放課後。
冬の夕陽が、高度育成高等学校の廊下を長く染めていた。
窓ガラスへ反射する橙色の光が、
静まり始めた校舎をどこか別世界みたいに見せている。
そんな中、長谷部波瑠加は一人、職員室前の廊下で立ち止まっていた。
右手には、一枚の紙。
『新規部活動申請書』
その文字を見下ろすたび、胃の辺りが微妙に重くなる。
――本当にやるの?
頭の中で、何度目か分からない自問が繰り返される。
勢いで「部活作る」と言った。
三宅と幸村も、思ったより普通に受け入れてきた。
だが、だからといって不安が消えるわけじゃない。
むしろ現実味が出た分だけ、余計に怖くなっていた。
グラビアアイドル部。
改めて文字にすると意味が分からない。
学校で何をやるつもりなのか。
自分でもまだ説明できない。
ただ一つだけ確かなのは、佐倉愛里――雫が見ていた世界を、
自分はまだ何も知らないということだった。
長谷部は小さく息を吐く。
そして職員室の扉を見た。
「……帰ろうかな」
弱気な呟き。
その時だった。
「何してるの?」
背後から、明るい声が飛んできた。
長谷部が肩を跳ねさせて振り返る。
そこに立っていたのは、一之瀬帆波だった。
冬用コートを腕に掛けたまま、こちらを見ている。
「ほなみん……」
「職員室の前で止まってるから、どうしたのかなって」
一之瀬は長谷部の手元を見る。
そして、申請書の文字を見つけた。
「……あ」
長谷部は反射的に紙を隠す。
「見ないでって!」
「ご、ごめん!」
慌てる一之瀬。
だが次の瞬間、小さく目を丸くした。
「えっ、ほんとに作るの?」
「……まだ分かんない」
長谷部は視線を逸らす。
すると一之瀬は、少し考えるように首を傾げた。
「でも、長谷部さんらしくていいと思う」
「どこが?」
「ちゃんと悩んでから動くところ」
長谷部は微妙な顔になる。
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ?」
一之瀬は本当にそう思っている顔だった。
長谷部は小さく息を吐く。
この人は、やっぱり調子が狂う。
その時。
「おー、いたいた」
聞き慣れた声が廊下の奥から近付いてきた。
三宅だった。
その後ろには幸村もいる。
「なんで一之瀬までいるんだ?」
「たまたま会っただけ」
「ふーん」
三宅は意味深に笑う。
長谷部は即座に睨んだ。
「変な顔すんな」
「してねえって」
幸村はそんなやり取りを横目に、長谷部の手元を見る。
「それ、まだ出してなかったのか」
「……なんか、急に現実味出てきてさ」
長谷部は申請書を見下ろす。
部活名欄だけ、まだ空白だった。
三宅がそれを見て吹き出す。
「そこ決まってないのかよ」
「だってグラビアアイドル部ってそのまま書くの恥ずかしいじゃん!」
「今さらだろ」
「うるさい」
長谷部は顔をしかめた。
その反応が少し面白かったのか、一之瀬が小さく笑う。
「でも、ちゃんと活動するなら顧問の先生必要だよね?」
その一言で空気が止まる。
長谷部と三宅と幸村が同時に顔を見合わせた。
「……あ」
完全に忘れていた。
「誰に頼むんだ?」
幸村が腕を組む。
長谷部は考える。
茶柱。
……絶対嫌な顔する。
真嶋。
もっと嫌。
その時だった。
「あら、何が嫌なの?」
突然後ろから女性の声がした。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、星之宮知恵だった。
いつものように柔らかな笑顔。
だが目が完全に面白がっている。
「げっ」
長谷部が思わず声を漏らす。
「ひどくない!?」
星之宮が大袈裟に胸を押さえる。
「先生傷ついちゃう!」
「いやだってタイミングが……」
「で?何の話?」
星之宮は興味津々で近付いてくる。
長谷部は嫌な予感しかしなかった。
三宅が少し笑っている。
