佐倉愛里が見ていた世界   作:EXTERMINATION

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第2話 顧問の先生

放課後。

冬の夕陽が、高度育成高等学校の廊下を長く染めていた。

窓ガラスへ反射する橙色の光が、

静まり始めた校舎をどこか別世界みたいに見せている。

 

そんな中、長谷部波瑠加は一人、職員室前の廊下で立ち止まっていた。

右手には、一枚の紙。

 

『新規部活動申請書』

 

その文字を見下ろすたび、胃の辺りが微妙に重くなる。

 

――本当にやるの?

 

頭の中で、何度目か分からない自問が繰り返される。

 

勢いで「部活作る」と言った。

三宅と幸村も、思ったより普通に受け入れてきた。

だが、だからといって不安が消えるわけじゃない。

むしろ現実味が出た分だけ、余計に怖くなっていた。

 

グラビアアイドル部。

 

改めて文字にすると意味が分からない。

学校で何をやるつもりなのか。

自分でもまだ説明できない。

 

ただ一つだけ確かなのは、佐倉愛里――雫が見ていた世界を、

自分はまだ何も知らないということだった。

 

長谷部は小さく息を吐く。

 

そして職員室の扉を見た。

 

「……帰ろうかな」

 

弱気な呟き。

その時だった。

 

「何してるの?」

 

背後から、明るい声が飛んできた。

長谷部が肩を跳ねさせて振り返る。

そこに立っていたのは、一之瀬帆波だった。

冬用コートを腕に掛けたまま、こちらを見ている。

 

「ほなみん……」

「職員室の前で止まってるから、どうしたのかなって」

 

一之瀬は長谷部の手元を見る。

そして、申請書の文字を見つけた。

 

「……あ」

 

長谷部は反射的に紙を隠す。

 

「見ないでって!」

「ご、ごめん!」

 

慌てる一之瀬。

だが次の瞬間、小さく目を丸くした。

 

「えっ、ほんとに作るの?」

「……まだ分かんない」

 

長谷部は視線を逸らす。

すると一之瀬は、少し考えるように首を傾げた。

 

「でも、長谷部さんらしくていいと思う」

「どこが?」

「ちゃんと悩んでから動くところ」

 

長谷部は微妙な顔になる。

 

「それ褒めてる?」

「褒めてるよ?」

 

一之瀬は本当にそう思っている顔だった。

長谷部は小さく息を吐く。

この人は、やっぱり調子が狂う。

 

その時。

 

「おー、いたいた」

 

聞き慣れた声が廊下の奥から近付いてきた。

 

三宅だった。

その後ろには幸村もいる。

 

「なんで一之瀬までいるんだ?」

「たまたま会っただけ」

「ふーん」

 

三宅は意味深に笑う。

長谷部は即座に睨んだ。

 

「変な顔すんな」

「してねえって」

 

幸村はそんなやり取りを横目に、長谷部の手元を見る。

 

「それ、まだ出してなかったのか」

「……なんか、急に現実味出てきてさ」

 

長谷部は申請書を見下ろす。

部活名欄だけ、まだ空白だった。

三宅がそれを見て吹き出す。

 

「そこ決まってないのかよ」

「だってグラビアアイドル部ってそのまま書くの恥ずかしいじゃん!」

「今さらだろ」

「うるさい」

 

長谷部は顔をしかめた。

その反応が少し面白かったのか、一之瀬が小さく笑う。

 

「でも、ちゃんと活動するなら顧問の先生必要だよね?」

 

その一言で空気が止まる。

長谷部と三宅と幸村が同時に顔を見合わせた。

 

「……あ」

 

完全に忘れていた。

 

「誰に頼むんだ?」

 

幸村が腕を組む。

 

長谷部は考える。

 

茶柱。

……絶対嫌な顔する。

 

真嶋。

もっと嫌。

その時だった。

 

「あら、何が嫌なの?」

 

突然後ろから女性の声がした。

 

全員が振り返る。

そこに立っていたのは、星之宮知恵だった。

 

いつものように柔らかな笑顔。

だが目が完全に面白がっている。

 

「げっ」

 

長谷部が思わず声を漏らす。

 

「ひどくない!?」

 

星之宮が大袈裟に胸を押さえる。

 

「先生傷ついちゃう!」

「いやだってタイミングが……」

「で?何の話?」

 

星之宮は興味津々で近付いてくる。

長谷部は嫌な予感しかしなかった。

 

