『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』     作:りー037

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第八譜:【外付けの倫理と、彼岸を縫い留める楔、そして幽冥の底へと沈みゆく】

 

 圧倒的な暴力の痕跡だけが残された路地裏は、ひどく静かだった。

 

 青紫色の認識阻害結界が魔力供給を断たれて霧散し、冷たい風が大通りの喧騒を微かに運んでくる。

 

 血の匂い。錆びた鉄と、古い油、そして剥き出しにされた内臓が放つ生々しい熱気の入り混じった悪臭。

 

 

 陽は、血溜まりの中に立ち尽くし、足元に転がる三つの「結果」を静かに見下ろしていた。

 

 

 位相の分断によって首を落とされた女魔術師。

 

 同じく空間ごと両断され、上半身と下半身が泣き別れになった大柄な男。

 

 そして、虚数空間を経由した投擲によって心臓を破壊された男。

 

 

 

 彼らはもう動かない。魔術回路の駆動音も、生命を維持するための心拍も、完全に沈黙している。

 

 己の持つ異常な属性と異能が、理論通りに現象として引き起こせたことに対する満足感。実験台になってくれた彼らへの純粋な感謝。

 

 

 それらのタスクを頭の中で処理し終えた陽は、さて帰ろうか、と血で汚れたスニーカーの底をアスファルトに擦りつけ、踵を返そうとした。

 

(……いや)

 

 

 歩み出そうとした足が、ピタリと止まる。

 

 黒く虚ろな瞳が、再び路地裏の凄惨な光景へと向けられた。

 

 この死体を、どうにかしなくてはいけないのではないか。

 

 ここは冬木市の新都、人通りの多い大通りのすぐ裏手だ。いくら人目がつかない路地裏とはいえ、日中にこんな血みどろの死体を三つも放置して立ち去れば、数時間も経たないうちに警察の規制線が張られ、大騒ぎになるのは明白だろう。魔術世界における「神秘の隠匿」という絶対ルールの観点から見ても、放置は極めて不味い。

 

 

 

 では、どうするか。

 

 以前、下水道で殺人鬼を殺した時のように、キャスターである玉藻の前に頼んで、炎で灰一つ残さず消滅させてもらうか。

 

 彼女なら、おそらく小言を言いながらも、完璧な手際でこの血溜まりごと証拠を隠滅してくれるだろう。

 

(……いや。でも、自分でやったことだしな)

 

 

 陽は、内心で小さく首を横に振った。

 

 彼女に命を預け、共に歩むと決めたのは自分だ。だが、自分が引き起こした実験の「後始末」を彼女に丸投げするのは、契約者としても、一人の人間としても、あまり良いことではないのではないか。

 

 勝手な行動で彼女を待たせている上に、死体処理まで任せるのは流石に気が引ける。陽は、自身の社会的なスタンスに照らし合わせ、ほんの少しだけ反省した。

 

 

 ならば、自分で処理するしかない。

 

 手段はすでにある。陽は右手に握ったサバイバルナイフの柄を軽く弄り、虚空を見つめた。

 

 

 もう一度、《開門》を行えばいい。

 

 空間に漆黒の孔を開き、この血みどろの死体や飛び散った血液のすべてを、現実の裏側――底知れぬ暗黒の虚数空間へと放り込んでしまえばいいのだ。あのマンションでの特訓の時のように、すべてを呑み込ませた後にゲートを閉じれば、現実世界には血の一滴すら残らない。完璧な証拠隠滅だ。

 

 

 

 さっさと沈めてしまおう。

 

 そう結論付け、ナイフに魔力を這わせようとした。

 

 

 だが

 

(……?)

