ぬるい潮水が足首を打つ。プラスチックの青い熊手は、浅瀬の泥を掻くたびに鈍い音を立てた。ひどく蒸し暑い、不快な風が吹く。「……なんで、こうなりましたっけ」口を突いて出た声音は低い。鼻にかかった、高低差のないその響きは、深夜の配信画面でリスナーの耳元に届けられるものと全く同一であった。引き潮の泥砂の上に、アーニャ・メルフィッサはぽつねんと立っている。
電脳の百科事典で生態とコツを頭に叩き込んだときは、もう少しマシなゲームだと思っていた。だが、いざ泥塗れの現実に放り出されてみれば、そこはただの調整不足のフィールドである。少し離れた砂浜では、海水浴客の集団が、何が楽しいのか大声を上げて泥を撥ね散らかしていた。同じような流行りの服を着て、同じような言葉を使って笑い合う。その喧騒を、彼女は薄目を開けたまま、視界の端に追いやる。彼らはどうしてあんなに無邪気なのか、本当に不思議で仕方がない。みんな個体差がなさすぎて見分けるのが面倒です。アサリの模様の方が、よっぽど幾何学的で面白いというのに。……あ、別に悪口じゃないですよ? 純粋な観察日記です。文句があるなら、もっと面白い模様になってから言ってください。「あ、ちょっと、そこ。水が濁ってて見えないです。……ふふ、なに笑ってるんですか? アーニャ、真面目ですよ。めちゃくちゃ真面目。……取れました。ほら、見えますか? ……あ、見えないですよね、誰もいないし。何言ってるんだ、アーニャは。頭おかしくなったですかね」誰もいないはずの至近距離に向けて彼女の唇が無意識に動く。長い髪を片手で雑に払い、再び熊手を突き立てる。サク、という軽い手応え。泥を水ですすすぐと、固く扉を閉ざした一個の小さな貝が現れた。ふいにつまらない笑いが漏れた瞬間、足元の水流の『圧』が、唐突に変質した。
大気の中に混入した、異質な、粘り気のある気配。
動きがピタリと止まる。熊手を握る指に思わず力が入り、じわりと嫌な汗が滲む。喉の奥が瞬時に干からびて、生唾を無理やり飲み込んだ。視線の先、わずか二メートル向こうの浅瀬。泥砂が水中において煙のように舞い上がり、そこから、平べったい灰褐色の不気味な影がゆらりと浮かび上がった。尾の先端に、細長く鋸の歯のような逆棘を宿した潜伏者。「……エイ、ですか」声音から、完全に温度が消え去った。アカエイ。浅瀬に潜む罠。不用意にそれを踏めば、激痛と共に最悪の場合は命を落とす。……ふん、知っていますよ。アーニャを部屋の隅でゲームにブチ切れているだけの、ただの引きこもりだと思ったら大間違いです。アーニャの知識量を舐めないでほしいですね。
瞳が、危険を察知した猫のように鋭く見開かれる。だが、視界の端でゆらめくその灰色の影が、生物としての圧倒的な『異物感』を放った瞬間、脳の芯が完全に冷たくなった。ヒエッ、無理です。帰ります。これ、マジで危ないやつです。なんでアーニャがこんなところで命の危機に瀕しなきゃいけないんですか。聞いてないです。これ以上ここにいたら、アーニャの命がいくつあっても足りないです。帰らせてください、本当に。かつての戦場を思い出すような高尚なエモさなどそこにはない。ただただ、「ガチで危ないから嫌だ」という強烈な生存本能と、世界への完全な拒絶が脳内を支配していた。大自然の脅威に対して生きている実感を見出すほど、彼女は熱血漢ではない。生きている実感とは、涼しい部屋で冷たい飲み物を片手に、大好きなアニメや推しを眺めている瞬間にこそ存在するのだ。こんな理不尽に付き合っていられるほど、こちらには余裕はないのである。一歩、慎重に後ろへと退いた。泥の底を、すり足で探るように。もし、別のエイの、あのぬめりとした背中を踏みつけたら――その瞬間、終わりだ。爪先が泥に深く沈み、生臭い匂いが鼻腔を突く。心臓がうるさい。このまま消え去りたい。
人間というのは、こういう時に慌てて声を上げ、バタバタと暴れて逃げようとして、かえって水底の影を踏みつけるんです。本当に愚かですね。エイだって、別に人間を刺したくてそこにいるわけじゃない。彼らもただ、静かに砂の布団に包まれて暮らしたいだけなのに。……あ、ちょっと親近感湧いてきました。アーニャも、部屋のベッドで静かに布団を被って、一日中スマホを見ていたいだけですからね。それを無理に引っ張り出そうとするやつは、刺されても文句は言えません。……いや、でもやっぱり無理です。刺されたら痛いし。早くどっか行ってください、本当にお願いします。思考の整理など途中でどうでもよくなり、ただひたすらに、目の前の不気味な影が去るのを祈る。
エイは、ゆっくりと深みへと向かって泳ぎ去っていった。ひらひらと、海底を舞う灰色の布のように。「……行きました。……ふぅ」
張り詰めていた皮膚の緊張が一気に弛緩し、気怠げな調子に戻る。途端に、濡れた足首の冷たさや、項を焼き焦がすような太陽の暑さが、一気に現実の不快として感じられ始める。「もー、なんなんですか。潮干狩りって、もっとこう、平和でのんびりしてて、ただ地面を掘っていれば貝が無限に湧き出てくるような、そういうイージーゲームじゃないんですか? なんでアーニャが、こんな大自然の、命の危機みたいな脅威と戦わなきゃいけないんですか。解せぬ、です。本当に解せぬ。これ、企画したやつ誰ですか。出てきなさい、です」