三宅が少し笑っている。

幸村は静かに視線を逸らした。

 

裏切った。

 

長谷部は心の中でそう思った。

 

「……部活作ろうとしてて」

「へえ?」

「顧問どうするかって話してただけです」

 

なるべく簡潔に済ませようとする。

だが星之宮は逃がしてくれない。

 

「何部?」

 

長谷部は数秒黙った。

 

逃げたい。

 

今すぐ帰りたい。

 

でも星之宮は完全に待っている。

 

一之瀬まで少し困った顔で見ている。

 

長谷部は観念したように小さく言った。

 

「……グラビアアイドル部」

 

沈黙。

 

そして。

 

「え、超面白そうじゃない!?」

 

星之宮が即答した。

長谷部は一瞬固まる。

 

「……は?」

「いやいや待って、青春って感じする!」

「します?」

 

幸村が珍しく困惑している。

だが星之宮は止まらない。

 

「何それ、撮影とかするの!?」

「まあ、一応……」

「最高じゃない!」

 

目が輝いていた。

完全に楽しんでいる。

長谷部は頭を抱えたくなった。

 

だがその一方で、少しだけ安心している自分もいた。

 

否定されると思っていたからだ。

 

軽薄だとか。

ふざけてるとか。

そんな風に言われると思っていた。

 

でも星之宮は違った。

 

「いいじゃない。表現活動ってことでしょ?」

 

その言葉に長谷部は顔を上げる。

 

星之宮は続けた。

 

「見せ方を研究するのって、別に悪いことじゃないわよ」

「……見せ方」

「そう。服も、メイクも、写真も、全部どう見せるかだもの」

 

長谷部は少し黙る。

 

どう見せるか。

 

その言葉は、妙に胸へ残った。

 

すると星之宮がニヤッと笑った。

 

「というわけで、顧問やってあげてもいいわよ?」

「軽いな」

 

三宅が吹き出す。

 

「だって面白そうなんだもん」

「いや絶対それだけじゃないでしょ」

「失礼ねー」

 

星之宮は笑いながら長谷部を見る。

 

「で?長谷部さんはなんでこの部活作りたいの?」

 

その質問に、長谷部は少し言葉を失った。

 

廊下の窓から、夕焼けが差し込む。

校舎の影が長く伸びている。

長谷部は手の中の申請書を見る。

 

そして静かに言った。

 

「……知りたいんです」

 

星之宮が目を細める。

 

「何を?」

 

長谷部は少しだけ迷った。

だが、もう誤魔化す気にはなれなかった。

 

「佐倉愛里が……見てた世界を」

 

その場が静かになる。

一之瀬が小さく息を呑む。

三宅も幸村も、何も言わない。

 

長谷部は続けた。

 

「昔のあの子、人前とか苦手だったのに。今は普通に笑ってるから。

だから……なんでそんな風になれたのか、ちょっと知りたくて」

 

言い終わった後、自分でも少し驚いた。

 

こんなに素直に話すつもりはなかった。

 

だが星之宮は茶化さなかった。

 

ただ静かに、長谷部を見ていた。

 

そして。

 

「……良い理由じゃない」

 

柔らかくそう言った。

長谷部は少し目を伏せる。

 

その時だった。

 

星之宮が突然笑顔になる。

 

「よし決めた!私、その部活入る!」

「顧問でしょ!?」

「撮影も参加するって意味!」

「なんで!?」

「青春したいから!」

 

廊下に笑い声が響く。

 

長谷部は呆れながらも、小さく笑ってしまった。

 

そしてその瞬間。

 

止まっていた何かが、少しだけ動き始めた気がした。

 

放課後の校舎には、昼間とは違う静けさがあった。

 

授業中は人の声や足音で満たされていた廊下も、

放課後になると少しずつ空白が増えていく。

 

部活動へ向かう生徒。

寮へ戻る生徒。

ケヤキモールへ向かう生徒。

 

それぞれが自分の居場所へ散っていく中で、

長谷部は一枚の鍵を手のひらに乗せたまま、

特別棟三階の廊下に立っていた。

 

「……本当に使っていいんだ」

 

鍵に付けられた古いタグには、小さく『第三準備室』と書かれている。

 

正式な部活動として承認されたわけではない。

 

あくまで仮申請。

あくまで活動準備。

 

それでも、星之宮が顧問として名前を書いたことで、話は思った以上に早く進んだ。

 