 

 

 陽の胸の奥底で、チリチリとした奇妙な感覚が生まれた。

 

 

 痛覚ではない。魔術回路のショートでもない。

 

 それは、空っぽのはずの陽の精神構造の奥底から湧き上がってきた、極めて人間臭く、そして彼には全く似つかわしくない「異物」のような感覚。

 

 

 

 ――罪悪感。申し訳なさ。

 

 自分が引き起こした現象と、目の前に転がる三つの死体に対して、陽はそのような感情を抱いているのを自覚した。

 

 

 なぜ、そんなものを感じるのか。陽はナイフを下ろし、自らの内面へと静かに意識のピントを合わせる。

 

 このような状態に陥った時、人間はそのような感情を抱くべきものであると、彼は過去の社会生活の中で「学習」している。だからこそ発生した、模造品のような、しかし確かな重みを持った感情。

 

 

 目の前の三人の魔術師は、自身の欲望――聖杯戦争への参加枠の強奪――のために、陽を罠にかけ、その命を奪おうとした。

 

 彼らは明確な殺意を持った獣であり、陽を狩ろうとした。だからこそ、逆にその命を刈り取られた。

 

 

 陽自身も、人を殺すこと自体に倫理的な躊躇いは持っていない。

 

 現に、あの地下水道で殺人鬼を殺した時、彼の手は一ミリも震えなかった。

 

 相手から襲われた。だから、自身の身を守るために殺した。

 

 

 もし、本当に「それだけ」が理由であったなら、陽は今のこの状況を「仕方のないことだった」と完全に割り切り、一抹の罪悪感すら抱かずに虚数の底へ死体を沈めていただろう。

 

 

 以前の殺人鬼の時も、今回も、外形的な状況は全く同じだ。

 

 それでも、今回だけは決定的に違う部分がある。

 

 それは、彼自身の「内側の感情」――真の動機。

 

 

 あの特攻してきた大柄な男を両断した時。リーダーの心臓を破壊した時。

 

 陽の内側にあったのは、「自分の命を守らなければいけない」という生存本能や防衛の意志ではない。

 

 

 ただ、純粋に「やってみたかった」のだ。

 

 自分が理解し始めた『魔術』という新しい力。二つの世界を繋ぐ境界線の論理。それを、実戦で試してみたかった。新しいおもちゃを手に入れた子供が、それがどんな風に動くのか、どんな結果をもたらすのかをどうしても知りたくてたまらなくなるように。

 

 目の前にいる殺意を持った魔術師たちは、その力を思い切りぶつけても許される、極めて都合の良い「対象」だった。

 

 

 それは、自衛ではない。完全な「私欲」だ。

 

 私欲のために、人の命を奪った。

 

 もちろん、表面上はあくまで「彼らが襲ってきたから反撃したのだ」という正当防衛の言い訳を、いくらでも後付けすることはできる。事実として、自衛の側面は確かに存在した。

 

 

 だが、そんなつまらない免罪符を掲げて、己の真の動機を誤魔化し、自己を正当化するような機能は備わっていない。

 

 彼の「感情の色」は、限りなく薄い。だからこそ、物事を歪めて解釈する余地もなく、ただ事実を事実として直視してしまう。

 

 現代社会を生きるために後天的にインストールされた「外付けの倫理観」。それが今、陽の脳内で冷徹な裁判官のように、彼自身の悪行を断罪していた。

 

 

 

 

 

『私欲で他者の命を奪うことは、社会的に良くないことである。』

 

 

 ただその一行が、胸の奥でチリチリと焼け焦げるようなノイズとなって響き続けている。

 

 自衛であれば許された。だが、実験という私欲で殺したのは、明確に「悪いこと」。

 

 

(……これは、ダメだな)

 

 

 陽は、心の中で静かに結論を下した。

 

 

 さて、どうするか。

 

 やったことは覆らない。吐いた唾は飲み込めない。

 

 千切れた首は元には戻らないし、破裂した心臓が再び脈打つこともない。死者は蘇らない。それが、物質界における絶対の物理法則であり、生命の不可逆性だ。

 

 

 

 だが。どうにかできないだろうか。

 

 陽は、血溜まりに転がった三人の肉体へ、極彩色の虹色に明滅する瞳を向けた。

 

 

 

 

 《虚構の観測者(イマジナリー・オブザーバー)》。

 

 

 現実と虚数の二重観測。陽は、その視界の『深度』を、さらに深く、暗く、底知れぬ領域へと沈み込ませていった。

 

 

 筋肉の繊維、白骨、そして停止した血液の流れ。さらにその奥にある、魔力を生成するための器官である魔術回路の残骸。それらすらも通り抜け、陽の視界は、今まで彼自身が一度も到達したことのない「深層」へと足を踏み入れた。