幸村は静かに視線を逸らした。
裏切った。
長谷部は心の中でそう思った。
「……部活作ろうとしてて」
「へえ?」
「顧問どうするかって話してただけです」
なるべく簡潔に済ませようとする。
だが星之宮は逃がしてくれない。
「何部?」
長谷部は数秒黙った。
逃げたい。
今すぐ帰りたい。
でも星之宮は完全に待っている。
一之瀬まで少し困った顔で見ている。
長谷部は観念したように小さく言った。
「……グラビアアイドル部」
沈黙。
そして。
「え、超面白そうじゃない!?」
星之宮が即答した。
長谷部は一瞬固まる。
「……は?」
「いやいや待って、青春って感じする!」
「します?」
幸村が珍しく困惑している。
だが星之宮は止まらない。
「何それ、撮影とかするの!?」
「まあ、一応……」
「最高じゃない!」
目が輝いていた。
完全に楽しんでいる。
長谷部は頭を抱えたくなった。
だがその一方で、少しだけ安心している自分もいた。
否定されると思っていたからだ。
軽薄だとか。
ふざけてるとか。
そんな風に言われると思っていた。
でも星之宮は違った。
「いいじゃない。表現活動ってことでしょ?」
その言葉に長谷部は顔を上げる。
星之宮は続けた。
「見せ方を研究するのって、別に悪いことじゃないわよ」
「……見せ方」
「そう。服も、メイクも、写真も、全部どう見せるかだもの」
長谷部は少し黙る。
どう見せるか。
その言葉は、妙に胸へ残った。
すると星之宮がニヤッと笑った。
「というわけで、顧問やってあげてもいいわよ?」
「軽いな」
三宅が吹き出す。
「だって面白そうなんだもん」
「いや絶対それだけじゃないでしょ」
「失礼ねー」
星之宮は笑いながら長谷部を見る。
「で?長谷部さんはなんでこの部活作りたいの?」
その質問に、長谷部は少し言葉を失った。
廊下の窓から、夕焼けが差し込む。
校舎の影が長く伸びている。
長谷部は手の中の申請書を見る。
そして静かに言った。
「……知りたいんです」
星之宮が目を細める。
「何を?」
長谷部は少しだけ迷った。
だが、もう誤魔化す気にはなれなかった。
「佐倉愛里が……見てた世界を」
その場が静かになる。
一之瀬が小さく息を呑む。
三宅も幸村も、何も言わない。
長谷部は続けた。
「昔のあの子、人前とか苦手だったのに。今は普通に笑ってるから。
だから……なんでそんな風になれたのか、ちょっと知りたくて」
言い終わった後、自分でも少し驚いた。
こんなに素直に話すつもりはなかった。
だが星之宮は茶化さなかった。
ただ静かに、長谷部を見ていた。
そして。
「……良い理由じゃない」
柔らかくそう言った。
長谷部は少し目を伏せる。
その時だった。
星之宮が突然笑顔になる。
「よし決めた!私、その部活入る!」
「顧問でしょ!?」
「撮影も参加するって意味!」
「なんで!?」
「青春したいから!」
廊下に笑い声が響く。
長谷部は呆れながらも、小さく笑ってしまった。
そしてその瞬間。
止まっていた何かが、少しだけ動き始めた気がした。
放課後の校舎には、昼間とは違う静けさがあった。
授業中は人の声や足音で満たされていた廊下も、
放課後になると少しずつ空白が増えていく。
部活動へ向かう生徒。
寮へ戻る生徒。
ケヤキモールへ向かう生徒。
それぞれが自分の居場所へ散っていく中で、
長谷部は一枚の鍵を手のひらに乗せたまま、
特別棟三階の廊下に立っていた。
「……本当に使っていいんだ」
鍵に付けられた古いタグには、小さく『第三準備室』と書かれている。
正式な部活動として承認されたわけではない。
あくまで仮申請。
あくまで活動準備。
それでも、星之宮が顧問として名前を書いたことで、話は思った以上に早く進んだ。
「先生って、こういう時だけ妙に頼りになるんだね」