「先生って、こういう時だけ妙に頼りになるんだね」

 

長谷部がぽつりと呟くと、隣から明るい声が返ってきた。

 

「今、褒めた?褒めたわよね?」

 

長谷部は横を見る。

星之宮はいつものように軽い笑顔で立っていた。

 

教師らしい威厳はあまりない。

 

けれど、その軽さのおかげで、長谷部は必要以上に緊張しなくて済んでいた。

 

「一応、褒めました」

「一応ってなに?」

「ほしみー、すぐ調子乗りそうだから」

「もうあだ名で呼んでくれるのね。先生うれしい」

「そこ喜ぶところなんだ……」

 

長谷部は呆れながらも、少しだけ笑った。

その背後から、足音が二つ近づいてくる。

 

「おー、ここか」

 

三宅明人がカメラバッグを肩にかけてやって来た。

隣には幸村輝彦もいる。

幸村は何やらノートと筆記用具を持っていた。

 

「ゆきむー、それ何?」

「活動内容を整理するためのノートだ。

目的、必要物品、役割分担、活動頻度。

最低限それくらいは決めないと話にならない」

「真面目すぎない?」

「むしろお前が雑すぎる」

 

幸村の即答に、三宅が笑った。

長谷部は少しむっとしたが、反論はできなかった。

実際、勢いでここまで来た部分はある。

 

佐倉愛里が見ていた世界を知りたい。

 

その気持ちは本物だった。

 

けれど、それを部活動という形にした瞬間、

考えなければならないことが急に増えた。

 

何を撮るのか。

誰が撮るのか。

どこまでやるのか。

何を目的にするのか。

 

自分たちは何を見せるのか。

 

その全部がまだ曖昧だった。

 

「じゃ、開けるよ」

 

長谷部は鍵を差し込む。

少し固い感触があったあと、鍵が回った。

扉を開けると、冷たい空気が流れ出てくる。

 

中は思ったより広かった。

 

古い机と椅子が壁際に寄せられていて、床には薄く埃が積もっている。

黒板はほとんど使われていないのか、白いチョークの跡が薄く残っているだけだった。

 

窓からは冬の夕陽が差し込んでいる。

 

長谷部は一歩、中へ入った。

 

何もない部屋。

 

けれど、不思議と嫌ではなかった。

ここが、始まりになるのかもしれない。

そう思うと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。

 

「へえ、悪くないな」

 

三宅が室内を見回しながら言う。

 

「光も入るし、窓際なら撮影にも使えそうだな」

「撮影って言われると、急に現実味出るんだけど」

 

長谷部は少し顔をしかめた。

三宅は肩をすくめる。

 

「そりゃ撮影する部活なんだろ?」

「そうなんだけどさ……」

 

自分で言い出したのに、いざその言葉を聞くと落ち着かない。

 

身体を見せる。

写真に残る。

誰かに見られる。

 

それはまだ、長谷部にとって簡単に受け入れられるものではなかった。

 

星之宮が窓辺へ歩いていき、カーテンを少し開けた。

夕陽が室内に広がる。

 

「いいじゃない。ここ、雰囲気あるわよ」

「雰囲気って言われても……」

「最初から完璧な場所なんてないの。自分たちで作っていけばいいのよ」

 

その言葉に、長谷部は少し黙った。

 

自分たちで作る。

 

その響きは、思ったより悪くなかった。

その時、廊下から控えめな声がした。

 

「あの……入っても大丈夫?」

 

全員が振り返る。

扉の前に、一之瀬帆波が立っていた。

その後ろには松下千秋もいる。

 

「ほなみん」

 

長谷部は少し驚いた。

一之瀬とはクラスが違う。

だから、こうしてわざわざ来てくれることには、まだ少し慣れない。

 

「星之宮先生に呼ばれて」

 

一之瀬が苦笑する。

松下はその隣で軽くため息をついた。

 

「私は一之瀬さんに誘われたの。面白そうなことをしてるって聞いたから」

「面白そうって……まだ何もしてないけど」

 

長谷部が言うと、松下は教室を見回してから微笑んだ。

 

「何もないから面白そうなんじゃない?」

 

その返しに、長谷部は少し言葉を失った。

 

松下は自然だった。

無理に明るくしているわけでもない。

必要以上に踏み込むわけでもない。

けれど、立っているだけで妙に場の空気が整う。

 

