『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』     作:りー037

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第四譜:【存在座標の■■化と、透過する瞳、そして彼岸への特訓】

 漆黒の孔が、まるで最初から存在しなかったかのように空間から消滅した。

 

 観葉植物とティーカップ、そしてソファの片割れが「空間ごと削り取られて消失した」という決定的な異常を除けば、そこはどこにでもある穏やかな日常の風景だった。

 

「……よし。なんとかなったな」

 

 

 彼の顔には、自らの引き起こした現象に対する恐怖も、間一髪で世界からの消失を免れたという安堵も、微塵も浮かんでいない。ただ、落としたペンを拾い上げた時のような、ごく当たり前の「事後処理」を終えただけの顔。

 

 

 キャスター——玉藻の前が、ふぅ、と長く長く震えるような息を吐き出した。

 

 彼女は、ゆっくりと立ち上がる。その顔には、先ほどの絶望的な防衛戦の疲労よりも、目の前に立つ『自身のマスター』に対する底知れぬ畏怖と呆れが入り混じっていた。

 

(……うちのマスターは、とんでもない大物なのかもしれません)

 

 

 彼女は内心で、半ばやけくそ気味にそう結論付けた。

 

 召喚された時から、この少年が「何の色にも染まっていない白紙の魂」を持っていることは分かっていた。しかし、その白紙の裏側に、これほどまでの深淵——物理法則を容易く無視し、空間に穴を穿つほどの異常なポテンシャルが隠されているとは、神霊の端くれである彼女でさえ予測できなかった。

 

「……マスター」

 

「ん?」

 

「どうやら、マスターの魔術は、根本的に『普通』とは異なる位置にあるようです」

 

 

 玉藻の前の深刻な声色に、陽はナイフを持ったまま、こてん、と不思議そうに首を傾げる。

 

 魔術の世界における『普通』を知らない彼にとっては、何が普通で何が異常なのか、比較対象となるデータが自分の中に存在しない。しかし、彼女がそこまで言うのなら、きっとそうなんだろう。陽は、その程度の軽い認識で「まさかあんなことが起こるとはね」と、他人事のように頷く。

 

 

 あれは、自分が本来いるべき場所——現実感のない、自分が存在していないような虚脱感の底——へと直結するゲートだった。

 

「……わかりますね?」

 

 

 玉藻の前の琥珀色の瞳が、陽を鋭く射貫いた。

 

「ああ。確かに、あれは危険だ」

 

「あの魔術は危険極まりないので、とりあえずもう二度とやらないでください。何が起こるか予測不——」

 

 

「あの魔術は危険だから、今度はもう少し弱めに、小さな孔を開くようにしよう」

 

 

 

 ——沈黙が、落ちた。

 

 玉藻の前は、自分の耳を疑うように狐の耳をピンと立て、口を半開きにして固まった。

 

「……うん? いま、なんて?」

 

 

 完全に、互いの認識がすれ違っている。

 

 全く分かり合えていない。玉藻の前の頭上に、目に見えるほどの無数のクエスチョンマークが浮かび上がった。

 

 

 そんな彼女の困惑に気づいているのかいないのか、陽は再びナイフの柄を握り直し、先ほどよりも微弱な魔力を巡らせて、虚空に向けて構えをとる。

 

「さっきは出力が高すぎたんだと思う。だから、今度は指先くらいの——」

 

「ちょっと待てぇぇぇいッ!!」

 

 

 パァンッ!! という、小気味良い破裂音がリビングに響き渡る。

 

 

 陽の頭頂部に、ハリセンの鋭いツッコミが炸裂したのだ。

 

 痛みは全くない。ただ、紙の束が頭に当たったという物理的な衝撃だけが、陽の思考を一瞬だけショートさせる。

 

 陽は、ナイフを構えたままの姿勢で目を瞬かせ、自分の頭を叩いた『それ』を、玉藻の前の顔を交互に見つめた。

 

