7月。
高度育成高等学校の空気は、完全に夏へ変わっていた。
日差しは強くなり始めている。
昼休みの校舎は少し蒸し暑く、窓を開けても風がぬるい。
そして、グラビアアイドル部の部室には、妙な緊張感が漂っていた。
長谷部波瑠加は机へ突っ伏したまま動かない。
三宅明人はそんな長谷部を見ながら、半笑いだった。
「いや、そこまで嫌がるか?」
長谷部は顔を上げない。
「……無理」
「まだ何も始まってないんだけど」
「だから無理」
机へ顔を埋めたまま呻く。
その横で、一之瀬帆波が少し困ったように笑っていた。
松下千秋は雑誌をめくりながら静かにため息を吐く。
櫛田桔梗は微妙に苦笑い。
幸村輝彦はノートを見ながら現実逃避気味に視線を逸らしていた。
そして。
元凶は、満面の笑みだった。
「だって夏よ!?」
星之宮知恵が机を叩く。
「プール撮影は青春の義務でしょ!!」
「どこの法律!?」
長谷部が勢いよく顔を上げる。
だが星之宮は止まらない。
「むしろ今まで避けてたのが不自然なのよ!」
「いや避けるでしょ普通!」
部室に笑いが広がる。
だが、長谷部だけは笑えなかった。
プール。
水着。
その単語だけで胃が重い。
この部活を始めてから、長谷部は少しずつ変わってきた。
撮られること。
見られること。
自分の身体。
全部、少しずつ受け入れられるようになってきた。
でも。
水着だけは別だった。
隠せない。
誤魔化せない。
制服も。
私服も。
多少は隠す余地がある。
でも水着は違う。
身体の輪郭が、そのまま出る。
長谷部にとって、それは昔から一番苦手なものだった。
「波瑠加ちゃん」
一之瀬が優しく声をかける。
「無理そうなら、本当に無理しなくていいからね?」
その言葉が、逆に少し苦しかった。
長谷部は小さく息を吐く。
逃げたい。
でも、逃げたくない気持ちもある。
ここで避けたら。
また昔の自分へ戻る気がした。
その時だった。
櫛田が静かに口を開く。
「……私も、ちょっと怖いよ」
部室が少し静かになる。
長谷部が顔を上げる。
櫛田は窓の外を見ていた。
「え?」
長谷部が思わず聞き返す。
櫛田は少しだけ苦笑した。
「いや、だって普通に恥ずかしいし」
その声は、珍しく作っていない声だった。
長谷部は少しだけ止まる。
櫛田は、こういうの平気だと思っていた。
見られること。
身体を見せること。
そういうものへ慣れている側だと思っていた。
でも違う。
「慣れてるように見えるだけ」
櫛田が小さく笑う。
「最近、長谷部さんがよく言ってるやつ」
長谷部は少し黙る。
その言葉を聞いた瞬間。
少しだけ肩の力が抜けた。
その日の放課後。
グラビアアイドル部は、校内プールへ来ていた。
夏本番だが、夕方のため生徒はそこまで多くない。
夕方のプールサイド。
少し赤くなり始めた空。
静かな水面。
長谷部は、更衣室前で完全に固まっていた。
「……帰りたい」
「まだ始まってないって」
三宅が呆れる。
「みやっちは男だから気楽でいいよね……」
長谷部が恨めしそうに言う。
三宅は少し困った顔になった。
その言葉へ、簡単には返せなかった。
幸村が静かに言う。
「波瑠加」
「なに……」
「本当に無理ならやめてもいい」
長谷部は少しだけ俯く。
その言葉がありがたかった。
無理やりじゃない。
逃げ道がある。
だから逆に。
少しだけ、自分で決めたくなった。
長谷部は小さく息を吸う。
それから。
「……やる」
そう言った。
更衣室。
長谷部は鏡の前で止まっていた。
水着姿の自分。
昔から嫌だった。
視線を集める身体。
目立つライン。
隠したい部分。
全部がそこにある。
長谷部は少しだけ唇を噛む。
その時。
「長谷部さん」
一之瀬が隣へ来る。
一之瀬も水着姿だった。
柔らかい雰囲気。
嫌味がない自然。
長谷部は思わず見てしまう。
すると一之瀬が少し照れたように笑う。
「そんな見られると恥ずかしいよ……」
長谷部はハッとする。
昔の自分なら。
見られる側のことしか考えていなかった。
でも今は違う。
自分も、誰かを見ている。
その感覚を知っている。
松下が後ろから言った。
「波瑠加、ちゃんと似合ってるよ」