 

(……これは、なんだろう)

 

 

 陽の瞳が、彼らの肉体の最も奥底――人間の根幹であり、生命の最も深層に位置付けられている『核』とも言える中心点を捉えた。

 

 

 そこでは今、何か目に見えないエネルギーの塊のようなものが、バチバチと音を立てて弾け、霧散していくような現象が起きていた。

 

 それはまるで、生命という名の灯火が、最後の最後の一瞬に何かを燃やし尽くし、世界から完全に消え去ろうとしているような、儚くも激しい躍動。

 

 

 今まで、どれだけ世界の裏側を覗き込んでも、決して観測できなかったもの。

 

 虚数の位相から見ても認識できなかった、完全に一つ上の次元に存在する領域。

 

 知識を持たない彼は、それを正確な単語で言語化することはできない。だが、それが魔術世界において『魂』と呼ばれる、人間の存在そのものを定義する絶対的な霊的情報であることは、理解できた。

 

 

 存在をこれまで知覚していなかったがゆえに、裏側を透過しても見えなかった領域。

 

 今、まさにその命を終えようとしている魔術師たちの姿。肉体というフォーマットが破壊され、機能不全に陥ったことで、その器に収まりきらなくなった魂が、今まさにこの世界から「彼岸」へと渡り、完全に霧散しようとしている瞬間。

 

 

 陽は、人間の真の死の瞬間――魂の拡散――を、初めて観測した。

 

 人間が真の意味で死する時。それは、肉体が活動を停止する時ではなく、この核が完全に拡散し、消滅する時なのだ。

 

 

 バチバチと泡立つように弾け、光の粒子となって未知の次元へと溶けていこうとする魂の残滓。

 

 これこそが人の死の間際の躍動であり、これが完全に消えてしまえば、もう本当に「何もできない」状態になる。陽は、極限まで研ぎ澄まされた観測者としての感覚で、そのタイムリミットを理解した。

 

 

 肉体という器が壊れたから、魂はここに留まれない。

 

 

 

 

 だから、消える。

 

 それが自然の摂理だ。

 

(……これを、繋ぎ止められれば。人は死なないのかな)

 

 

 陽の空っぽの脳髄に、ふと、そんな途方もない疑問が浮かんだ。

 

 向こう側に行こうとしているその魂。人間の核と思われるその明滅する光の塊に、陽は、己の右手に握ったサバイバルナイフをゆっくりと向けた。

 

 彼岸へ渡ろうとしているその魂を、現世という布地に、ピンで「縫い留める」ように。

 

 

 

 

 おそらく、できるんじゃないか。

 

 理由は分からない。明確な術式もない。

 

 ただ、此岸と彼岸の境界線を感じ取る。世界の裏側を観測し続けている自分になら、その「向こうへ行こうとする力」に干渉できるような気がした。

 

 

 

 

 だから、とりあえず、やってみた。

 

 

 ――スッ、と。

 

 現実の空間で、ナイフの刃先を、何もない虚空に向かって小さく突き立てる。

 

 

 

 

 陽が、彼岸へ向かおうとする三つの魂の引力に対して、ナイフの刃を『楔』として打ち込んだ時。

 

 

 空間が、甲高い悲鳴を上げた。

 

 切り分けられた三人の魔術師の死体から、バチバチッ! と、視覚化された強烈な青黒いノイズがほとばしる。

 

 

 陽の起源が、完全に一つ上の次元へと跳ね上がった。

 

 物理的な干渉でもなく、魔術回路への魔力注入でもない。魂という霊的次元の最深部を対象とした、言語化できない完全なる異常干渉術式。

 

 彼岸へ渡るはずだった魂が、ナイフという楔によって、強引に現世側へと縫い留められた。

 

 

 この世の摂理から完全に逸脱した、異常現象。

 

 泡立つように霧散しかけていた魂の拡散が、ピタリと停止する。

 

 「死」への進行という絶対のプロセスが、陽の干渉によって凍結され、塗り替えられる。

 

 

 そして次の瞬間、さらにおかしな現象が、現実世界を侵食し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ゴキ、メキメキメキッ!