「……ねえ、キャスター」

 

「何ですか!」

 

「そのハリセン、どっから持ってきたの? そんなの、うちにはなかったはずだけど」

 

「だまらっしゃいッ!!」

 

 

 陽の極めて的を射た、しかし致命的に論点がズレている疑問を、玉藻の前はハリセンで空を切り裂きながら一喝した。

 

「そんなことはどうでもいいんですよ、四次元ポケットの仕組みなんて! それよりあなた、先ほどの現象がどれほど危険なものだったか、本当に分かっているんですか!?」

 

「危険だとは、理解しているつもりだけど」

 

「一歩間違えたら死んでたんですよ!? マンションごと消滅してたんですよ!? どこからそんな溢れんばかりのチャレンジ精神が湧いてくるんですか!」

 

 

 玉藻の前は、涙目になりながら陽に詰め寄り、彼の頭をペシペシとハリセンで叩き始めた。

 

 全く痛くはないが、彼女の過剰なほどのテンションの高さと、良妻としての本気の心配が、その連続する軽い衝撃から伝わってくる。

 

(……やっぱり、真剣な時とそうじゃない時のテンションがバグってるな、この人)

 

 

 陽は内心でそんな平坦な感想を抱きながらも、ペシペシと叩かれるままに首をすくめた。

 

「でも……」

 

 

 陽は、全く悪びれる様子もなく、己の純粋な探求心だけを言葉にする。

 

「試してみないことには、自分の力がどういうものか、何も分からないままだろう?」

 

「〜〜〜〜ッ!!」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、玉藻の前はハリセンを放り投げ、陽の両肩をガシッと掴かみ、そして前後にガシガシと激しく揺さぶり始めた。

 

「まったくもう! あなたって人は! なんでそんなに危機感がないんですか! なんでそんなに猪突猛進なんですか! ブレーキが壊れてるんですか!?」

 

「揺れる、揺れる」

 

「先ほど言ったばかりですよね! マスターが消えてしまったら、私、本気で泣いちゃいますからねって!」

 

 

 必死に訴えかける彼女の言葉を聞いて、揺さぶられながら陽は「あ」と小さく声を漏らす。

 

「ああ、そうだったね」

 

「分かってくれましたか!」

 

「確かに、マスターである俺が死ねば、パスが切れてサーヴァントである君も消滅してしまう。君を道連れにしてしまうところだった。確かに軽率だったよ。ごめん、省みる」

 

 

 

 ——ピタ、と。揺さぶりが止まり。

 

 

 彼女の狐耳が、へにょり、と力なく垂れ下がる。

 

「……ちっ、がぁぁぁうッ!」

 

 

 玉藻の前は、陽の胸ぐらを軽く掴み、地団駄を踏んだ。

 

「私は! システムの話をしているんじゃなくて! あなた自身の身を、本気で心配しているんですよ! 自分が傷つくことを、もう少し恐れてください!」

 

 

 彼女の説教が、さらに熱を帯びて続く。

 

 陽は、怒られているという事実を受け入れながら、ふと自分自身の内面について静かに思考を巡らせた。

 

(確かに、少し関心は薄いかもしれないな。自分自身の生存に対して)

 

 

 陽には、失敗を恐れるという感情が著しく欠如している。

 

 世界から常に半歩ズレていて、現実への帰属意識が薄い。だからこそ、自分の肉体がどうなろうと「そういう現象が起きた」という結果しか残らない。

 

 

 しかし、言葉を変えれば、それは『過去を振り返らず、未知へ向かって前へ進み続ける精神』とも言えるのではないか。

 

 そう考えると、別に悪いことじゃないんじゃないだろうか。

 

「……ん。でも俺は、ただ前に進んでる感じがするけどね」

 

 

 少し天然の入った、彼の悪気のない呟き。

 

「〜〜〜〜ッ」

 

