『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』 作:りー037
魔術回路を強制的に開通させてから、数日が経過していた。
この数日間、黒瀬陽は一歩も外へ出ず、自宅マンションのリビングを即席の『工房』として、ただひたすらに魔力制御の特訓に没頭していた。
元々は魔術の世界と一切の関わりを持たない、完全なる一般人。しかし、陽の魔術に対する学習速度と習熟度は、時計塔の天才と呼ばれるエリートたちすらも絶望しかねないほどの異常な速度を誇っていた。
理由は明白だ。彼にとって『魔力』や『神秘』とは、ゼロから新しく学ぶ未知の学問ではない。
幼少期から呼吸をするように観測し、無意識のうちに感じ取っていた『世界のノイズ』。それを、キャスターである玉藻の前から教えられた言語と論理によって、「知識」として脳にダウンロードし直しただけ。
さらには、最初の魔術行使で意図せず次元に孔を穿ち、圧倒的な暗黒——虚数空間そのものに直接触れた経験が、陽の魔術回路と彼岸の底とを、より深い深度で強固に結びつけてしまっていた。
訓練の内容は、極めてシンプルかつ危険なもの。
——ただ、ひたすらに『強化』の魔術を繰り返す。
再び空間にゲートを開く《開門》は、制御を失えば冬木市の一部を呑み込みかねないため完全に封印した。陽が行うのは、自身の存在座標を虚数側へと偏移させる、あの異常な強化魔術の制御のみ。
陽が魔力を巡らせて虚数の底へと沈み、存在確率が限界を割って『向こう側』へ呑み込まれそうになった瞬間、手をつないでいる玉藻の前がアンカーとして魔力を逆流させ、強引に現実へと引き戻す。
生と死、存在と消失の境界線を反復横跳びするような、狂気の特訓。
その過程で、陽と玉藻の前にとって、一つだけ決定的に解明された恐るべき『現象』があった。
*
——それは、特訓初日。陽が『サバイバルナイフ』に対して強化を施し続けた時のことだ。
魔術回路から生み出された『虚』の属性を帯びた魔力が、鋼の刃をコーティングしていく。通常の魔術師であれば、その刃は凄まじい切れ味と耐久性を獲得し、鉄板すらも容易く両断する名剣へと昇華されるはずだった。
だが、陽の魔力に浸されたナイフは、数時間もすると、現実世界における『帰属』を完全に失った。
刃が透明に透け、柄の輪郭がブレる。玉藻の前の目から見ても、ナイフは陽の手の中から完全に消失し、現実の空間には何も存在していないように見えた。
しかし、陽の『二つの世界を重ねて観測する虹色の瞳』には、虚数の位相へと完全に沈み込んだナイフが、確かな質量を持って視認できていた。
『キャスター。俺には、ナイフが見えているし、握っている感覚もある。これで、少し斬ってみよう』
『えっ、ちょ、マスター? 何を——』
玉藻の前が制止する間もなく、壁に向かって、見えないナイフを振り下ろした。
音は鳴らない。壁に傷もつかない。現実の壁は、何一つ物理的な干渉を受けず、無傷のまま。
ナイフはすでに虚数空間の物質であり、実数空間(現実)の壁とは触れ合うことすらできないのだ。当然の結果である。
だが、陽の瞳には、全く別の景色が映っていた。
現実の壁と重なり合うようにして存在する、虚数空間側の『虚構の壁』。陽が振るったナイフは、その虚像の壁を深く、えぐり取るように切り裂いていたのだ。
『……なるほど。あちら側の壁は、斬れているな』
『マスター? 壁は無傷ですよ? 何を言って——』
不思議な現象は、その直後に起きた。
陽が、魔力の循環を解き、ナイフの存在座標を虚数から実数へと『戻した』瞬間。