 

 骨と肉が、不気味な音を立てて蠢き始める。

 

 足元で、首を落とされた女魔術師の胴体が、まるで目に見えない糸で操られるようにピクンと跳ねた。転がっていた頭部が、磁石で吸い寄せられるように胴体へと引き戻され、切断面がピタリと合わさる。

 

 大柄な男の上下に泣き別れになった肉塊が、アスファルトの上を滑るようにして結合し、千切れた内臓や筋肉の繊維が、時間を巻き戻すように自動的に編み込まれていく。

 

 リーダーの男の胸に開いた巨大な大穴が、周囲に飛び散っていた血液を逆流させながら、急速に肉芽を盛り上げて塞がっていく。

 

 

 

 ほんの数秒の出来事だった。

 

 路地裏に散乱していたはずの三つの「惨殺死体」が、まるで何事もなかったかのように、切断される前の完璧な状態へと戻ってしまったのだ。

 

(……なんだこれ)

 

 

 陽は、ナイフを構えたまま、その場で首を傾げた。

 

 彼自身、目の前で起きたこの現象の理屈が全く理解できなかったのだ。意味がわからない。

 

 傷を治すための治癒魔術や、時間を操作するような高度な術式を使ったわけでは決してない。

 

 

 

 

 俺が肉体を治したのではない。

 

 自分がやったのは、まさに消えようとしていた命の灯火を、現世の側に無理やり繋ぎ止めただけ。

 

 

 陽は、ナイフを下ろし、「どういうことか」としばらく思案したが、すぐに考えるのをやめた。

 

 複数の可能性を脳内でシミュレートしてみたが、どれも確証には至らない。一ミリも理解できない。何だ、本当に。

 

 

 ただ、魂を縫い留めたその一瞬、視界の端に、血のように赤い曼珠沙華――彼岸花のようなものがパッと咲き乱れたような幻覚を見た気がしたが、気のせいだろうか。

 

「まあ、いいか」

 

 

 結果として、死体は消え、彼らは生き返った。

 

 

 陽の抱えていた倫理観によるタスクは、これでクリアされたことになる。

 

 足元に転がる三人は、今はただ深い気絶状態にあるだけだった。

 

 肉体は完全に元通りになったが、おそらく数分もすれば目を覚ますだろう。

 

 

 そして、彼らは明確に「自分たちが一度、完全に殺された」という記憶と感覚を保持しているはずだ。死を経験したことによる究極の絶望と恐怖は、彼らの魂の奥底にまで深く刻み込まれている。

 

 彼らが目覚めた時、陽という存在は、もはや恐怖を通り越して「関わってはいけない次元のバグ」として絶対的なトラウマになっている。彼らが再び陽に干渉してくることは、二度とない。

 

「悪いね。もう二度と、会わないことを祈っているよ」

 

 

 

 すっかり元の静けさを取り戻した路地裏。

 

 陽は小さく息を吐き、玉藻の前が待っているであろうスーパーの方向へ帰るかと、大通りへ向かって歩き出そうとした。

 

 

 

 

 

 

「――マスターァァァァァッ!!」

 

 

 聞き覚えのある声が響く

 

 顔を上げると、そこには両手にパンパンに膨らんだスーパーのレジ袋を提げた、玉藻の前が立っていた。

 

 彼女の琥珀色の瞳は限界まで見開かれ、狐の耳がピンと逆立ち、尻尾の毛がブワッと膨れ上がっている。

 

「ど、どどどど、どういうことですかこれは! お会計をして、特売のネギを袋に詰めて、さあマスターが戻ってくるのを待とうと思ったら、いつまでも帰ってきませんし! 心配になって探してみたら、こんな路地裏からとんでもない次元の歪みと、さらに意味の分からない事象が観測されたんですけどぉぉっ!?」

 

 

 玉藻の前は、陽の目の前で急ブレーキをかけ、息を荒げながらその無傷の姿を視界に収める。

 

 ほんの一瞬だけ、強張っていた彼女の肩から「マスターが無事だった」という安堵の力が抜けた。

 

 

