『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』     作:りー037

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プロローグ:【彼岸への招待、あるいは空白の邂逅】

 夜は、常に薄い。

 

 俺にとっての世界とは、いつだって向こう側が透けて見える、薄氷のようなものだった。

 

 規則的な足音が、深夜のコンクリートに吸い込まれては消えていく。湿気を帯びた秋の夜風が頬を撫でるが、それが自分の皮膚を撫でているという実感が、ひどく希薄だった。街灯のオレンジ色の光が、アスファルトの表面にぬらぬらとした反射を作っている。だが、俺の視界にはそれ以上のものが映り込んでいた。

 

 

 

 ——ノイズ。

 

 空間の至る所に、微細な亀裂のようなものが走っている。普通の人間には見えないだろう。光の屈折でも、網膜の異常でもない。物理的な法則から逸脱した、何か別の『法則』の痕跡。建物の壁を見つめれば、コンクリートという物質を透過して、その奥にある鉄筋の構造、さらには空間そのものに張り巡らされた見えない糸のようなものが、淡い燐光を伴って視認できる。

 

「……今日は、やけにうるさいな」

 

 

 独り言は、誰に届くわけでもなく夜の空気に溶ける。

 

 

 俺、黒瀬陽は、この見慣れた——しかし決定的に他者とは異なる景色の中を、宛てもなく歩いていた。

 

 理由はない。ただ、空間の奥底から、あるいは現実という薄皮の裏側から、微細な引力を感じていたのだ。それは音でも匂いでもない。強いて言うなら、重力の偏り。何かが、この世界の裏側で大きく渦を巻いている。その渦が、こちら側に居着かない意識を、見えない糸で引っ張っているように。

 

 

 歩みを進めるごとに、周囲から人の気配が完全に消え失せていく。深夜の冬木市は静かだが、今はそれ以上の静寂だ。まるで、この区画だけが現実から切り離され、別の階層に沈み込んでしまったかのような錯覚。俺にとっては、むしろこちらの浮き上がった空間の方が、奇妙なほど肌馴染みが良い。

 

 

 

 ふと、足が止まる。

 

 視線の先にあるのは、古びた下水処理施設へと続く、立入禁止の金網。その奥にある、地下へと口を開けた巨大な暗渠の入り口だった。

 

「……ここか」

 

 

 金網には厳重な南京錠がかかっている。しかし、その錠前の金属的な構造だけでなく、周囲に漂う澱んだ色の空気がハッキリと見えていた。赤黒く、鉄錆のような匂いを視覚化したかのような、異常な気配。

 

 

 理由は分からない。だが、行くべきだと思った。俺という空っぽの器を、ほんの少しだけ揺らしたその色の正体を、確かめたくなったから。

 

 金網の隙間を抜け、コンクリートの階段をゆっくりと降りる。暗闇が深くなるにつれ、逆に視界は明瞭になっていく。

 

 

 階段を降りきった先、下水道の広大な空間。

 

 

 そこに、それはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あはっ、あははははは! いいねェ、すっげぇいい! これ、マジで最高じゃん!」

 

 

 雨生龍之介は、血の海と化したコンクリートの床で、歓喜のステップを踏んでいた。

 

 

 彼の足元には、巨大で複雑な幾何学模様が描かれている。チョークではない。スプレーでもない。つい先ほどまで生きていた素材たちから絞り出した、新鮮で温かい赤色の絵の具だ。

 

 周囲には、ロープで縛られた子供たちが数名、恐怖に涙と鼻水を流しながら震えている。彼らの足元にも、すでに事切れた前任者たちの残骸が、無造作に転がっていた。

 

「悪魔の召喚! クールだよなァ。オカルト本で見た時は半信半疑だったけどさ、やっぱりこういうのは気持ちが大事って言うか、パッションだよね!」

 

 

 彼の心には一切の悪意はない。あるのは純粋な探求心と、死という究極のエンターテインメントに対する無邪気な好奇心だけだ。内臓の色、血の温度、命が消える瞬間の瞳の濁り。それらすべてが、彼にとっては神が創り出した至高の芸術作品だった。

 

「さァて、次は誰の番かな? 君? それとも君? 大丈夫、痛いのは一瞬……いや、嘘嘘! けっこう長く楽しめるように工夫するからさ!」

 

 

