世界樹と星空の女神 ~無自覚美少女は最強魔法剣士。彼女の愛が重すぎるが、それでも俺は冒険者!~   作:Soularti

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[COORDINATE 0085] Toward the Final Sage’s Labyrinth

# Hermit_Crab_Lunaria:

 

 メイドルナリアによる、どろどろとした嵐は、結局二、三時間では収拾がつかなかった。

 一度戻ってきたフェリスは、俺たちの様子を見て苦笑を浮かべた。

 閉めた戸の前で、彼女は少し思案してからぼそぼそと呟いた。

 

「……そういえば、いつもは睡眠後に戻っていた。……時間を考えるに、昼前に暴走すると一日中続くということか。気をつけよう」

 

 それから、瑠璃色の瞳を俺に向けて言った。

 

「……ああ、何も言わなくていいぞアルス。大丈夫だ。そうだな、少年を叩き起こして訓練でもつけてやるか」

 

 そう言うと、フェリスは戸の前から離れ、再び廊下を歩いていった。

 

 しばらく経って、少しずつルナリアが落ち着き始めたので、俺は窓際の椅子に腰を下ろし、鮮やかな橙色に染まり始めた空を見ていた。

 

 ルナリアはベッドの上で寝そべりながら、幸せそうな笑みを浮かべていた。

 彼女が布団を握る右手には銀の指輪がはまっており、あしらわれたルビーが、きらりと夕暮れの陽光を返した。

 赤い瞳で窓際に座る俺を見つめながら、ルナリアはとろんと目元を細め、潤いのある唇を開いた。

 

「……んふふ。……んぅ……ねえ、アルス。なんで、そっちにいっちゃうの? ……んん? ……あれ?」

 

 彼女が話している途中で、俺を捉えていた星の宿る赤い瞳から、徐々にどろどろとした熱が引き始めた。

 おお、理性の戻る瞬間を初めて見た。

なんか、ちょっとえっちだな。

 

 ルナリアは、しばらく呆然としながら、目をぱちくりとさせていた。

 徐々に彼女の美しい相貌に赤みが差していく。

 

 がばっと上体を起こした彼女は、視線を下げて自分の格好を把握すると、またすぐに寝具の中へ潜った。

 それから彼女は声を上げた。

 

「……わた、わたし、あんな! ええぇ!? あんな、恥ずかしい……えへへ。いや、えへへじゃないよ! わたしの馬鹿!」

 

「こほん。ルナリア、ここは子爵邸だぞ。日も落ち始めてるので、あまり大声を上げないように」

 

 ベッドの上で布団にくるまれた丸い塊は、もぞもぞしながらも、俺の言葉を聞いて静かになった。

 ときおり、寝具の隙間の暗がりから宝石のような赤い瞳だけを覗かせては、再び潜り込む。

 彼女の声量を抑えた心の叫びが、そこから漏れ聞こえた。

 

「あう……。せめて、……で、止められていれば。アルスもなんで途中で引かないの……」

 

 だって、今日はご主人様だと決めたからな。

 俺は一度決めたことは、九割くらいは守るのだ。

 

 こうして、日中ずっとメイドになっていたルナリアは、魔法剣士に戻った。

 

 俺はルナリアに少し部屋を出ると伝え、使用人を探した。

 たまたま執事長を見つけることができたので、俺とルナリアは部屋で食事をとりたいとお願いする。

 

 執事長はにこやかに快諾してくれた。

 

 そうして、俺は運ばれてきた料理を受け取ると、窓際のテーブルに並べる。

 ルナリアはまだベッドの上で丸い塊になったままだが、まあしばらくすればお腹が空いてこちらに来るだろう。

 俺は、気持ちの良い夜風を受けながら食事に手をつけ始めた。

 

 しばらくすると、食堂でユーリたちと食事をとっていたフェリスが戻ってきた。

 彼女はベッドの上のルナリアを見てから、食事を終え、葡萄酒に口をつけている俺に視線を向ける。

 

 フェリスは薄く笑みを浮かべると、椅子に腰掛けた俺に歩み寄り、ふわっと自分の胸元へ抱き寄せた。

 俺の顔に、彼女の胸の柔らかな感触と温かさが伝わってきた。

 