 

 彼女は、ヘナヘナと崩れ落ちるようにして、陽の膝の上に顔を埋める。

 

「……キャスター?」

 

「なんというか……止めたとしても、無駄ですね」

 

 

 膝の上で、彼女のくぐもった声が響く。

 

 ふさふさの狐耳が陽の手の甲をくすぐり、甘い白檀の香りが鼻腔を抜ける。陽は、突然自分の膝に突っ伏した神霊の頭をどう扱っていいか分からず、とりあえず両手を宙に浮かせたまま静観した。

 

「短い付き合いですけど、なんとなく分かってきました。あなたのことが」

 

 

 玉藻の前は、膝に顔を埋めたまま、諦めと決意の混じったため息を吐く。

 

 このマスターの『未知への探求』と『彼岸への引力』は、本能のレベルで組み込まれているものだ。無理に抑圧して「何もするな」と命令したところで、彼は自分の見えないところで勝手に実験を行い、勝手に自爆して消滅してしまうに違いない。

 

 

「……分かりました。魔術の訓練は、少しずつ、私が責任を持って手ほどきします」

 

 

 玉藻の前は、陽の膝からゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳で彼を下から見つめ上げた。

 

「ただし、約束してください。先ほどの『孔』をナイフで開けるような真似と……私のいないところで魔術を使うのだけは、絶対にやめてください。約束、できますか?」

 

 

 彼女の眼差しには、良妻としての過保護さと、彼を失いたくないという純粋な切実さが宿っている。

 

 陽は、宙に浮かせていた手をゆっくりと下ろし、彼女の頭——狐の耳の間にそっと置いた。

 

「……ん、わかった。約束する」

 

 

 彼が了承すると、玉藻の前はホッと胸を撫で下ろし、陽の手のひらにすりすりと頭を擦り付ける。

 

「それと、マスター」

 

 

 彼女は立ち上がり、パンパンと着物の裾の埃を払った。

 

「先ほどの『孔』についてなんですけど。私が実際にこの眼で観測して、分かったことがあります。情報の共有をしておきましょう」

 

「分かったこと?」

 

「はい。一旦、そちらのソファに座りましょうか」

 

 

 玉藻の前が指差した先には、辛うじて次元の崩壊から逃れた、一人がけのソファが一つだけ残されていた。もう一つの長椅子は、見事に彼方へ消え去っている。

 

 

 陽がそのソファに腰を下ろすと、玉藻の前は先ほどの「教師モード」の顔つきに戻り語りだす。

 

「まず、マスターの魔術特性ならびに『属性』についてですが……おそらく、五大元素ではありません」

 

 

 陽は静かに頷いた。朝食の後の座学で、地・水・火・風・空の五大元素の話は聞いていた。

 

「マスターが持っているのは、極めて希少と言われる特殊な属性。——『架空元素』。おそらく、その中でも『虚』と呼ばれるものです」

 

「架空元素。……架空の、元素?」

 

 

 ちらりと聞いた単語だった。陽が首を傾げると、玉藻の前は一つ頷いて解説を始めた。

 

「架空元素とは、自然界に通常の物質としては存在しない、特殊な元素のことです。通常の魔術師が扱う火や水とは明確に区別されており、魔術世界においても極めて異端で希少な属性として扱われます」

 

「物質としては、存在しない……」

 

「はい。『虚』の属性の定義は、こうです。——『理論上、定義としてあり得るが、物質界には存在しないもの』」

 

 

 理論上はあり得るが、物質界にはない。

 

 その言葉は、陽の心の奥底に、カチリと冷たいパズルのピースを嵌め込んだ。

 

「マスターが幼い頃から観測し続けてきた、現実と重なり合うもう一つの世界。それはおそらく、魔術世界で定義される『虚数空間』と呼ばれるレイヤーなのでしょう」

 

 

 

 虚数空間。

 