長谷部がぽつりと呟くと、隣から明るい声が返ってきた。
「今、褒めた?褒めたわよね?」
長谷部は横を見る。
星之宮はいつものように軽い笑顔で立っていた。
教師らしい威厳はあまりない。
けれど、その軽さのおかげで、長谷部は必要以上に緊張しなくて済んでいた。
「一応、褒めました」
「一応ってなに?」
「ほしみー、すぐ調子乗りそうだから」
「もうあだ名で呼んでくれるのね。先生うれしい」
「そこ喜ぶところなんだ……」
長谷部は呆れながらも、少しだけ笑った。
その背後から、足音が二つ近づいてくる。
「おー、ここか」
三宅明人がカメラバッグを肩にかけてやって来た。
隣には幸村輝彦もいる。
幸村は何やらノートと筆記用具を持っていた。
「ゆきむー、それ何?」
「活動内容を整理するためのノートだ。
目的、必要物品、役割分担、活動頻度。
最低限それくらいは決めないと話にならない」
「真面目すぎない?」
「むしろお前が雑すぎる」
幸村の即答に、三宅が笑った。
長谷部は少しむっとしたが、反論はできなかった。
実際、勢いでここまで来た部分はある。
佐倉愛里が見ていた世界を知りたい。
その気持ちは本物だった。
けれど、それを部活動という形にした瞬間、
考えなければならないことが急に増えた。
何を撮るのか。
誰が撮るのか。
どこまでやるのか。
何を目的にするのか。
自分たちは何を見せるのか。
その全部がまだ曖昧だった。
「じゃ、開けるよ」
長谷部は鍵を差し込む。
少し固い感触があったあと、鍵が回った。
扉を開けると、冷たい空気が流れ出てくる。
中は思ったより広かった。
古い机と椅子が壁際に寄せられていて、床には薄く埃が積もっている。
黒板はほとんど使われていないのか、白いチョークの跡が薄く残っているだけだった。
窓からは冬の夕陽が差し込んでいる。
長谷部は一歩、中へ入った。
何もない部屋。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
ここが、始まりになるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
「へえ、悪くないな」
三宅が室内を見回しながら言う。
「光も入るし、窓際なら撮影にも使えそうだな」
「撮影って言われると、急に現実味出るんだけど」
長谷部は少し顔をしかめた。
三宅は肩をすくめる。
「そりゃ撮影する部活なんだろ?」
「そうなんだけどさ……」
自分で言い出したのに、いざその言葉を聞くと落ち着かない。
身体を見せる。
写真に残る。
誰かに見られる。
それはまだ、長谷部にとって簡単に受け入れられるものではなかった。
星之宮が窓辺へ歩いていき、カーテンを少し開けた。
夕陽が室内に広がる。
「いいじゃない。ここ、雰囲気あるわよ」
「雰囲気って言われても……」
「最初から完璧な場所なんてないの。自分たちで作っていけばいいのよ」
その言葉に、長谷部は少し黙った。
自分たちで作る。
その響きは、思ったより悪くなかった。
その時、廊下から控えめな声がした。
「あの……入っても大丈夫?」
全員が振り返る。
扉の前に、一之瀬帆波が立っていた。
その後ろには松下千秋もいる。
「ほなみん」
長谷部は少し驚いた。
一之瀬とはクラスが違う。
だから、こうしてわざわざ来てくれることには、まだ少し慣れない。
「星之宮先生に呼ばれて」
一之瀬が苦笑する。
松下はその隣で軽くため息をついた。
「私は一之瀬さんに誘われたの。面白そうなことをしてるって聞いたから」
「面白そうって……まだ何もしてないけど」
長谷部が言うと、松下は教室を見回してから微笑んだ。
「何もないから面白そうなんじゃない?」
その返しに、長谷部は少し言葉を失った。
松下は自然だった。
無理に明るくしているわけでもない。
必要以上に踏み込むわけでもない。
