『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』 作:りー037
それは、ごく初歩的な魔術行使のはずだった。
大気中のマナを取り込み、自身のオドと混ぜ合わせ、開通したばかりの疑似神経——魔術回路へと流し込む。血液を加速させ、筋肉の繊維を魔力でコーティングし、肉体の階級を一段階上昇させる。先ほど、対面に座るキャスター——玉藻の前から教えられた通りの、最も基礎的な『強化』の術式。
黒瀬陽は、その理屈を理解し、淡々と自身の肉体へと魔力を巡らせた。パラメーターの底上げ。それが彼が望んだ結果であり、思い浮かべたイメージだった。
しかし、現象は予測の斜め下、あるいは物理法則の『裏側』へと凄まじい速度で逸脱していった。
(……なんだ、これは)
視界にノイズが走る。空間そのもののピントがズレ、この物質界に存在していたはずの『黒瀬陽』というオブジェクトが、世界のバグ——異物として処理されていくような強烈な違和感だった。
現実からの解離。
幼少期から陽が常に抱え続けてきた「自分がここに存在している気がしない」「世界が薄い」という離人感が、魔力というブースターを得て、物理的な現象として顕現しようとしている。
通常であれば己の存在確率がブレていく恐怖に絶叫し、即座に魔力の循環を断ち切ろうとするだろう。しかし、陽の異常な精神構造は、恐怖よりも『理解』と『没入』を優先した。
(……心地いい、な)
彼は魔力を止めるどころか、さらに深く潜るようなイメージで、その引力に身を委ねてしまったのだ。
自身の輪郭が空間に溶け出していく。皮膚が透過し、骨格がノイズの塊に置き換わる。自分がこの世界から完全に消え去ってしまいそうな、しかし、長年抱えてきた疎外感が「本来収まるべき場所」に収まっていくような、狂気的なまでの安堵感。
現実という薄皮を破り、虚構という暗黒の海へ呑み込まれていく。
その彼岸の底へと完全に意識が沈み切ろうとした、その瞬間。
「——マスターッ!!」
それは、彼を虚構の海から現実世界へと強引に繋ぎ止める、重く、そしてひどく温かい楔(アンカー)だった。
*
玉藻の前は、初めての共同作業である『魔術回路の開通』が成功した余韻の中で、極上の心地よさに浸っていた。
自身のパスを通じて、マスターである陽から微弱な魔力が循環してくる。回路が開通したばかりで量は少なくとも、その魔力は一切の濁りがない、どこまでも透明で純粋なものだった。
彼女は、陽が教えられた通りに基礎である『強化』を試そうとしているのを、微笑ましく見守っている。才能の有無に関わらず、初めて魔力を肉体に巡らせる瞬間は誰もが戸惑うものだ。彼がどうやって魔力を制御するのか、良妻としてしっかり見届けて、後でたくさん褒めてあげよう。そう思っていた。
しかし。
「…………え?」
玉藻の前の視界の中で、ローテーブルの向こう側に立つ陽の輪郭が、『ブレた』のだ。
空間に溶けかける水彩画のように、彼の肉体のエッジが周囲の空気に侵食され、透過し始めている。
(これは……存在の希薄化!? 空間そのものとの同化現象!?)
こんな自滅にも等しい特殊な事象を、魔術の素人が意図的に起こせるわけがない。
その間にも、陽はさらに深く沈むように、その瞳に虚ろな光を宿していく。彼の周囲の空間に、黒いノイズが走り、存在の濃度が限界を超えて希薄になっていく。
(マズい。彼は、この世界から『消えて』しまう……!)