 陽の脳裏に、数学における「二乗してマイナスになる数」という概念が一瞬だけ浮かんだが、彼女の言うそれは、そんな計算式のような単純なものではないと直感し、即座にその思考を切り捨てた。

 

「それは、一体何なんだ?」

 

「一言で言えば、『数式上は存在するが、物質界には絶対に存在しない空間』のことです」

 

 

 玉藻の前は、宙に指で二つの平行線を描いた。

 

「私たちが暮らすこの実数空間の『裏側』であり、完全な別のレイヤー。それが虚数空間です。そこには現実の物質も、質量も、時間も、距離といった物理法則すら一切通用しません」

 

「……」

 

「現実世界からは決して観測できず、触れることもできない『世界の隙間』のような場所。概念としては確かにそこに『ある』のに、誰も行くことができない『ない』空間。それが虚数です」

 

 

 玉藻の前の説明は、恐ろしいほどに明確だった。

 

 そして彼女は、陽を真っ直ぐに見つめて決定的な事実を告げた。

 

「架空元素『虚』の属性を持つ魔術師は、この虚数空間を自らの魔術の燃料や、足場として扱うことができる、唯一無二の適性を持っています。……先ほどマスターがナイフで穿った孔は、完全に、その虚数の層へと直結するゲートでした」

 

 

 陽は、自分の内側で長年こんがらがっていた糸が、一気に解けていくのを感じた。

 

(……なるほど。そういうことだったのか)

 

 

 自分だけが世界から浮いているような感覚。

 

 壁の向こう側が透けて見え、見えないはずの二つの世界が同時に重なって見えていた理由。

 

 

 自分が『架空元素・虚』という属性を持っていたから、俺はこのように現実感がなく、異なる世界、虚数空間のノイズを拾い続けていたのだろう。

 

 長年の謎が解けた。自分の狂気の正体は、魔術世界における極めて論理的な「属性」のせいだったのだ。

 

 

 そう納得し、密かに胸を撫で下ろそうとした陽だったが——。

 

「——いえ」

 

 

 玉藻の前は、陽の思考を見透かしたように、静かに首を横に振る。

 

「その『虚』の属性を持っているだけで、そこまで深く、隔絶された裏側の世界を常時認識し続けるというのは……それだけでは、絶対に説明がつきません」

 

「どういうことだ?」

 

「先ほども説明しましたが、属性とはあくまで『基盤』です。それ単体で、透視や常時観測といった特異現象を引き起こすことはあり得ないんです」

 

 

 玉藻の前は、陽の瞳——先ほどまで極彩色の虹色に輝いていた、黒く虚ろな瞳をじっと見つめた。

 

「ここからは完全に私の推測ですが……。マスターの持つ架空元素の属性と、生まれつき持っていた『妖精眼』が、あなたの肉体の中で異常に混ざり合い、全く別の『異能』として変質してしまったのではないでしょうか」

 

「魔眼と、属性が混ざる……」

 

「はい。妖精眼とは本来、魔力や霊体、感情といった隠されたものを視るための眼です。ですが、マスターは『異なる位相を、現実と重ねて視認している』と仰った」

 

 

 玉藻の前の声が、静かなリビングに響き渡る。

 

「おそらく、何らかの理由で、あなたの属性と、妖精眼が異常共鳴を起こしたのでしょう。そして……本来は魔力を視るための眼が、『虚数空間を完全に観測・透過する瞳』として変質してしまった」

 

 

 陽は、ゆっくりと自分の両手を見つめた。

 

 生まれつきの眼で、魔力の流れや人の感情を無意識に識別してきた。だが、それだけでは、周囲の物質が透けて見えたり、結界の骨組みや建築物の内部構造まで見えたりする現象の説明がつかない。

 

 

 しかし、玉藻の前の推測が事実なら、すべての辻褄が合う。

 