長谷部が振り向く。
松下は落ち着いた空気のまま微笑んでいた。
櫛田は少し照れ臭そうだった。
「……やっぱ普通に恥ずかしいねこれ」
長谷部は、その言葉に少し笑ってしまう。
「なんだ、キョーちゃんも一緒じゃん」
その呼び方が自然に出る。
櫛田が少しだけ目を細めた。
「うん。一緒」
その瞬間。
長谷部の胸の奥で、何かが少しだけほどけた気がした。
プールサイドへ出る。
夕方の風が肌へ触れる。
少し冷たい。
でも、不思議と嫌じゃない。
三宅がカメラを構える。
だが。
今日はすぐには撮らなかった。
まず、普通に話す。
歩く。
水へ足を入れる。
笑う。
その空気を作っていた。
長谷部は、水面を見る。
そこには、水着姿の自分が映っていた。
昔なら、目を逸らしていた。
でも今は少しだけ、見ていられる。
その時だった。
水着姿の天沢一夏が突然プールサイドへ現れる。
「やってるやってる~!」
「なんで来るの!?」
長谷部が叫ぶ。
七瀬翼も後ろにいた。
「天沢さん、勝手に来るのは……」
だが天沢は止まらない。
「うわっ、みんな夏っぽーい!」
その瞬間。
長谷部は反射的に腕を組みそうになる。
でもその時。
一之瀬が隣で笑った。
松下が普通に立っていた。
櫛田も、少し恥ずかしそうにしながら笑っている。
長谷部は小さく息を吐く。
そして腕を下ろした。
その瞬間だった。
「えいっ♪」
突然。
天沢が七瀬へ向かって水を跳ね上げた。
ぱしゃっ。
「きゃっ……!」
七瀬が思わず肩を跳ねさせる。
「天沢さん!?」
「えへへー♪」
天沢は完全に楽しそうだった。
プールサイドぎりぎりへしゃがみ込み、今度は両手で水を掬う。
ぱしゃぱしゃっ。
「わっ、ちょっ……!」
七瀬が慌てて避ける。
だが次の瞬間。
七瀬も少しだけ笑った。
「……もう、知りませんよっ」
ぱしゃっ。
今度は七瀬がやり返した。
「うわっ!?七瀬ちゃんの反撃だぁ~!」
「先に仕掛けたのは天沢さんです!」
二人の笑い声が、夕方のプールへ響く。
その光景を見ながら。
長谷部は少しだけ目を丸くした。
天沢も。
七瀬も。
今、見られることなんてほとんど気にしていない。
ただ楽しんでいる。
その姿が、妙に眩しかった。
その時だった。
「ふふっ」
隣で、一之瀬が笑う。
そして。
「私たちも行こう!」
そう言って、一之瀬はプールサイドへ駆けていった。
「えっ、ほなみん!?」
長谷部が止める間もない。
一之瀬は、そのまま水際へしゃがみ込む。
ぱしゃっ。
天沢へ軽く水を飛ばした。
「わーっ!?ほなみん先輩まで参戦!?」
「ちょっとだけね?」
一之瀬が笑う。
その笑顔は、夕焼けの光で柔らかく染まっていた。
松下が小さく肩をすくめる。
「……なんか、もう入る流れだねこれ」
だがその声は少し楽しそうだった。
櫛田も笑っている。
「長谷部さん、どうする?」
長谷部は少しだけ止まる。
目の前では。
天沢が無邪気に笑っている。
七瀬が水を避けながら笑っている。
一之瀬が楽しそうに手を叩いている。
松下が苦笑しながら近付いていく。
櫛田も髪を押さえながら笑っている。
みんな水着だった。
でも誰も見せようとしていなかった。
ただ、思いっきり楽しんでいた。
その空気が、長谷部の胸へ静かに入ってくる。
昔の自分なら、こういう場所では、ずっと身体を隠していた。
視線ばかり気にしていた。
でも今、この場所にあるのは、そんな空気じゃない。
その時。
「はるかセンパーイ!!」
天沢が両手で水を掬う。
嫌な予感。
「待っ――」
ぱしゃあっ!!
「ひゃっ!?」
冷たい水が長谷部へ飛んでくる。
長谷部が思わず肩を震わせた。
その瞬間、プールサイドに笑い声が広がった。
「天沢さん!」
七瀬が止めようとする。
だが天沢は止まらない。
「はるかセンパイもこっちこっちー!」
一之瀬も笑いながら手を振る。
「波瑠加ちゃんも来なよ!」
松下も笑っていた。
櫛田は少し照れながら言う。
「ほら、長谷部さんだけ逃げるのずるい」
長谷部は少しだけ固まる。
それから、ふっと笑った。
「……もー、知らないからね!!」
長谷部も勢いよく水際へ駆ける。
ぱしゃっ!!
