三学期初日。
高度育成高等学校の空気は、冬特有の乾いた冷たさに包まれていた。
文化祭の熱気も、修学旅行の騒がしさも、
冬休みの浮ついた空気も、すべてもう遠い出来事のように感じられる。
教室にはいつものように生徒たちの声が響いていたが、
それは二学期までとは少し違っていた。
進級。
卒業。
クラス争い。
将来。
そういう終わりを意識し始めた人間特有の落ち着かなさが、どこか漂っている。
だが、その空気から完全に取り残されている生徒が一人だけいた。
長谷部波瑠加は、窓際の席に頬杖をつきながら、
ぼんやりと端末画面を見つめていた。
画面の中では、一人の少女が笑っている。
白を基調にした衣装。
柔らかな照明。
少し大人びたメイク。
そして、カメラへ向けられた自然な笑顔。
『雫 冬の休日グラビア特集』
その文字を見つめる長谷部の目は、複雑だった。
コメント欄が流れていく。
『透明感えぐい』
『スタイル良すぎる』
『雫ちゃん最高』
『こんな可愛い子いたんだ』
長谷部は無意識に眉をひそめた。
指が止まる。
スクロール。
止まる。
またスクロール。
そんな動作を、もう何度繰り返したか分からない。
「また見てたのか」
不意に横から声が飛んできた。
長谷部は反射的に端末画面を伏せる。
「……まぁね」
隣に立っていた三宅明人が呆れたように肩をすくめた。
「別に隠さなくてもいいだろ」
「隠してないけど」
「いや完全に隠しただろ今」
長谷部は不機嫌そうに視線を逸らした。
三宅は苦笑しながら、自分の席へ鞄を置く。
少し遅れて、幸村輝彦も教室へ入ってきた。
「朝から騒がしいな」
「みやっちがうるさいだけ」
「俺!?」
幸村は二人のやり取りを見ながら小さく息を吐き、
自席へ向かおうとして――ふと長谷部の机に置かれた携帯端末を見た。
そこにはまだ、雫の笑顔が映っていた。
幸村は一瞬だけ黙る。
だが何も言わなかった。
その沈黙が、逆に長谷部には居心地悪かった。
「……なによ」
「いや、別に」
幸村は静かに席へ座る。
その反応に長谷部は少しだけ視線を逸らした。
分かっている。
二人とも、何も言わないだけだ。
佐倉愛里が退学してから。
綾小路グループは壊れた。
完全に。
以前のように馬鹿騒ぎすることもない。
綾小路清隆の名前も、ほとんど誰も出さない。
そして佐倉愛里――いや、雫の存在だけが、今も長谷部の中に残り続けていた。
毎日SNSを見ている。
雑誌もチェックしている。
動画も見ている。
新番組出演情報も確認している。
自分でも少し気持ち悪いと思う。
だが、やめられなかった。
彼女は退学したはずなのに。
もう学校にはいないはずなのに。
なのに佐倉は、以前よりずっと遠くで、ずっと大きな世界にいるように見えた。
そのことが、長谷部にはどうしても整理できなかった。
ホームルーム開始のチャイムが鳴る。
担任の茶柱佐枝が教室へ入ってきた。
相変わらず感情の薄い顔。
だが三学期だからか、どこか空気が柔らかい。
「席につけ」
生徒たちが動く。
長谷部は最後にもう一度だけ携帯を見た。
そこには、笑う佐倉。
まるで別人みたいに自然な笑顔。
長谷部は画面を消した。
授業は淡々と進んだ。
だが長谷部は、ほとんど内容を聞いていなかった。
ノートを取る手も止まりがちになる。
視線は何度も窓の外へ向いた。
冬空。
乾いたグラウンド。
遠くでは体育の授業か、体操服姿の生徒がグラウンドを走っている。
皆、それぞれ前へ進んでいる。
そんなことを、長谷部はぼんやり考えていた。
その時だった。
「長谷部」
突然名前を呼ばれ、長谷部は肩を跳ねさせた。
顔を上げる。
茶柱が無表情のままこちらを見ていた。
「話を聞いていないなら廊下に立つか?」
教室の空気が少しざわつく。
長谷部は顔をしかめながら椅子へ深く座り直した。
「いえ、聞いています……」
