『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』     作:りー037

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第七譜:【位相の剥離と、虚構の投擲、そして収束する死の因果】

 

 

(……物理干渉も、この範囲なら完全に遮断できている)

 

 

 真空の刃が首を通り抜け、丸太のような剛腕が肩を空しくすり抜けていく軌跡を、ひどく冷徹に、そして静かに観測する。

 

 極彩色に明滅する視界の中で、彼らの攻撃が放つ熱量や魔力のベクトルが、無数の矢印となって空間に可視化されている。だが、そのどれ一つとして、存在の『核』には届いていない。

 

 肉体は今、現実世界に二割、裏側の虚数空間に八割という異常な比率で座標を沈み込ませている。

 

 

 

 彼らに、今の俺を捉える術はない。

 

 放たれた魔術も、物理的な暴力も、その『神秘の濃度』がまるで足りていない。もし彼らの眼球が、現実の裏側に張り付く虚数の位相までをも視認できる高次元の魔眼であったなら、この深い層まで攻撃を届かせる術式を編み込めたなら、話は別だったかもしれない。

 

 

 だが、現実は残酷なほどに単純だった。

 

 彼らの認識は、薄っぺらい現実の膜の上にしか存在していない。

 

(……心地いい、な)

 

 

 殺意の嵐のど真ん中に立ちながら、ゆっくりと目を閉じ、自分の内側に意識を向けた。

 

 足の裏から重力が希薄になり、世界から自分が切り離されていく圧倒的な虚脱感。幼い頃からずっと苛み続けてきた強烈な疎外感が、今、魔術という明確な理屈を得て、カチリと嵌まったような感覚。

 

 

 

 彼岸の底へと引っ張られる、甘く粘り気のある引力。

 

 この果てしない暗黒の海を漂っているだけで、空っぽの自分が満たされていくような錯覚に陥った。

 

「どうなっているの!? そこにいるはずなのに、認識が……ッ!」

 

「なんだ、これは!?」

 

 

 目を閉じた俺の鼓膜に、前方の女と、俺を通り抜けた大柄な男の混乱した叫び声が届く。

 

 彼らの視界には今、姿が古いビデオテープのノイズのように、チカチカと黒い靄を纏ってバグを起こしているように見えているはずだ。空間そのものがエラーを吐き出し、そこにいるはずの生命を脳が『意味のある物体』として処理できない現象。

 

 そんな彼らの怯えと焦燥のオーラを、瞼の裏側の視覚で眺めつつ、胸の奥で一つの純粋な欲求が膨れ上がっていった。

 

 

 

 ――自分にできることを、試してみたい。

 

 

 今の俺は、自らの異能の仕組みを理解している。

 

 今なら、もっと上手くやれる気がする。

 

 

 

 彼らに対して、怨みや怒りといった殺意は一ミリも抱いていない。ただの、路傍の石ころに対するのと同じような、徹底した無関心。

 

 

 だが、彼らは明確に命を奪い、令呪を剥ぎ取ろうと罠を張り、自らの意志で俺を殺しに来たのだ。

 

 であるならば、彼らを殺したとしても、社会的な倫理にも、魔術世界のルールにも何ら反することはないのではないか。

 

 

 彼らは、存分に自分の力をぶつけて試すことができる、極めて都合の良い『相手』だ。

 

(……よし、試そうか)

 

 

 

 存在の深度を、さらに一段階深く沈める。

 

 

 音もなく、アスファルトを蹴った。

 

 木箱の前に立つ、トレンチコートの女魔術師へと向かって真っ直ぐに走る。

 

 足音は、虚数空間の底に吸い込まれて現実には一切鳴り響かない。彼女との距離はわずか数メートル。しかし、彼女の視線は彷徨うばかりで、急接近してくる俺の存在に全く気づいていない。

 

 

 

 認識の完全な阻害。

 

 すっぽりと抜け落ちた現実のバグの中を泳ぎながら、脳裏には、数日前のマンションのリビングでの出来事が鮮明に思い起こされる。

 

 

 

 ――魔術回路を強制開通させてすぐ、自らの属性の原理も分からないまま、手にしたナイフを虚空に向けて滑らせた、あの時のこと。

 

 

『――《■■開門》』

 

 