焦燥と、マスターを失うことへの根源的な恐怖。玉藻の前はテーブルを蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、身を乗り出した。
「——マスターッ!!」
絶叫とともに、彼女はどこか遠く、別の次元へと落ちていこうとしている陽の右手を、両手で強く、痛いほどに握り込んだ。
そして、自身の持つ莫大な魔力を、接続されたパスを通じて力任せに逆流させる。■■へと沈みかけていた陽の魔力循環に、強引に『此岸』の楔を打ち込んだのだ。
ドンッ! と、目に見えない衝撃波がリビングに吹き荒れた。
魔力の流動が急停止し、陽の肉体が激しく明滅したかと思うと、ズルリと、本来の現実世界の座標へと引き戻された。存在確率が正常なものに固定され、彼の輪郭が再び確かな質量を取り戻す。
「……キャスター?」
陽は、自分の右手を必死に握りしめ、肩で息をしている玉藻の前を見つめて、困惑したように首を傾げた。
やはり、彼が意図的に起こした現象ではなかった。
「……ご無事ですか!? 体に不調は!?」
言葉と同時に、彼女の瞳が魔術的な光を帯び、陽の肉体の隅々までを高速でサーチしていく。回路の焼き切れはないか、精神構造にダメージはないか、存在の核が欠落していないか。
「ああ、特に問題はない。損傷もないよ」
陽は、握られた右手から伝わる彼女の震えを感じながら、淡々と答えた。
「ただ、この魔力が、少し不安定になっている気はするけど……。それに、別の位相に何かを置いてきたような、変な違和感はある」
「別の位相に……ッ」
陽は「気のせいだろう」と軽く首を振ってその感覚を振り払おうとしたが、玉藻の前の顔は晴れない。
彼女の精密なサーチもまた、「肉体的な損傷はゼロ」という結論を弾き出している。しかし、先ほど開通させたばかりの陽の魔術回路が、さらに異質で、解読不能な構造に変質しているように見えた。
(一体、何が起きているんですか……。一般人である彼に、なぜあんな異常現象が……)
一般人。
その単語を脳内で反芻した瞬間、玉藻の前の思考に、一つのフラッシュバックが走った。
『君と俺の間に、そのパスっていうのか……ラインが繋がっているのは、俺の目にも見えている。そこを流れている微弱な光が、魔力なんだよな』
先ほど、朝食の最中に陽が口にした言葉。
『マスター。……魔術師ではないんですよね?』
『ああ。昨日の夜まで、魔術なんて未知の法則知らなかった』
『それなのに、先ほど……パスが見えていると仰いましたか?』
魔術の知識を持たない、完全なる一般人。それなのに、彼は息をするように自然に「魔力という不可視のエネルギーを視認している」と語った。
「……マスター」
玉藻の前の琥珀色の瞳が、真剣な光を帯びて陽を真っ直ぐに射貫いた。
「どうかした?」
「マスターは先ほど、朝食の席で『パスが可視化できている』というようなことを仰っていましたね。それについて……詳しく、教えていただけますか」
彼女の切実な問いかけに、陽は少しだけ目を瞬かせる。
他人に対して自分の内面を語ることなど、今まで一度もなかった。自分が狂っていると思われるのが関の山だと、そう思ったからだ。しかし、目の前にいるこの神霊は、自分以上の異常な存在であり、何より自分を心底心配してくれている。
隠す理由は、何一つなかった。
「あぁ……分かった」
陽は、ゆっくりと玉藻の前の手から右手を引き抜き、立ち上がる。
「その前に、お茶を淹れ直そう」
*
新しい緑茶が注がれた湯呑みをローテーブルに置き、陽はソファの背もたれに深くもたれかかった。玉藻の前は対面の椅子に座り、彼の次の言葉を待っている。
陽は静かに目を閉じ、過去から現在に至るまで、自分が観測し続けてきた『狂った世界』の景色を言語化し始めた。
「子供の頃から、そうだったんだ。周囲の人間とは違うものが、俺の視界には常に映り込んでいる」
「違うもの……ですか」
「ああ。……空間の至る所に、微細な亀裂のようなものが走っている。普通の人間には見えないだろうし、光の屈折や網膜の異常でもない。建物の壁を見つめれば、コンクリートという物質を透過して、その奥にある鉄筋の構造が見える。さらにその奥には、空間そのものに張り巡らされた見えない糸のようなものが、淡い燐光を伴って視認できるんだ」
淡々としたトーンで語られるその光景は、玉藻の前からすれば、高度な探知魔術を常時展開している状態に等しかった。
「今でこそ、君の説明を聞いて理解した。俺に見えていたその糸や燐光は、魔力や結界、あるいは神秘の残滓だったんだろうね。俺には、それが見え続けていた」
「……」
「でも、それだけじゃないんだ」
陽はゆっくりと目を開け、その黒く虚ろな瞳で虚空を見つめた。