 しかし、すぐに彼女の視線は、陽の足元――この路地裏の『異常すぎる光景』へと釘付けになる。

 

「なっ……」

 

 

 彼女の言葉が、喉の奥で凍りつく。

 

 玉藻の前は神霊の端くれだ。先ほど彼女が感知した波動は、間違いなく「空間が引き剥がされるような強烈な空間干渉」と、そして「因果が捻じ曲げられる、魔法の領域に肉薄した奇跡の残滓」だった。

 

 

 ならば、ここは凄惨な殺戮の舞台になっているか、あるいは未知の魔術によって破壊の限りを尽くされた爆心地になっていてもおかしくはない。

 

 

 

 

 だが、現実はどうだ。

 

 

 どこにでもある薄暗い路地裏。

 

 その中心で、三人の魔術師と思われる者たちが、かすり傷一つ負っていない完璧な五体満足の状態で、すやすやと安らかな寝息を立てて気絶しているだけ。

 

「……えっと、マスター?」

 

「うん」

 

「……この人たち、生きてますよね? 五体満足で、寝てますよね? ……私が感知した、異常な現象は、一体なんだったんですか!?」

 

 

 玉藻の前は、震える指で気絶している三人を示した。

 

 彼女の目から見れば、これがどれほど異常な光景か理解できる。術式が発動した痕跡は空間に濃密に残っているのに、その『結果』だけがごっそりと世界から抜け落ちているような。

 

 

 それはまるで、世界そのものが何らかのバグを修正したかのような、強烈な辻褄合わせの事後。

 

「ああ、キャスター。……ちょっと、買い物の途中で寄り道をしてしまってね。ごめん」

 

 

 陽のあまりにも平坦な、まるでコンビニで立ち読みをして遅れたかのようなテンションの返答に、玉藻の前の狐耳がピクピクと痙攣したように動いた。

 

「寄り道のスケールがおかしいです! これ絶対、ただの寄り道じゃ済まないヤツですよね!? 今すぐここで一から百まで事情聴取を……」

 

 

「ん……うぅ……」

 

 

 その時、足元で気絶していた大柄な男が、小さく呻き声を上げて身じろぎをした。

 

 意識を取り戻しかけている。

 

「……ッ、とりあえず帰りますよ、マスター!」

 

 

 玉藻の前は、瞬時に状況を判断した。これ以上、この異常な空間に留まるのは得策ではない。魔術協会の監視網や、他のマスターに感知される危険性もある。

 

 彼女は片手でレジ袋を強引にまとめ、空いたもう片方の手で陽の腕をガシッと掴むと、路地裏から大通りへと半ば引きずり出すようにして歩を進めた。

 

 「あっ、ちょっと待って」  

 

 「……まだ何かありましたか?」

 

 

 何かを思い出したように立ち止まり、彼女の腕をくいくいと引く。

 

 「ナイフがビルの中に埋まっちゃったから、取ってくれないか?」

 

 「……」

 

 

 特に悪びれることもなく、ビルの外壁に指を向けるその姿に、玉藻の前の眉間がほんの少しピクついた。

 

 

 かくして二人は帰還する。

 

 気絶したままの三人を、薄暗い路地裏に残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガチャリ、と。

 

 金属音を立てて自宅マンションのドアを閉めた瞬間、玉藻の前は深く、そして重い溜息を吐き出した。

 

 

 そして、ローテーブルの前に座布団を二枚並べ、片方をバンッ! と叩き、指を指す。

 

「さあ、マスター。正座です」

 

「……正座」

 

「はい、正座です。言い逃れは許しませんよ」

 

 

 普段のふんわりとした良妻の空気は完全に消え失せ、厳しい小姑か、あるいは修羅場を迎えた妻のようなオーラを放っている。

 

 陽は大人しく靴を脱ぎ、彼女に指定された通りにローテーブルを挟んで向かい合い、ちょこんと正座をした。

 

 

 沈黙が落ちる。

 

 目の前に座る神霊のプレッシャーは、先ほどの路地裏で殺意を向けてきた魔術師たちよりも遥かに重く、切実なものだ。

 

「さて、マスター」

 

 