「……まだ、褒めてもらっていない」

「フェリス。ありがとう。お陰で誰も死なずにすんだよ。お前のお陰だ」

 

 俺の言葉を聞いたフェリスは、身体を離し、目元を細めて俺を見た。

 その表情はいつも通り静かだったが、瑠璃色の瞳だけが少し嬉しそうに揺れていた。

 窓から入る風が、さらりと彼女の透き通るような水色の髪を流した。

 

 フェリスはそのまま俺の向かいに座り、何事もなかったように葡萄酒へ口をつけ始める。

 俺たちは、そうして一息ついた。

 

 しばらくすると、フェリスが立ち上がり、こちらに視線を向けた。

 

「……着替える。あちらを向いていろ」

「ん? ああ、そうか。分かった」

 

 布擦れの音を聞きながら外を見ていると、すぐにフェリスが俺へ声をかける。

 

「……終わった。アルス、もういいぞ。……ほら、ルナリアも」

 

 振り返り、彼女の方を見ると、筒袖の部屋着に着替えたフェリスが、寝具の隙間からルナリアに同じ部屋着を渡していた。

 そういえば、ルナリアの格好はあれなままだ。

 危ない、すっかり忘れていた。

 

 俺も寝る準備を済ませておき、再び窓際の椅子に腰を下ろし、晩酌を再開する。

 フェリスは椅子へ腰掛け、メモをテーブルに置いてペンを走らせては思案していた。

 

 ゆっくりと時間が流れる。

 昨夜の戦いが嘘のように、静かな夜だった。

 

 まだ食事をとろうとしないルナリアに視線を向けてから、俺は小さく息を吐く。

 まあ、あれは恥ずかしいよな。

 

 他人事のようにうんうんと頷きながら、俺は夜空へ目を向けた。

 視線の先、世界樹のあると思われる方向には、青白い光が立ち昇ったままだった。

 

 天高くどこまでも伸びるその光は、うっすらとしていたが、夜になるとはっきりと見える。

 

「やっぱり魔王が何かしているのかね。今回のドラゴンも関係あるんだろうか」

「……ん。何とも言えないが、光の柱の根元は、お前の言う通り世界樹だろう」

 

 向かいに座るフェリスが、テーブルの上のメモから目を外し、光の方へ視線を向けた。

 水色の髪がするりと肩から流れ落ち、月明かりを淡く返す。

 

 フェリスが、筒袖の部屋着の前をきゅっと閉め直してから、再びメモへ視線を落とした。

 紺色の生地が部屋の明かりを受けて、なだらかな曲線を浮かび上がらせている。

 

「それにしても、なかなか進展しない。いくつかの文字は理解できたが」

「それだけでも凄いけどな」

 

 フェリスはここのところ、審判の板で取ったメモと硝子板で見ることのできる書籍を見比べて、古代文字を解読しようとしていた。

 

 大森林にあった筒状の建造物で見つけた、様々な使い方ができる硝子板。

 使用されている言語は硝子板によってまちまちだったが、主流と思われるものを選んで、彼女は持ち出していた。

 どうやって主流だと当たりをつけたのかフェリスに聞いたところ、筒状の建造物の外壁に描かれていた文字と、内部で主に使われていた文字が同じだったそうだ。

 

 ルナリアといい、フェリスといい、才色兼備にも程がある。

 いや、こういうのは文武両道っていうんだっけ。

 

「……まず、これが古代語で書いた、お前の名前だ。それから、人類はこうだな。……この二つだけは審判の板の対比が分かりやすく、すぐ解読できた」

 

 フェリスが示したメモには"Ars"、"Human"と書かれていた。

 ペンで、こんこんとテーブルを叩きながら彼女は続ける。

 

「……それから、筒状の建造物がパイオニアであることにルナリアが気づいたわけだが。文字数から言っても外壁に書いてあったこれがそうだろう。建造物――パイオニアの中でも同じ文字を見た」

 

 フェリスがペンを走らせ、"PIONEER"という文字を描いた。

 

「パイオニア? って何?」

 

「……ああ、そうか。あの建造物は女神の船だったわけだが、叡智の魔法の中で、その船の名前が出ていた。それがパイオニアだ」

 

