【One Piece.アーカイブ】ホロライブ青春短編集2 ワンサマー Libera me from AI 文体は文学多め。ジャンルごちゃ混ぜ闇鍋パーティー 作:夏目陽光
網戸の破れた隙間から、ねっとりとした熱を含む風が這い込んできては、古い畳の表面を撫でていく。イグサが陽に焼けて放つ、少し酸っぱくてひなびた匂いが、狭い縁側の床板あたりに低くよどんでいた。商店街の喧騒から取り残されたような路地裏。おばあちゃんのおにぎり屋は、今日が定休日だ。店先のガラスケースには、端が黄色く煤けた「本日休業」の木札が紐でぶら下がり、時折、大通りを抜けていく大型トラックの地響きだけが、この古い木造平屋の建具をガタガタと微かに震わせている。天井の隅では、蜘蛛の巣に引っかかった去年の蚊取り線香の灰が、扇風機の頼りない首振りに合わせて揺れていた。
おかゆは、中の綿がすっかり片寄って平べったくなった紫色の座布団に背中を預け、長い両足を縁側の板ずりの先へ投げ出していた。首元の黒いチョーカーが、皮膚にじわじわと滲んできた薄い汗を吸って、首筋にぴたりと張り付いている。彼女が着ているのは、おばあちゃんの部屋のタンスの匂いがする、白地のオーバーサイズTシャツだった。胸元には、何度もの洗濯でひび割れて毛羽立った紫色のインクで、正体不明の丸っこい生き物の輪郭が掠れたままプリントされている。首回りがだらしなく伸びているせいで、細い鎖骨のラインが大きく露出し、その下にある薄手のデニムショートパンツの裾は、長すぎるTシャツの影にほとんど隠れて見えなかった。おかゆは裸足のまま、左足の親指の爪で右足の甲の皮膚をゆっくりと引っ掻き、木目の節の凹凸をなぞるようにして、ただ退屈そうに爪先を動かしている。その視線の先では、ガラスのコップの中で完全に角の取れた氷が、ぬるくなった麦茶の底で、かすかな音も立てずに斜めに傾いていた。
「あー……もー! なんなんこれ! 画面の端っこ、ドットがバグって壁の中に吸い込まれたんやけど! おかゆ、ちょっとこれ見てよぉ!」
すぐ隣で、座布団を二つ折りにしたものを胸の下に敷き、這いつくばるような姿勢でスマートフォンの画面を睨みつけているのはころねだった。ころねの夏服は、サッカー生地特有の細かな凹凸がある、薄手のノースリーブセーラーブラウス。白地に細いパステルイエローのストライプが走り、大きなセーラーカラーが彼女の少し日に焼けた肩を覆っている。ボトムスは、動きやすさを最優先したカボチャパンツ風の、サスペンダー付きハーフパンツ。茶色の垂れ耳は、今日はおにぎり屋の柱の釘に引っ掛けられた黄色い大リボンの代わりに、毛羽立った麦わら帽子の隙間から左右に飛び出していた。その耳が、ゲームの状況に合わせて、あるいは彼女自身の脳内で弾ける感情の波と連動して、肉厚な音を立てそうなくらい激しくピコピコと跳ねている。
「見てるよ。ころねの画面、さっきからずっと同じ青い背景しか映ってないじゃん」
おかゆの声は、低く、どこか湿り気を帯ばたまま、縁側の天井の煤けた梁に吸い込まれていく。言葉の端々が、まるで熱で溶けた飴のように少しだけ引き摺るようなテンポで繰り出される。
「ちゃうねん! これ、ただの青画面ちゃうの! 開発者が仕込んだ『見えない壁』なんよ! ここをな、こうやって……十字キーを斜め下に固定しながら、攻撃ボタンを秒間12回連打するやろ? そしたらな、ほら! キャラクターのグラフィックが半分ちぎれて、虚空を歩き始めるん!」
「へぇ……ちぎれちゃった。かわいそうに」
