『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』 作:りー037
朝の光は、黒瀬陽にとって常に「薄い」ものだった。
カーテンの隙間から差し込む秋の陽光が、フローリングの床に白々とした四角い模様を描いている。空中に舞う微細な埃すらも透過して見える彼の瞳には、現実の光よりも、その裏側に張り巡らされた見えない法則に沈む微弱なノイズの方が、よほど鮮明な色彩を持って映っていた。
ベッドの上で身を起こし、陽は静かに瞬きをした。
視線を落とすと、左手の甲には三つの刃が絡み合うような深紅の文様が刻まれている。皮膚の表面に描かれたものではなく、肉体の奥底、神経のさらに下層にまで根を下ろしているような異物感。
(……夢、ではないか)
陽の心に、パニックや後悔の念は微塵も湧かない。ただ「そういう事実がある」という事象を、極めて平坦な感情で処理していく。
彼が纏う空気は、ひどくふんわりとしていて、静か。喜怒哀楽の波がなく、常に一定の凪を保っている。彼自身が世界から半歩ズレているがゆえの、決定的なまでの『無関心』と『無害さ』。
布団から出ようとしたその時、ふと、陽の鼻腔をくすぐる匂いがあった。
——出汁の匂い。そして、微かな味噌の香り。
陽は無言のままベッドを抜け出し、扉を開けて廊下へと出る。歩みを進めるごとに、トントン、と小気味よい包丁の音と、どこか楽しげな鼻歌が聞こえてきた。
リビングの扉を開けると、朝の光に満ちたキッチンに、非日常の塊が立っている。
「あ、おはようございます、マスター!」
振り返った玉藻の前は、フライ返しを片手に満面の笑みを浮かべる。
血塗られた地下水道で出会った神霊は、今や完全に『甲斐甲斐しい良妻』の顔になりきっている。彼女の周囲だけ、空間の彩度が一段階上がっているようにすら錯覚させるほどの過剰な熱量だ。
「……おはよう。それは、何をしてるんだ?」
「何って、決まってるじゃないですか! 愛しのマスターのために、真心を込めた朝食を作っているんですよっ」
「朝食……」
「昨夜は遅かったでしょう? サーヴァントである私は必要としませんが、マスターは育ち盛りの人間の男の子ですからね。しっかり食べて、英気を養ってもらわないと!」
玉藻の前は胸を張り、狐の耳を誇らしげに揺らす。
陽は、ほんの少しだけ目を丸くした。他人と一定の距離を置き、誰の感情も深入りさせないよう生きてきた彼にとって、「見返りを求めずにここまで世話を焼かれる」という経験は、極めて珍しいものだった。
「……そこまで、してくれるんだね」
「当然です! 良妻たるもの、胃袋を掴むのは基本中の基本。冷蔵庫には驚くほど何にも入っていませんでしたけど、そこは私の女子力でカバーしましたから! もうすぐ出来上がりますので、リビングで座って待っていてくださいね」
陽は小さく頷き、言われるがままにダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
ほどなくして、お盆に乗せられた料理が運ばれてくる。白米、豆腐とわかめの味噌汁、だし巻き卵、そして完璧な焼き加減の鮭。一人暮らしの殺風景な食卓が、一瞬にして高級旅館の朝食のように彩られた。
「ささ、冷めないうちにどうぞお召し上がりください!」
玉藻の前はエプロンを外し、陽の対面に座ると、彼の反応を今か今かと待ちわびるように身を乗り出してきた。琥珀色の瞳が、期待でキラキラと輝いている。
出汁の旨味が、口の中にふんわりと広がる。火の通し方も絶妙で、ただの家庭料理の域を遥かに超えていた。
「……とても美味しい」
陽の言葉には、感嘆の抑揚も、大袈裟なジェスチャーもない。ただ、事実を事実として淡々と告げただけ。
しかし、その嘘偽りのないストレートな賞賛は、玉藻の前の心にクリティカルヒットしたらしい。
「良かったですーっ! いやはや、現代の調味料の勝手が分からず少し不安でしたが、マスターのお口に合って何よりですっ!」
彼女は顔を真っ赤にして両手で頬を押さえ、尻尾をバタバタと激しく振った。そのあまりの嬉しそうな様子を横目で見ながら、陽は淡々と食事を進める。