 

 あの時は、ただ何となく、重なり合う二つの世界を感覚だけで繋ぎ合わせてしまった。

 

 知識がなかったからだ。結果として、現実の空間を抉り取るような漆黒の孔が暴走し、周囲の家具を呑み込み、玉藻の前を本気で怯えさせてしまった。

 

 

 

 

 だが、今は違う。

 

 自らの力のルーツである属性を理解し、眼がどう世界を観測しているのかを理解している。

 

 

 重なり合う二つの世界。その境界線の縫い目。

 

 今の頭の中には、恐怖や自制心よりも、その論理が実戦でどう機能するのかを確かめたいという、欲求しかない。

 

 

 

 あの時のような、稚拙な暴走はしない。

 

 今の俺なら、明確に制御して、やれる。

 

 コートのポケットに忍ばせていたサバイバルナイフの柄を静かに握り、抜き放った。

 

 

 その無防備な首元――正確には、彼女の首が存在している『空間の座標』へと、虹色に明滅する瞳のピントを合わせる。

 

 

 

 

 ――《虚数開門(ゲート・オープン)》。

 

 ナイフを横に一閃する。

 

 刃は、彼女の皮膚には一切触れていない。物理的な切断距離よりも、さらに数ミリ手前の虚空。

 

 

 そこにある、現実(実数)と裏側(虚数)の『境界線』を、ナイフという死の残滓を帯びた鍵で、精密になぞって切り開く。

 

 陽の眼には、彼女の首を横切るように展開された、極細の黒い亀裂――虚数へと繋がる『ゲート』が、ハッキリと視認できた。

 

 

 

 それは、空間に孔を開けるという事象の、バグのような悪用。

 

 ゲートを開き、ブラックホールのように周囲を呑み込む現象を起こすわけではない。その『次元の開き』そのものを、絶対的な攻撃手段として対象の座標に重ね合わせるのだ。

 

 

 女の首が位置している座標。

 

 そこに、重なり合う二つの世界のゲートを強制的に顕現させる。

 

 空間という一枚の布の上に描かれた『人間』という絵。その布そのものを、別の次元へと続くハサミで切り離すようなもの。

 

 

 ゆえに、物質の強度や、魔術的な防壁の硬さなど、一切関係がない。

 

 

 

 

 

 

 ――《位相分断(ボーダー・シフト)》。

 

 

 空間が、ズレた。

 

 彼女の首から上の空間と、首から下の空間が、ゲートの展開によって位相レベルで完全に「分離」されたのだ。

 

 

 切断ではない。空間の強制的な引き剥がし。

 

「え?」

 

 

 彼女が、目の前に黒い靄の輪郭が唐突に現れたことに気づき、間抜けな声を漏らした、その瞬間。

 

 

 周囲の仲間たちが、存在を再認識するよりも早く。

 

 

 

 

 ゴトリ、と。

 

 美しい髪を揺らしながら、頭部がアスファルトの床に転がる。

 

「……」

 

 

 その血飛沫を浴びることなく、横に振り抜いたナイフの軌跡を、今度は逆方向からなぞるように素早く引き戻す。

 

 

 開いたゲートの縫い目を、閉じる。

 

 これで、空間の崩壊が周囲に伝播することはない。

 

 

 認識を阻害していた黒いノイズが完全に晴れ、陽の姿が、血溜まりの中に確かな質量を持って顕現した。

 

(……こちらも、問題ないね)

 

 

 頭の中で構築した数式が、現実という黒板の上で完璧な解答を弾き出したことへの、静かな満足感。

 

 実験のタスクを一つ、無事にこなした。ただそれだけ。

 

 

「……は?」

 

 

 彼らの視点から見れば、俺は突然ノイズになって消え、直後に首が一瞬で落ちたように見えたはずだ。

 

「な、なんだ……どういう原理で……ッ!?」

 

「お前、今……何をしたァッ!?」

 

 

 大柄な男が、血走った目で絶叫する。

 

「何って……ただ、繋いだ。特別なことは、何もしていない」

 

 

 彼にとっては、視界に見えている面をなぞっただけの、ごく当たり前の作業に過ぎない。

 

 だが、そのあまりにも平坦で、人間の血が通っていない無機質な声は、彼らの恐怖をさらに決定的なものへと押し上げた。

 