「かわいそうちゃうわ! これで未来は変わるんよ! 多分、きっと、maybe!」
「maybeって。ころね、発音だけ無駄にいいね」
おかゆはコップを持ち上げ、ガラスの側面についた水滴を人差し指の腹で拭い取った。それを自分の唇にちょんと押し当てる。氷が溶けてほとんど味がしなくなった麦茶を一口だけ含み、喉の奥で鳴る音をころねの絶叫が掻き消していく。ころねの指先は、画面の強化ガラスの上でカチカチと乾いた爪の音を立てていた。彼女がやっているのは、何十年も前に一部の好事家の間でだけ流通したという、およそ一般のゲーマーなら三分で投げ出すレベルの理不尽なアクションゲームの非公式エミュレート版だ。チュートリアルなど存在せず、ステージの開始直後に前触れもなく頭上から鉄球が降ってくるような、悪意だけで構成された世界。
「普通の人なら『不具合』って言って怒るとこだけどね。ころねは楽しそうだなぁ」
「当たり前じゃん! 効率? なんか勘違いしてるみたいだけどさ、人類をいつだって発展させてきたのはバグなんだよね! 完璧な道なんてつまらんのよ。なくしたカケラはバラバラで不完全じゃん? 普通は不可能かもだけど、それでもころねに賭けてみない? 今日の夜の買い出しの権利、これクリアできたらおかゆが全部持ってってええよ」
「えー。僕、重いもの持つの嫌だなぁ。おばあちゃんの米袋、結構重いんだよ?」
「ころねが持つから大丈夫! おかゆはころねの後ろについてきなよー。迷っちゃダメだし、疑うのもナシ!行くよ?――出発進行!」
ころねは自らの言葉で勝手にテンションを爆発させると、ちぎれたドットの塊となった自機を、画面のさらに奥にある暗黒の領域へと突進させた。しかし、次の瞬間、画面が一瞬だけ真っ白にフラッシュし、続いておどろおどろしい赤文字で「FATAL ERROR」の文字が浮かび上がった。アプリが完全にクラッシュしたのだ。縁側に、一瞬の静寂が訪れる。遠くの幹線道路を走る大型車の排気音と、裏手の雑木林で鳴き狂うミンミンゼミの声が、その静寂の隙間を一気に埋めるように流れ込んできた。ころねは、画面が暗転したスマートフォンを握りしめたまま、石のように固まっていた。麦わら帽の庇から覗く茶色の瞳が、虚無を見つめるように見開かれている。
「……落ちた」
「落ちたね」
「気づいてる? 街全体が電脳の空気に染まりっちゃって、いまやみんなの脳のファイアウォールは落ちてやがるぜ?……って、ころねのスマホのファイアウォールが落ちてどうすんねん!!」
「あはは! 自分で言っちゃった。頭のセキュリティ、ガバガバじゃん」
おかゆは座布団の上でへにゃりと身体を折って笑った。笑うたびに、短い紫の髪が額に揺れ、細められた琥珀色の瞳が西日の光を浴びて猫のようにきらりと光る。おかゆの手が、床板をトントンと規則的に叩いた。彼女の動作には、急かすような気配が一切ない。ころねの弾けるような言葉の残響を、おかゆの低い声が吸い込んでいく。まるで、暴れる犬の首輪を優しく引き戻すかのように。ころねがどれだけ大声で騒ごうが、ゲームがバグろうが、すべては「そういうもの」として、彼女の周囲の緩やかな空気の中に溶かされていく。ころねは仰向けにゴロンとひっくり返り、畳の上に大の字になった。サスペンダーの金具が、床の木目に擦れて鈍い音を立てる。