 玉藻の前は腕を組み、琥珀色の瞳をスッと細めて陽を真っ直ぐに睨みつけた。

 

「私がネギと牛肉のお会計をして、マスターを待っていたわずか数分間の間に、一体何があったのか。あの路地裏で何が起きていたのか。包み隠さず、すべてお話しください」

 

 

 その真剣な眼差しを受け、陽は静かに瞬きをした。

 

 自分が今、最も優先して口にすべき言葉は何だろうか。陽は、自らの内にインストールされている社会的な倫理観のデータベースを検索し、人間関係を円滑に進めるための最適な言葉を紡ぎ出した。

 

「……まずは、君を待たせてしまって、勝手なことをして本当にすまない」

 

 

 陽は、少しだけ申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。

 

「せっかく一緒に出かけたのに、俺が迷子のような真似をして、君に迷惑をかけた。買い物の途中でいなくなったこと、心配をかけて申し訳ないと思っている」

 

 

 誠心誠意。嘘偽りのない、純粋な謝罪だった。

 

 しかし、その言葉が静かなリビングに落ちた瞬間、玉藻の前はポカンと口を開け、次いで額に青筋を浮かべてバンッ! とテーブルを叩いた。

 

「ち・が・い・ま・す!!……見当違いですッ!!」

 

「え?」

 

「いや、確かに待たされたのは寂しかったですし、戻ってこなくて心配もしましたけど! 私が怒っているのはそこじゃありません!なぜ買い物の途中で、あんな事態に巻き込まれているのかと聞いているんです! あと、私が感知したあの事象の書き換えは、一体なんなんですか!?」

 

 

 彼女のツッコミは、極めて真っ当だった。

 

 陽の謝罪は、あまりにも現状のスケールと噛み合っていない。世界が滅ぶかもしれない爆弾が爆発した跡地で、「靴を揃えずに家を出てごめんなさい」と謝っているようなものだ。

 

「あ、ああ。そういうことか」

 

 

 陽はようやく彼女の怒りの矛先を正しく理解し、姿勢を正した。

 

 

 怒られている原因が「待たせたこと」ではなく「路地裏で起きた事象」にあるのなら、俺は彼女に対してもう一つ、明確にルール違反をしたことをカミングアウトしなければならない。

 

「実は、謝らなきゃいけないことがあるんだ」

 

「……まだあるんですか。誰かに絡まれたんですか?」

 

「うん。暗示をかけられて、路地裏に誘い込まれた。そこで三人の魔術師に令呪を狙われて、殺されそうになった」

 

「なっ……! やっぱり! それで、どう対処したんですか!? あの異常な魔力現象はその魔術師たちが……」

 

「いや。特訓の時に、君から『危険だから絶対に一人で開くな』と言われていた《門》を、俺が開いた。言いつけを破ってすまない」

 

 

 

 その告白がリビングに落ちた瞬間。

 

 玉藻の前は、完全に絶句した。

 

 ピンと立っていたキツネの耳が、へにょりと垂れ下がる。

 

 

 彼女の脳裏に、数日前の特訓の記憶がフラッシュバックする。空間が抉り取られ、観葉植物がブラックホールのような漆黒の孔に呑み込まれ、危うくマンションごと虚数空間へ消滅しかけたあの絶望的な光景。

 

 

 それを、白昼堂々の市街地で、開いたと。

 

「ひ、開いた……? 開いたって……あれを……?」

 

「三回ほどね。でも安心してほしい。今回は原理を理解してちゃんと制御できたから、周囲を呑み込むような暴走はしなかった」

 

「制御した……ですか」

 

「対象の座標に門を重ねて空間ごと分断して首を落としたり、ナイフを投擲して、心臓を貫いたり」

 

 

 陽は、まるで「自転車の補助輪なしで走れるようになったよ」と報告するような、平坦で悪気のないトーンで、自分が行った異常な殺戮のプロセスを語った。

 

 

 位相の分断による物質強度を無視した絶対切断。時間差の死の因果の上書き。

 

 相手が魔術師としてどれほど鍛錬を積んでいようが、防御すら許さない理不尽な死の現象。

 

「……ッ」

 

 

 玉藻の前の口が、パクパクと金魚のように動いている。

 