 

 

 

 こいつは、異常だ。

 

 今更ながらに彼らがそれを理解した時。

 

「うおおおおおおおおッ!!」

 

 

 恐怖のあまり完全に正気を失った大柄な男が、狂ったような咆哮を上げながら、突進してきた。

 

 このよく分からない異常事態を、自分の持つ最大の暴力で強引に解決したい。目の前の得体の知れない恐怖から、一秒でも早く逃れたい。

 

 

 そういった、極限状態の人間の心理が引き起こした防衛本能。

 

「おい、待て! 突っ込むな!」

 

 

 リーダーの男が制止の声を上げるが、大男の耳にはもはや届いていない。

 

 丸太のような両腕を振りかぶり、頭蓋を粉砕せんと、文字通りの必殺の拳が迫ってくる。

 

(……あれが、本物の『強化魔術』か)

 

 

 彼の太い神経の束を駆け巡って、一つ一つの筋肉細胞に最適な形でコーティングされていくプロセスが、手に取るように見える。

 

 驚異的な出力。純粋な破壊力と速度が上昇する。魔術師としての基礎にして極致。

 

 

 かなりの速度だ。

 

 通常時の人間の反射神経では、絶対に反応できないレベルの挙動。

 

 だが、陽の虹色の瞳は、その高速の拳の軌道を、コマ送りの映像のようにハッキリと目視できている。

 

(確かに速いけど。……これなら、問題ない)

 

 

 振り下ろされる巨腕の風圧を感じながら、再び右手のナイフを静かにかざした。

 

 視線を、大男の腰――分厚い筋肉に覆われた胴体の座標へと合わせる。

 

 

 

 

 ――《虚数開門(ゲート・オープン)》。

 

 

 二つの世界を繋ぐ、黒い極細の亀裂。

 

 それを、目の前に迫る男の胴体を薙ぎ払うように、真横へ一閃した。

 

 

 

 彼の肉体は、強化魔術によって鋼鉄のような強度を誇っている。

 

 

 だが、その『強度』を完全に無視するように。

 

 展開した蒼き斬撃の軌跡――二つの位相を繋ぐゲートが、彼の胴体の空間座標を通過した。

 

 

 

 

 ――《位相分断(ボーダー・シフト)》。

 

 

 ズレる。

 

 先ほどの女の首と同じように。

 

 大男の突進する巨大なエネルギーは、下半身だけがそのまま前へと走り続け、切断された上半身は、慣性の法則に従って空中に置き去りにされた。

 

 

 

 ズルリ、と。

 

 完璧なまでの断面を見せつけながら、大男の肉体は上下に泣き別れとなり、内臓と大量の血を路地裏にぶちまけながら、二つの肉塊となってアスファルトを滑っていく。

 

「……少し、羨ましいね」

 

 

 心の底から、そう思う。

 

 あれだけ純粋に、美しく魔力を肉体に巡らせ、圧倒的な身体能力を得る。

 

 強化魔術を正しく使用すれば、あんな風に強く、速くなれるのか。

 

「俺の強化は、なぜか存在が薄くなるっていう、おかしな方向にしか働かないからな」

 

 

 この圧倒的な身体能力という結果を得られない自分自身に、少しだけ残念そうに、小さく息を吐いた。

 

「ヒィッ……あ、あああ……ッ!」

 

 

 振り返ると、生き残った最後の一人――リーダーの男が、顔面を土気色に染め、床に尻餅をついたまま必死に後ずさっていた。

 

 

 

 なんだこいつは。

 

 化け物だ。

 

 彼の顔には、先ほどまで「暗示にかかった哀れな鼠」と見下していた高慢な態度は、欠片も残っていない。

 

 

 仲間二人が、一瞬にして、防御すら許されず両断された。

 

 その圧倒的で理不尽な死の現象に対する、純粋な恐怖だけが、彼の震える瞳に色濃く焼き付いている。

 

「さて」

 

 

 血溜まりを踏み越え、ゆっくりと男の方へ向き直り、最後の一人の心臓を、静かに、そして正確に射抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ひッ……、あ……」

 

 彼の唇から漏れるのは、もはや言葉を成さない恐怖の喘ぎだけ。

 

 つい数分前まで、彼は圧倒的な強者としてこの場を支配しているつもりだった。聖杯戦争の枠を強奪するため、罠を張り、魔術を持たない無知な一般人を誘い込んだ。

 

 

 

 しかし、目の前にいるのは一般人などではない。

 

 理を根底から無視し、防御も回避も許さず、仲間を両断する正体不明の男。

 

 

(不味い。このままでは、殺される……ッ!)

