの麺を器用に平らげた。そしてスープを静かに飲み干すと、器の底に残った茶色い粉末の塊を、プラスチックのフォークの先で無言のまま突いていた。

ポルカは隣で『パチパチパニック』を口に放り込んでいた。口の奥からパチパチと火花が散るような音が、ベンチの周りの静寂を小さく弾く。

 

「……んんーっ!」

「耳の奥から火花出てるぞ」

「ふはあ! 痛いけどやめられない! ぼたんちゃん、僕の口の中に耳澄ませてみて!」

「やだよ、汚い」

 

ぼたんは冷たくあしらいながらも、口元だけは緩んでいた。ポケットからココアシガレットを取り出し、一本を唇に挟む。白くて細いお菓子を指先で挟み、ただ、夕暮れの空に向かって息を小さく吐き出した。指先に残るココアシガレットの甘い匂いが、夕暮れの生温い風にすぐにかき消されていく。

ポルカはうまい棒を齧るのをやめ、そのぼたんの横顔を黙って見つめていた。カサリ、とビニール袋が鳴る。

 

「……ねえ、ぼたんちゃん」

「ん?」

「うまい棒、めんたい味あげる」

「……ありがと」

 

ぼたんはココアシガレットを口から離し、受け取った茶色いお菓子をぽきりと二つに折った。大きい方の半分を、ポルカの膝の上に静かに置く。

二人はそれ以上、何も喋らなかった。

ただ、遠くの交差点から、夕方五時を告げる『夕焼け小焼け』のチャイムが、風に乗ってかすかに聞こえてくるだけだった。スピーカーの歪んだノイズが、濁ったオレンジ色の空に溶けていく。ポルカは膝の上の半分になったうまい棒を見つめたまま、小さく息を吐いた。

店の奥には、ガラス張りの『10円ゲーム』がひっそりと佇んでいる。

 

「……ぼたんちゃん。お釣り、10円玉ある?」

「あるよ。戦う?」

 

二人の目が、一瞬だけ鋭くなった。ぼたんは首の後ろを少しだけパキッと鳴らした。

チャリン、と重い金属音が響く。

 

「ここだあ!」

 

パチンとレバーを弾く音。10円玉はプラスチックのシーソーを滑り落ち、そのままストンと、何の手応えもなく『ハズレ』の穴に吸い込まれた。

 

「あああ! ブラックホールじゃん!」

「引きすぎ。貸してみな」

 

ぼたんがコインをセットする。スリー、ツー、ワン。パチン。 10円玉は無駄のない軌道で釘をすり抜け、最下段の『V字釘』へ。ぼたんは指の腹で、レバーを押し出すように静かに解放した。

カツッ。

 

「カチャコン!」という重い音がして、青いプラスチックのメダルが排出口へと転がり出た。

 

「うおおお! 出たあああ!」

 

大騒ぎしてベンチの周りをドタバタと跳ね回るポルカの横で、ぼたんはそのメダルを親指と人差し指で拾い上げ、西日に透かした。

「お見事だねぇ」奥からおばあちゃんが顔を出す。「50円分のお菓子か、もう一回できるよ」

二人は顔を見合わせた。ポルカの視線が泳ぐ。

 

「ポルカ、もう一回いく?」

「もちろん!」

 

それから、ポケットの10円玉が全部なくなるまで、レバーを弾く音だけが店内に響いた。最後に出たメダルで二人が交換したのは、小さな、薬品みたいに赤い『すもも漬け』のパックだった。パックの縁についた酸っぱい汁が、ポルカの指先を濡らす。

外に出ると、古い水銀灯がひとつ、ジジジと虫のような音を立てて青白い光を灯し始めていた。近所の家々の台所から、換気扇を通じてカレーや焼き魚の匂いが、湿った夜気の中に混ざり合って漂い始める。水たまりの表面が、街のネオンと夕焼けの混ざった不思議な色に滲んでいた。

 

「あーあ、楽しかった。明日からの配信、頑張れる気がするわ」

 

ポルカは大きく両腕を広げ、アスファルトに伸びた自分の長い影を踏むように歩いた。その歩調は、少しだけ不自然に早い。

ぼたんもコートの襟を立て、その三歩後ろを同じ歩幅で歩く。

歩道の脇には、半分泥に埋もれたコカ・コーラの空き缶と、誰かが捨てたマッチ箱が雨にふやけて転がっていた。夜が近づくにつれて、昼間の熱気を吸い込んだアスファルトがじわじわと冷えていくのが、靴底を通じて伝わってくる。まとわりつく不快な湿気の中に、どこか秋の気配を含んだ冷たい夜風が細く混ざり始めた。

 

「今日の場所、他の三人には内緒ね」

「あはは、いいよ。ラミィにバレたら面倒くさそうだし」

「ねねち、うまい棒買い占めちゃうもんね」

 

二人の笑い声が、夜の始まりの街に静かに吸い込まれていく。遠くの幹線道路を加速していく大型トラックの、ディーゼルエンジンの重たい排気臭が、湿った風に乗って鼻腔の奥をかすめた。

ポルカはふと立ち止まり、暗くなりかけた路地の方を振り返った。先ほどまでいた駄菓子屋のトタン屋根は、すでに夜の闇に溶けて境界線を失いつつある。あの四畳半の空間だけが、まるで世界の時間の流れから切り離されたエアポケットのように、ぽつんとそこに取り残されているようだった。

 

「どうした, ポルカ。置いてくぞ」

 

少し先を歩くぼたんが、振り返らずに片手をポケットから出して小さく振った。その白い髪が、街頭の青白い光を浴びて一瞬だけきらめく。

「待ってよお!」

ポルカは小さく鼻を鳴らし、今度は水たまりを避けることも忘れて、泥水を跳ね上げながらぼたんの背中を追いかけた。

 

「……帰ったら、明日のプロットチェックしなきゃな」

「現実だねえ、獅白プロ」

「そ。でも、その前に」

 

ぼたんがポルカの肩を、指先で軽く小突いた。

 

「駅前のあの中華屋、寄ってかない? 腹減ったわ」

「行く!!! 餃子二人前ね!」

「はいはい、うちのツケね」

 

突如、低い振動音が夜の空気を震わせた。

ポルカのポケットの中で、スマートフォンの画面が青白く爆発するように発光し、ディスコードの通知音が無機質に鳴り響く。液晶の強い光が、二人の顔を容赦なく現代の色彩で照らし出した。

『おつぽる! 今どこ? 21時からの5期生コラボの準備、ディスコード集合だよー!』

画面に浮かんだラミィからのLINE通知を覗き込み、二人は思わず顔を見合わせた。

 

「……あ」

「やべ、もうそんな時間」

 

ぼたんがポケットからiPhoneを引き抜き、素早く画面をフリックする。

街灯の下、二人がローファーで踏みしめていたはずのアスファルトは、いつの間にか綺麗に整備された2020年代の平坦な舗装路へと戻っていた。路地の奥の駄菓子屋は影も形もなく、ただ自動販売機のLEDが虚しく夜の闇を切り裂いている。

 

「ダッシュ! 獅白プロ、ダッシュだよ!」

「ほら行くぞ、置いてくぞ」

 

ワイヤレスイヤホンを耳にねじ込み、現代の速度へと一気にギアを上げる。

二人の影は、ネオンと電子の光が渦巻く令和の駅ビルの中へと、足早に吸い込まれていった。

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