けれど、立っているだけで妙に場の空気が整う。
長谷部は、少し羨ましいと思った。
「まっちゃんってさ」
「まっちゃん?」
松下がきょとんとする。
長谷部は自分で言ってから少し気まずくなった。
「ごめん、変だった?」
「ううん。長谷部さんらしくていいんじゃない?」
松下は軽く笑った。
受け入れ方まで自然だった。
その余裕がまた少し羨ましい。
一之瀬が室内へ入り、窓際に立つ。
夕陽が彼女の横顔を柔らかく照らした。
三宅が無意識にカメラへ手を伸ばす。
だが、すぐに止めた。
長谷部はその動きを見逃さなかった。
「撮らないの?」
「勝手には撮らない」
三宅は少しだけ真面目な顔で答えた。
「撮っていいかどうかは、相手が決めることだろ」
その一言に、長谷部は少しだけ胸を突かれた。
撮れることと、撮っていいことは違う。
当たり前のようで、今まであまり考えたことがなかった。
長谷部は昔から、勝手に見られることが嫌だった。
勝手に評価されることが嫌だった。
なら、自分たちが撮る側に回る時も、同じことを考えなければならない。
「みやっち、意外とちゃんとしてるね」
「意外とは余計だ」
三宅が少し不満そうに返す。
幸村がノートを開いた。
「その考え方は活動方針に入れた方がいいな。本人の同意なく撮影しない。
公開範囲を明確にする。撮影内容の確認権を本人が持つ」
「急に規約みたいになってきた」
長谷部が言うと、幸村は眼鏡を押し上げる。
「必要なことだ。曖昧なまま始める方が危ない」
それは正論だった。
この部活は、名前だけ聞けば軽く見られるかもしれない。
けれど、扱うものは軽くない。
見られること。
見せること。
身体。
表情。
自分自身。
だからこそ、雑にはできない。
星之宮が満足そうに頷いた。
「いいじゃない。ちゃんと考えてる」
「先生は考えてなさそうだけど」
「失礼ね。私は感覚派なの」
「それ一番不安なやつ」
室内に小さな笑いが起きた。
長谷部はその空気に少し救われた。
重くなりすぎない。
でも、ふざけすぎてもいない。
不思議な温度だった。
一之瀬が長谷部を見る。
「それで、長谷部さんはこの部活で何をしたいの?」
その問いに、長谷部はすぐには答えられなかった。
何をしたいのか。
佐倉を知りたい。
佐倉が見ていた世界を知りたい。
それは確かだ。
でも、それだけでは部活の目的としては足りない気がした。
長谷部は窓の外を見る。
夕陽の中、校舎の影が長く伸びていた。
「……最初は、愛里のことを知りたかっただけなんだと思う」
その名前を出した瞬間、室内の空気が少し静かになる。
佐倉愛里。
もうこの学校にはいない親友。
けれど長谷部の中では、ずっと消えないまま残っている存在。
「退学してから、ずっと見てた。SNSも、雑誌も、動画も」
長谷部はゆっくり言葉を選んだ。
「応援してるつもりだった。でも、たぶんそれだけじゃなくて」
誰も口を挟まない。
三宅も。
幸村も。
一之瀬も。
松下も。
星之宮も。
ただ静かに聞いていた。
「置いていかれた気がしてたんだと思う」
言ってから、長谷部は自分で少し驚いた。
そんな言葉を出すつもりはなかった。
でも出てしまった。
止められなかった。
「愛里は前に進んでるのに、私だけずっと同じところにいるみたいで」
長谷部は自分の制服の袖を軽く握る。
「だから、知りたい。あの子が何を見て、何を怖がって、それでもどうやって笑ってるのか」
そして少しだけ顔を上げた。
「でも、それだけじゃない気もしてる」
一之瀬が静かに見つめている。
松下も何も言わない。
長谷部は続けた。
「私、自分の身体が昔からあんまり好きじゃなかった」
その言葉は、少しだけ勇気が必要だった。
けれど、ここでは言ってもいい気がした。
「見られるのが嫌で、勝手に何か言われるのが嫌で、ずっと隠してきたんだと思う」