 

 

 男の脳内で、警鐘が狂ったように鳴り響いている。

 

 どうにかしなくてはならない。この絶望的な状況を打破しなければ、自分も先ほどの二人と同じように、理解不能な死を迎える。

 

 

 そんな彼の必死の思考をよそに、黒瀬陽は、血溜まりを踏みしめながらゆっくりと歩みを進めてきた。

 

 

 

 

 ――コツ、コツ。

 

 スニーカーのゴム底が、アスファルトを打つ足音。

 

 男にとっては、それが死神のカウントダウンのように響いた。

 

「待て、来るなッ!」

 

 

 男は、もはや正気を保ててはいない。

 

 恐怖で引き攣った顔のまま、這いずるようにして距離を取ろうとする。

 

 

 しかし、陽の歩みは止まらない。

 

 止まる理由が、どこにもない。

 

「……君の魔術を使って、止めてみたらいい」

 

 

 陽の口からこぼれたのは、煽りでも冷酷な宣告でもない。ただの純粋な『提案』。

 

 彼の内側には、今、静かな満足感が広がっている。自分の持つ属性と異能が、理論通りに現象として現実に引き起こせたことに対する、実験の成功。

 

 むしろ、彼らに感謝すらしている。自分の力を試す最高の舞台を提供してくれたのだから。

 

 

 

 だが、実験はまだ終わっていない。

 

 陽の瞳が、這いずる男を無機質に捉えた。

 

「来い。次で、最後にするよ」

 

 

 その言葉は、魔術師の本能を極限まで刺激した。

 

「ふざけるなァッ!!」

 

 

 空気が焼け焦げるような匂いが立ち込める。大気中のマナが収束し、高熱を伴う炎の術式が編み上げられていく。

 

 目の前の怪物を、灰燼に帰す。その一念だけで放たれた、火球の暴雨。

 

「消し飛べェッ!!」

 

 

 路地裏を埋め尽くすほどの灼熱が、陽へと向かって殺到した。

 

 避けることも防ぐことも困難な広域殲滅魔術。

 

 

 だが、陽は足を止めることはしない。

 

 右手に持ったサバイバルナイフを、横にスライドさせるように虚空へ滑らせるだけ。

 

 

 

 

 

 現実と虚数、二つの世界を繋ぐ境界線が開く。

 

 空中に展開された極細の亀裂が、瞬時に漆黒の歪みへと拡大した。

 

 

「――は?」

 

 

 

 熱も、光も、爆音も。

 

 すべてが別の次元へと強制的に引き剥がされ、跡形もなく消失した。

 

 孔を閉じた陽は、炎の余波すら浴びることなく、無傷のままそこに立っている。

 

「どういうことだ……なぜ、俺の魔術が……ッ!」

 

 

 焦燥が、恐怖を塗り潰していく。

 

 炎が通じない。物理的な肉体強化も意味を成さない。

 

 

 打つ手がない。

 

「じゃあ、次はこちらの番だ」

 

 

 陽は、ゆっくりとナイフを構え直す。

 

 どうする。迎撃するか。防御を張るか。

 

 

 男の脳髄が、極限の恐怖状態の中でかつてないほどの高速回転を始める。

 

 あのナイフの軌跡が、空間を切り裂くのだ。であれば、刃が振るわれるモーションを視認し、その射線から何としてでも逃れなければならない。

 

 

 

 次の攻撃に備え、回避の準備に入る男を嘲笑うかのように。

 

 陽は、構えていたナイフを、男に向けて無造作に『投擲』した。

 

「――ッ!?」

 

 

 男は息を呑み、即座に魔術障壁を展開すべく、術式の構築を始める。

 

 飛んでくるナイフの軌道を読み、結界で弾き落とす。もしくは、横へ跳んで躱す。

 