(俺が見ているのは、もう一つの現実。この現実空間とは別の、虚数空間というレイヤーが重なり合うように存在している景色……)

 

 

 陽の瞳は、現実を見ているのではない。

 

 属性と眼が掛け合わさることで、彼は常に『現実の裏側』を隅々まで観測しているのだ。

 

 

 

 だからこそ、それに重なり合うように存在している現実の物質が、薄いセロハンのように透けて見える。現実を透視しているのではなく、裏側を見ているからこそ、表側が透過して視認できてしまうという、極めて異常な観測システム。

 

 

 

 まさに、《虚構の観測者(イマジナリー・オブザーバー)》。

 

 

 

「この世界に自分が存在していないような虚脱感に襲われるのも、それが原因でしょう。マスターの意識は、常に実数空間と虚数空間の『境界』に立たされ、引っ張られ続けているんですから」

 

 

 玉藻の前の説明は、陽の抱えていた『狂気』に、これ以上ないほど明確な輪郭を与えてくれた。

 

(先ほど俺がやったのは、ナイフという死の残滓を使って、俺が常に観測している『現実の実数空間』と『裏側の虚数空間』を、物理的に繋げてしまったということか……)

 

 

 長年の間、陽を苛み続けてきた「自分だけが世界からズレている」という疎外感。それが単なる精神の病ではなく、魔術世界において厳密に定義され得る『属性』と『魔眼』の複合現象であったという事実。その納得感は、陽の空っぽだった内側に、極めて冷たく、しかし確かな輪郭を与えていた。

 

「視界の仕組みについては、これで完全に辻褄が合います」

 

 

 玉藻の前は、腕を組んだまま、一つ小さく息を吐いた。

 

「そして、この『視界』の異常性が、マスターの肉体に張り付いている魔術回路にまで、深刻な影響を与えているんです」

 

「回路に?」

 

「はい。先ほど私がマスターの回路を強制的に開通させた際、『二重螺旋を描く構造の、片方だけがこの世界に存在していないような違和感がある』と申し上げましたよね」

 

 

 確かに、初めて魔力を通した直後、彼女はそんな不思議な見解を述べていた。

 

「通常、魔術師の魔術回路というのは、物質界の肉体と霊的次元にしっかり根を下ろした一本のパス、ネットワークとして構築されています。ですが、マスターの魔術回路は、現実側の回路と、虚数空間側の回路が、螺旋状に絡み合って常時接続されている……極めて特異な編成になっているんです」

 

 

 玉藻の前の琥珀色の瞳が、陽の胸の奥底を視るように細められる。

 

「いわば、『虚数空間簡結型・二重螺旋変則編成』。現実と虚数、両方の位相に跨がるように架けられた『橋梁構造』のような回路です。妖精眼が混ざった影響なのか、それともマスター自身の起源に影響されているかは分かりませんが……出鱈目なことになっていますよ」

 

「へえ……」

 

「へえ、じゃありませんよ!」

 

 

 あまりにも呑気で、どこか他人事のような陽の相槌に、玉藻の前はバンッ! とソファの肘掛けを叩く。

 

「異常事態なんです! 魔術回路が最初から虚数に接続されているなんて、車で言えば、エンジンとガソリンタンクの間に『ブラックホール』が挟まっているようなものですよ!? ちょっとでもアクセルを踏み違えれば、車体ごと吸い込まれて消えちゃうんですから!」

 

 

 彼女がどれほど身振り手振りでその危険性を訴えようとも、当の陽の表情は平坦なまま。

 

 陽からすれば、「魔術回路」という概念自体をつい数時間前に知ったばかりなのだ。自分の内臓の形が他人と違うと言われているようなもので、実感が湧かないのも無理はない。

 

「なぜそんなに呑気なんですか! 自分の命がかかっているんですよ!?」

 

「落ち着いて、玉藻」

 

 