「俺の目には、二つの世界が重なり合うようにして、同時に存在しているように見える。現実の風景と、それとは全く異なる、鏡合わせのような別の位相。俺は常に、その『二つの世界の境界線』に立っているような感覚がしている。周囲の物質が透けて見えて、その裏側に隠された存在や、感情の揺らぎ、空間の歪み、接続点……そういったものが、否応なしに視界に入ってくる」
玉藻の前には、彼の言わんとしていることの異常性が痛いほどに伝わっていた。
(魔力が見える。感情が見える。空間の歪みを捉える。そして、世界が重なって見える……)
彼女は、自身の記憶の底にある魔術世界のデータベースを検索し始めた。
昨夜、下水道で召喚されて初めて陽と目を合わせた時。そして先ほど、魔術回路を強制的に開通させた時。陽の瞳は、まるで万華鏡のように極彩色の虹色に明滅して輝いていた。
おそらく、彼が魔力を視認できるのは、あの特殊な『瞳』が原因なのだろう。確信は持てなかったが、今の陽の告白を聞いて、点と点が一本の線で繋がった。
「……おそらく、それは『妖精眼』だと思われます」
「妖精?」
聞き慣れない単語に、陽は不思議そうに首を傾げた。
「はい。本来、人間が持つものではなく、妖精が生まれつき備えている『世界を切り替える』ための視界。高位の妖精が持つ妖精眼は、あらゆる嘘を見抜き、魔力や霊体を捉え、隠された真実を映し出す眼と言われています」
「ん、なるほど」
「ごく稀に、人間もその眼を宿すことがあると聞きます。先天的か後天的かの違いはありますが、東洋の魔術世界で言われる『浄眼』に近い性質のものですね。……おそらく、マスターの眼は生まれつきの、先天的な瞳なのでしょう」
妖精眼。
陽は神妙な顔つきで頷いた。自身が幼い頃から見てきた光の残滓、魔力を色として視認していた力のルーツ。自分が完全に狂っていたわけではなく、魔術世界において定義される『特殊な眼』を持っていたのだと、彼はここで初めて自覚した。
しかし、説明を終えた玉藻の前は、依然として険しい顔で首を捻っていた。
「ですが……やはり、何か致命的な違和感があるんですよね。先ほどからマスターの目を魔術的に解析しようとしているんですが、底が深すぎて読み取れないというか」
「読み取れない?」
「はい。それに……先ほどマスターが仰った『二つの世界を同時に観測する』とか、『世界の構造を透過して視る』といった機能。妖精眼には、そんなものないはずなんですけど」
玉藻の前の狐耳が、落ち着きなくピクピクと動いている。
「別の世界を見ているというのであれば、妖精郷と間接的に視覚が繋がっている可能性も考えられますが……マスターに見えているのは、全く同じ世界の座標に、別の世界が重なって見えている状態なんですよね?」
「うん、そうだね。同じと言っても、形が同じだけで、この物質的な現実とは異なるような。……夢の景色のように、どこか輪郭が曖昧で、暗い位相だ」
「……」
玉藻の前は、ポンと一つ手を打った。
「もはや、マスターの眼自体が、何らかの異常な要因と結びついて変質し、全く別のモノになっている可能性がありますね。実際に、『浄眼』が持ち主の在り方によって別の魔眼へと変質するケースも確認されてますし」
「そうなのか」
「はい。マスターの場合は、その妖精眼自体が魔眼という枠組みすら外れて……あなた自身の『固有の異能』として肉体と魂に根付いているのかもしれません」
うんうん、と。玉藻の前は腕を組み、真剣な瞳でソファに座る陽を見つめた。
陽は全容こそ掴めないまでも、自身の抱える異常性とそのルーツの断片を、静かに理解していった。
「実際、私も昨夜召喚されてから、マスターの存在が妙に希薄だとは感じていましたが……その瞳に宿る力に関しては、全く読み取れなかったんですよね。隠蔽されているというより、あまりに自然すぎて違和感を感じなかったというか」
玉藻の前は、先ほどの恐ろしい光景を思い出し、身震いするように肩を抱いた。
「おそらく、先ほどの肉体が透過する異常は、その『異能』が関係しているのでしょう。マスター自身は『強化』のイメージで魔力を巡らせたはずなのに、それが上手くいかず、別の現象……世界からの解離を引き起こしてしまった」
「なぜ、そうなったのかは分からないけどな」
「あれは極めて危険な状態でした。マスターの持つ属性か異能が、魔術の術式構築に深刻なバグを与えていることは確かです」
玉藻の前は、教師のようにビシッと人差し指を立てた。
「マスターが魔術を行使する際は、ほんの少しずつ、段階を踏んで試していくしかありません。……自分自身の肉体に魔術をかけるのは、当面の間、禁止です! またあんなバグが起きて、マスターが消えてしまったら、私泣いちゃいますからね!」
「……分かった」
「まずは、外部の物体に魔力を流し込むところから練習しましょう。いきなり高度なことをやると、またバグを引き起こしかねませんから。慎重に、少しずつですよ!」