 怯える子供たちに向けて、龍之介が最高の笑顔を向けた、その時だった。

 

 

「……何をしてるんだ、あんた」

 

 

 静寂な地下空間に、ひどく場違いな、抑揚のない声が響いた。

 

「え?」

 

 

 龍之介は振り返る。

 

 そこに立っていたのは、一人の少年だった。年の頃は高校生くらいだろうか。黒い髪に、特徴のない服装。どこにでもいる、ごく普通のガキだ。しかし、龍之介の鋭敏な殺人鬼としての直感が、微かな違和感を覚える。

 

 

 普通、こんな血みどろの光景を見れば、人は悲鳴を上げるか、腰を抜かすか、あるいは怒りに震えるかする。だが、その少年の顔には、驚きも、恐怖も、嫌悪すらも浮かんでいなかった。ただ、道端で珍しい石ころを見つけたような、極めて平坦な眼差しでこちらを見ているだけ。

 

「誰? 君。どっから入ってきたの? 今、すっげぇ大事な儀式の最中なんだけど」

 

 

 龍之介はナイフを弄りながら、首を傾げる。

 

 少年は、周囲の惨状と、縛られている子供たち、そして床に描かれた異様な模様へと視線を滑らせ、再び龍之介を見た。

 

「最近ニュースになってる連続誘拐犯。あんたか」

 

「ん? ああ、そうそう! オレ、雨生龍之介。よろしくね! 君も参加する? 今ちょうど、悪魔を呼んでみようかってトコでさ!」

 

 

 屈託のない笑顔で答える龍之介。対する陽の表情は、やはり一ミリも動かない。

 

「悪魔、ね……。ただの殺人の口実にしては、随分と凝った落書きだ」

 

「落書き!? ひっどいなァ、一生懸命描いたのにさ。……でも、まぁいいや。君、なんか変だし。オレの芸術が分からないなら——」

 

 

 龍之介の瞳の奥で、純粋で濃密な殺意が弾けた。

 

「——君も、素材にしてあげるよッ!」

 

 

 タァンッ! と、龍之介がコンクリートを蹴る音が響いた。

 

 手にしたナイフの刃が、地下の僅かな光を反射してギラリと輝き、陽の喉元へと真っ直ぐに突き出される。並の人間であれば、反応すらできなかっただろう。殺人鬼特有の、躊躇いのない踏み込み。

 

 

 しかし、少年にとって、その光景はまるでスローモーションのビデオテープを見ているかのようだった。

 

 

(……遅い)

 

 

 陽の瞳は、龍之介の肉体の動きよりも先に、彼が放つ意図の線を空間に描破していた。右肩の筋肉の収縮、重心の移動、刃が通る未来の軌跡。それらが、線となって陽の視界に浮かび上がる。

 

 武術の心得などない。ただ、その軌跡が通る場所から、半歩だけ身体をズラせばいい。

 

「あはっ——え?」

 

 

 龍之介のナイフは、陽の首の横の虚空を切り裂く。

 

 

 完璧なタイミングでの回避。いや、回避というよりは、最初からそこにいなかったかのような、不気味なすり抜け方だ。

 

 前のめりにバランスを崩す龍之介。陽は、その凶刃を握る龍之介の右腕を、左手でそっと掴んだ。そして、彼自身の突進するエネルギーと体重を一切殺さず、ただ手首の関節の向きだけを、龍之介自身の胸元へと誘導する。

 

「——え」

 

 

 龍之介の体重と勢いが乗ったナイフは、彼自身の肋骨の隙間を抜け、心臓を正確に貫く。致命傷。即死に至るほどの一撃。

 

 

 龍之介の体がグラリと傾き、陽の胸に倒れかかってくる。陽は彼を支えるように抱きとめ、ゆっくりと床に仰向けに寝かせた。

 

「あ……、あ……」

 

 

 口から血の泡を吹きながら、龍之介の瞳が焦点を探して彷徨う。そして、自分の胸に深々と突き刺さったナイフと、そこからとめどなく溢れ出す自身の血を見た。

 

「あ……ああ……」

 

 

 痛みに歪むはずのその顔に、ゆっくりと、信じられないほど美しいものを見たかのような、恍惚の表情が浮かび上がっていく。

 

「きれ……い、だ……」

 

 