今度は長谷部が天沢へ水を飛ばした。
「うわっ!?やったなー!?」
「先にやったのそっちでしょ!」
笑い声。
水音。
夕焼け。
揺れる水面。
プールサイドには、もう撮影の空気はほとんど残っていなかった。
そこにあるのはただ、高校生たちの放課後だった。
三宅は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
カメラを構える。
水を掛け合う女子たち。
夕陽に照らされる笑顔。
長谷部波瑠加。
以前は、視線から逃げていた少女。
その彼女が今。
思い切り笑っている。
身体を隠さず。
周囲を怖がらず。
ちゃんと、この場所にいる。
三宅は静かにシャッターを切った。
カシャ。
その写真には。
夕焼けのプールサイドで笑う、青春そのものみたいな時間が映っていた。
三宅は画面を見ながら、小さく笑う。
「……今の、めちゃくちゃ良かった」
撮られたことに気がついた長谷部は恐る恐る近付く。
画面を見る。
そこには夕方のプールサイドで。
少しだけ緊張しながら。
でも、ちゃんと前を向いて立っている自分が映っていた。
完璧じゃない。
自信満々でもない。
でも逃げていなかった。
長谷部は、その写真をしばらく見つめる。
その時、松下が静かに言った。
「波瑠加、前より自分の身体を嫌ってる感じ減ったね」
長谷部は少しだけ止まる。
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
嫌いじゃなくなったわけじゃない。
でも前ほど敵じゃなくなっている。
走れる身体。
笑える身体。
誰かと並んで立てる身体。
そう思える瞬間が、少しずつ増えている。
夕焼けが、水面へ映る。
風が吹く。
水が揺れる。
長谷部は静かに空を見る。
そして、小さく思った。
――愛里。
私、ちょっとだけ分かってきたかもしれない。
見られるって。
怖いだけじゃないんだね。
◯
7月の終わり。
高度育成高等学校には、夏休み特有の空気が流れていた。
窓を開ければ蒸し暑い風が入る。
蝉はまだ鳴いていない。
けれど、夏の日差しは確実に勢いを増していた。
そんな放課後。
第三準備室――グラビアアイドル部の部室では、珍しく静かな時間が流れていた。
一之瀬帆波は雑誌を閉じる。
松下千秋は机へ頬杖をつきながら窓の外を見ていた。
櫛田桔梗は携帯端末を弄っている。
三宅明人はカメラデータを整理していた。
幸村輝彦はノートへ活動記録を書いている。
星之宮知恵だけがソファでだらけていた。
そして。
長谷部波瑠加は、一人だけ少し落ち着かなかった。
理由は簡単だった。
携帯画面に表示されている名前。
『雫 新写真集発売記念イベント決定』
長谷部は、その文字を見つめる。
都内。
イベント。
本来なら行ける距離。
長谷部は小さく息を吐く。
胸の奥が、少しだけざわつく。
「波瑠加ちゃん?」
一之瀬が優しく声をかける。
長谷部は反射的に携帯を伏せた。
だが最近は、もうそこまで隠す必要もない気がしていた。
長谷部は少しだけ苦笑する。
「……愛里」
その瞬間。
部室の空気が少し静かになる。
櫛田も顔を上げた。
長谷部は携帯画面を見せる。
写真集イベントの告知。
そこに写っている雫は、以前よりずっと大人っぽかった。
柔らかい笑顔。
落ち着いた視線。
でも長谷部には分かる。
その奥に、昔の愛里もちゃんと残っている。
一之瀬が小さく笑う。
「すごいね」
松下も静かに頷く。
「完全にプロって感じ」
長谷部は少しだけ目を細める。
最初はこういう写真を見るたび苦しかった。
置いていかれた気がした。
愛里だけが前へ進んで、自分は止まっているように思えた。
でも今は違う。
遠い。
でも別世界ではなくなっていた。
その時だった。
「会いに行きたい?」
櫛田が静かに聞く。
長谷部は少し止まる。
その質問は、思っていたより真っ直ぐ胸へ入ってきた。
会いたい。
もちろん会いたい。
でも怖い。
もし、変わりすぎていたら。
もし、自分だけ昔のままだったら。
もし、親友だった頃へ戻れなかったら。
長谷部は小さく視線を落とす。
「……分かんない」
その声は、少しだけ弱かった。