「そういえば」
ふと、陽は箸を止め、対面の彼女を見た。
「君は、食べないのか?」
「ええ。昨夜も言いましたが、サーヴァントは食事も睡眠も不要ですから。こうして現界を保ち、活動するためのエネルギーは、すべてマスターの『魔力』によって賄われています」
「魔力……」
陽は、自分の胸元から玉藻の前の中心へと繋がっている、赤い光の糸のようなものをじっと見つめた。
彼の『眼』が捉える、マスターとサーヴァントを繋ぐ絶対的なパス。
「君と俺の間に、そのパスっていうのか……ラインが繋がっているのは、俺の目にも見えている。そこを流れている微弱な光が、魔力なんだよな」
「はい。その通りです」
「でも、俺はその『魔力』というものがどうやって生成されるのか、仕組み自体が全く分かっていない。それに……客観的に見て、今の俺から君に流れているエネルギーは、ひどく細くて頼りない気がする。この程度の魔力で、君の存在を維持できるものなのか?」
陽の極めて冷静で分析的な指摘に、玉藻の前は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「あー……それですね。ぶっちゃけ、かなり極小です。今の私は、本来のスペックの数パーセントも発揮できていない状態と言っていいでしょう」
「俺の能力が低いからか」
「違いますよ、マスター。能力が低いのではなく、そもそもマスターの『魔術回路』が開かれていないんです」
魔術師の家系に生まれなかった一般人であれば、それは当然のことだ。彼には魔術の知識がなく、魔力を生成するための器官である魔術回路も眠ったままである。
「今はただ、パスを通じてマスターの生命力……微弱なオドが自然に漏れ出ているものを、私が吸い上げているだけの状態です。万全とは言い難いですね。でも安心してください。その辺りの『魔術回路の開き方』は、私がみっちり手取り足取り教えて差し上げますから!」
「……分かった。お願いするよ」
陽が再び箸を動かし始めた時、玉藻の前はふと、狐の耳をピンと立てて、不思議そうに首を傾げた。
「マスター。……魔術師ではないんですよね?」
「ああ。昨日の夜まで、魔術なんて未知の法則知らなかった」
「それなのに、先ほど……『パスが見えている』と仰いましたか?」
彼女の琥珀色の瞳が、陽の顔を覗き込む。
「魔力は、感じることはできても、視認できるものではありません。一流の魔術師であっても、魔力の流れを色や線として『視る』には、特別な礼装や魔眼が必要です。それを、ただの素人であるマスターが、目で視認している……?」
「ああ。俺には、昔からこういうものが見えているんだ。これについても、後で話すよ」
陽は全く気にした様子もなく、淡々と答えた。その平坦すぎる自己認識に、玉藻の前は「なるほど、私のマスターはやはり一筋縄ではいかない方のようです」と内心で舌を巻いた。
*
——食事を終え、陽が淹れた食後の茶を飲みながら、二人はリビングのローテーブルを挟んで向かい合う。
「さぁて! それでは、無知で純真なマスターのために、この玉藻先生が魔術世界のルールをレクチャーして差し上げましょう!」
どこから取り出したのか、玉藻の前は赤いアンダーリムの伊達メガネをかけ、手には短い指示棒のようなものを持っている。背後には、これもまたどこから出したのか、小さなホワイトボードまで用意されていた。
完璧なまでの「教師モード」だ。陽は、その空間の不条理さを指摘することもなく、ただ静かに頷いて授業を受け入れた。
「まずは『魔術回路』と、魔術を使うまでのプロセスについてです。魔術回路とは、魔術師の肉体に備わっている疑似神経のようなもの。外界にあるマナを取り込み、自分の内側にあるオドへ、魔術を起動するためのエネルギーに変換するエンジンのような役割を果たします」
彼女のホワイトボードの解説は、図解入りでひどく分かりやすかった。
大気中に満ちる魔力(マナ)と、自身の魔力(オド)。それらを回路というエンジンで回し、現象を引き起こすための電力に変える。