 荒ぶる彼女をなだめるように、陽はすっと手を伸ばし、玉藻の前の顎の下——ちょうど狐の耳から繋がる首筋のあたりを、指の腹で優しく撫でる。

 

「にゃっ!?」

 

 

 

 よしよし、と猫でも撫でるかのような手つき。

 

 その瞬間、玉藻の前の全身がビクンと跳ね、背後の黄金色の尻尾がポンッ! と爆発したように膨らんだ。

 

「あっ、ちょ、マスター、そこは……! 神霊の急所というか、良妻のスイッチというか……ひゃぅっ」

 

 

 顔を真っ赤にして、へにゃりと力が抜ける玉藻の前。一瞬だけ、張り詰めていた重い空気が完全に緩み、甘く生活感のある空気がリビングを支配する。

 

 

 しかし、彼女は「いやそんな場合ではなく!」と即座に我に返り、ブルブルと首を振って陽の手から逃れた。コホン、と咳払いをして、無理やり真面目な顔を作る。

 

「……ま、まったく。はぐらかさないでください。私は真剣にマスターの生存戦略について考えているんですから」

 

「分かってる。ありがとう」

 

「むぅ……」

 

 

 陽が素直に感謝を口にするため、それ以上怒る気にもなれず、玉藻の前は小さく唇を尖らせた。

 

 陽は、ソファの背もたれに深く体を預けながら、先ほどからずっと心の片隅に引っかかっていた、最大の疑問を口にした。

 

「そういえば、キャスター。その『架空元素』や『虚数空間』、そして俺の眼がそれを透過していることについては理解できた。さっきのナイフで開けた『孔』についても、なんとなく原理は掴めている」

 

「はい」

 

「ただ……一番最初の、あの『強化』はどういう理屈だ? 俺の存在そのものが薄くなり、消えそうになったように見えたんだろう?」

 

 

 陽の黒く虚ろな瞳が、真剣な光を帯びて玉藻の前を捉えた。

 

「俺はあの時、空間にゲートなんか開いていないはず。なのに、意識だけが底へ沈んだような。……そもそも、強化魔術でそんなことが起こるのか? それとも術式自体が失敗したのか」

 

「……」

 

「実際に『強化』はできていない。俺の筋肉や骨に魔力が巡る感覚はあったが、身体能力の上昇は全く感じられなかったしね」

 

 

 陽の理路整然とした問いに対し、玉藻の前は深く息を吸い込み、気を取り直して自身の仮説を口にした。

 

「おそらく、マスターがやったのは間違いなく『強化』の魔術です。そして……失敗したわけでもありません」

 

「そうなのか?結果として強化されていないんだが」

 

「それはですね……」

 

 

 玉藻の前は、言葉を選ぶように少し間を置いた。

 

「これは『強化の失敗』ではなく……マスターにとっての『強化』の定義が、最初から根本的に違っているからだと思われます」

 

「定義が、違う?」

 

「はい。普通の魔術師にとって、強化魔術とは『現実への干渉力を増す』ことです。筋力を上げる、骨を硬くする、神経伝達を加速する。それらはすべて、この物質界における肉体の性能向上を意味しています」

 

 

 彼女は、テーブルの上に指で一本の線を引いた。

 

「でも、マスターは違う。あなたの認識世界は、現実と虚数が最初から重なっています。そして、魔術回路も二重で、常に虚数空間に接続されている。……だから、マスターにとっての『存在』の帰属は、現実に100%ではないと思われます」

 

「俺は、現実に存在しているわけじゃない……か」

 

「ええ。マスターの意識は、常に二つの世界の『境界』に立っています」

 

 

 陽は、息を呑むこともなく、ただ静かに彼女の言葉を咀嚼した。

 

「分かりやすく、割合(パーセンテージ)で説明しましょう。普通の人間は、現実世界への帰属が100%、虚数空間への帰属が0%です。強化を行えば、そのまま現実の肉体が100から120へと強化されます」