「んあー! もう、笑わせないでよぉ。みんなは気づいてるわけ? 変わるのは痛いし、進むのは地獄なんだよね。それでも立ち向かう気があるならさ、痛みなくして前進なし、だよ! ころねはここで諦めへんからな。ころねが教えたやつらに落ちこぼれなんておらんのよ。それでも挫けそうならさ、即興でやっちゃおうよ。それがうちらのやり方じゃん!」
「誰に向けて言ってるの、それ」
「画面の向こうのみんなと、あと、おかゆ!」
ころねは顔の上に麦わら帽をドサリと乗せ、視界を完全に遮断した。帽子の中から、少しこもった、けれど絶対に折れない芯のある声が響く。
「なんか気づいたら壮大な計画立ててた気がするけど、ま、いっか! 落ちたら、もう一回タイトル画面からやり直せばええだけのことや。見えないモノを見て、出来ない事をするの。力の限り抗うんだよ!」
「はいはい。熱中するのはいいけど、水分補給もしなよ。ほら、お茶」
おかゆは自分の分のコップを床に置き、おばあちゃんが置いていってくれた大きなガラスのピッチャーを持ち上げた。傾けると、中に入った冷たい麦茶がトトトト、と音を立ててころねの空のグラスを満たしていく。グラスの表面が瞬く間に曇り、大粒の水点でいくつも流れ落ちて、コースター代わりの新聞紙の切れ端に丸い染みを作った。ころねは帽子を少しだけ持ち上げ、片目だけでグラスを確認すると、ストローを唇で手探りするようにしてくわえた。ズズズ、と派手な音を立てて冷たい液体を胃袋に流し込んでいく。その喉が大きく上下するのを、おかゆは自分の顎を両手で支えながら、ただ静かに見つめていた。
おかゆの指先が、何気なく縁側の端に置かれた竹ザルへと向かう。ザルの中には、午前中に近くの農家から分けてもらったという、まだ泥の匂いが微かに残るきゅうりと、完熟して割れそうなくらいに膨んだトマトが並んでいた。表面には井戸水の冷たさが残っており、触れると指先が少しだけじんわりとしびれる。おかゆはきゅうりを一本取ると、何も言わずに半分にへし折った。パキッ、という、水分の詰まった瑞々しい破壊音を立てて、断面から青臭い香りが一気に弾けた。
「ほら、ころね。これ食べな。おばあちゃん特製の塩、多めに振ってあるから」
「んえ? きゅうり?」
ころねは帽子を完全に顔から退け、上体を起こした。ブラウスの襟元から覗く首筋には、ゲームに熱中していたせいで細かい汗の粒がびっしりと並んでいる。彼女はおかゆから手渡されたきゅうりの半分を、遠慮なく口に放り込んだ。ボリッ、ボリボリと、小気味よい音がころねの口内から溢れ出す。咀嚼するたびに、彼女の茶色い垂れ耳が、嬉しさを隠しきれないようにパタパタと前後に揺れた。その動きは、彼女がどれだけ言葉で強がっていようとも、身体が完全にリラックスしていることを示している。
「んんー! 美味い! おばあちゃんの塩、やっぱり最高やな! なんかこう、じわっと染みる感じ!」
「でしょ? おばあちゃん、おにぎり握るときも、その塩の加減に一番こだわってるんだよ」
おかゆも残りの半分を口に入れ、静かに噛み砕いた。ころねがどれだけ全力で走り回ろうとも、おかゆという静かな錨があるからこそ、ころねは迷うことなく、その狂気とも言える情熱を解放できる。
「おかゆ、トマトも食べてええ?」
「いいよ。でも、汁飛ばさないでね。それ、おばあちゃんのお気に入りの畳なんだから」
「わかってるって! ころね、トマト食べるの天才やからな!」
そう豪語した直後、ころねが真っ赤なトマトに勢いよくかぶりついた瞬間、プシュッと音を立てて果汁が真横に飛び散った。
「あ」
ころねの動きが止まる。果汁は、おかゆが着ている白いTシャツの、ちょうど胸元の謎の生き物のプリントの真上に、鮮やかな赤い点となって数滴、染みを作っていた。