「そして、ここからが重要です。変換された魔力を使って現象を起こす際、魔術師の先天的資質である『魔術属性』と、魔術行使の方向性を示す『魔術特性』という二つの要素が絡んできます」
「属性と、特性」
「はい。基本となる属性は『地・水・火・風』の四大元素に、それらを統べる『空(エーテル)』を加えた五大元素。さらに、架空元素と呼ばれる特殊な属性も存在します。基本的には一人につき一つの属性を持ちますが、中には二つ、三つと併せ持つ天才もいます。マスターも、必ずこのどれかに該当するはずです」
陽は、自分の内側にある『空虚(ゼロ)』の感覚を思い出しながら、静かに聞いていた。
魔術は、この先天的な属性に依存する。ならば、自分にも何らかの属性に基づく力が使えるということか。
「ただし、属性を理解しただけでは現象は起こせません。属性はあくまで『基盤』です。その基盤の上に、どのような魔術的効果を付与するかという『特性』、術式の個性を乗せることで、初めて魔術は形になります。」
玉藻の前は、ホワイトボードにいくつかの単語を書き出していった。
「例えば、『強化』。存在の階級を上昇させたり、道具の耐久度を補強する特性です。『変換』は、自身の魔力を別の物質に蓄え、いつでも取り出せるようにする。『吸収』は、他者の生命力や成果を自らの肉体へ還元する。『転移』は、対象の意識などを別のものへ移動させる……などなど。属性を基盤とし、特性で方向を定める。これが術式を組むということです」
「なるほど。理解した」
「物分かりが良くて助かります! 初心者にとって最も基礎的でポピュラーな魔術といえば、やはり自身の肉体を補強する『強化』でしょうか」
強化魔術。魔力を自身の肉体に巡らせるだけの、最も原始的で基礎的な術式。
陽は、彼女の説明を脳内で反芻し、一つの疑問に行き当たった。
「……君の説明からすると。同じ『強化』という特性を定めたとしても、対象が持っている『属性』が違えば、結果として現れる現象は異なるものになるのか?」
その鋭い質問に、玉藻の前はメガネの奥の目を丸くし、次いでパッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「大正解です! いやはや、マスターは本当に理解が早いですね! 花丸を百個くらいあげちゃいたいです!」
彼女は指示棒を振り回しながら、テンション高く解説を続けた。
「結論からお伝えすると、肉体強化は基礎魔術であり、魔術師であれば、ほぼ誰でも使えます。しかし、その裏では『属性』が100パーセント影響しており、極めれば極めるほど、魔術師ごとにアプローチや微細な違いが全く異なってくるのです」
「微細な違い……」
「はい! 一見すると全員が『ただ足が速くなった』『力が強くなった』ように見えても、それぞれの属性に基づいた全く別の理屈で肉体を強化しています。初心者レベルの軽い強化なら表面的な出力に大差はありませんが、これを限界まで極めた領域に達すると……」
玉藻の前は、声を一段低くし、凄みのあるトーンで語った。
「火属性の魔術師が強化を極限まで高めれば、それは触れるものすべてを燃やし尽くす『破壊の化身』のように、地属性の魔術師が極めれば、どんな物理攻撃も通さない『金剛不壊の城塞』になるかもしれません。ここまで来ると、単なる身体能力の底上げではなく、属性そのものを肉体に纏って戦うレベルですね」
「同じ『強化』の魔術でも、基盤となる根幹が違うから、行き着く先が変わるということか」
「はい、その通りです!まさに魔術の核心を完璧に捉えられていますよ!」
陽の理解度の高さに、玉藻の前は心底嬉しそうに頷いた。現代の魔術師は研究に没頭する者が多く、強化魔術という原始的な力学を極めようとする者は稀だが、理屈としてはそういうことなのだと彼女は締めくくった。
「なるほど。原理はなんとなく理解したよ。とても分かりやすい説明だった。ありがとう」
「えへへ、良妻たるもの、夫の学びをサポートするのは当然の務めですから!」
照れたように狐の耳を伏せる彼女を見つめながら、陽は静かに思考を整理する。