再び鋼のナイフが実体化して現れると同時に——先ほどまで完全に無傷だった現実の壁に、メキィッ! という不気味な音とともに、深く鋭い刃の『傷痕』が、まるで最初からそこにあったかのように浮き上がり、顕現したのだ。
『——ッ!?』
時間差の斬撃ではない。見えない刃が飛んだわけでもない。
虚構(裏側)の壁を切り裂いたという『結果』が、ナイフが現実へと戻ってきた瞬間に、現実世界へと上書きされ、『収束』したのだ。
防ぐことなど不可能。物理的な盾も、魔術的な結界も関係ない。ただ「切断された」という事象だけが、後から現実へとダウンロードされる、悪夢のような因果律の書き換え。
『マスターの魔術……いくらなんでも、おかしすぎます』
◆
そして現在、三日目の昼。
玉藻の前は、自身のマスターが引き起こすあまりにも異常な現象の数々を前に、一つの決定的な推論へと辿り着いていた。
「……マスター。あなたの魔術が、なぜそこまで歪で、世界の法則を無視できるのか。その理由が、一つだけ思い当たりました」
「理由?」
「はい。マスターは『虚』という極めて稀な属性を持ち、さらには変質した妖精眼を持っています。ですが、それらがここまで凶悪に絡み合って機能しているのは、マスターの『起源』が魔術の根幹に強く干渉しているからです」
その言葉に、陽はソファの上で静かに頷く。
「起源とは、一言で言えば『その生命が誕生するよりも前、魂のスタート地点に刻まれた絶対命令(プログラム)』のことです」
玉藻の前の声が、静かにリビングを満たす。
「すべての生命は、『根源の渦』と呼ばれる万物の始まりから流出し、魂の形を得てこの世界に落ちてきます。その際、生命が根源から分かれて個体になるときに、最初に与えられる『方向性』や『志向』。それが起源です」
「……」
「性格や好みのレベルではありません。人間の理性や道徳、果ては生存本能すらも上書きしてしまう、宇宙の法則のような位置づけ。人間を無意識のうちに突き動かす、たった一語の『呪い(マスターキー)』です」
陽は、自分の内側にある『空洞』を見つめた。
常に、此岸ではなく彼岸へ意識が向いてしまう。存在と非存在、生と死、現実と虚数の境界線に惹かれ、危険な未知へ足を運ぼうとする極端な衝動。
それが、陽の魂に刻まれた起源だった。
「通常、人間は自分の起源を知ることはありませんし、それが表に出ることもありません。ですが……何らかの要因で、その起源が『覚醒』してしまうことがある」
「覚醒すると、どうなる?」
「魂の最深部にある絶対命令の薄皮が剥がれ、表層の意識まで完全に突き抜けてしまいます。それはつまり、人間が『人間』としての理性を失い、魂の指針そのものを体現する『怪物(現象)』へと変貌することを意味します」
玉藻の前の顔には、深い憂いの色が浮かんでいた。
起源を人為的に魔術の手法で目覚めさせられるケースや、死に直面するような絶望を経験した際に、魂の防衛反応としてイレギュラーに表出するケース。
いずれにせよ、起源が表に出た人間は、人格が完全に変質し、魔術の性質すらもその『たった一つの方向性』に染め上げられてしまうのだという。
「マスターの起源は、完全な覚醒には至っていません。もし完全に覚醒していれば、マスターは今頃、私と会話することもできない完全な『虚数への観測装置』に成り果てていたでしょう」
「……そうか」
「過去のどこかのタイミングで、殻にヒビが入るような出来事があったはずです。その結果、マスターの起源が漏れ出し、魔術の構築そのものに強烈な影響をもたらしている」
玉藻の前は、陽の両手を強く握りしめた。
「架空元素の属性。妖精眼。そして、起源の半覚醒。マスターの異能は、この三要素が奇跡的かつ絶望的な確率で混ざり合った結果、もたらされたものです」