長谷部は小さく笑った。
自嘲に近い笑いだった。
「でも、隠してても消えるわけじゃないんだよね」
誰も笑わなかった。
茶化さなかった。
それがありがたかった。
「だから、この部活で……自分をどう見せるかっていうより、
自分をどう受け入れるかを考えたい」
室内が静かになる。
長谷部は少し不安になった。
変なことを言ったかもしれない。
重すぎたかもしれない。
そう思った時、松下が口を開いた。
「いいんじゃない?」
長谷部は松下を見る。
松下は窓際の机に軽く手を置きながら、自然な口調で言った。
「見せ方って、結局は自分との付き合い方でもあると思うし」
「まっちゃんも、そういうのあるの?」
「あるよ」
松下はあっさり答えた。
「綺麗に見えるようにしてるって言ったでしょ。
でも、それって別に最初からそうだったわけじゃないから」
長谷部は少し目を見開く。
松下は続ける。
「姿勢とか、髪とか、表情とか、服の合わせ方とか。
そういうのを少しずつ覚えただけ。自分を嫌いなままだと、何を着ても落ち着かないもの」
その言葉は、長谷部の胸に静かに落ちた。
自分を嫌いなままだと、何を着ても落ち着かない。
確かにそうだと思った。
一之瀬も小さく頷く。
「私も、少し分かるかも」
「ほなみんも?」
「うん。人からどう見られてるかって、気にしないようにしても気になるから」
一之瀬は困ったように笑う。
「でも、気にしてる自分を悪いって思いすぎると、余計に苦しくなる気がする」
長谷部は一之瀬を見た。
一之瀬はいつも明るくて、人から好かれていて、善人で、隙がないように見える。
けれどその言葉には、少しだけ本音が混ざっていた。
星之宮が軽く手を叩いた。
「はい、今のでだいぶ方向性見えたんじゃない?」
幸村がノートに何かを書き込む。
「活動目的。写真撮影を通じて、自己表現と自己認識を研究する。
見られること、見せることへの理解を深める」
「ゆきむーが書くと急に固い」
「波瑠加の説明よりは通る」
「それはそうだけど」
三宅がカメラを持ち上げた。
「じゃあ、今日は試しに撮るか?」
その一言で、長谷部の身体が少し固まった。
分かっていた。
いずれ撮ることになる。
でも、いざ言われると怖い。
三宅はその反応に気付いたのか、すぐにカメラを下ろした。
「無理なら今日はやめる」
「……別に、無理ってほどじゃないけど」
長谷部は少し視線を逸らす。
一之瀬が柔らかく言った。
「最初は部屋の写真でもいいんじゃない?」
「部屋?」
「うん。ここが今日から始まりの場所なら、最初に撮るのはそれでもいいと思う」
その提案に、長谷部は少し驚いた。
自分を撮らなくてもいい。
まず場所を撮る。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
三宅も頷く。
「いいな。それならいける」
幸村が机を少し動かす。
「なら最低限片付けよう。埃だらけの部屋を記念に残すのもどうかと思う」
「はいはい、ゆきむー細かい」
「細かくて結構だ」
そこから、自然と全員が動き始めた。
机を寄せる。
椅子を並べる。
黒板を軽く拭く。
窓を開けて空気を入れ替える。
星之宮はなぜか一番楽しそうにカーテンを整えていた。
「先生、そこまでやるんですか」
幸村が言うと、星之宮は振り返って笑う。
「部室は見た目も大事よ?」
「それは分かりますが」
「ほら、幸村くんももっと青春っぽく!」
「青春っぽくとは何ですか」
そのやり取りに、一之瀬が笑う。
松下も肩を揺らしていた。
長谷部は黒板の前に立つ。
チョークを手に取る。
何を書くべきか少し迷った。
そして、ゆっくり文字を書いた。
『グラビアアイドル部』
書いた瞬間、顔が熱くなった。
やっぱり恥ずかしい。
でも、消そうとは思わなかった。
三宅がカメラを構える。