自分の属性が何なのかは、まだ分からない。しかし、魔術を習得する上で最初にやるべきは、魔術回路を開き、魔力を変換し、属性と特性を元に魔術を起動すること。
「……それで」
陽は、自らの内に眠る見えない器官へと意識を向けながら、真っ直ぐに玉藻の前の瞳を見つめた。
「その『魔術回路』というのは、どうやって開くんだ?」
その問いに応えるように、陽という空虚な器に、未知なる世界の理が、音を立てて注ぎ込まれようとしている。
玉藻の前は先ほどまでの教師ごっこの小道具であった伊達メガネを外し、ゆっくりとテーブルの端に置いた。彼女の纏う空気が、ふんわりとした良妻のそれから、神秘の側に生きる神霊としての重厚なものへとシームレスに切り替わる。
「魔術回路とは、いわば『疑似神経』です」
彼女の声は、朝の静寂に溶け込むように静かだった。
「人間の肉体に張り巡らされた神経系に重なり合うように、べったりと張り付いている特殊な器官。それが魔術回路。通常、魔術師の家系に生まれた子供であれば、親や師匠の手ほどきを受け、安全に、そして計画的に、長い時間をかけてその回路を少しずつ開いていきます。知識も心構えもある状態で、肉体に負担をかけないように馴染ませていくのが基本ですね」
「……俺には、そのどちらもないな」
「はい。マスターは、回路を開くための事前準備がされていません。例外として、一般人が偶然に回路を開いてしまうケースも存在しますが……それは非常に危険なアクシデントが伴った結果ですね」
「アクシデント。例えば?」
「死の恐怖です」
玉藻の前の声が、ほんの少しだけ低く沈んだ。
「殺人鬼に襲われる、大事故に遭うなど、『生命の危機』に直面した瞬間……生き残ろうとする本能、つまり魂の自衛システムが暴走し、眠っていた魔術回路が火事場の馬鹿力のように強制的に弾けて開通してしまうことがあるのです。ですが、それはあくまで例外中の例外。本来であれば、時間をかけて慎重に起こすべきものです」
彼女はそこで言葉を切り、陽の反応を窺った。
急ぐ必要はない。今は聖杯戦争の渦中とはいえ、安全な拠点の中にいる。時間をかけて少しずつ魔力に慣らしていくという選択肢もあるはずだった。
「……できれば、すぐにやりたい」
しかし、陽の口から紡がれたのは、一切の躊躇いを排した即答だった。
彼の黒く虚ろな瞳が、玉藻の前を真っ直ぐに射貫いている。そこにあるのは、力を渇望する野心でも、聖杯戦争を生き抜くための焦燥でもない。ただ純粋に、自分の視界に映り続けてきた『未知の法則』に触れ、理解したいという、極端な観察者としての本能。
玉藻の前は、小さく息を吐いた。
この白紙のように透明な少年が、一度決めたことを決して曲げないであろうことは、すでに彼女の魂が理解している。
「……分かりました。では、少し荒療治になりますが、私が直接マスターの内に魔力を流し込みます。マスターはそれに集中し、自身の内側にある『回路』を見つけてください。外からの魔力で、強制的に覚醒を促します。一度開いてしまえば、あとはご自身のイメージでオン・オフの切り替えができるようになるはずですから」
「分かった」
「ですが、覚悟してくださいね」
玉藻の前は、真剣な表情で陽の顔を覗き込んだ。
「最初の開通は、いわば『使われたことのない乾びた神経に、初めて高圧電流を通す』ような行為です。激しい痛みや、高熱を伴います。……問題ありませんか?」
「問題ない。やってくれ」
痛みを恐れる素振りすら見せない陽の即答に、玉藻の前は、内心で苦笑しながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「それでは、失礼しますね」
彼女はテーブルを回り込み、陽が座る椅子のすぐそばへと歩み寄った。
二人の距離が、ゼロになる。
玉藻の前は陽の正面に立ち、彼を見下ろすような形でそっと身を屈めた。ふわりと、白檀と桜を混ぜ合わせたような、彼女特有の甘く清浄な香りが陽の鼻腔をくすぐる。
彼女の白く滑らかな手が、陽の胸元——心臓の少し上あたりに、そっと置かれた。