その言葉は、陽という存在の『異常性』を、完全に証明する宣告だった。
陽は、彼女の手の温もりを感じながら、自分の内側で組み上がっていく冷たい方程式を理解する。
だからこそ、彼の魔術は汎用性を失った。
炎を出すことも、風を起こすこともできない。『肉体を強化する』という最も基礎的な魔術でさえ、起源の絶対命令に引っ張られ、ただ対象を『彼岸』へと近づけるだけの特化型魔術へと変質してしまったのだから。
*
それからの特訓で、陽はナイフから『自身の肉体』へと強化の対象を戻し、ひたすらにその制御を叩き込んだ。
玉藻の前という絶対のアンカーを命綱にして、陽は自身の異能を、ある程度「一つの術式」として運用できるレベルにまで確立させることに成功していた。
陽が脳内で構築した、自身の能力のデータグラム。
【術式名】:《可変存在解像度(モザイク・シフト・マニュアル)》
【分類】:強化魔術(変質型)・虚数魔術・自己対象術式・位相操作術
陽が強化魔術を行使した際に自然発生する変質術式。魔力を肉体へ流して身体性能を高めるのではなく、自身の存在位相を現実から虚数側へシフトさせる現象。
意識と魔力の出力によって、その「深度」を任意に調整できるようになった。
この術式の恩恵は計り知れない。
そこにいるのに、周囲からは「背景」のように認識されなくなる圧倒的な隠密性。魔力的なサーチ(索敵魔術)にも引っかからず、物理攻撃すらも透過して無効化できる。
だが、この術式には、陽の精神を根本から削り取る恐ろしい『副作用』が存在した。
長く術式を発動し続けるか、あるいは深い深度(虚数)へと沈み続ければ沈み続けるほど、陽は自分が『何かを置き忘れてきた』ような錯覚に陥るのだ。
現実帰属感の低下。ただでさえ薄かった「自分がここにいる」という実感が、さらに喪失していく。
自分の手足が他人のもののように感じられる離人感。出来事の記憶が剥がれ落ちていく記憶の希薄化。
そして何より、他者との乖離。目の前で手を握ってくれている玉藻の前の体温すらも、遥か遠く、ガラス越しに触れているように感じられてしまう圧倒的な孤独感。
(……便利な力だが、使いすぎれば、俺は人ではなくなるな)
身体能力を上げる方向へ魔術を書き換えることは不可能だった。陽が『強化』をしようと魔力を練った瞬間、起源がそれを「彼岸への接近」と誤訳し、自動的に《可変存在解像度》へと移行してしまうからだ。
これが、陽という人間に与えられた、唯一にして最強の歪んだ武器。
「……さて」
陽が、自身の全能感と虚無感の入り混じった心地よい疲労の中で目を開けると、目の前で手を握っていた玉藻の前が、ふうっと額の汗を拭っていた。
「お疲れ様でした、マスター。今日の訓練は、ひとまずここまでにしましょうか」
時刻はすでに昼を回り、部屋には暖かな日差しが降り注いでいる。
玉藻の前の言葉に、陽は魔力の循環を解き、自身の存在比率を通常の(それでもズレている)状態へと戻した。
「そういえば、マスター」
玉藻の前は、狐の耳をピクピクと動かしながら、少し申し訳なそうに口を開く。
「召喚されてからこの三日間、私がつきっきりで特訓をして、結界の構築などにかまけていたせいで……冷蔵庫の食料が、ついにもう底を尽きかけているのですが」
陽は、軽く瞬きをして立ち上がった。
「ああ、そうなんだ」
「はい。昨日の夜のおかゆが、最後の備蓄でした」
魔術の探求に没頭していたため、買い物や外出といった日常のタスクは完全に放棄されていた。
陽はキッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開ける。中には、ケチャップのチューブと、スポーツ用のエネルギーゼリーが数個転がっているだけ。