小さな笑いが起きる。
だがその笑いの中に、以前のような安心感はなかった。
授業終了後。
長谷部は一人で廊下を歩いていた。
窓の外から冷たい光が差し込んでいる。
そんな中、不意に後ろから声が飛んできた。
「長谷部さん」
長谷部の表情が一瞬だけ固まる。
振り返る。
そこにいたのは櫛田桔梗だった。
変わらない笑顔。
だが長谷部は、その笑顔を見るたびに胸の奥がざらつく。
「……なに」
自然と名字呼びすら出なかった。
櫛田は一瞬だけその反応に目を細めたが、すぐいつもの調子に戻る。
「そんな警戒しなくてもいいじゃん」
「別に警戒してないし」
「してるよー」
軽い声。
だが長谷部は視線を合わせない。
櫛田だけは、佐倉の今を知っていた。
芸能界へ戻ったことも。
雫として活動していることも。
全部。
だからこそ長谷部は、櫛田を完全には拒絶できない。
でも同時に、以前みたいに接することもできない。
「ねえ、雫ちゃんの新しい雑誌見た?」
長谷部の眉がわずかに動く。
「……見たけど」
「今回かなり人気みたいだよ」
「知ってる」
「そっか」
そこで会話が止まる。
昔なら、こんな沈黙はなかった。
だが今は違う。
長谷部はふと、櫛田の顔を見る。
綺麗だと思った。
いつも通り愛想が良くて。
空気も読めて。
男子にも女子にも好かれて。
見られることに慣れている人間。
そんな風に見えた。
すると櫛田が小さく笑う。
「なに?」
「……別に」
長谷部は視線を逸らした。
その日の放課後。
長谷部は一人でケヤキモールを歩いていた。
冬の夕暮れ。
ガラス越しの暖色照明。
学生たちの笑い声。
カップル。
買い物袋。
コーヒーの香り。
その全てが、どこか遠い。
長谷部は無意識にショーウィンドウを見る。
ガラスに映る自分。
長い髪。
170cmある身長。
厚手の制服の上からでも分かる身体。
昔から嫌だった。
小学生の頃から。
男子の視線。
「でけー」
「スタイルいいじゃん」
「やばくね?」
そんな言葉を向けられるたび、
自分の身体だけが勝手に切り取られていくようで気持ち悪かった。
だから隠してきた。
猫背気味に歩いて。
大きめの服を着て。
なるべく目立たないようにして。
なのに。
携帯を開けば、佐倉は笑っている。
見られる世界の真ん中で。
長谷部は立ち止まった。
そして小さく呟く。
「……愛里は、なんで平気なのよ」
当然、返事はない。
だがその時。
視界の端に、一枚のポスターが入った。
『新規部活動申請受付中』
長谷部は足を止める。
ポスターを見つめる。
しばらく動かなかった。
頭の中に、佐倉の笑顔が浮かぶ。
雫としてカメラへ向けられた、以前よりずっと自然な顔。
長谷部はゆっくり息を吐いた。
そして。
「……見てるだけじゃ、分かんないか」
誰にも聞こえない声でそう呟いた。
その目は、ほんの少しだけ前を向いていた。
◯
数日後。
二学期までのような慌ただしさはまだない。
文化祭も終わった。
修学旅行も終わった。
冬休みも終わった。
あとはただ、卒業へ向かって時間が流れていくだけ。
そんな空気が学校全体に漂っている。
だが長谷部波瑠加だけは、その流れにうまく乗れていなかった。
昼休み。
廊下の窓際で、長谷部は今日も携帯を見つめていた。
画面には、また雫のSNS。
今日は雑誌撮影のオフショット動画だった。
白いコート姿の佐倉愛里――いや、雫がスタッフに何か言われて小さく笑っている。
その笑顔が、長谷部にはまだ不思議だった。
昔の佐倉は、カメラを向けられるだけで緊張していた。
人前に出るのも得意じゃなかった。
なのに今は違う。
ちゃんとカメラの前で笑っている。
見られることを恐れていないように見える。
コメント欄が流れていく。
『透明感すごい』
『笑顔かわいすぎる』
『癒される』
長谷部は無意識にスマホを握る手へ力を入れた。
その時。