先ほどまでの蒼白な表情から一転し、いつものハイテンションな良妻モードへと戻りつつある彼女を見て、真剣な時とそうじゃない時の落差が激しいなと思いつつ、静かに立ち上がる。
「肉体以外のものにか。……なら、色々と試してみよう」
魔術は、何にでもかけられるのか。何に魔力を流すのが最適か。
陽が思考を巡らせた時、真っ先に脳裏に浮かんだ『対象』があった。
「マスター? 何を使うおつもりですか?」
不思議そうに見上げる玉藻の前をよそに、陽はリビングの隅にある戸棚へと歩み寄った。
昨夜、あの狂気に満ちた殺人鬼の胸から引き抜き、持ち帰ってきた一本のナイフ。
血まみれだったその凶器は、すでに昨夜のうちに陽の手によって綺麗に洗浄され、冷たい金属の光沢を取り戻している。しかし、陽の異常な瞳には、その刃に未だに絡みつく『死の残滓』と『未知への引力』がハッキリと視認できていた。
「……これだ」
これから始まる実験が、自らの異能をさらに決定的な『異常』へと押し上げるトリガーになるとも知らずに。
陽の異常な瞳——変質した『妖精眼』を通してみれば、そのナイフが単なる鉄の塊ではないことは明白だった。刃の表面には、龍之介が最期に見出した『究極の美』死の歓喜が、ねっとりとした残留思念となってこびりついている。
「……これなら、いける気がする」
陽は、ソファの前に立ち尽くしたまま、ナイフの柄を軽く握り直した。
先ほど、自身の肉体に魔力を巡らせた結果、存在が透過しかけるという危険な現象を引き起こした。だからこそ、キャスターである玉藻の前の助言に従い、魔術の標的を『外部の物体』へと切り替える。
対象は、このナイフだ。
「……マスター。自身の肉体に魔力を流すよりも、自身から切り離された『外部の物体』に魔力を流し込む方が、魔術としての難易度は格段に上がります。かなりの至難の業ですから、もし反発を感じたらすぐに——」
玉藻の前が、心配そうに忠告を口にしかけた、その時。
——スゥ、と。
陽の全身から、淀みなく魔力が立ち昇る。
彼の肉体に張り付いた疑似神経が駆動し、大気中のマナと自身のオドを瞬時に変換していく。生み出された魔力は、陽の腕から指先を伝い、まるで水が高いところから低いところへ流れるような極めて自然な挙動で、ナイフの刃へと収束していった。
「え……?」
玉藻の前は、ポカンと口を開けた。
外部への魔力注入。魔術師の家系に生まれ、何年も鍛錬を積んだ者でさえ、最初は弾かれたり、魔力が霧散してしまったりする基礎の壁。それを、陽は息を吸って吐くように、あまりにも自在にこなしてのけたのだ。
それもそのはずである。陽は『魔術』という概念を知らなかっただけで、幼少期からずっと、世界の裏側を流れる魔力の波形を無意識に観測し続けてきた。魔力がどう流れれば自然なのか、どう形を作れば空間に定着するのか。その『答え』を、彼の眼は既に知っている。
(……すごい。なんという異常なセンス……)
玉藻の前が内心で戦慄する中、陽の意識は、手元のナイフと完全に同調し始めていた。
ナイフに込められた、死と狂気の残滓。それと自身の魔力が絡み合い、溶け合っていく感覚。陽の平坦な心に、妙な高揚感が湧き上がってくる。
なぜだろうか。今なら、何でもできる気がする。
ただナイフの切れ味を鋭くするのではない。もっと根本的な、この世界そのものの在り方に干渉するような『何か』が。
「……」
陽の黒く虚ろな瞳が、チカチカと明滅を始めた。
万華鏡のような極彩色の虹色が、彼の網膜を覆い尽くす。
現実と、虚構。
二つの世界が重なり合う境界線の景色が、陽の脳内に直接展開された。
——《虚構の観測者(イマジナリー・オブザーバー)》。
彼が生まれ持った特異体質。意識を沈めることで、虚数空間に反射された現実の像を観測する、擬似的な魔術現象。物理的な距離や遮蔽物を完全に無視し、世界の『裏側』から物事の構造を暴き出す。
陽の視界の中で、リビングの壁も、天井も、床も、すべてが薄いセロハンのように透過していく。
物質界とは異なる、暗く、冷たく、底知れぬ静寂に満ちた暗黒の空間。陽は今、その暗黒の海と、光に満ちた現実世界とを隔てる『極薄の境界線』の上に立っていた。
(……この二つを、繋ぐ)
明確な魔術の術式も、詠唱も存在しない。
ただ、彼の起源の性質と、存在しないものを扱う架空の属性が、その現象を「可能である」と直感させた。
手にしたサバイバルナイフを、目の前の何もない虚空に向けて、ゆっくりと滑らせた。
——《■■開門(ゲート・オープン)》。
音は、なかった。
ただ、ナイフの刃が通った空間に、黒い『亀裂』が走る。
「……なッ」
玉藻の前が、信じられないものを見るような声を漏らした。
陽が虚空を切り裂いたその座標。そこに、現実の位相と、裏側にある位相が強引に重ね合わせられ、空間そのものに『孔』が穿たれたのだ。
ピキ、ピキピキピキッ!