「なら、これでいいよ」
陽は、ゼリーのパウチを一つ掴み出す。
「カロリーも手っ取り早く取れるし、エネルギー効率はこれが一番——」
「ダメですッ!」
ピシャリと、背後から玉藻の前の鋭い声が飛ぶ。
振り返ると、彼女は両手を腰に当て、ぷくっと頬を膨らませていた。
「育ち盛りの男の子が、ゼリーだけでお昼を済ませるなんて言語道断! 魔術の訓練は体力が資本なんですよ!? ただでさえ存在が薄くなりかけてるんですから、もっとこう、肉とかお魚とか、地に足のついた固形物を食べないと!」
お小言を言うその姿は、神霊や英霊というよりも、世話焼きの母親か、口うるさい姉のようだ。
「……分かった。君が言うなら、そうしようか」
陽は素直にゼリーを冷蔵庫に戻し、肩をすくめた。
「じゃあ、どうする? 買い物に行くか」
その言葉を聞いた瞬間。
玉藻の前の表情が、パァァッ! と百合の花が咲いたように輝く。
「待ってましたーっ!!」
彼女は両手を上げて歓喜の声を上げると、リビングの中央でバレリーナのようにくるっと一回転する。
淡い桜色の魔力の光が彼女の体を包み込む。
光が収まると、先ほどまで彼女が身に纏っていた豪奢で古典的な青と金の和装は跡形もなく消え去り——代わりに、秋の肌寒さにぴったりの、白いニットセーターとキャメル色のロングスカートという、極めて現代的で可憐な『私服』へと見事に変貌していた。
「……えっ」
陽は、珍しく目を丸くする。
「これ、本当にどういう理屈なんだ? キャスターって、そんな一瞬で服を変えられるのか?」
「みこーん! 神霊の魔力と良妻の女子力を舐めないでくださいね!」
玉藻の前は、ニットの裾をふわりと揺らし、得意げに胸を張りながら話す。
「これなら、マスターの隣を歩いていても違和感がありませんし! 目立って面倒なことに巻き込まれるのも防げます! それに、尻尾だって……ほらっ!」
彼女が腰の後ろをポンと叩くと、先ほどまでふさふさと揺れていた黄金色の狐の尻尾と、頭の上の狐耳が、魔術的な偽装によって綺麗に隠蔽された。
どこからどう見ても、街ゆく美しい現代の女性にしか見えない。
「分かった。じゃあ、一緒に外へ出よう」
陽が上着を手に取ると、玉藻の前は「はいっ!」と嬉しそうに駆け寄り、自然な動作で陽の袖口をきゅっと掴む。
時刻は昼時。人通りも多く、この時間であれば、学校の同級生などと鉢合わせる確率も低いだろう。
*
秋の高く澄んだ空の下、冬木市の新都は休日の穏やかな喧騒に包まれていた。
行き交う人々の話し声、車のエンジン音、立ち並ぶ店舗から漏れ聞こえる流行の音楽。それらすべての情報は、黒瀬陽という少年にとって、常に一枚のすりガラス越しに聞くようなひどく遠いノイズであった。現実帰属感の低下。自分という存在が、この賑やかな世界にプリントされたただの薄いシミのように感じられる強烈な離人感。
普段の彼であれば、その空虚な海をただ一人で漂いながら、無関心に街を通り過ぎるだけだっただろう。
しかし今日、彼の隣には、その薄っぺらい現実を極彩色の熱量で塗り替える『特異点』が歩いていた。
「わぁっ! マスター、マスター! あそこのお店、お洋服がいっぱい並んでますよ! マネキンって言うんでしたっけ、首がないのに立ってて少し不気味ですけど、着ている服はとってもキュートですっ!」
陽の袖をきゅっと掴み、右へ左へと小気味よくステップを踏むように歩く玉藻の前。
現代に完全に溶け込む可憐な装いへと変化した彼女は、見るものすべてが新鮮で仕方ないといった様子だった。聖杯から現代の知識は、インストールされているはずだが、それを実際に自身の眼で見て、空気の匂いを感じるのとは全く別次元の感動があるのだろう。