部室が静かになる。
でも、自分たちは高育の生徒だ。
簡単には外へ出られない。
その現実が、妙に歯痒かった。
長谷部は小さく息を吐く。
「……会いに行けないんだよね、まだ」
その声は、少しだけ寂しそうだった。
部室が静かになる。
その沈黙を破ったのは、三宅だった。
「じゃあ、卒業したら会いに行けばいいじゃないか」
長谷部が顔を上げる。
三宅は普通に言った。
「分かんないなら、直接見ればいいだろ」
長谷部は少しだけ目を瞬かせる。
三宅は続けた。
「俺もさ、最近ちょっと思うんだよ」
カメラを机へ置く。
「佐倉って、今どういう顔で笑うんだろうなって」
その言葉に、長谷部の胸が少しだけ揺れる。
三宅も。
幸村も。
ずっと愛里を忘れていなかった。
その当たり前の事実が、妙に温かかった。
幸村も静かに言う。
「俺も興味はある」
「ゆきむーの言い方、研究対象みたいなんだけど」
長谷部が少し笑う。
だがその笑いは、少しだけ救われたみたいだった。
長谷部は少し顔を上げる。
卒業。
その言葉が、以前よりずっと現実味を持って胸へ入ってくる。
三年生。
あと一年もしない。
この学校を出れば。
自由に会いに行ける。
自由に写真を撮れる。
自由に、愛里のいる世界へ近付ける。
その時だった。
三宅がニッと笑ってと言った。
「決まりだな」
全員が顔を向ける。
三宅は少し照れ臭そうに笑った。
「卒業したら、みんなで会いに行く」
長谷部が少し止まる。
幸村も静かに頷いた。
「それは悪くない案だな」
長谷部の胸が、少しだけ熱くなる。
卒業後。
新幹線。
知らない街。
そして、その先にいる愛里。
その景色を想像した瞬間。
初めて、卒業後の未来が少しだけ楽しみになった。
その時だった。
「……なんかさ」
長谷部が小さく笑う。
「こうやって愛里の話するの、久しぶりかも」
部室が少し静かになる。
でもその空気は重くなかった。
以前なら、佐倉愛里の名前を出すだけで、胸が苦しくなっていた。
退学。
後悔。
綾小路や堀北への怒り。
全部が混ざっていたから。
でも今は違う。
思い出として話せるくらいには、時間が流れていた。
三宅が少し笑う。
「愛里って、意外と頑張り屋だったよな」
長谷部が顔を上げる。
三宅は懐かしそうに続けた。
「最初めちゃくちゃ大人しかったのに、カメラ持つとテンション上がってたし」
「あー……分かる」
長谷部も自然に笑っていた。
佐倉愛里。
内気で、人見知りで。
ちょっとおどおどしていて。
でもカメラの話になると、急に夢中になっていた。
「よく撮ってたよね」
長谷部がぽつりと言う。
「寮の前とか、ケヤキモールとか、くだらない写真いっぱい」
三宅が吹き出す。
「覚えてる。変なポーズ大会みたいになってたやつ」
「みやっちが急に変顔始めたんでしょ」
「いや長谷部もやってた」
「愛里、笑いながら撮ってたよねぇ……」
その瞬間。
長谷部の脳裏へ、昔の光景が浮かぶ。
携帯を両手で持ちながら、少し照れた顔で笑う愛里。
『も、もう一枚いい?』
そんな声。
夕方のケヤキモール。
なんでもない放課後。
その記憶が、胸へじんわり広がる。
幸村も静かに口を開いた。
「伊達メガネ、意外と似合っていたな」
長谷部が思わず吹き出す。
「あったねそれ!」
三宅も笑う。
「佐倉、絶対視力いいのに雰囲気で掛けてたやつな」
「でも本人めちゃくちゃ気に入ってたよね」
『ど、どうかな……変じゃない?』
少し不安そうに聞いてきた愛里。
でも実際かなり似合っていた。
長谷部は小さく笑う。
「愛里は内気だからよく自分を隠してた」
「分かる」
三宅が頷く。
「まるで少し前の自分みたいでね」
長谷部は少しだけ目を細めた。
でもそういう不器用さ込みで、愛里だった。
その時。
「文化祭も、ちょっと見てみたかったかも」
一之瀬が優しく言う。
長谷部が顔を向ける。
一之瀬は少し困ったように笑った。
「メイド喫茶、佐倉さんいたら絶対可愛かったよね」
長谷部は少し止まる。
文化祭。
もし、愛里が退学していなかったら。
きっと一緒に準備していた。
写真を撮って。
騒いで。
メイド服で恥ずかしそうに笑っていたはずだ。
長谷部は小さく息を吐く。