「……ころねぇ?」
おかゆが、声を一段と低くして、じろりと相手の顔を見た。その目は完全に据わっているが、口元は楽しそうに歪んでいる。
「ひゃー! ご、ごめん! 悪気はなかってん! トマトの因果が、ころねの計算を狂わせたんよ!」
「因果のせいにしないの。これ、どうすんのさ」
「拭く! 今すぐ拭くから!」
ころねは慌てて自分のノースリーブの裾で、おかゆの胸元をゴシゴシと擦ろうとした。ブラウスの薄い生地越しに、ころねの指先の体温とおかゆの肌の冷たさが、至近距離でぶつかり合う。
「ちょっと、ころね、擽ったい。それにそれじゃ汚れが広がるだけでしょ」
おかゆはころねの手首を片手で軽々と掴んで止めた。おかゆの指は細いが、その握力は驚くほど正確で、拒絶させない強さがある。おかゆは掴んだころねの手をゆっくりと引き剥がすと、自分の人差し指で、ころねの口の端に残っていたトマトの果肉を小さく掬い取った。エンドレスに続くような熱気の中、おかゆは「あ、そうだ」と思い出したように立ち上がり、おにぎり屋の古い冷蔵庫へと向かった。冷凍室の重い扉を開けると、冷気が白く吹き出す。
「ほら、ころね。おばあちゃんが冷凍庫に隠しといてくれたソーダアイス。半分こしよ」
おかゆの手には、一本の木の棒が二つの青い氷柱を支えているダブルタイプのソーダアイスがあった。縁側に戻り、両手に力を込めてパキッと割る。綺麗に二等分された片方を、おかゆは自分の口に咥え、もう片方を右手に持った。
「わあ、ソーダアイスや! ころね、それ一番好きなやつ!」
ころねが勢いよく手を伸ばそうとするが、おかゆはその手をひらりと交わし、アイスを少し高く掲げた。
「だーめ。トマトの汁飛ばした罰。ほら、ころね、あーんして」
おかゆは、悪戯っぽく細めた鳩羽紫色の瞳で、じっところねを見つめる。ころねは一瞬、耳をピタッと後ろに寝かせて「ええ……自分で食べられるもん……」とモゴモゴ口を動かしたが、おかゆの絶対的な視線に抗えず、観念したように小さく口を開けた。
「……あ、あーん」
「はい、あーん」
おかゆの手から差し出された青い氷の塊が、ころねの口元に運ばれる。ころねはそれを前歯でガリッと大きく齧り取った。冷たさが一気に口内に広がり、頭の奥がキーンとする。ころねは「冷たっ! でも美味い!」と顔をしかめながらも、嬉しそうに尻尾の付け根を震わせた。おかゆはその様子を見て、満足げに自分の分のアイスをシャリシャリと齧る。冷たい氷の粒子が、二人の体温を少しだけ心地よく下げていった。
「あ、あいたたた……! おかゆ、頭キーンしてきた! 脳みそがバグっとる!」
ころねが急に自分の両手で頭を抱え、畳の上をゴロゴロと転がり始めた。
「あはは、欲張って大きく噛むからだよ。ほら、ちょっとじっとしてなよ」
おかゆは笑いながら、自分の手のひらをころねの額にそっと当てた。冷たいアイスを持っていたおかゆの手はひんやりとしていて、ころねは「んあ……つめたい……」と声を漏らしながら、ようやく動きを止めた。
西日が、縁側の端まで差し込んできた。木造の柱が、熱を蓄えてかすかにピシッと鳴る。風の温度が、昼間の暴力的な熱から、少しだけ夕暮れの匂いを帯びたものへと変わり始めていた。ころねは、畳の上に転がったまま、おかゆの白いTシャツの裾を人差し指でツンツンと突き始めた。
「なぁ、おかゆ」
「ん?」
「さっきのゲームのやつさ、たとえ因果に阻まれようとさ! 紡いだ今が未来を作るんだよ!……って感じやったのに、一瞬でクラッシュしたなぁ」