衣服越しに伝わる、人間よりも少し高い神霊の体温。
(……初めての共同作業、ですね。なんだかドキドキしてきちゃいました)
玉藻の前の狐耳が、緊張と微かな高揚でピクピクと動いている。神霊としての威厳を保とうとしてはいるものの、マスターと物理的に触れ合い、自らの魔力を注ぎ込むという行為に、彼女の「良妻プログラム」は密かに歓喜の声を上げていた。
「慎重にやりますが、もし耐えられないようなことがあったら、すぐに教えてくださいね」
「うん」
陽は静かに頷き、目を閉じた。
次の瞬間。
——ドクン、と。
陽の胸の奥底で、何かが脈打つ感覚があった。
玉藻の前の手のひらから、物理的な熱とは異なる、圧倒的な密度の『エネルギー』が流れ込んでくる。
それは、陽の特異な体質——『瞳』と『知覚』を通して、明確な視覚情報として彼の脳内に処理された。
(……これが、魔力)
目を閉じているにもかかわらず、陽の視界は色鮮やかな光に満ちていた。
今まで、街の至る所で『ノイズ』や『残滓』として視認してきたものとは、根本的に次元が違う。玉藻の前の内側から流れ込んでくる魔力は、黄金色に輝く、極めて純度が高く美しい波形を描いていた。
量ではなく、圧倒的な『質』の違い。神霊の端くれである彼女が紡ぎ出す魔力は、物理法則を容易く書き換えるほどの高次な神秘に満ちている。
陽は、自分の肉体が透明なガラスの器になり、そこに黄金の液体が注ぎ込まれていくような、奇妙な透視感覚に陥った。異なる次元から自分自身を俯瞰しているような、強烈な離脱感。しかし、明確な理解のもとにそれを観測しているためか、今まで感じていた非現実感が、急速に『確かな現実』として脳に刻み込まれていく。
「……マスター。肉体に異常はありませんか? 痛みは?」
玉藻の前の心配そうな声が、耳元で聞こえる。
「問題ない。続けて」
陽は雑念を振り払い、意識のピントをさらに内側へと絞り込んだ。
黄金の魔力が、彼の肉体を巡っていく。血液の流れとは違う。神経の経路に沿うように、しかし確かに別の位相を通って流れるエネルギーの奔流。
その流れの先にある『自分の根幹』を探り当てようとした。
魂の在り処。神経にべったりと張り付いているという、見えない器官。
異なる位相に触れ続けてきた彼の意識は、自己の内面という深淵に潜ることに何の抵抗も持たない。深く、さらに深く。
やがて、彼は『それ』を見つけた。
肉体の奥底、神経と重なり合うように存在する、無数の細い糸のような構造体。それは長年の間、一度も使われることなく眠り続けていたため、ひどく冷たく、乾びているように見えた。
玉藻の前の魔力が、その乾いた糸の束に触れる。
(……もう一押し、か)
陽は、自分という存在のすべてをその一点に集中させた。
長年、世界からズレていた自分。何もかもが薄っぺらかった日常。その裏側にあった『真実』が、今、彼の手の届く場所にある。
未知の法則を、自らの血肉とするための明確な命令。
(——起きろ)
陽の意志が、回路のスイッチを弾いた。
パァンッ! と。
肉体の中で、物理的な破裂音がしたような錯覚に陥る。
次の瞬間、全身の神経を千本の焼けた針で同時に貫かれたような、凄まじい激痛が走る。
しかし、陽の表情はピクリとも動かない。彼の感情の欠落と、極端な離人感が、痛みを『自分のもの』としてではなく『肉体に起きている現象の一つ』として客観的に処理したのだ。
痛みと同時に、言葉にできないほどの圧倒的な高揚感が、陽の脳髄を突き抜けた。
成功した。
開通した回路を一気に魔力が駆け巡り、陽の肉体を内側から満たしていく。
その瞬間、陽の閉じた瞼の裏で、そして現実の彼の瞳の中で、劇的な明滅を起こす。黒かった瞳が、万華鏡のように極彩色の虹色に輝き、空間の魔力を直接視覚化して捉える。
「——っ! やりましたね、マスター!」
玉藻の前は、陽の胸からパッと手を離し、その場でピョンと跳ねて両手でガッツポーズを作った。
尻尾がちぎれんばかりに左右に振られ、彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいる。初めての共同作業が完璧な成功を収めた喜びに、彼女は子供のようにはしゃいでいた。