「……やりたかったなぁ」
ぽつりと漏れる。
「みんなで」
その声は少しだけ寂しかった。
でも前みたいな痛みだけじゃなかった。
松下が静かに言った。
「私はそんなに深く話したことあるわけじゃないけど」
長谷部たちが顔を向ける。
松下は少し懐かしそうに笑った。
「たまに話した時、すごく小動物っぽかったの覚えてる」
一之瀬も頷く。
「分かる。なんか、びっくりするとすぐ顔に出るんだよね」
櫛田も少し笑った。
「あと、褒めるとすぐ真っ赤になってた」
長谷部が吹き出す。
「なるなる!」
部室に笑い声が広がる。
長谷部は、その空気を静かに感じていた。
みんなちゃんと愛里を覚えている。
特別深い関係じゃなくても。
少し話しただけでも。
笑った顔を。
照れた顔を。
ちゃんと覚えている。
その事実が、妙に嬉しかった。
その時だった。
櫛田が、ふっと柔らかい声で言う。
「でもさ」
部室が少し静かになる。
櫛田は長谷部を見る。
「今の長谷部さん見たら、佐倉さんびっくりすると思う」
長谷部が目を瞬かせる。
「え?」
櫛田は少し笑った。
「だって最初、写真撮られるだけで逃げそうだったじゃん」
「うっ……」
「それが今、普通に外撮影してるし」
一之瀬も優しく頷く。
「うん。ほんと変わったと思う」
松下も静かに笑った。
「最近の長谷部さん、前よりずっと自然だしね」
長谷部は少しだけ黙る。
それから。
小さく笑った。
「……だったらいいな」
もし今の自分を、愛里が見たら。
どう思うだろう。
笑ってくれるだろうか。
驚くだろうか。
少しは成長したって思ってくれるだろうか。
長谷部は机の上の写真を見る。
そこには。
夕焼けの帰り道で笑う自分たちが映っていた。
青春みたいな時間。
少しずつ積み重ねてきた場所。
長谷部は静かに息を吐く。
そして。
小さく呟いた。
「……早く会いたいなぁ」
その声は最初の頃よりずっと、前を向いていた。
その日の活動後。
長谷部は一人で廊下を歩いていた。
夕方の校舎。
窓の外は少し赤い。
長谷部は携帯を開く。
雫の写真。
少し大人っぽい笑顔。
昔より綺麗になった。
でも長谷部には分かる。
愛里は、たぶん今でも少し緊張しながら笑っている。
最初から完璧だったわけじゃない。
きっと、何度も悩んで。
何度も怖がって。
それでも前へ進んできた。
長谷部は小さく息を吐く。
その時だった。
「長谷部」
後ろから声。
振り向く。
綾小路清隆だった。
夕陽が廊下を赤く染めている。
長谷部は少しだけ驚く。
最近、偶然会うことが増えていた。
いや偶然というより。
お互い、前より逃げなくなったのかもしれない。
綾小路は長谷部の携帯画面を見る。
そこに映る雫。
綾小路は少しだけ目を細めた。
「イベントか」
長谷部は小さく頷く。
「うん」
沈黙。
昔なら長谷部はもっと感情的になっていた。
でも今は違う。
静かな空気のまま、綾小路へ聞く。
「……きよぽんはさ」
綾小路が顔を向ける。
長谷部は少し迷う。
それから言った。
「愛里に会いたいって思う?」
夕方の風が、静かな廊下を抜ける。
綾小路は少しだけ考える。
そして。
「会いたくないわけじゃない」
そう答えた。
長谷部は少しだけ目を伏せる。
その答えが、綾小路らしかった。
遠回しで。
でも嘘じゃない。
長谷部は小さく笑う。
「素直じゃないよねぇ、ほんと」
「お前に言われたくない」
長谷部が吹き出す。
その瞬間。
ふと気付く。
昔みたいに。
普通に話している。
怒鳴ってもいない。
泣いてもいない。
ただ夕方の廊下で、普通に会話している。
それが少し不思議だった。
長谷部は窓の外を見る。
夕焼け。
夏の空。
そして少しずつ変わっていく自分。
「……会いに行こうかな」
ぽつりと呟く。
綾小路は何も言わない。
でも否定もしなかった。
長谷部は携帯画面を見る。
雫。
佐倉愛里。
親友。
妹みたいな存在。
そして自分が、この部活を始める理由になった人。
長谷部は、小さく息を吐く。
怖い。
でも今なら少しだけ。
ちゃんと会える気がしていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。