 俺は葡萄酒を飲みながら、改めて思っていた。

 フェリスは凄いなあ。

 

 ひとつ思いついた俺は、フェリスを見ながら口にした。

 

「じゃあ、教国の名前はあの建造物……船から取ったのか」

 

 フェリスは優しげな表情を浮かべて言った。

 

「……ん。そうだろうな。さすがアルスだ」

「よく言うよ。こんなことフェリスが気がついてないわけない」

 

 俺はフェリスの甘やかしに苦笑しつつ、ルナリアのいるベッドの方へ視線を向けた。

 微妙な表情を浮かべた彼女が、布団の隙間から赤い瞳でこちらを見ていた。

 顔は上気したまま、目元を細め、口を少し尖らせている。

 拗ね始めているな。

 

「ルナリア、お前もこっちに来いよ。ちゃんと、食事をとれ」

 

「……んっ。……えぇぇ。大事な話なんでしょう? 二人で話してていいよぉ。それに、恥ずかしいし、ごはんいらない……」

 

 フェリスが硝子板をテーブルに置いて、優しげな笑みを浮かべながら口を開いた。

 

「……いや、結局、固有名しか判別できていない。言語の解読は数年かかるだろう。だから、話はこれで終わりだ」

 

 頭だけ出して、やどかりのようになっているルナリアのそばへ、フェリスが歩み寄った。

 

「……ほら。ルナリア、明日からまた旅だ。……きちんと食べておいたほうがいい。服はちゃんと着たか」

 

「う、うん、着てるよ。ありがとう、フェリスちゃん。……よしっ、そうだね。きちんと食べておかないとアルスを守れないもんね」

 

 おずおずと布団から出てきたルナリアを見て、フェリスが薄く笑みを浮かべた。

 

「……そうだ。偉いぞルナリア」

 

 ルナリアがフェリスに笑みを返しながら、のそのそと立ち上がる。

 布団にくるまってもぞもぞ動いていたせいか、彼女の部屋着は前がはだけ、胸元の膨らみが覗いていた。

 部屋の灯りが、胸の丸い輪郭と谷間に淡い影を落としており、彼女が立ち上がると、大きな胸がふるっと揺れた。

 

 ルナリアは、俺の視線に気がつくと、きゅっと前を閉じた。

 

「もうっ。いっぱい見たでしょ! もう駄目! ……って、あぁ、わたしはなんであんなことを……」

 

「……おい、アルス。今晩はもう控えてやれ」

 

 俺はちょっと良くなかったなと思い、反省して答えた。

 

「ああ、うん。そうだな。ごめんなさい」

 

 ルナリアが、俺の隣の椅子に腰を下ろし、ゆっくりと食事を始めた。

 それを見てほっとした俺は、葡萄酒に口をつけた。

 

 俺たちは、夜遅くまで雑談を続けた。

 少しずつ酔い始めたフェリスと、まったく酒に酔わないルナリアが楽しげに話している。

 会話の内容は、俺からすれば恥ずかしいことばかりになっていき、俺は聞き手に回りながら適当に相槌を打っていた。

 

 ふと、窓の外の青白い光が視界に入る。

 夜空を縦に割るその光の柱は、俺が世界樹へ至るのを急かしているような気がした。

 

# Beyond the Hill:

 

 晴れ渡った青空の下、早朝から出立の準備を始める俺たちを、朝日が照らしていた。

 まだ肌寒さは残っているが、ときおり吹き抜ける強い風には、春の兆しが混じっている。

 

「アルス殿、長く引き止めてしまって申し訳ありません。ですが、非常に充実した日々でした。ありがとう。いつか勇者殿の冒険にご一緒したいものです」

 

「こちらこそ、ありがとうございました。いいですね。世界樹に行ったら、次は別大陸に向かおうかと思っているんです。ぜひ一緒に行きましょう」

 

 俺の隣で最後の挨拶のために立っていたカタリナさんが、苦笑を浮かべながら言った。

 

「アルス殿、ベルンハルト卿が本気にしたらどうする。子爵なのだぞ」

「ふむ。実に面白そうですな。早めに息子に家督を押し付けて、準備しておきますか」

 

 そう言うと、ゲオルグ子爵はにやっと笑みを浮かべた。

 