ガラスにヒビが入るような視覚的ノイズとともに、その亀裂は一瞬にして人間の頭ほどの大きさの『漆黒の孔』へと拡大した。
光すらも反射しない、絶対的な虚無。
次の瞬間、その孔から凄まじい『引力』が発生する。
いや、それは風を吸い込むような物理的な吸引ではない。水を張った風呂の栓を抜いた時のように、現実世界を構成する『存在』そのものが、下位の次元、虚構へと滑り落ちていく現象だった。
「——不味いッ!!」
メキィッ! と、嫌な音がリビングに響いた。
孔の近くにあった観葉植物が、まるでシュールレアリスムの絵画のようにグニャリと空間ごと歪み、漆黒の中へと音もなく吸い込まれて消えた。続いて、ローテーブルの上のティーカップが、ソファのクッションが、空間というキャンバスごと削り取られるように孔へと落ちていく。
「マスター! 下がってください!!」
玉藻の前は絶叫とともに陽の前に飛び出し、両手を激しく交差させた。
「——『呪相・玉天崩』ッ! 八重の垣、界を隔てて現世を繋ぐ!!」
彼女の袖から無数の呪符が飛び出し、孔を取り囲むように空中に展開された。
東洋の呪術の極致。空間そのものに干渉する孔に対し、さらに上位の結界魔術をぶつけ、物理法則の崩壊を無理矢理せき止める。
ギギギギギギッ! と、目に見えない次元の摩擦音がリビングを揺らす。
玉藻の前の呪符が青白い炎を上げて燃え上がり、孔から放たれる圧倒的な『虚構への引力』と拮抗する。さすがは神霊の端くれというべきか。周囲の家具が呑み込まれる速度は劇的に落ち、空間の歪みは孔の周囲数十センチの範囲でピタリと停止した。
「くっ……! なんという、デタラメな……ッ! ただナイフを振っただけで、次元に孔を穿つなんて……!」
玉藻の前は歯を食いしばりながら、額に冷汗を浮かべていた。
彼女の呪術によって進行は食い止められているものの、空間に開いた孔そのものが消えたわけではない。呪符の力が尽きれば、再び現実が呑み込まれ始めるのは時間の問題だろう。
そんな絶望的な防衛戦が繰り広げられる中。
孔を生み出した張本人である黒瀬陽は、玉藻の前の背後で、ただ静かに、その漆黒の深淵を見つめていた。
(……これが、俺に見えていた『向こう側』)
陽の心は、氷のように冷たく、そして澄み切っていた。
目の前で自分の部屋が崩壊しかけているというのに、恐怖はない。
むしろ、その暗黒から吹き出してくる『虚』の気配が、彼の空っぽの精神構造にひどく馴染むのを感じていた。自分が本来いるべき場所への扉が開いたような、圧倒的な心地よさ。
しかし。
陽の虹色の瞳は、孔の前に立ち塞がり、必死に魔力を振り絞って自分を護ろうとしている『狐の耳の女』の背中を、同時に捉えていた。
(開けたということは。……閉じることもできるはずだ)
陽の異常な観測力は、すでにこの現象のロジックを解き明かしていた。
対象座標を認識し、意識を集中させた。現実の位相と虚構の位相を重ね合わせ、その境界をナイフという『死の残滓』で切り裂くことで、接続が成立したのだ。
ならば、その二つを繋ぐ『起点』となっている座標を、もう一度切り離せばいい。
「マスター! 危険です、それ以上近づかないで!」
陽が、ゆっくりと孔に向けて歩き出したのを見て、玉藻の前が悲鳴のような警告を上げる。
結界で拮抗しているとはいえ、少しでもバランスが崩れれば、陽の肉体など一瞬で虚数へと引きずり込まれてしまう。
「……いや、問題ないよ」