長谷部は、少し羨ましいと思った。

 

「まっちゃんってさ」

「まっちゃん?」

 

松下がきょとんとする。

長谷部は自分で言ってから少し気まずくなった。

 

「ごめん、変だった?」

「ううん。長谷部さんらしくていいんじゃない?」

 

松下は軽く笑った。

受け入れ方まで自然だった。

 

その余裕がまた少し羨ましい。

 

一之瀬が室内へ入り、窓際に立つ。

夕陽が彼女の横顔を柔らかく照らした。

 

三宅が無意識にカメラへ手を伸ばす。

だが、すぐに止めた。

 

長谷部はその動きを見逃さなかった。

 

「撮らないの?」

「勝手には撮らない」

 

三宅は少しだけ真面目な顔で答えた。

 

「撮っていいかどうかは、相手が決めることだろ」

 

その一言に、長谷部は少しだけ胸を突かれた。

撮れることと、撮っていいことは違う。

当たり前のようで、今まであまり考えたことがなかった。

 

長谷部は昔から、勝手に見られることが嫌だった。

勝手に評価されることが嫌だった。

なら、自分たちが撮る側に回る時も、同じことを考えなければならない。

 

「みやっち、意外とちゃんとしてるね」

「意外とは余計だ」

 

三宅が少し不満そうに返す。

 

幸村がノートを開いた。

 

「その考え方は活動方針に入れた方がいいな。本人の同意なく撮影しない。

公開範囲を明確にする。撮影内容の確認権を本人が持つ」

「急に規約みたいになってきた」

 

長谷部が言うと、幸村は眼鏡を押し上げる。

 

「必要なことだ。曖昧なまま始める方が危ない」

 

それは正論だった。

 

この部活は、名前だけ聞けば軽く見られるかもしれない。

けれど、扱うものは軽くない。

 

見られること。

見せること。

身体。

表情。

自分自身。

 

だからこそ、雑にはできない。

星之宮が満足そうに頷いた。

 

「いいじゃない。ちゃんと考えてる」

「先生は考えてなさそうだけど」

「失礼ね。私は感覚派なの」

「それ一番不安なやつ」

 

室内に小さな笑いが起きた。

 

長谷部はその空気に少し救われた。

重くなりすぎない。

でも、ふざけすぎてもいない。

不思議な温度だった。

 

一之瀬が長谷部を見る。

 

「それで、長谷部さんはこの部活で何をしたいの?」

 

その問いに、長谷部はすぐには答えられなかった。

 

何をしたいのか。

佐倉を知りたい。

佐倉が見ていた世界を知りたい。

 

それは確かだ。

 

でも、それだけでは部活の目的としては足りない気がした。

 

長谷部は窓の外を見る。

夕陽の中、校舎の影が長く伸びていた。

 

「……最初は、愛里のことを知りたかっただけなんだと思う」

 

その名前を出した瞬間、室内の空気が少し静かになる。

 

佐倉愛里。

 

もうこの学校にはいない親友。

けれど長谷部の中では、ずっと消えないまま残っている存在。

 

「退学してから、ずっと見てた。SNSも、雑誌も、動画も」

 

長谷部はゆっくり言葉を選んだ。

 

「応援してるつもりだった。でも、たぶんそれだけじゃなくて」

 

誰も口を挟まない。

 

三宅も。

幸村も。

一之瀬も。

松下も。

星之宮も。

 

ただ静かに聞いていた。

 

「置いていかれた気がしてたんだと思う」

 

言ってから、長谷部は自分で少し驚いた。

 

そんな言葉を出すつもりはなかった。

 

でも出てしまった。

止められなかった。

 

「愛里は前に進んでるのに、私だけずっと同じところにいるみたいで」

 

長谷部は自分の制服の袖を軽く握る。

 

「だから、知りたい。あの子が何を見て、何を怖がって、それでもどうやって笑ってるのか」

 

そして少しだけ顔を上げた。

 

「でも、それだけじゃない気もしてる」

 

一之瀬が静かに見つめている。

松下も何も言わない。

 

長谷部は続けた。

 

「私、自分の身体が昔からあんまり好きじゃなかった」

 

その言葉は、少しだけ勇気が必要だった。

けれど、ここでは言ってもいい気がした。

 

「見られるのが嫌で、勝手に何か言われるのが嫌で、ずっと隠してきたんだと思う」

 