「うん、綺麗に落ちたね。画面真っ赤だったよ」
「これがうちらの世界が歩んだ答えなんだよ!!……とか言って格好つけてみたけど、現実はFATAL ERRORじゃん。なんか、たまにこうやってゲームやっとるとさ、画面の向こうのみんなに見せなあかん自分がおる気がするんよ」
頭半分に乗せた麦わら帽の下から覗くころねの目は、いつの間にかゲームをやっていた時の狂気じみた鋭さを失い、ひどく穏やかで、そして少しだけ子供のような無防備さに満ちていた。
「でもさ、おかゆの隣におるときは、ころね、ただの犬でいられるんよ。そういう時間が、なんかっていうか、その……落ち着くんよね。別に深い意味とかはないんやけど!」
おかゆは、コップの底に残った最後の氷が、不器用な音を立てて割れるのを聞いていた。彼女は、ころねの言葉にすぐには気の利いた返事をしなかった。ただ、ゆっくりと手を伸ばし、ころねの麦わら帽を完全に頭から取り外した。
「そっか」
おかゆはそう短く呟くと、汗で少し額に張り付いた茶色の前髪を、指先で優しく横に分けた。そのまま、肉厚な垂れ耳の付け根のあたりを、手のひら全体で包み込むようにして、毛並みに沿ってゆっくりと撫でた。
「んあ……ぅ……」
ころねの口から、無意識の、ひどく甘えたような吐息が漏れる。耳の付け根を撫でられると、彼女の身体からは完全に力が抜け、畳の上に文字通り溶けるようにして平らになってしまう。
「僕はさ、ころねがここでこうしてゴロゴロしてるの、結構好きなんだよね。だからさ、別に何も考えなくていいんじゃない? ゲームがバグったらまた最初からやればいいし、疲れたらここで寝ちゃえばいいんだよ。僕がここで見ててあげるから」
「……ん。おかゆの手、やっぱり、ひんやりしてて……きもちええなぁ……」
ころねの目が、ゆっくりと塞がっていく。あれだけ激しく動いていた指先も、今は畳の上で力なく開かれていた。
「なぁおかゆ。ころね以外の誰かとそんなふうに優しくお喋りしたら怒るからな。おかゆの目は、ころねだけ映してればいいんよ」
不意に落ちてきたころねの言葉は、西日の熱の中にひどく生々しく爆ぜた。普段の突拍子もないテンションとは全く違う、喉の奥から絞り出したような小さな、けれど逃げ場のない重さを含んだ声。
おかゆは、撫でていた手をぴたりと止めた。杜若色の瞳が一瞬だけ細くなり、すぐ目の前にある、今にも眠りに落ちそうな犬の横顔を見つめる。ころねの耳が、不安を隠すようにわずかにピクついた。おかゆは小さく息を吸い込み、ころねの耳元へ顔を寄せると、吐息がそのまま鼓膜を揺らすような距離で、低く、どこか楽しげな熱を帯ばた声を滑り込ませた。
「いいよ、じゃあ僕を一生離さないでね。ころねの手をすり抜けて、僕がどこか遠くの知らない場所に行っちゃう前にさ」
ころねの肩がビクッと跳ね、塞がっていた瞼が驚いたように小さく震えた。けれど、おかゆはそれ以上の追及を許さないように、またいつものふにゃりとした、すべてを煙に巻くような笑みに戻り、繋いだままだったころねの手のひらに、自分の手を重ねた。
ころねの手は、夏の熱をそのまま吸い込んだように熱く、おかゆの手は、冷たい麦茶のコップを握っていたせいで、まだ少し冷えていた。二つの異なる体温が、縁側の湿った空気の中でじわりと混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。