陽は、引っ張られる袖口にされるがまま、彼女の半歩後ろを淡々と歩いていた。
すれ違う通行人たちが、ハッとして玉藻の前の美貌に振り返る。しかし、その隣を歩く特徴のない地味な少年に目を向ける者はいない。それは単なる容姿の差というだけでなく、陽が無意識に纏っている『虚属性』による認識阻害の副作用——周囲の風景に溶け込む透明化の恩恵でもあった。
(……地味な俺とは、なんとなく合わない絵面だな)
内心でそんな平坦な感想を抱きながらも、陽の心に不快感はない。
誰に対しても一定の距離を置き、積極的に自分から他者と関わろうとしない陽にとって、玉藻の前のように「躊躇いなくパーソナルスペースに踏み込み、強引に手を引いてくれる存在」というのは、極めて稀有だ。
自分には、何かをしたいという欲求がない。だからこそ、隣で太陽のように笑い、次々と「あれを見たい」「これに行きたい」と意思を提示してくれる彼女の奔放さは、陽という空っぽの器を一時的に満たしてくれる心地よい水流のようでもあった。
「マスター、あっちからはすごく甘くていい匂いがします! クレープ、という食べ物ですね!? あれが俗に言う食べ歩きというやつですか!」
「……そうだな。でも、今から食べるならお昼ご飯が入らなくなるかもしれない」
「むむっ、確かに……! 良妻たるもの、マスターの栄養管理を怠ってジャンクフードに走るわけにはいきませんね。ここはぐっと我慢です!」
彼女は本当に楽しそうだ。
その笑顔を見ていると、数時間前までマンションの一室で、存在が消失しかけるほどの危険な魔術特訓を繰り返していた事実が、ひどく現実離れした嘘のように思えてくる。
そうして街を練り歩くこと、およそ二時間。
陽はふと、駅前の時計を見上げて時間を確認した。時刻はすでに午後一時を優に回っている。
「キャスター」
陽は、ショーウィンドウのアクセサリーを食い入るように見つめていた彼女に声をかけた。
「そろそろ、お昼も過ぎているし……本来の目的だった『買い出し』に向かわないか? すぐそこの交差点を曲がれば、アーケードの商店街があるはずだ」
「あ…………っ」
彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「ご、ごめんなさい……! 元々は、マスターのお昼ご飯の食材を買い出しに行くために外へ出たというのに……。私としたことが、マスターと一緒に外を歩くのがあまりにも楽しすぎて……完全に、失念しておりました……ッ!」
「……うん、大丈夫だよ」
陽は、ごく自然な動作で手を伸ばし、自らの袖を掴んでいた彼女の右手を、上から優しく包み込むように握りしめる。
特訓の際、アンカーとして互いの生死を繋ぎ止めるために握り合った、あの熱く暴力的な魔力の繋がりとは違う。ただの、一人の少年と少女としての、穏やかで柔らかな体温の交換。
「俺も、君と一緒に過ごすこの時間は、とても楽しいと思っているから」
「〜〜〜〜ッ!!」
彼女のテンションのメーターが、限界を突破して振り切れた瞬間だった。
「マスター……っ! ああもう、私のマスターは、どうしてこうも無自覚にクリティカルヒットを連発するのでしょうか! 一生ついていきます! 今度こそ、完璧な買い出しエスコートを決めてみせますとも! さあ、その商店街という戦場へ参りましょう!」
「それもいいんだけど」
鼻息を荒くしてずんずんと歩き出そうとする彼女の手を軽く引き止め、陽は苦笑のようなものを浮かべた。
「時間が時間だし、お腹も空いた。今回は近くのお店に入って、一緒にご飯を食べよう。買い出しはその後でいい」