 

「……うん。そうだね」

 

「なら、マスターはどうか。マスターは元々、現実への帰属が80パーセント、虚数空間への帰属が20パーセントのような、不安定な状態で存在していると仮定してください。常に半歩ズレている感覚の正体です」

 

 

 玉藻の前は、陽の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「そして、その状態で『強化』を行った瞬間……マスターの持つ属性が反応するんです。マスターから『存在を強化せよ』という命令を受け取ります。すると、虚属性はどう解釈するか」

 

 

 

 

 ——現実への依存を減らす。

 

 彼女の口から紡がれたその言葉は、恐ろしい逆説だ。

 

「マスターにとっての存在の強化とは、物質界の鎖を断ち切り、より純粋な『虚』へと近づくことです。結果として、マスターの存在割合は、虚数の位相へと激変する」

 

「……っ」

 

「だからマスター自身は、筋肉に力が湧いた感覚ではなく、『世界との接触面積が減った』ような、薄気味の悪い感覚になったんです。これは魔術の失敗ではなく……現実からの解離(フェーズシフト)。存在座標の偏移と呼ばれる現象です」

 

 

 

 生と死の間。

 

 此岸と向こう岸の間。

 

 つまり、『境界そのもの』への接近。

 

「マスターは無意識に、存在を物理的に強化するんじゃなく、存在を二つの位相の『境界』へ、更に近付けてしまったんです。結果として、人間から半虚数存在へ、そして最終的には完全に境界に溶け込む『境界存在』みたいな変化を起こそうとしていた」

 

「それが、あの透過現象の正体か……」

 

「はい。極めて危険な状態です。つまり、初めての強化魔術で起きたことは、身体強化じゃありません。自己位相の偏移。もしくは、存在座標の虚数化。……マスターは肉体を強化しようとして、自分を深淵の底へ一歩近づけてしまったんです」

 

 

 陽の属性と、起源がもたらした、彼なりの強化。

 

 異常な魔術という形で、変質し、歪んだ姿で表面化した、恐るべき現象。強化魔術を行使した際に自然発生した変質術式であり、自身の存在位相を現実から虚数側へ移動させる自殺行為に等しい力。

 

「……なるほど」

 

 

 陽は、一つ長く息を吐き出した。

 

 理屈の上で完全に理解した。いや、どちらかと言えば、長年の感覚的な違和感が、見事なまでに魔術理論として帰結したことへの深い納得だった。

 

 

 彼が見ている、もう一つの世界。自分が半分、現実の住人ではないのではないかと幼い頃から抱き続けてきた、得体の知れない空虚。

 

 自分がここに存在している気がしないという致命的な疎外感は、最初から「自分が現実の存在ではなかったから」なのだ。

 

 

 一通り、すべての情報の整理が終わった。

 

「……ありがとう、キャスター。おかげで、全部腑に落ちたよ」

 

 

 憑き物が落ちたように穏やかな陽の反応とは裏腹に、玉藻の前は「どうしたものか」と、ひどく深刻な顔で唇を噛んでいた。

 

(知れば知るほど、マスターの異能は現代の枠組みから外れている。一歩間違えれば自滅するだけでなく、世界そのものに孔を開けかねない爆弾……)

 

 

 唐突に、玉藻の前はソファから立ち上がり、陽の正面へと回って真っ直ぐに向かい合う。

 

「……マスター。特訓をしましょう」

 

 

 どうしたのだろうか、いきなり。陽が不思議そうに見上げると、彼女は琥珀色の瞳に強い光を宿して見下ろしてきた。

 

「力を自覚し、その正体を理解したのはいいことです。一歩前進しました。ですが……その力を制御できずに持て余している状態は、非常に危険です。今日みたいに、無意識に自爆して消えてしまうかもしれない。なら、ある程度はマスター自身がシステムを理解し、完全に制御下に置く必要があります」