「撮るぞ」
長谷部は一歩横へ避けようとした。
けれど、一之瀬がそっと言う。
「部長も入った方がいいんじゃない?」
「部長って……」
長谷部は困ったように笑う。
まだ、その言葉には慣れない。
けれど、逃げるのも違う気がした。
長谷部は黒板の端に立つ。
一之瀬が隣へ来る。
松下も反対側に立つ。
幸村は少し離れていたが、星之宮に背中を押されて渋々並んだ。
星之宮は当然のように中心へ入りたがり、長谷部に止められた。
「顧問が真ん中取らないで」
「えー」
三宅がカメラを構える。
その瞬間、長谷部は少しだけ身体を強張らせた。
撮られる。
残る。
見られる。
その感覚が胸の奥をざわつかせる。
でも、隣には一之瀬がいた。
反対側には松下がいた。
少し後ろには幸村がいて、カメラの向こうには三宅がいた。
星之宮は笑っている。
一人ではなかった。
「波瑠加」
三宅がファインダー越しに声をかける。
「無理に笑わなくていいぞ」
その言葉で、長谷部は少しだけ力が抜けた。
無理に笑わなくていい。
綺麗に見せなくてもいい。
完璧じゃなくてもいい。
今はただ、ここに立っていればいい。
カシャ。
シャッター音が響いた。
それは、長谷部が思っていたよりもずっと小さな音だった。
けれど、その小さな音が、何かの始まりを確かに告げていた。
撮影が終わると、三宅は画面を確認した。
「どうだ?」
長谷部は恐る恐る近づく。
そこには、黒板の前に並ぶ自分たちが映っていた。
ぎこちない。
少し硬い。
星之宮だけ妙に楽しそう。
幸村は表情が真面目すぎる。
一之瀬は柔らかく笑っている。
松下は自然体だ。
そして長谷部は。
「……変な顔」
思わずそう言った。
三宅は画面を見たまま言う。
「でも逃げてる顔じゃないな」
その言葉に、長谷部は画面をもう一度見る。
確かに、そうかもしれない。
笑えてはいない。
綺麗でもない。
でも、逃げてはいない。
長谷部は小さく息を吐いた。
「……そっか」
それだけ言った。
窓の外では、夕陽がさらに沈みかけている。
空の色が少しずつ青へ変わっていく。
長谷部は黒板の文字を見る。
『グラビアアイドル部』
まだ恥ずかしい。
まだ怖い。
まだ、何をすればいいのか全部分かっているわけじゃない。
それでも。
この部屋でなら、少しずつ始められる気がした。
星之宮が明るく言う。
「じゃあ、今日は記念すべき第一回活動日ね」
「活動って言っても掃除と記念写真だけだけど」
長谷部が言うと、松下が笑った。
「最初はそれで十分じゃない?」
一之瀬も頷く。
「うん。ちゃんと始まった感じがする」
幸村がノートを閉じる。
「次回までに活動計画をまとめておく。
撮影ルール、必要機材、参加同意の形式も考える」
「ゆきむー、頼もしすぎ」
「お前が頼りないからだ」
「ひどい」
三宅がカメラをしまいながら言う。
「まあ、部長が一番ビビってる部活ってのも悪くないんじゃないか」
長谷部は少しだけ三宅を睨む。
でも、怒る気にはならなかった。
「うん」
自分でも驚くくらい自然に、そう言えた。
「たぶん、悪くない」
その日の帰り道。
長谷部は一人、寮へ向かって歩いていた。
携帯を開く。
いつものように、雫のSNSを見ようとする。
けれど、その前に今日撮った写真が目に入った。
黒板の前に立つ自分たち。
ぎこちない始まり。
長谷部はしばらくその写真を見つめた。
佐倉が見ていた世界には、まだ遠い。
きっと全然分かっていない。
でも、初めて一歩だけ近づいた気がした。
長谷部は写真を保存する。
そして、小さく呟いた。
「愛里」
冬の風が頬を撫でる。
「いつか、ちゃんと話せるかな」
答えはない。
けれど、その沈黙は以前ほど冷たくなかった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。