「はいっ、大賛成ですっ!」
二人は駅前の大通りを逸れ、少し落ち着いた裏路地にある、レトロなレンガ造りのカフェへと足を踏み入れた。
*
カランカラン、と。
真鍮のベルが涼やかな音を立て、二人の来店を告げる。
店内は珈琲の香ばしい匂いと、静かなジャズのBGMに満たされていた。休日とはいえ、昼のピークを過ぎた裏通りのカフェは空いており、二人は店員に案内されるまま、窓際の奥まったボックス席へと腰を下ろす。
対面の席に座り、メニュー表を開く。
玉藻の前は、並べられた色鮮やかな写真たち——クリームソーダやケーキ、様々なスイーツの羅列に、ふわりと感嘆の息を漏らす。神霊である彼女にとって、現代のカフェ文化の発展は目を見張るものがあるのだろう。
しばらくの平和な協議の結果、玉藻の前は季節のフルーツが乗った大きなパフェを、陽はミックスサンドイッチとブレンドコーヒーを注文した。
「楽しみですねぇ。パフェ、生前には存在しなかった食べ物です!」
玉藻の前がウキウキとストローの紙を剥がしているのを見ながら、陽は周囲の席に他の客がいないことを確認し、ゆっくりと声のトーンを一つ落とす。
「……そういえば」
陽は、カフェの水を一口飲み、静かに切り出した。
「君の『式神』だったか。あれの調子はどうだ?」
魔術の特訓に没頭していたため後回しになっていたが、今この冬木市は、七人の魔術師と英霊が殺し合う『聖杯戦争』の真っ只中にある。陽自身に戦う意思はなくとも、サーヴァントを召喚してしまった以上、完全に無関係でいられる保証はどこにもない。
特訓の初日。玉藻の前は、陽が安心して集中できる環境を整えるため、マンションの周囲に強固な『陣地』を敷いた。キャスタークラスの特権である陣地作成スキル。陽が、マンションの裏側を覗き込んだ際、そこにはとてつもない密度の神秘が編み込まれており、物理・魔術の双方において完璧な防衛機構が機能していることを確認している。
そして同時に、彼女は冬木市全土へ向けて、呪術によって作られた紙の式神たちを放ち、情報収集のネットワークを構築していた。
「ええ。すでに複数のサーヴァントと思われる魔力反応を確認しています」
彼女の琥珀色の瞳から、良妻の緩みが消え、冷徹なキャスターとしての知性が光る。
「まず、黒い装束に身を包み、髑髏の仮面を被った複数の影。あれは暗殺者……アサシンのクラスで間違いないでしょう。街の至る所を監視しているようです。それから、かなり派手な見た目の、チャリオットに乗った大柄な男の英霊。あちらには、マスターと思われる人間の少年も同乗していました。一切隠れる気がない、豪放磊落な陣営のようですね」
「なるほど」
「他にも、魔力が異常に濃く淀んでいる場所や、強力な結界が張られている拠点をいくつか見つけましたが……こちらから積極的に踏み込みすぎるのは避けています」
「逆探知されるから?」
「はい。それに……英霊という存在は、時にとんでもない『直感』を発揮することがありますから」
玉藻の前は、ストローで水をかき混ぜながら静かに語った。
「第六感とも呼ぶべき、危険を察知する超越的な能力です。私が使い魔を通して深く『観測』しようとした瞬間、その視線にビビッと気づかれてしまう可能性があります。ですので、今はあくまで表面的な警戒に留め、慎重に立ち回っています」
「直感、か」
陽は、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、その不確定な要素について思考を巡らせた。
理屈を超えた、本能的な閃き。未来予知に等しいその感覚は、彼ら英霊が数々の死線を潜り抜けてきたがゆえの『生存への最適解』なのだろう。
(俺とは、対極にある能力だな)