陽の声は、この異常事態の只中にあっても、変わらない平坦で柔らかいトーンだった。
「大丈夫だ、玉藻。……俺に任せて」
その声の響きに、玉藻の前がハッとして振り返る。
陽の虹色の瞳には、狂気も、暴走の気配もなかった。ただ、世界をあるがままに観測し、修正しようとする『観測者』としての絶対的な静謐だけが宿っていた。
陽は、結界の境界線を越え、漆黒の孔の真ん前へと立つ。
孔から吹き出す強烈な引力が、彼の前髪を激しく揺らす。
陽は、右手に握ったナイフを静かに構え直した。
(閉じる)
頭の中に、明確なイメージを描く。
先ほど切り裂いた座標。その縫い目を、逆方向からなぞるように。
陽は、手首を返し、漆黒の孔の中心に向けて、再びナイフを一閃した。
——ザンッ!
空気を裂く、鋭い刃の音。
その一太刀が、現実と虚構を繋いでいた『境界の結び目』を正確に切断した。
ピタ、と。
嘘のように、空間の引力が消滅した。
漆黒の孔は、まるでテレビの電源を切ったかのように、フッと瞬き一つして完全に空間から姿を消した。
消滅してしまった観葉植物とティーカップを除けば、そこには最初から何もなかったかのような、いつもの静かな日常の空間が広がっていた。
「……よし。なんとかなったな」
陽は、ナイフを下げ、小さく息を吐き出した。
額には薄っすらと汗が滲んでいるが、彼の呼吸は落ち着いている。
振り返ると、玉藻の前がへたり込むように床に膝をつき、呆然とした表情で陽を見上げていた。
「…………」
「玉藻? 大丈夫か?」
「…………ます、たー」
魔力を使いすぎた疲労ではない。目の前にいる、どこにでもいるような普通の少年の皮を被った『深淵』に対する、神霊としての純粋な畏怖。
「マスターは……自分が今、何をしたか、分かって、いますか……?」
「空間に穴を開けて、それを閉じた。……魔術としては、失敗だったけど」
陽は、悪びれる様子もなく淡々と事実だけを口にした。
失敗したから直した。ただそれだけの認識。
玉藻の前は、両手で顔を覆い、天を仰いだ。
(ああ……私、とんでもないモノを喚び覚ましてしまったのかもしれません)
魔術回路を開き、ほんの少し魔力を通しただけで、空間に孔を穿つ一般人。
感情を持たず、死の淵に立っても一切動じず、ただ未知への探求心だけで世界の裏側を覗き込む少年。
もし、彼のこの能力が完全に開花し、時計塔や聖堂教会、あるいは他のマスターたちに知れ渡ればどうなるか。聖杯戦争などという枠組みすら破壊しかねない、極大のイレギュラー。
しかし。
「……玉藻。止めてくれて、ありがとう」
陽が、床に座り込む彼女に歩み寄り、静かに右手を差し出した。
その顔には、相変わらず感情の色は薄い。だが、その瞳の奥には、確かな『他者への思いやり』と、彼女を大切なアンカーとして認識した、温かい光が宿っていた。
「…………っ」
玉藻の前は、差し出されたその手を見て、狐の耳をぴくリと震わせた。
この少年は、危険だ。世界の外側へ転がり落ちてしまう、空っぽの器。
——だからこそ。私が、良妻としてこの手を強く握り、こちら側の世界に繋ぎ止めておかなければならない。
「……もう。本当に、寿命が縮むかと思いましたよ」
玉藻の前は、深いため息とともに微笑みを浮かべ、陽の手をしっかりと握り返した。
魔術を知らぬ空虚な少年と、愛に生きる神霊。
二人の奇妙な絆は、世界の裏側という異常な現象を経て、より強固なものへと結びついていく。
次回
【存在座標の■■化と、透過する瞳、そして彼岸への特訓】