口を大きく尖らせ、誰もいない海に向かって文句をぶちまける。再び熊手を砂に突き立てるが、泥を引っ掻くたびに、漢語を多用する古風な独白と、現代のネットスラングが、頭の中でぐちゃぐちゃになって脳髄を滑り落ちていく。脳内で一度、実況解説を挟まなければ、この不自由な肉体をうまく御せない。抑も、我輩――いや、アーニャは、何故にこの乾いた性質を隠し持ちながら、湿った泥の海に足を浸しているのであるか。人間の生というものは、まことに不可解な義務の連続である。彼らは生を維持するため、あるいは『娯楽』という名の空虚な営みのために、わざわざ自らの領分ではない領域へと踏み出していく。この海の生物どもから見れば、アーニャという存在は非道なる略奪者に他ならないのではないか。いや、待ってください。略奪者、ですか。響きは悪くないですね。アーニャ、かっこいいです。悪の組織のボスみたいです。……ふ前ら、ひれ伏しなさい。アーニャがこの海の貝をすべて、根こそぎ奪い尽くしてあげますからね。覚悟しろ、です。
しかし、そう心の中で息巻いてみたところで、現実の肉体が成し遂げる収穫はまことに微々たるものであった。砂を掘れば、出てくるのは割れたガラスの破片ばかり。現代の人間どもが残した、文明のゴミという名の醜悪なる足跡。小さな鼻を鳴らし、不快そうに熊手で撥ね退ける。こういうの、本当に美しくないです。アーニャの本体は、何百年も美しい箱の中に収められ、敬意を持って扱われてきたというのに。……あーあ、嫌になっちゃいますね。帰りたいです。今すぐ、エアコンの風が直撃する、あの狭い部屋の椅子に戻りたいです。アーニャの体力の限界、とっくに迎えてるです。マイナスです。なんでアーニャはクーラーの効いた部屋で推しを見ずに、こんなところで泥まみれになっているんですか。意味がわからないです、本当に。ただのクソです、クソ。二度と来ないです、こんなところ。気づけば親指の爪を前歯でカリカリと小さく噛んでいた。自分のルールを把握し、自分が支配できる空間。それだけが真の安息を与える。
「……あ」
またしても、ガリ、という手応え。今度は大きい。泥まみれになった自らの白い指先を砂に突っ込み、その物体を掘り起こした。現れたのは、彼女の掌の半分ほどもある、見事なハマグリであった。しかし、その瞬間、ハマグリの殻が開き、隙間から勢いよくビューッと潮水を噴射した。容赦ない水鉄砲は、アーニャの顔面を正面から直撃する。
「……あ”?」
前髪からボタボタと滴る塩水。予想外の物理攻撃に、彼女は低く鋭い地声を漏らし、本気で顔をしかめた。「なんなんですか本当に! ふざけないでください!! ……見ましたか。取れました。ハマグリ、です。これ、めちゃくちゃ大きいですよ。どうですか、アーニャの実力は。……ふん、さっきまで水かけられて半泣きになってた? 誰がですか。アーニャがそんなこと言うわけないじゃないですか。これはアーニャの、緻密な計算と、大自然との対話の結果です。敬いなさい、です」遠くの喧騒から逃れるように、あるいは目に見えぬ群衆に向けて、彼女は自慢げにハマグリを掲げ、ふんぞり返ってみせる。不敵な笑みが美しく輝いた。
陽が、傾き始めていた。沈む間際になって、その最後の狂気のような朱き光を、海面に撒き散らしている。水面は赤く染まり、彼女の影を、東の空に向かって細長く伸ばしていた。堤防のコンクリートの段差に腰掛け、泥のついた細い両足を投げ出していた。手元にある赤きナイロンの袋には、結局、数個のアサリと、あの見事な一個のハマグリが、確かな重量感を持って転がっている。
「……疲れました」
膝の間に顔を埋めるようにして小さく呟く。長時間の激闘を終えて、声のトーンが極限まで落ちていく。でも、まぁ……一個大きいのが取れたから、よしとしますかね。本当に、それだけ、ですけど。二度と来ないですけど。手の中の冷たい貝殻を見つめながら、彼女の思考は、再び静かな自己との対話へと沈んでいく。誰もいない海。自分の呼吸と波の音だけが、世界のすべてを構成している空間。それは、完璧な『アーニャ・メルフィッサ』として画面の向こうに立ち続ける日常とは全く異なる質の、圧倒的な静寂であった。
――あー、いや、かっこよく言ってみただけです。ただのぼっちです。寂しいとかじゃないです。早く帰らせてください、本当に。
「さて、と。帰ったら、これ、どうやって食べましょう。……あ、お味噌汁ですかね。やっぱり。……でも、アーニャ、砂抜きとかいう、あのめちゃくちゃ面倒くさいの嫌です。誰か、アーニャが寝ている間に、代わりにやっておいてくれないですかね。……あー、リスナーにお願いしたら、みんな本当に気持ちの悪いことを言い出すに決まっています。バカですね、本当に。……ふふ、変態ばっかりです、アーニャの枠は」
立ち上がり、服についた乾いた砂をパッパと雑に払った。その足取りは、海に来る前のあの気怠さに満ちたものよりも、心なしか、微かに軽やかであった。再び、あの混沌としており、自らの『城』へと戻っていく。何もかもが面倒だが、我が家だけは裏切らない。傾いた太陽が影を長く引き摺り、アーニャはだるそうに肩をすくめて歩く。明日もまた、あの画面の向こうで、リスナーという名の愛すべき愚者どもの首を、容赦なく刎ねるために。