 赤。こんなにも近くに、こんなにも鮮やかで、温かい赤があったのだ。探し求めていたものは、他でもない、自分自身の中に隠されていた。その究極の気づきに、龍之介の魂は震えるほどの歓喜に満たされる。

 

「最高、じゃん……」

 

 

 最期の吐息とともに、雨生龍之介は、人生のすべてに満足しきったような、幸福な笑顔を浮かべたまま息絶えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂が戻る。

 

 残されたのは、縛られて震える子供たちの微かな嗚咽と、幸せそうに微笑む殺人鬼の死体。

 

 陽は、血に濡れた自分の手を見つめ、次いで龍之介の死顔を見下ろした。人を殺した。その事実は、不思議なほど陽の心を揺さぶらなかった。罪悪感も、達成感も、恐怖もない。

 

 

 

 ただ——胸の奥に、泥のような感情が静かに湧き上がってくるのを感じた。

 

(……羨ましい、な)

 

 

 その感情の正体は、嫉妬。

 

 目の前の男は、狂っていた。だが、彼には求める物があり、最期の瞬間にそれを見つけ出し、完全に満たされて死んでいった。それに比べて、俺はどうだ。自分が何を求めているのかも分からない。どこに立っているのかも分からない。現実という薄っぺらい膜の上で、常に外側へと引き寄せられながら、空っぽのまま漂っている。

 

 

 

 ——俺には、求めているが見つからないものがある。

 

 ——この男は、それを見つけた。

 

 

 

「……考えても、意味のないことだ」

 

 

 陽は淡々と呟き、その思考を意識的に振り払う。今は、それよりも優先すべきことがある。彼らの視線を集めている子供たちの方へ歩み寄ろうとした、その時だった。

 

「っ……!?」

 

 

 唐突に、右手の甲に焼き鏝を押し当てられたかのような激痛が走る。見れば、何の変哲もなかった手の甲に、深紅の文様が——三つの刃が絡み合うような、呪いのような印が、皮膚を焼き切りながら浮かび上がっていた。

 

「……何だ、これ」

 

 

 龍之介が描いた、血塗られた魔法陣。それが、凄まじい光を放ち始めたのだ。ただの光ではない。空間そのものを歪ませ、現実と領域の境界を破壊するような、圧倒的で膨大なエネルギーの奔流。

 

(……来る)

 

 

 直感した瞬間、内側から正体不明の感情が爆発した。

 

 歓喜か。高揚か。それとも、純粋な好奇心か。長年凍りついていた陽の感情が、未知の奔流に当てられて一気に融解していくような感覚。

 

 

 

 

 ズガァァァァァァンッ!!!!

 

 

 暴風。いや、重力の逆転現象に近い。陣から溢れ出した圧倒的な圧力が、陽の細い身体を軽々と吹き飛ばした。背中からコンクリートの壁に叩きつけられ、肺から空気が吐き出される。

 

「かはっ……!」

 

 

 光が収まり、もうもうと立ち込める埃と蒸気の向こう側。そこに立っていたのは、一人の女。

 

 蒼と金を基調とした、和風の豪奢な装束。美しい顔立ちと、見る者を惹きつけてやまない妖艶な微笑み。そして何より異質なのは——彼女の頭に生えた、ふさふさとした狐の耳と、背後で揺れる豊かな尾だった。

 

 

「——みこーん! 良妻の鑑、貴方の忠実なる狐っ娘、キャスター推参ですっ☆」

 

 

 

 彼女は、扇子で口元を隠しながら、ウインクをして見せる。

 

 壁にもたれかかり、尻餅をついたままの陽は、ただその光景を平坦な瞳で見つめていた。狐の耳が生えた女。圧倒的なエネルギーの結晶。知識を持たない彼にとっては、それが何たるかを理解する術はない。

 

「…………」

 

「あれれ? マスター? そんな所でへたり込んじゃって、どうしました? 私の美しさに腰を抜かしちゃいましたか?」

 

 

 不思議そうに首を傾げながら近づいてくる。

 

 

 何者にも染まっていない、白紙のような孤独な魂。それに惹かれてやってきた彼女と、常に世界の外側を見つめている空っぽの少年。

 

 血と汚水にまみれた地下空間で、異常な二つの存在の視線が、静かに交差した。

 

 




次回
【空白の器と、極彩色のノイズ、そして白紙の誓い】
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