長谷部は小さく笑った。

自嘲に近い笑いだった。

 

「でも、隠してても消えるわけじゃないんだよね」

 

誰も笑わなかった。

茶化さなかった。

それがありがたかった。

 

「だから、この部活で……自分をどう見せるかっていうより、

自分をどう受け入れるかを考えたい」

 

室内が静かになる。

長谷部は少し不安になった。

変なことを言ったかもしれない。

 

重すぎたかもしれない。

 

そう思った時、松下が口を開いた。

 

「いいんじゃない?」

 

長谷部は松下を見る。

 

松下は窓際の机に軽く手を置きながら、自然な口調で言った。

 

「見せ方って、結局は自分との付き合い方でもあると思うし」

「まっちゃんも、そういうのあるの?」

「あるよ」

 

松下はあっさり答えた。

 

「綺麗に見えるようにしてるって言ったでしょ。

でも、それって別に最初からそうだったわけじゃないから」

 

長谷部は少し目を見開く。

 

松下は続ける。

 

「姿勢とか、髪とか、表情とか、服の合わせ方とか。

そういうのを少しずつ覚えただけ。自分を嫌いなままだと、何を着ても落ち着かないもの」

 

その言葉は、長谷部の胸に静かに落ちた。

自分を嫌いなままだと、何を着ても落ち着かない。

 

確かにそうだと思った。

 

一之瀬も小さく頷く。

 

「私も、少し分かるかも」

「ほなみんも?」

「うん。人からどう見られてるかって、気にしないようにしても気になるから」

 

一之瀬は困ったように笑う。

 

「でも、気にしてる自分を悪いって思いすぎると、余計に苦しくなる気がする」

 

長谷部は一之瀬を見た。

一之瀬はいつも明るくて、人から好かれていて、善人で、隙がないように見える。

 

けれどその言葉には、少しだけ本音が混ざっていた。

 

星之宮が軽く手を叩いた。

 

「はい、今のでだいぶ方向性見えたんじゃない?」

 

幸村がノートに何かを書き込む。

 

「活動目的。写真撮影を通じて、自己表現と自己認識を研究する。

見られること、見せることへの理解を深める」

「ゆきむーが書くと急に固い」

「波瑠加の説明よりは通る」

「それはそうだけど」

 

三宅がカメラを持ち上げた。

 

「じゃあ、今日は試しに撮るか?」

 

その一言で、長谷部の身体が少し固まった。

 

分かっていた。

いずれ撮ることになる。

でも、いざ言われると怖い。

 

三宅はその反応に気付いたのか、すぐにカメラを下ろした。

 

「無理なら今日はやめる」

「……別に、無理ってほどじゃないけど」

 

長谷部は少し視線を逸らす。

一之瀬が柔らかく言った。

 

「最初は部屋の写真でもいいんじゃない?」

「部屋?」

「うん。ここが今日から始まりの場所なら、最初に撮るのはそれでもいいと思う」

 

その提案に、長谷部は少し驚いた。

 

自分を撮らなくてもいい。

まず場所を撮る。

それだけで、少し呼吸が楽になった。

 

三宅も頷く。

 

「いいな。それならいける」

 

幸村が机を少し動かす。

 

「なら最低限片付けよう。埃だらけの部屋を記念に残すのもどうかと思う」

「はいはい、ゆきむー細かい」

「細かくて結構だ」

 

そこから、自然と全員が動き始めた。

 

机を寄せる。

椅子を並べる。

黒板を軽く拭く。

窓を開けて空気を入れ替える。

 

星之宮はなぜか一番楽しそうにカーテンを整えていた。

 

「先生、そこまでやるんですか」

 

幸村が言うと、星之宮は振り返って笑う。

 

「部室は見た目も大事よ?」

「それは分かりますが」

「ほら、幸村くんももっと青春っぽく!」

「青春っぽくとは何ですか」

 

そのやり取りに、一之瀬が笑う。

松下も肩を揺らしていた。

長谷部は黒板の前に立つ。

 

チョークを手に取る。

 

何を書くべきか少し迷った。

そして、ゆっくり文字を書いた。

 

『グラビアアイドル部』

 

書いた瞬間、顔が熱くなった。

 

やっぱり恥ずかしい。

 

でも、消そうとは思わなかった。

 

三宅がカメラを構える。

 

「撮るぞ」

 

長谷部は一歩横へ避けようとした。

 

