ホロライブ短編集2   作:夏目陽光

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Break the Jail, Sing a Song! ——泥泥まみれのディーヴァと黒い羽音

「ハロー、エブリバディ! みんな元気ぃ? ネルは今日も最高にハッピーだよ、Ahahaha!」

 

――なんてな、そんな弾けるポップな挨拶が勢いよく飛び出すのは、あの眩しいモニターの向こう側の話さ。

 

今のネリッサ・レイヴンクロフトといっちゃあ、夕暮れの公園の片隅で、まるで activity (活動)を停止した古い活動写真のフィルムみたいに薄汚く退色しちまっている。オレンジから紫へと移ろうていくあの境界線。だが、いまの彼女の眼に映るそれは、ただ泥をこねくり回したような、不愉快きわまるノイズの塊に過ぎなかったのだ。

 

「……あー、あー。テス、テスト。マイク、チェック……。あはは、全然ダメじゃん。Oh my god, 声がまるで出ないよ……」

 

ぽつりと言い捨てた声が、カサカサに乾燥した秋の落ち葉を踏みつけた時のように、無残にひび割れて聞こえた。いつもならもっと上手に愛想を振りまくところだが、今の彼女といっちゃあ、そんな余力さえ残っていやしなかった。

 

彼女の肉体は、限界の境界線を踏み越えて、ボロ雑巾のようになっていた。何時間、いや、何日間、彼女はあの忌々しいほどに眩しいモニターの前で声を張り上げ、歌い、叫び、笑い続けていただろう。

 

ファンのみんな――彼女が命よりも愛する『ジェイルバード』たちが喜んでくれるなら、自分のすべてをすり潰して差し出しても一向に構わない。本気でそう思っているし、今だって後悔なんてものは、この胸 of course どこを探したって一枚のコインほども見当たりゃしないのだ。

だけど、肉体という名の楽器は、精神の熱量に追いつかないほど冷酷に軋んでいた。

 

喉の奥が、まるで粗いヤスリで何度もガリガリと削られたようにヒリヒリと痛む。息を吸い込むだけで、胸の奥に鋭い棘を突き立てられるような不快。頭の芯にいたっては、重いベースの重低音がずっとハウリングを起こしているみたいに、ズキズキと、嫌なリズムで脈打ってやがる。

 

視界の端がぐにゃりと歪むのを、何度も何度も瞬きを繰り返して誤魔化そうとするが、目の前にこびりついたチカチカとする光の残像――配信画面を狂ったように流れる目まぐるしいチャットの光流――は、どうしても消えてくれなかった。

 

ギィ……、キィ……。

 

ブランコの鎖を握る手には、もうほとんど感覚が残っていやしない。冷たい鉄の感触だけが、かローじて彼女をこの現実に繋ぎ止めているワイヤーのようだった。

 

ネリッサは無意識に、足を小さく前後に振った。身体が揺れる。上体が後ろにしなると、世界が逆さまにひっくり返るような錯覚に襲われる。

 

脳を容赦なく揺さぶる強烈な目眩。普通なら恐怖を感じるはずのその感覚に、彼女の摩耗しきった神経は、むしろ奇妙な安らぎを覚えていた。

 

(ねえ、これ……ちょっとウケるかも。Like, もし私がこのまま、後ろにひっくり返って砂場に頭から落っこちたら、みんななんて言うかな? 『ネル、またポンコツやってるよ!』って、笑ってくれるかな……?)

 

彼女の脳内は、一人でいるときも決して静かにはならない。常に、無数の思考が、英語と、少しの日本語と、tender なメロディの断片となって、ぐちゃくちゃに渦巻いている。

 

静寂というやつが、たまらなく恐しいのだ。音が途切れることは、彼女にとって「世界から消え去ること」と同義だから。だから、この限界の頭の中でも、彼女は無意識に「喋り手」としての自分を演じ続けようとしていた。

 

「You know? 静かなのって本当に無理……。何か、歌ってなきゃ、死んじゃいそう……」

 

だが、それももう、限界だ。ひび割れた唇から、熱い吐息がこぼれる。喉が、脳が、魂が、決定的な「何か」を求めて悲鳴を上げていた。この渇きを癒やすための、もっと強烈な、もっと圧倒的な、何かを。

 

キィ、と。すぐ隣で、金属の擦れ合う音がした。

 