 

 だが、彼の予測したあらゆる物理的な迎撃手段は、完全に無意味となった。

 

 

 

 ――スゥッ。

 

 空を飛んでいた鋼のナイフが。

 

 幻影のように、初めからそこには何もなかったかのように。

 

 突如として空間を切り裂くように黒いモヤへと変質し、そのまま虚空へと『消失』したのだ。

 

「……え?」

 

 

 

 ナイフが、消えた。

 

 男は、展開しかけていた魔術障壁の手を止め、虚空を呆然と見つめる。

 

 

 幻術か。それとも、見えない速度で移動したのか。

 

 男の視線が、周囲の空間を狂ったように探し回る。

 

 

 しかし、どこにもない。

 

 ナイフは、完全にこの現実から存在を消し去っていた。

 

(……一体、何が起きた……?)

 

 

 脳内で現状を反芻するが、答えは出ない。

 

「これで、終わりか」

 

 

 立ち尽くす男に向けて、陽が淡々とした声で呟いた。

 

 その声には、戦闘を終えた者のような、静かな幕引きの響きが含まれていた。

 

「何を言っている……!」

 

 

 極限状態に追い詰められ、頭の許容量を超えた男は、恐怖から叫び散らした。

 

 目の前の怪物は、ナイフを手放して丸腰だ。攻撃は届いていない。

 

「お前、何を言っているんだッ!攻撃なぞ届いていないッ! 俺には傷一つ……!」

 

 

 叫ぶ男を見つめながら、陽の極彩色の瞳が、微かに細められた。

 

「何を言おうが、もう意味のないことだ」

 

 

 陽は、男の胸元――正確には、その皮膚の下にある臓器を透過して見つめながら、ひどく冷酷に事実だけを告げた。

 

「すでに君は、死んでいる」

 

「……ッ!」

 

 

 男は、自身の身体をペタペタと触り回った。

 

 

 痛みはない。出血もない。

 

 俺に傷は一切ついていない。ダメージなど、どこにもない。

 

「死んでいるだと!?どこが……」

 

「そうか。……僕の目には、君の心臓はすでに破裂しているように見えるんだけどね」

 

 

 陽の言葉は、男の主張を完全に無視した、圧倒的なまでの『観測結果』の報告だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日前の、マンションでの特訓。

 

 陽は、ナイフに《可変存在解像度》と同じ要領で虚属性の魔力を流し込み、その存在座標を『虚数空間』へと完全に沈み込ませた。

 

 現実からは消えたナイフ。だが、虚数空間の位相には、そのナイフは確かな質量を持って存在し続けている。

 

 

 現実と虚構は、重なり合っている。

 

 陽が投擲したナイフは、現実世界から姿を消した直後、裏側の虚数空間を飛び、男の心臓が位置する『虚構の座標』を、すでに完全に貫き通していたのだ。

 

 

 現実の男の肉体は無傷。

 

 しかし、裏側に重なる男の虚構の肉体は、すでに致命傷を負っている。

 

 あとは、そのズレた二つの因果を、一つに結び合わせるだけ。

 

「現実と虚構は、重なり合い、そして収束する」

 

 

 陽は、右手の親指と中指をすり合わせ。

 

 

 

 

 ――パチン。

 

 彼が指を鳴らした瞬間。

 

 ピキリ、と。路地裏の空間全体に、ガラスに亀裂が入ったような不気味な音が鳴り響く。

 

 男が、その平坦な言葉と指の音の意味を理解するよりも早く。

 

 

 

 

 

 

 ――ズドガァァァァァンッ!!

 

 

 唐突に。

 

 男の背後、約十メートル先にある、路地裏のどん詰まりを塞ぐ雑居ビルのコンクリート壁から、鼓膜を破らんばかりの凄まじい物理的な破壊音が轟いた。

 

「……ッ!? なぜ今、壁が……ッ!」

 

 

 男は弾かれたように背後を振り返る。

 

 彼の視界に飛び込んできたのは、厚さ数十センチはあるはずの頑強なコンクリートの壁と、その内部の鉄筋が、まるで熱したナイフでバターをくり抜いたかのように、抉り取られている光景だった。

 

 何が起きた。どうして背後の壁に、穴が開いたのか。

 

 

「……その壁の穴はね。さっき俺が手放したナイフが、そのままビルを貫通していった結果だよ」

 

 

 背中越しに。

 

 陽の、どこまでも平坦で、一切の感情の色を持たない声が降り注いだ。

 

「な……に……?」

 

 

 さっき空中で消えたナイフが、ビルに大穴を開けた? 