 

「確かに、その通りだね」

 

「マスターの力に関しては……私の責任でもあります」

 

 

 玉藻の前の声が、微かに震える。

 

「本来なら眠ったままでよかったはずの魔術回路を起こし、その異常な力を覚醒させてしまったのは、他でもない私ですから」

 

 

 彼女の瞳には、強力すぎる兵器を素人に持たせてしまったような罪悪感と、彼を死の危険に晒してしまった申し訳なさが滲んでいた。神霊でありながら、いや、神霊だからこそ、己の行動が引き起こした因果の重さを痛感しているのだ。

 

「……気にする必要はないよ」

 

 

 陽は、静かに、しかしはっきりとしたトーンで彼女の言葉を否定した。

 

 彼はゆっくりと立ち上がり、玉藻の前の目線と同じ高さに立つ。

 

「あの時、回路を開いてくれと求めたのは俺自身だからね。君が責任を感じることは何一つない」

 

「マスター……」

 

「それに……この力は、俺が『自分自身』を理解する上で、絶対に不可欠なものだった。これが分からないままだったら、俺は死ぬまで、自分が何者なのかも分からないまま、得体の知れない空虚を抱えて生きることになっていた」

 

 

 陽の言葉には、嘘偽りのない真実だけが込められていた。

 

 魔術回路の開通と、異常な現象の連鎖。それは死の危険を伴うものだったが、同時に、黒瀬陽という少年の魂を初めて「世界に定義づけた」救済でもあったのだ。

 

「これは、俺にとって必要なことなんだよ。だから——」

 

 

 陽の虹色の瞳が、玉藻の前の琥珀色の瞳を真っ直ぐに射貫く。

 

「頼む。これからも、俺に付き合ってくれ」

 

 

 聖杯を求めるためではない。他のマスターを殺すためでもない。

 

 ただ、黒瀬陽が黒瀬陽であるために。この狂った世界で、共に並び立ってほしいという、不器用で純粋な要求。

 

 

 その言葉を受けた瞬間、玉藻の前の中に渦巻いていた罪悪感と不安は、爆発的な歓喜と熱量によって完全に焼き尽くされた。

 

「——っ!!」

 

 

 彼女の狐の耳がピンと天を突き、黄金の尻尾が千切れんばかりに左右に振られる。

 

「ああっ、もう! 本当に、本当にマスターって人はッ!」

 

 

 玉藻の前は、太陽のような満面の笑みを咲かせた。

 

「分かりました! 一生、あなたのそばに仕え、支え、お守りします! 地獄の底だろうと虚数の果てだろうと、この玉藻の前が良妻として完璧にナビゲートして差し上げますので、覚悟してくださいねッ!」

 

「ああ、頼りにしてる」

 

「であるのなら! ここからみっちり、一つ一つ基礎からこなしていきましょう! 先ほどまではマスターの力の根源が理解できずに焦りましたが……今は違います。属性も、ルーツも、理解しました。であるのなら、完璧な対策と制御カリキュラムは立てられます!」

 

 

 彼女は、ビシッと陽に向かって指を突きつけた。

 

「ここから、血の滲むような特訓が始まりますよ! ほんの少しずつ、私が完璧な魔術師に育て上げてみせますから、頑張りましょうね!」

 

「お手柔らかに頼むよ」

 

 

 陽がかすかに口角を上げて応えると、リビングにはようやく、昨日までの平穏とは異なる、しかし確かに血の通った『二人の日常』の空気が流れ始めた。

 

 

 第四次聖杯戦争が本格的に動き出し、冬木市全土に血と魔力の匂いが立ち込める中。

 

 黒瀬陽と玉藻の前という、いびつな主従は、自らの力を制御し、未知の彼岸へと踏み出すための『特訓』の日々へと静かに潜っていくのだった。

 




次回
【シュガー・プリズム・ランデブー、交差する不可侵】
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