 

 空間を切り離して人を殺した、とこの少年はさらりと言ってのけたのだ。

 

「そして、その後なんだけど」

 

 

 陽は、さらに追い打ちをかけるように、最後の現象について語り始めた。

 

「彼らを殺した後、少し罪悪感のようなものを覚えてね。自衛とはいえ、俺は私欲のために彼らを殺した。それは良くないことだと思ったんだ」

 

「……」

 

「だから、彼岸へ渡ろうとしている彼らの核が霧散するのを、ナイフで現世側に縫い留めてみたんだ。なんとなく出来る気がして」

 

「……はい?」

 

「そうしたら、何故か切断した肉体が元通りにくっついて、破裂した心臓も治ってしまった。血も全部消えた。俺がやったのかどうかは微妙なところだけど、結果的に彼らは生き返ったから、問題ないかなって」

 

 

 淡々と。あまりにも淡々と。

 

 陽は「少し工作をしたら直った」程度のテンションで言い切った。

 

「…………」

 

 

 玉藻の前は、両手で顔を覆い、深く、長く、地の底から響くような溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

「――バッカじゃないんですかマスターーーーーッ!!!」

 

 

 鼓膜が破れるかと思うほどの、ハイテンションな絶叫がリビングに木霊した。

 

「な、ななな、何を言ってるか自分で分かってますか!? 《門》を実戦投入した上に、空間分断!?挙句の果てには魂の縫合!? どれもこれも、常識を木っ端微塵に粉砕する特級の禁忌ですよ!」

 

 

 玉藻の前は立ち上がり、座布団をバンバンと叩きながら陽の目の前で荒ぶり始めた。

 

「私が! あれほど! あんな危険な門は開くなと! マンションごと消滅するって言いましたよね!? なんで外出先でやってるんですか! 制御できたから良いって問題じゃありません! 一歩間違えれば、冬木市の新都がそっくりそのまま虚数に呑み込まれて消失してたんですよ!?」

 

「でも、彼らが襲ってきたから、いち一般人として自衛のために……」

 

「自衛のために次元に穴を開ける一般人がどこにいますかっ! オーバースペックにも程があります! 蚊を落とすのに核ミサイルを撃ち込んでいるようなものです!」

 

 

 彼女の説教は、留まるところを知らない。

 

 狐の耳をピンと垂直に立て、尻尾をバタバタと扇風機のように振り回しながら、身振り手振りで陽の行いの危険性と、自身の寿命がどれほど縮んだかを力説してくる。

 

 「もう本当に何してるんですか!」「死体が生き返るとかホラー映画ですか」「魂に干渉するとか、魔法の領域に片足突っ込んでるじゃないですか!」「良妻の胃に穴が開きます!」と、神霊らしからぬ生活感溢れる言葉が次々と飛び出してくる。

 

 

 その怒涛の説教を正面から受け止めながら、反省の意を示すように少しだけ俯く。

 

 

 だが、彼の内心は、表面的な神妙さとは全く別の場所を漂っている。

 

(……いい経験が、できたな)

 

 

 玉藻の前の甲高い声が、少しずつ遠のいていくような感覚。

 

 

 陽の意識は、先ほどの路地裏での戦闘の記憶を、甘い麻薬のように反芻する。

 

 彼らの攻撃を透過した時の、あの自分が世界のどこにも属していないような圧倒的な無敵感。

 

 二つの世界の境界線をナイフで切り裂いた時の、複雑なパズルが完璧に組み合わさるような万能感。

 

 そして何より――最後に彼岸へ渡ろうとする魂を観測し、それに干渉した瞬間の、あの圧倒的な『深淵』の手触り。

 

 

 

 肉体というフォーマットが崩壊し、魂が霧散しようとする躍動。

 

 あの瞬間に観測した、一瞬だけ視界に咲き乱れた赤い花のような幻影。

 

 その死の境界線に触れた瞬間、陽の起源は、確実に殻にヒビを入れ、より深い次元へと彼を誘っていた。

 

 

 

 心地よかった。

 

 この世界に存在している実感のない彼にとって、あの虚数の底、生と死が曖昧に混ざり合う境界の領域だけが、唯一の「自分の居場所」であるかのように錯覚してしまう。

 