「また見てるの?」
不意に声が落ちてくる。
長谷部が顔を上げると、一之瀬帆波が困ったように笑っていた。
「……別に」
反射的に携帯を伏せる。
他クラスの一之瀬だが堀北クラスへ来る光景は珍しくない。
最近は特に、昼休みに少し話すことが増えていた。
きっかけは、本当に些細な出来事だった。
二学期の終わり頃。
放課後のトイレで、長谷部は制服の胸元を押さえながら顔をしかめていた。
「……最悪」
小さく漏れた声に反応したのが、一之瀬だった。
「どうしたの?」
「いや、なんかボタン緩くなってて……」
言いながら長谷部は制服の胸元を見る。
最近、少し動くだけでもボタン部分が引っ張られる感覚が増えていた。
昔から身体付きのことで視線を向けられることは多かったが、
制服のサイズ問題まで出てくると、流石に気分が沈む。
しかもその日は、座った拍子に糸がかなりほつれてしまっていた。
「うわ、結構危ないかも」
一之瀬が苦笑する。
長谷部は深くため息を吐いた。
「ほんと嫌になる……」
その時だった。
「もしよかったら、直そうか?」
「……え?」
一之瀬は鞄の中から、小さな裁縫セットを取り出した。
「家庭科で使ったやつ入れっぱなしだったんだ」
「いや、でも悪いし」
「大丈夫だよ。こういうの割と好きだから」
そう言って、一之瀬は当たり前みたいに笑った。
結局、空き教室を借りて直してもらうことになった。
一之瀬は慣れた手付きで糸を通しながら、自然な口調で話していた。
「長谷部さんって、結構姿勢悪いよね」
「うっ……」
「無意識に隠そうとしてる感じ」
図星だった。
長谷部は思わず視線を逸らす。
一之瀬はそんな反応を見ても、からかうような顔はしなかった。
ただ静かに針を動かしながら言った。
「でも、別に悪いことじゃないと思うよ」
「……何が?」
「嫌だったんでしょ。昔から色々言われたりとか」
その言葉に、長谷部は少し驚いた。
一之瀬は、やっぱり変に察しがいい。
「まあ……嫌だったけど」
「そっか」
それ以上は聞いてこない。
でも否定もしない。
その距離感が、不思議と居心地悪くなかった。
結局、ほつれていたボタンは綺麗に縫い直された。
「はい、これで大丈夫」
「……ありがと」
長谷部がそう言うと、一之瀬は柔らかく笑った。
「どういたしまして」
それ以来だった。
昼休みに少し話したり。
廊下で会えば軽く会話したり。
以前より自然に、一之瀬と関わるようになったのは。
「最近ずっと見てるよね、雫ちゃんのこと」
雫ちゃん。
その呼び方に長谷部は少し違和感を覚える。
自分の中ではまだ、佐倉愛里だった。
「ほなみんまでそう呼ぶんだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
一之瀬は少しだけ首を傾げたが、それ以上追及しなかった。
この辺りの距離感が、一之瀬は上手い。
踏み込みすぎない。
でも放っておきもしない。
だから少し苦手だ。
優しすぎる人間は、自分の汚い感情を見透かされそうで落ち着かない。
「でも、すごいよね」
一之瀬が携帯画面を見ながら言う。
「すごいって?」
「ちゃんと前に進んでる感じがする」
その言葉に長谷部の視線が止まる。
前に進む。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
長谷部は携帯画面へ視線を戻す。
そこには、相変わらず笑っている佐倉がいた。
前に進んでいる。
確かにそうだ。
退学して。
学校を離れて。
芸能界へ戻って。
佐倉はもう、自分たちの知らない場所へ進んでいる。
なのに。
「……私だけ置いてかれてるみたい」
気付けば、小さくそんな言葉が漏れていた。
一之瀬は少し驚いたように長谷部を見る。
だが、すぐに柔らかく笑った。
「置いてかれてるんじゃなくて、長谷部さんが止まっちゃってるだけかもね」