裏の雑木林から聞こえる蝉の声が、いつの間にかヒグラシのカナカナカナという、少し寂しげな音へと変わっていた。夕立を予感させるような、少し重い風が縁側を通り抜け、柱に掛けられた黄色い大リボンの端をぱたぱたらと揺らす。おかゆは、ころねの規則正しい、小さな寝息を聞きながら、空を見上げた。オレンジ色と紫色が混ざり合ったような、なんとも言えない不思議な空の色が、おにぎり屋の古いトタン屋根を染めていく。
「夜になったら、本当におにぎり作ってもらおうね。すっごい酸っぱい梅干し入れて、裏の川で、冷たい水に足を浸しながら、二人で食べよう」
おかゆは、眠り続けるころねの耳元で、届くかどうかもわからない小さな声で呟いた。返事はなかった。ただ、ころねの手のひらが、無意識のうちにおかゆの指を、少しだけ強く握り返した。
風鈴が、風に煽られてチリン、と鳴った。その音はすぐに夕闇の静けさに吸い込まれ、二人の影はただそこにあるだけの静かな景色として、少しずつ暗くなっていく空の下に溶けていった。夏の日は、そうしてゆっくりと暮れていった。
……はずだった。
「――んん、起きた。おかゆ、今なんて言うたん?」
突然、地の底から響くような声と共に、ころねの茶色い瞳がカッと見開かれた。寝息を立てていたはずの身体が、爆発的なバネのような勢いで跳ね起きる。おかゆが反応するよりも早く、世界が反転した。
ドサリ、と古い畳が重い音を立てて軋む。
おかゆの視界に入ってきたのは、煤けた天井ではなく、西日の逆光を背負って真っ黒な影となったころねの顔だった。ころねの両手が、おかゆの両肩を容赦なく畳へと縫い付けている。白地の大きなTシャツが乱れ、おかゆの背中に畳の硬い感触がダイレクトに伝わった。おかゆの短い紫の髪が床に散る。
「ちょっと、ころね、急に何……っ」
「知らん場所にいく前にって、言うたなぁ? おかゆ、いま『どこか遠くに行く』って言うたなぁ!?」
ころねの顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで迫ってくる。麦わら帽から飛び出した茶色い耳が、怒りと執着で限界まで逆立っていた。その瞳の奥には、レトロゲームの画面をクラッシュさせた時以上の、およそ正気とはかけ離れた濁った熱がギラギラと渦巻いている。
「ねえ、おかゆ。ころねを置いていくなんて、そんな不完全な未来、絶対に許さへんからな」
肩を掴むころねの指先が、肉にめり込むほどに強く震えていた。おかゆは喉の奥を鳴らし、拒絶するためではなく、その圧倒的な重さをただ受け止めるように、ふっと小さく微笑み――。
「……おかゆ、今さら逃げられると思っとんの?」
ころねの低い、震える声が、おかゆの耳元を直撃した。肩を掴む指の圧力が、骨の髄まで響くように強くなる。おかゆは自分の上に覆い被さる、汗ばんだセーラーブラウスの熱を全身で感じていた。ころねの茶色い瞳は、もはやおにぎり屋ののんびりとした夕暮れなど映していない。そこにあるのは、底なしの独占欲と、絶対に離さないという執念だけだった。
「どこにも行かないよ」と、おかゆが囁くように答えようとした瞬間、ころねはさらに体重をかけ、おかゆの唇を奪うような勢いで顔を近づけた。二人の境界線が完全に崩壊し、熱い吐息が激しくぶつかり合う。畳の匂いも、遠くのヒグラシの声も、すべてがころねの放つ圧倒的な狂気の中に飲み込まれて消えた。
「捕まえた。もう絶対に、一歩も道を逸らさへんからな」
その言葉を最後に、世界のすべてを拒絶するように、縁側の引き戸がガタッと激しく閉まった。