 

 陽の起源は、まだ完全に覚醒してはいない。

 

 だが、今回の戦闘と、魂への干渉という神の領域に触れたことで、彼の魂は明確に「向こう側」へと引き寄せられ始めていた。

 

(……もっと深く、沈んでみたい)

 

 

 その誘惑に身を任せることの、抗いがたい心地よさ。

 

 自分が人間という枠組みから外れ、ただの現象そのものへと変質していくことへの恐怖は、存在しない。

 

 

 むしろ、その冷たく暗い虚無の底にこそ、自分の求めていた本当の『輪郭』があるのではないかとすら思えてくる。

 

 

 このまま、意識を深く沈めていけば。

 

 あの魂の行き着く先、彼岸のさらに奥底へと、自分自身も辿り着けるのではないだろうか。

 

 

 陽の黒く虚ろな瞳が、極彩色の虹色へと微かに明滅を始める。

 

 現実の輪郭が薄れ、リビングの壁の向こう側に蠢く魔力や、空間のノイズが、再び視界のピントを奪おうとした。

 

 

 

 

 

 

 意識が、ズルリと彼岸へ傾く。

 

 

「――ちょっと、聞いてますかマスター!」

 

 

 唐突に。

 

 目の前で激しく揺れる黄金色の尻尾と、鼻先をくすぐる白檀の香りが、陽の意識を強引に現実へと引き戻す。

 

「私がこんなに真剣に怒っているのに、またどこか遠くを見てぼーーっとして!」

 

 

 玉藻の前が、頬をぷくっと膨らませて、陽の顔を覗き込んでいる。

 

 その琥珀色の瞳には、怒りよりも、彼がまたどこか手の届かない場所へ消えてしまうのではないかという、純粋な不安と焦燥が滲んでいた。

 

 

 沈みかけていた陽の意識が、彼女という確かなアンカーの『声』によって、再び此岸へと縫い留められる。

 

 

 陽は、ゆっくりと瞬きをして、瞳の明滅を鎮めた。

 

「……大丈夫。ちゃんと、聞いてるよ」

 

 

 相変わらずその声のトーンは平坦で、どこまでも温度感に欠けている。

 

 自分がどれほど危うい境界線の上に立っているのか。それを自覚しながらも、歩みを止める気配を見せない少年の空虚さ。

 

「本当ですかぁ? なんだか全く反省していないような顔に見えますけど」

 

「反省してるよ。もう一人で勝手なことはしない。だから、夕飯にしよう。お腹が空いた」

 

「ああっ、もう! 話を逸らしましたね! でも、まあ……無事だったから、今回はこれくらいで許してあげます。次やったら、夕飯のオカズ抜きですからね!」

 

 

 玉藻の前は、やれやれと肩をすくめながらも、少しだけホッとしたように立ち上がり、キッチンのカウンターへと向かっていった。

 

「さあ、腕によりをかけてすき焼きを作りますよ! 買ってきた霜降りの牛肉が泣かないように、完璧な火加減で仕上げてみせますから。マスターはそこで大人しく、私がネギを切る美しい後ろ姿でも眺めていてください!」

 

 

 

 

 トントン、と。

 

 

 すぐに、小気味良い包丁の音と、楽しげな鼻歌がリビングに響き始めた。

 

 夕飯の支度。ありふれた、どこにでもある人間の生活の営み。

 

 夕暮れの陽射しが赤く染まる、平和で温かい空間。

 

 

 だが、陽は正座をしたまま、自分の右の手のひらを静かに見つめていた。

 

 魂を縫い留めた、あの境界線の冷たい感触が、まだ指先に残っている。

 

 この引力は、もはや後戻りできないほどに強まっていた。

 

 

 

 日常と狂気が、薄氷の上で交差する。

 

 噛み合わないまま続く、空っぽの少年と愛に生きる神霊のいびつな生活は、聖杯戦争という泥濘の中で、さらに深く、暗い領域へと足を踏み入れようとしていた。

 

 




次回
【未知への散歩と、切り離された不可侵、そして雷鳴轟く狂騒の幕開け】
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