 やがて、準備が整ったようでルナリアが声を上げた。

 

「アルス、準備できたよ」

「おう、分かった」

 

 俺は改めて礼を伝え、カタリナさんも頭を下げた。

 

「では、ゲオルグ子爵。ありがとうございました」

「ベルンハルト卿、お世話になりました。殿下の件につきましても感謝を。では」

 

 馬車の方では、ルナリアとユーリが子爵へ向けて礼をしていた。

 フェリスは軽く会釈をすると、ふわりと御者台へ飛び乗った。

 

 俺は踏み板に足をかけ、フェリスの隣に腰を下ろす。

 ユーリとカタリナさんの騎乗する軍馬がゆっくりと前を歩き始めた。

 

 やがて、がたがたと馬車が進み出し、中央通りを抜けていく。

 俺たちはリーズの街を後にし、賢者の迷宮を目指し街道を進み始めた。

 

 

――そうして、リーズの街を出立してから数日が経過した。

 

 今、俺たちは平原を真っ直ぐに伸びる街道を進んでいる。

 

 ユーリは馬を馬車と並走させながら、御者台の縁に腕をかけた俺に話しかけていた。

 子どもらしい柔らかな濡れ羽色の髪は、本当に美しい黒で、きらきらと陽光を返していた。

 幼い彼が小さな体で軍馬を駆る姿には高貴さがあり、まるで貴公子のようだ。

 

 まあ、貴公子っていうか王子なわけだが。

 

 俺は御者台の縁に肘をかけ、だらりとした姿勢のままユーリに顔を向けて答えた。

 

「じゃあ、王国の賢者の迷宮は海にあるのか」

 

「はい。正確には、入り江に面した大断崖にあるそうです。切り立った崖が続く、とても、雄大な景色だと聞きました」

 

 ユーリは笑顔を浮かべたまま続けた。

 

「あまり、行き来しやすいところではないのですが、それでも海へ沈む大峡谷は風光明媚らしく、貴族家の別荘がいくつかあるそうです。そこに迷宮へ続く洞窟が、干潮時にだけ姿を現すと聞きました」

 

 それを聞いた俺は、故郷のことを思い出しながら答えた。

 

「なるほどな。俺の故郷にも似たような大断崖と洞窟があったよ。じいちゃんには、絶対に近づくなと言われてたな」

 

「先生を育てられたお祖父様でしたよね。つまり僕の大先生ですね」

 

 じいちゃんが生きていたら、ユーリの黒髪がもちゃもちゃになるまで頭を撫で回しただろうな。

 そんなことを考えながら、故郷にあった大断崖へ思いを馳せた。

 

 あそこは入り組んだ大峡谷になっているせいか、潮の流れが激しいらしく、海が穏やかな日でも、あの周りだけは荒れていた。

 うっかり船を入れれば、あっという間に転覆するか、運が良くても沖合へ流されてしまう。

 

 俺はじいちゃんの言いつけをきちんと守り、決して近づかなかったはずだ……いや待てよ。

 

 俺は、大峡谷を降りる景色と、洞窟の中の光景がうっすらと脳裏に残っていることに気がついた。

 

「あれ? でも、なんか一度だけ言いつけを破って洞窟の中に入った気がする……。なんでだったかな……ああ、そうだ。少し思い出してきた。確か、よそからきたやつがいて……」

 

「先生でも大事なお祖父様の言いつけを破ることがあるんですね。じゃあ、僕も破っても大丈夫ですね!」

 

 お前は、初めから破りまくっているだろう。

 

 いや、そうじゃなくて洞窟の話だ。

 

 俺は必死に記憶を辿ったが、ぼんやりとしか覚えていない。

 かなり幼い頃の記憶だから、当然と言えば当然だ。

 そのときの自分の年齢すら曖昧だった。

 

 それでも、そのときのふんわりとした流れだけは思い出すことができた。

 

「そうそう。よそから来たやつが、調子に乗ってその洞窟へ入って戻れなくなったんだ。俺はそいつを助けようとして、逆に助けられたような記憶があるぞ」

 

「んえ!?」

 