陽もまた、幼い頃から何かに導かれるように、無意識下で『あるべき場所』を感じ取ることはあった。しかし、それは自分を危機から救うものではなく、むしろ自分の存在を破滅へと近づける引力。ただ「境界の向こう側を見てみたい」という、自滅的な本能の囁きだ。
勝利と生存を掴み取るための彼らの第六感は、自己の消滅すら恐れない陽にとって、少し羨ましくもあり、同時に絶対に理解し得ない高次元の感覚でもあった。
「……マスター?」
「いや。君の慎重な判断で助かるよ。引き続き、警戒をお願いしたい」
「はいっ、お任せください!」
情報共有が終わり、再び穏やかなデートの空気に戻ろうとした、その時だった。
——カランカラン。
真鍮のベルが鳴り、新たな客がカフェの扉をくぐる。
その瞬間。陽の脳髄の奥底で、冷たい電流が弾けたような強烈な『違和感』が走った。
陽の黒く虚ろな瞳が、意思とは無関係に、万華鏡のような極彩色の虹色へと変質する。
現実と虚数が重なり合う、二重の視界。
そこに入ってきたのは、二人の女性だった。
一人は、透き通るような白い肌と、長い銀糸の髪を持つ、お伽噺から抜け出てきたような美しい女性。高級そうなコートに身を包み、この古びたカフェの雰囲気を珍しそうに見回している。
そしてその後ろにピタリと付き従うのは、漆黒のスーツに身を包んだ、金髪のすらっとした麗人。無駄のない歩み、一切の隙がない姿勢。彼女は、白髪の女性をエスコートしながらも、その鋭い緑色の瞳で店内のあらゆる死角を警戒している。
(——人間じゃない)
陽の瞳は、現実の衣服や肉体というガワを透過し、その『裏側』にある存在の構造をダイレクトに読み取っていた。
白髪の女性の肉体を構成しているのは、自然な生命の営みではない。術式によって編み上げられ、無理矢理に人間の形へと押し込めた、極めて精巧な人工生命体(ホムンクルス)。
だが、問題なのはその後ろのスーツの女性だ。
(あれは……玉藻と同じだ)
スーツの女性の奥底で燃え盛っているのは、人間一人が到底抱えきれるはずのない、圧倒的な密度の神秘。魔力の炉心。先ほど玉藻の前から聞いたばかりの、生きた神話の結晶。
聖杯戦争の参加者。他陣営の、サーヴァント。
「……マスター」
「分かってる」
唇をほとんど動かさずに微弱な声で返す。
(俺の『眼』を、今すぐ閉じろ)
陽は、無意識に発動しかけていた《観測》の深度を、強引に『通常状態』へと引き戻した。
マズい。あの金髪の女性から放たれているのは、高潔な騎士のような凄まじいまでの剣気と警戒心だ。ほんの少しでも『観測の眼』を彼女の魔術回路や核に向けようものなら、彼女の鋭敏な感覚は、即座に陽という特異点を看破し、敵性存在として認識するだろう。
息を潜めろ。ただの、有象無象の一般人に成り下がれ。
陽は、自身の存在帰属をいじり、気配を限りなく透明に薄めながら、ごく自然な動作で手元のコーヒーカップを手に取った。
幸いなことに、ここは白昼堂々の市街地であり、他の客も存在する公共の場だ。魔術の秘匿を絶対のルールとする彼らが、こんな場所で理由もなく戦闘を仕掛けてくる可能性は極めて低い。
「わぁ、素敵な雰囲気のお店ね、セイバー! 私、こういうところに入ってみたかったの!」
「アイリスフィール、あまりはしゃがないでください。窓際は外からの狙撃の危険があります。奥の席へ」
銀髪の女性——アイリスフィールと呼ばれたホムンクルスは、能天気なほど楽しそうに店内を見回し、スーツの女性に促されるまま、陽たちの席からは少し離れた中央のテーブルへと座った。
その鋭い視線が、店内にいる先客達のテーブルを、サッと一瞥する。