風のせいじゃあない。そこには、明確な「質量」が割り込んできていた。ネリッサが濁った視線をそちらに向けると、夕闇の境界線が不自然に歪み、そこから「それ」が羽ばたいてくるところだった。

 

人間ではない。ましてや、普通の動物でもない。それは、その辺にいるはずの、どこにでもいる『スズメ』の姿をしていた。

 

しかしその羽は、普通の茶色ではなく、底なしの夜の闇をそのまま固めて切り出したかのような漆黒。かつて地獄の底で、冥界の王のような存在が放っていた、あの圧倒的な「超常の気配」が、公園の淀んだ空気を一瞬で支配していく。その小さな瞳は、まるで熟しすぎた不気味なベリーのように妖しく、美しく、禍々しい光沢を放っている。

 

「……うわぁ、Wait, なにこれ……?」

 

ネリッサの口から、感嘆とも恐怖ともつかない、かすれた声が漏れた。不思議と、逃げようという思考は生まれなかった。むしろ、限界を迎えていた彼女の五感が、その異形の存在に強制的に、暴力的にロックオンされたのだ。

チチチ、チチチ……と脳髄の裏側を直接引っ掻くような、無数の羽が擦れ合う微細な音。それは、彼女が今まで聴いたどんな楽器の低音よりも、深く、重く、内臓を揺さぶる「完璧なベースライン」へと、彼女の狂った脳内で変換されていく。

 

人外のスズメは、ネリッサの方へとゆっくりと首を傾げた。感情の読み取れない小さな瞳に、夕暮れの残光と、ネリッサの痩せたシルエットが不気味に写り込む。便々とそこにとどまるその小さな嘴が、ゆっくりと空気を切り裂きながら彼女へと近付いてきた。

チリ……。

 

小さな爪が、ネリッサの剥き出しの首筋に、そっと触れる。

 

「っ……あ、It's cold……っ」

 

極限の冷気。まるで氷の刃を突きつけられたような衝撃が走った直後、今度は皮膚が爆発するように熱くなる。五感がパニックを起こし、脳内のニューロンがめちゃくちゃに発火する。

 

さらに、その羽ばたきから、言葉にできないほど濃厚で甘美な、しかし同時に鼻を突くような、危険なフェロモンの香りが溢れ出した。それは彼女の嗅覚を、そして理性を、一瞬で麻痺させていく。

 

(何、これ……すごい。頭の中の雑音が、全部消えていく……っ。It feels so good……)

 

異形のスズメは、さらに距離を詰めてきた。黒く硬質な羽が、ネリッサの衣服を擦り、彼女の肩へと飛び移る。パチリ、パチリ、と耳元で鳴る、嘴のクリック音。厚生を欠いたその音を聴くたびに、ネリッサの脳内で、言葉にならない「歌」が勝手に組み上がっていく。

 

彼女は、本能的な快感に身を委ねるように、自らその黒い異形へと身体を寄せた。冷徹で、暴力的で、圧倒的な人外のエネルギーが、彼女の干からびた肉体に直接注ぎ込まれていく。首筋を突くような微小な放電の感覚。それは苦痛のようでいて、極上の愛撫のようでもあった。

 

「ねえ……あなた、すごく……いい音がする。You have a beautiful voice, もっと、聴かせて……?」

 

ネリッサはうわ言のように呟きながら、その人外の冷たい身体に、自らの頬をすり寄せた。世界が、その黒い狂気の底へと完全に沈没していく――。

 

――『ネリッサ、聞こえる? ちょっと、Nerissa!』

鋭い高音が、彼女の脳殻を内側からぶち破った。

 

「……っえ!? What!?」

 

身体がビクッと大きく跳ね上がる。耳元で響いたのは、人外のクリック音でも、甘美なフェロモンの囁きでもない。スマートフォンのイヤホン、そこから漏れる、信じられないほど現実的で、冷徹で、スケジュール管理に追われたマネージャーの声だった。

 

『ちょっと、大丈夫? さっきから何度も呼んでるんだけど。明日の3Dコラボの件、アセットの確認は終わった? 終わったらすぐにDiscordで共有してって言ったよね? それから、来週のボイトレの――』

 

「あ、あはは……! Oh, sorry! ごめんごめん! 聞こえてるよ! 大丈夫、Yeah, I'm here!」

 

ネリッサは弾かれたようにブランコの上で背筋を伸ばした。その瞬間、視界を覆っていた不気味な紫色のアドレナリンが、嘘みたいに霧散していく。

 