長谷部は思わず顔をしかめた。
「それ、結構ズバッと言うよね」
「ご、ごめん!」
慌てる一之瀬。
長谷部は小さく息を吐いて、壁へ背中を預けた。
「……いや、たぶんそうなんだろうけどさ」
廊下の窓から冬の日差しが差し込む。
どこか眠くなるような午後だった。
長谷部はぼんやり天井を見上げる。
そしてふと、数日前に見た部活動申請ポスターを思い出した。
『新規部活動申請受付中』
あの時、自分は何を考えていたのか。
いや。
考えていたこと自体は分かっている。
佐倉が見ていた世界を知りたい。
ただ、それだけだった。
でも。
実際に何をするのかは、まだ曖昧だった。
グラビア。
その言葉を頭の中で転がすだけで、少し気持ち悪くなる。
見られる。
評価される。
身体を見せる。
昔から苦手だった。
なのに、佐倉はその世界にいる。
長谷部は再び携帯を見る。
そこには相変わらず、笑っている雫。
その時だった。
「なーに暗い顔してんだよ」
突然、後ろから頭を軽く叩かれた。
「痛っ」
振り返る。
三宅明人だった。
その横には幸村もいる。
「みやっち普通に痛いんだけど」
「悪い悪い」
全然悪そうじゃない顔で笑う三宅。
長谷部は不満そうに頬を膨らませた。
幸村はそんな二人を見ながら静かに言う。
「お前、最近ずっとその顔してるな」
「その顔って?」
「考え込んでる顔」
長谷部は少し黙る。
図星だった。
三宅が空いている間へ立つ。
「で?何考えてるんだ?」
「別に」
「絶対別にじゃないだろ」
「うるさいなぁ……」
長谷部は視線を逸らした。
だが、三宅も幸村も待っている。
その空気に負けたように、長谷部は小さく息を吐いた。
「……部活、作ろうかなって」
数秒、沈黙。
そして。
「は?」
三宅が素っ頓狂な声を出した。
「お前が?」
「なにその反応」
「いやだって波瑠加、そういうタイプじゃないだろ」
「自分でもそう思う」
幸村が腕を組む。
「で、何部だ?」
長谷部は少し迷った。
口にするのが妙に恥ずかしい。
だが、ここまで言った以上、もう隠せない。
「……グラビアアイドル部」
空気が止まった。
教室の雑音だけが遠く聞こえる。
三宅が瞬きを繰り返す。
幸村は無言。
一之瀬だけが「えっ」と目を丸くしていた。
長谷部は急に居心地が悪くなる。
「……やっぱ今のなし」
「いや待て待て待て」
三宅が慌てて引き止める。
「なんでそうなるんだよ!?」
「だって自分でも意味分かんないし!」
長谷部は顔を赤くしながら机へ突っ伏した。
「なんなの私……」
三宅と幸村が顔を見合わせる。
しばらくして、幸村が静かに口を開いた。
「……佐倉の影響か?」
その一言で、長谷部の動きが止まった。
図星だった。
長谷部は顔を伏せたまま、小さく言う。
「……分かんないんだよ」
誰も口を挟まない。
長谷部は続ける。
「愛里、昔あんなに人前苦手だったのにさ。今、普通に笑ってるじゃん。
なんであんな風にいられるのか、全然分かんなくて」
その声は、自分でも驚くくらい素直だった。
「だから……ちょっとだけでも、知れたらなって」
窓から冬の日差しが差し込む。
静かな昼休みだった。
三宅は長谷部を見ながら、少しだけ真面目な顔になる。
そして。
「……じゃあ、やってみればいいじゃないか」
長谷部が顔を上げる。
三宅は肩をすくめた。
「知らないままモヤモヤしてるよりマシだろ」
幸村も小さく頷く。
「少なくとも、お前がそこまで言うなら本気なんだろうしな」
長谷部は二人を見る。
昔と同じ。
少し呆れながら。
でもちゃんと付き合ってくれる空気。
それが少しだけ嬉しかった。
そしてその瞬間。
長谷部の頭の中で、ぼんやりしていたものが、少しだけ形になった気がした。
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