 

「現実の話ではないんだけどね。……そして、君の心臓も通過した」

 

「は――」

 

 

 男が、陽の方へと振り向こうとした、その刹那。

 

 

 

 因果のダウンロード完了。

 

 虚数空間で「心臓を貫かれた」という事実が、遅れて現実世界へと上書きされる。

 

 

 

 そのタイムラグ、わずか五秒。

 

 ――《虚構の収束(ディレイ・ダウン)》。

 

 

 男が、ビルの風穴から視線を外し、再び陽へと向き直ろうと首を動かした、その刹那。

 

 

 

 

 ボチュゥゥゥゥゥッ……!!

 

「え?」

 

 

 ひどく鈍く、湿った音が、男自身の足元から鳴る。

 

 水風船が限界を迎えて弾け飛ぶような、醜悪な破裂音。

 

 

 

 痛みはない。

 

 ただ、唐突に、全身の血液が沸騰したかのような異常な感覚と、胸の中心からスポンと『熱』が抜け落ちるような、圧倒的な喪失感が男を襲った。

 

「――ガ、ァ……ッ、あ……?」

 

 

 男の目が、眼窩からこぼれ落ちんばかりに見開かれる。

 

 ガクガクと震える首を、錆びついた機械のようにゆっくりと下へ向けた。

 

 

 刃は飛んできていない。誰も彼に触れていない。

 

 防御する間も、回避する隙も、そもそも『攻撃されたという認識』すら与えられなかった。

 

 

 

 それなのに。

 

(あ……れ……? 俺の、心、臓、が……)

 

 

 ドクン、という最後の脈動と共に。

 

 穿たれた胸の穴から、凄まじい水圧でドス黒い血液が噴水のように溢れ出し、路地裏のアスファルトを瞬く間に真っ赤な沼へと変えていく。

 

「俺のナイフは、君の心臓を貫き、後ろのビルを撃ち抜いて消えた。……その虚構が、今、現実へと遅れて収束したんだよ」

 

 

 陽の平坦な声が、薄れゆく男の意識の淵に、死の宣告として降り注ぐ。

 

 

 もはや男の喉からは、悲鳴すら上がることはなかった。

 

 肺に空気を送る機能も、声帯を震わせるエネルギーも、すでに彼の肉体からは完全に失われている。

 

 

 

 自分の身に何が起きたのか。

 

 その絶望的な理不尽さを理解することすら許されず、男の肉体は力なく前へと傾き、自らが作り出した血の海の中へと、ボチャリと音を立てて倒れ伏す。

 

 

 三人のはぐれ魔術師は、こうして誰一人として触れることすらできず、一方的な暴力によって全滅した。

 

「……」

 

 

 陽は、血の海と化した惨状を見渡し、静かに息を吐く。

 

 自身の身体に傷はない。魔力の消耗も、想定の範囲内。

 

 

 

 《開門》による位相の分断。そして、存在を虚数化させたナイフ投擲による《虚構の収束》。

 

 自分が頭の中で思い描いていた魔術のロジックが、実戦という極限の状況下で、寸分の狂いもなく完璧に作動した。

 

 

 倒れ伏したリーダー格の男の死体へと歩み寄る。

 

「ありがとう。助かったよ」

 

 

 一〇〇パーセントの純粋な、心からの感謝。

 

 自分の力を試し、理解するための実験台となってくれた彼らへの、敬意すら混じった一礼。

 

 

 また一つ、俺は『俺』という存在を理解した。

 

 

 この空っぽの器に、魔術という冷たい法則が、確かな重さを持って満たされていくのを感じる。

 

 静かに顔を上げた時、路地裏の結界が完全に霧散し、遠くから街の喧騒と、微かな秋の風が再び吹き込んできた。

 

 




次回
【外付けの倫理と、彼岸を縫い留める楔、そして幽冥の底へと沈みゆく】
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