陽は、ゆっくりと目を開けた。
生まれ変わったような清々しさが、胸の奥を満たしている。
今まで、理由も分からずに視界に映っていた『未知の法則』が、今は明確な『魔術』という理として理解できるものに置き換わっていた。
開いたばかりの回路が、高熱を帯びて微かな痺れを訴えている。しかし、玉藻の前からパスを通じて絶え間なく流れ込んでくる魔力が、その熱を優しく冷却し、肉体を循環しているのがはっきりと分かった。
(……これが、魔力。物理法則から外れた、エネルギーの本質)
知識としてではなく、感覚として理解した。
自分が今、完全に『向こう側』に足を踏み入れたのだという確かな実感。
「おめでとうございます、マスター! 回路、完全覚醒ですっ!」
玉藻の前は、パンパンと手を叩いて祝福の言葉を並べる。相変わらずテンションが高く、嬉しそうだ。
しかし、彼女はふと、狐の耳を僅かにピクリと動かし、小首を傾げた。
「……なんか、ちょっとおかしいですけど」
「おかしい?」
「はい。マスターの回路を開いた瞬間、私の目から少しだけその構造が見えたんですが……なんていうか、二重螺旋を描いているような構造の、片方だけが『この世界に存在していない』ような、変な違和感があったんですよね」
しかし、すぐに彼女は首をブルブルと振り、明るい笑顔を取り戻した。
「ま、細かいことは良しとしましょう! これで完全にマスターと私が繋がりました! パスを通して、マスターの魔力が私の方にも少しずつ流れ込んできています。微弱とはいえ、自前で魔力を生成できるようになったのは大きな進歩です! これは勝つる!」
「……ああ。ありがとう。君のおかげだ」
陽が素直に感謝の言葉を口にすると、玉藻の前は「ひゃぅっ」と変な声を漏らし、顔を真っ赤にしてパタパタと両手で顔を扇ぎ始めた。「いえいえ、良妻として当然の務めですから! もっと褒めてくれてもいいんですよ!?」と謙遜しつつも喜びを隠しきれない彼女の姿は、ひどく人間臭く、温かかった。
*
魔術を使うために必要な、属性と特性の掛け合わせ。
先ほど玉藻の前から教わった理論。もっとも基礎的な術式である、『強化』。
(俺の属性が何なのかは、分からない。だが、魔力を動かす感覚は理解した)
陽は、自分の肉体を補強するイメージを脳内に構築する。
大気中のマナを取り込み、自身のオドと混ぜ合わせ、開通したばかりの回路に流し込む。血液を加速させ、筋肉の繊維を魔力でコーティングし、肉体の階級を一段階上昇させる。
ごく一般的な、魔術師であれば誰もが通る基礎魔術のプロセス。
陽は、静かに魔力を活性化させた。
——その瞬間だった。
「…………え?」
声が漏れたのは、玉藻の前の方。
彼女の琥珀色の瞳が、驚愕に見開かれる。彼女の視界の中で、陽の輪郭が、一瞬だけ『ブレた』のだ。
陽自身も、強烈な違和感に襲われる。
肉体を強化しようと魔力を巡らせたはずなのに、筋肉に力がみなぎる感覚はない。代わりに起きたのは——自身の存在が、現実の座標からズルリと滑り落ちるような、圧倒的な虚脱感。
異なる位相にある『見えない何か』が、陽の魔術回路を通じて、強引に現実世界へと干渉してきたような感覚。
(……なんだ、これは)
瞳が、空間の裏側に広がる『暗黒』を明確に捉えた。
強化の魔術を起動したはずの陽の肉体は、物理的な強さを得る代わりに、まるで幽霊のようにその存在確率を曖昧にさせていく。皮膚が透け、その奥にあるはずの血管や骨が、黒いノイズの塊に置き換わっていくような錯覚。
部屋の温度が、急激に数度下がる。
今までただの静寂だと思っていた空間の裏側から、何者かの視線のような——底知れぬ深淵そのものが、陽の回路を通じてこちら側を覗き込んでいるような、ゾッとするような気配。
陽は、感情のない瞳でその暗黒を見つめ返す。
恐怖はない。ただ、『彼岸』の底へと引きずり込まれるようなその甘美な引力に、彼の魂は強く、強く惹きつけられていた。
次回
【境界線を視る異能と、■■の開門、そして穿たれた漆黒の孔】