けれど、一之瀬がそっと言う。

 

「部長も入った方がいいんじゃない?」

「部長って……」

 

長谷部は困ったように笑う。

まだ、その言葉には慣れない。

けれど、逃げるのも違う気がした。

 

長谷部は黒板の端に立つ。

一之瀬が隣へ来る。

松下も反対側に立つ。

幸村は少し離れていたが、星之宮に背中を押されて渋々並んだ。

星之宮は当然のように中心へ入りたがり、長谷部に止められた。

 

「顧問が真ん中取らないで」

「えー」

 

三宅がカメラを構える。

その瞬間、長谷部は少しだけ身体を強張らせた。

 

撮られる。

残る。

見られる。

 

その感覚が胸の奥をざわつかせる。

でも、隣には一之瀬がいた。

反対側には松下がいた。

少し後ろには幸村がいて、カメラの向こうには三宅がいた。

星之宮は笑っている。

 

一人ではなかった。

 

「波瑠加」

 

三宅がファインダー越しに声をかける。

 

「無理に笑わなくていいぞ」

 

その言葉で、長谷部は少しだけ力が抜けた。

 

無理に笑わなくていい。

 

綺麗に見せなくてもいい。

 

完璧じゃなくてもいい。

 

今はただ、ここに立っていればいい。

 

カシャ。

 

シャッター音が響いた。

 

それは、長谷部が思っていたよりもずっと小さな音だった。

 

けれど、その小さな音が、何かの始まりを確かに告げていた。

 

撮影が終わると、三宅は画面を確認した。

 

「どうだ?」

 

長谷部は恐る恐る近づく。

そこには、黒板の前に並ぶ自分たちが映っていた。

 

ぎこちない。

少し硬い。

 

星之宮だけ妙に楽しそう。

幸村は表情が真面目すぎる。

一之瀬は柔らかく笑っている。

松下は自然体だ。

 

そして長谷部は。

 

「……変な顔」

 

思わずそう言った。

三宅は画面を見たまま言う。

 

「でも逃げてる顔じゃないな」

 

その言葉に、長谷部は画面をもう一度見る。

 

確かに、そうかもしれない。

 

笑えてはいない。

 

綺麗でもない。

 

でも、逃げてはいない。

 

長谷部は小さく息を吐いた。

 

「……そっか」

 

それだけ言った。

 

窓の外では、夕陽がさらに沈みかけている。

空の色が少しずつ青へ変わっていく。

 

長谷部は黒板の文字を見る。

 

『グラビアアイドル部』

 

まだ恥ずかしい。

 

まだ怖い。

 

まだ、何をすればいいのか全部分かっているわけじゃない。

 

それでも。

 

この部屋でなら、少しずつ始められる気がした。

 

星之宮が明るく言う。

 

「じゃあ、今日は記念すべき第一回活動日ね」

「活動って言っても掃除と記念写真だけだけど」

 

長谷部が言うと、松下が笑った。

 

「最初はそれで十分じゃない?」

 

一之瀬も頷く。

 

「うん。ちゃんと始まった感じがする」

 

幸村がノートを閉じる。

 

「次回までに活動計画をまとめておく。

撮影ルール、必要機材、参加同意の形式も考える」

「ゆきむー、頼もしすぎ」

「お前が頼りないからだ」

「ひどい」

 

三宅がカメラをしまいながら言う。

 

「まあ、部長が一番ビビってる部活ってのも悪くないんじゃないか」

 

長谷部は少しだけ三宅を睨む。

でも、怒る気にはならなかった。

 

「うん」

 

自分でも驚くくらい自然に、そう言えた。

 

「たぶん、悪くない」

 

その日の帰り道。

長谷部は一人、寮へ向かって歩いていた。

 

携帯を開く。

 

いつものように、雫のSNSを見ようとする。

けれど、その前に今日撮った写真が目に入った。

 

黒板の前に立つ自分たち。

 

ぎこちない始まり。

 

長谷部はしばらくその写真を見つめた。

 

佐倉が見ていた世界には、まだ遠い。

 

きっと全然分かっていない。

 

でも、初めて一歩だけ近づいた気がした。

 

長谷部は写真を保存する。

 

そして、小さく呟いた。

 

「愛里」

 

冬の風が頬を撫でる。

 

「いつか、ちゃんと話せるかな」

 

答えはない。

 

けれど、その沈黙は以前ほど冷たくなかった。




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