 俺がなんとか絞り出した記憶を口にした瞬間、横の席で手綱を握っていたルナリアが、素っ頓狂な声を上げた。

 ルナリアは少し驚いたような表情を浮かべ、こちらに顔を向けた。

 赤い瞳に宿る星型の瞳孔が、少し大きくなっている気がした。

 

「……そ、その思い出のこと知りたいなぁ」

 

「ん? いや、それしか覚えてない、かなあ。あとは、そいつと仲良くなったような記憶が、ちょっとあるぞ」

 

 ルナリアは、少し沈んだ声音で答えた。

 

「そっかぁ。五歳だもんね……」

 

 なんで、その時の俺の年齢を知っているのだろうかと思い、ルナリアに尋ねようとしたところで、荷台の小窓が開いた。

 美しい相貌を陽光に晒しながら、フェリスが短く言った。

 

「……魔物だ」

「そうか、分かった。馬車を止める」

 

 旅に出てから、俺たちは何度となく繰り返してきた行動だ。

 馬と馬車を止め、カタリナさんには周囲の警戒を任せる。

 

 四人で魔物の群れへ向かい、ユーリの訓練を兼ねて、彼とルナリアで対処する。

 俺とフェリスはいざというときのために傍に控えた。

 今回は数も少なく、中級以下の魔物しかいなかったため、討伐はすぐに完了した。

 

 馬車へ戻りながら雑談している俺の頭の中には、すでに年齢の話は残っていなかった。

 

 少しずつ春めいてきた日差しの中、ごとごとと馬車が進む。

 道中で、俺は訓練がてら自分の足で走ってみたり、フェリスを講師役にして迷宮についての座学を行ったりした。

 

 幾度か魔物に遭遇したが、平地の魔物に手こずることはなく、旅路は順調だ。

 

 馬上のユーリが、御者台にいる俺たちに声をかけた。

 

「潮の香りが、届き始めましたね。そろそろではないですか」

「……ん。そうだな、少年。あの丘を越えれば海が見えるはずだ」

 

 隣に座るフェリスが、ルナリアから借りた硝子板に地図を浮かべ、位置を確認して答える。

 御者当番の俺は、手綱を握りながら首を傾げた。

 

「あれ? なんかこの景色、見覚えがあるぞ」

 

「……ん? この地図によると、迷宮があるらしい海岸の近くに小さな漁村がある。冒険者ギルドの依頼で行ったんじゃないか?」

 

 うーん。だとしたら、この街道を覚えていると思うんだが、ここまでの道筋を進んだ記憶はない。

 ただ、なんとなくあの丘を俺は知っている気がする。

 

 そのうっすらと感じていた既視感は、丘に近づくにつれて強くなっていった。

 丘の上り坂に差し掛かった瞬間、いてもたってもいられなくなった俺は、フェリスに手綱を預けた。

 

「悪い、フェリス。手綱頼む」

「……ん。ふふ。仕方のないやつだな。……いいぞ。行ってこい」

 

 ごとごとと音を立ててゆっくり進む馬車から、俺は飛び降りる。

 それから、丘の上へ伸びる街道を、俺は全速力で駆け上がった。

 鍛え上げられた足腰は、悲鳴を上げることもない。

 

 そうして、一気に丘の上まで辿り着くと、濃い潮の香りが押し寄せてきた。

 俺の眼前には、春の陽光を返してきらきらと輝く海が広がっていた。

 砂浜へ続く低地がわずかにあり、そこにはいくつかの小さな民家が建ち、数隻の漁船が湾内に出ていた。

 

 視界の端へ目を向けると、海へ沈むような大峡谷が、複雑な入り江をいくつも作っているのが見えた。

 民家のある低い海岸線と違い、そちら側は切り立った黒い岩肌の大断崖になっていて、谷の奥へ流れ込む潮が激しく渦を巻いている。

 

 あの周りだけは潮の流れが異様に速いようで、海が穏やかな日だというのに、押し寄せる波が荒々しく断崖へ打ち付けられていた。

 

 既視感どころではない。

 それは、俺が人生で見てきた中で最も見慣れた海だった。

 

 俺はぽつりと呟いた。

 

「こんなこと、あるんだな」

 

 最後の賢者の迷宮。

 そこを目指してたどり着いたのは、俺の故郷だった。

 

 

# COORDINATE 0085 END

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