慌てて隣を見る。

 

そこには、誰もいなかった。巨大な黒いスズメも、悪魔的なオーラも、最初から存在していなかったかのように、ただそこら辺の、普通の小さなスズメが数羽、夕方の冷たい風の中でチュンチュンと鳴きながら飛び去っていくだけ。

 

首筋に触れてみても、そこには冷気も熱さもなく、ただ自分の冷え切った指先の感覚があるだけだった。

 

「……あ。幻覚、だったのかな。Oh my god, 私本当に疲れてるかも」

 

現実は、いつだって容赦なく彼女の襟首を掴んで引きずり戻す。

 

脳裏を埋め尽くすのは、さっきまでの濃厚な人外との接触ではなく、山積みにされたタスク、ディスコードの通知バッジ、タイムスケジュール、 tender な声で囁く代わりに突きつけられるビジネスの現実。 tender な夢から目覚めた瞬間のこの虚脱感。そして「ネリッサ・レイヴンクロフト」という完璧な存在を維持するために必要な、膨大な社会的責任の重圧だった。

 

彼女は知っている。自分の頭が、もうとっくに普通の世界からはみ出してしまっていることを。

 

静寂を恐れるあまり脳内で常に何かを叫び続け、限界を超えた肉体の歪みが、人外の化け物との濃厚な接触なんていう、悍ましくも甘美な幻覚を見せる。そんな自分の狂気を、彼女ははっきりと自覚していた。

 

(私、本当に頭がおかしくなっちゃったのかも。Ahahaha! まあ、元からジェイルバードたちに『Crazy』って言われてるし、今更か!)

 

高音の、どこか引き笑いのようなチャーミングな笑い声が、無人の公園に響いて消える。ネリッサは、小さくため息をひとつつくと、ゆっくりと立ち上がった。足の震えは、まだ止まっていない。喉の痛みも、頭痛も、何一つ消えてはいない。

 

だけど、彼女はスマートフォンに向かって、息を深く吸い込んだ。

 

「オッケー! サムネの素材ね、今すぐ確認して送るよ! 明日のコラボもめちゃくちゃ楽しみだし、ジェイルバードたちを絶対に驚かせちゃおうね! It's gonna be amazing!」

 

その声は、完璧だった。明るくて、ハツラツとしていて、世界中の誰もが元気を貰えるような、あの「ネリッサ・レイヴンクロフト」の、弾けるような美しい声。

どん底の疲労も、頭をかき乱す狂気の残響も、これから始まる最高のステージの熱気で全部ひっくり返してやるさ。何十万もの愛しいジェイルバードたちが待つあの光の海の真ん中へ、もっともっと高く羽ばたいていくんだ。

 

世界中で一番、誰よりも輝くトップスターにネルはなるんだから、こんなところで立ち止まっている暇なんて1秒だってありゃしない。歌いたいメロディが、みんなと作りたい笑顔が、胸の奥からどんどん溢れて止まらないんだ!

 

「さーて! お家に帰って、最高のステージの準備をしなきゃ! みんなが待ってるもんね! Let's go!」

 

夕闇が完全に公園を飲み込む中、彼女は一歩、日常の戦場へと歩き出した。その背中には、もう限界の少女の影はなく、ただ一人の完璧なスターの輝きだけが残されているように見えた。

 

――だが、公園の出口へと向かう彼女の足取りは、決して軽やかなものではなかった。

 

ふらつく足元を誤魔化すように、ブーツの踵をアスファルトに強く擦り付け、重い引き摺り音を立てる。完璧なスターの歩幅を維持しようとするたび、太腿の筋肉がピキピキと悲鳴を上げ、酸っぱい胃液が喉の奥までせり上がってくる。彼女はそれを、ペッと横の植え込みに吐き捨てた。

 

美しく着飾ったドレスの裾は、いつの間にか自分の汗と、公園の砂埃で泥塗れになっている。

 

それでも、彼女はスマートフォンの画面を凝視し、震える指先でディスコードの返信を打ち込み続けた。爪が画面に当たるカチカチという乾いた音が、彼女のリアルな生存の証だった。なりふり構っていられない。どんなに泥をすすり、体中を痛みにきしませようとも、彼女は生きるために、そして「ネリッサ」であり続けるために、この冷たい夜の街へと幾度も躓きながら、這いずるようにして帰っていくのだ。

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