陽は、コーヒーのブラックを一口飲み、玉藻の前と何気ない会話を続けているフリをした。
彼女の『直感』は警鐘を鳴らすことなく、視線はすぐに別の入り口へと向けられる。
(……凌いだか)
ほどなくして、陽たちのテーブルに、注文したミックスサンドイッチと、巨大なフルーツパフェが運ばれてきた。
「わぁぁっ! 見てくださいマスター、宝石箱みたいですっ!」
「すごく美味しそうだ。よかったね」
「はいっ! ……あ、そうだ。マスター、はい、あーんっ」
背後には、他陣営のサーヴァントが座っている。少しでも不自然な挙動を見せれば、命取りになる状況。
陽は、感情のない平坦な顔のまま、スッと口を開けてそのイチゴをパクリと食べた。
「……うん。甘くて、冷たくて美味しいよ。イチゴの酸味がちょうどいい」
「みこーん! 素直な食レポ、いただきましたっ! 私の愛情もたっぷりトッピングされてますからねっ☆」
陽は自身のサンドイッチを淡々と食べ進めながら、背後に座る本物の聖杯戦争の気配と、目の前でパフェを頬張る神霊の甘い日常という、とてつもないコントラストを同時に味わう。
*
二人は、自然な足取りで会計を済ませ、カフェを後にした。
カラン、とベルの音が鳴り、扉が閉まる。
秋の冷たい風が頬を撫でた瞬間、陽は肺に溜まっていた息を静かに吐き出した。
「……気づかれては、いなかったな」
「ええ。マスターの隠密性は完璧でした。私も完全に魔力を絶って、ただの美しいモデルさんに擬態していましたし!」
「自分で言うんだな、それ」
陽の軽いツッコミに、玉藻の前は「えへへ」と笑って誤魔化す。
しかし、陽の顔には微かな緊張の余韻が残っていた。
「あれは、確実に聖杯戦争の参加者だろうな」
陽は、カフェの方向を振り返ることなく歩きながら、先ほどの視覚情報を脳内で整理した。
「あの白髪の女性は、普通の人間の構造をしていなかった。そして、金髪の女性……。あの高潔な雰囲気と、内に秘めた圧倒的な魔力の密度。今まで見たどんなノイズよりも、鋭く、研ぎ澄まされていた」
あの一瞬、相手がどれほど強大な存在であるかが、嫌というほど理解できてしまった。
「……かなり、強そうだったな」
陽の偽らざる本音の呟き。
すると、隣を歩いていた玉藻の前が、むんっ、と豊満な胸を張り、陽の腕にぎゅっとしがみついてくる。
「何をおっしゃいますか! 相手がどれほど高潔な騎士だろうと、英雄だろうと、この私がついている限り何の問題もありません! マスターのことは、私の尻尾に賭けて絶対にお守りしてみせますから、どーんと大船に乗った気でいてください!」
相変わらずテンションが高く、過剰なほどに自信満々な彼女の宣言。
その温かさと強さに、陽の胸の内にあった仄暗い不安——虚数へと引っ張られるような危うい引力——が、綺麗に打ち消されていくのを感じる。
「……そうだな。ありがとう、玉藻」
陽は、少しだけ口角を上げて、穏やかに答えた。
「君がいるなら、安心だ」
「はいっ! 任せてくださいっ!」
陽の素直な信頼の言葉に、玉藻の前の尻尾が激しくプロペラのように回っているのが、陽には手に取るように分かった。
「それじゃあ、気を取り直して。本来の目的だった買い出しをして、家に帰ろうか」
「はいっ! 今日の夕食は、腕によりをかけて極上の愛妻料理を振る舞いますから、期待していてくださいね、マスター!」
夕日に染まり始めた二人の影が並んで伸びていく。
聖杯戦争の火種は、すでに彼らのすぐ背後まで迫っている。しかし、空っぽの少年と愛に生きる狐が紡ぐいびつで温かい日常は、狂気のパレードの只中にあっても、静かに、そして確かな熱を持って続いていくのだった。
次回
【白昼の蜃気楼と、泥濘の簒奪者たち、青き断頭のパラドックス】