佐倉愛里が見ていた世界   作:EXTERMINATION

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第3話 最初の撮影

冬の空気は、夕方になると一気に冷える。

 

放課後の特別棟三階は特に静かだった。

使われていない教室が多いせいか、人の気配も少ない。

 

だからこそ。

 

第三準備室の扉の向こうから漏れる笑い声は、妙に目立っていた。

 

「だから照明は斜めから当てた方が自然なんだって」

「いや、窓光活かした方が柔らかいだろ」

「光量足りなくなる」

「そこは設定で――」

「みやっち、ゆきむー、まだやってんの?」

 

長谷部波瑠加は扉を開けながら呆れた声を出した。

 

部室へ入る。

暖房はまだ弱い。

だが数人いるだけで、以前より部屋に居場所感が出始めていた。

 

窓際には一之瀬帆波。

その隣には松下千秋。

 

二人とも、机を寄せて雑誌を広げている。

ページには女性ファッション誌やグラビア雑誌が並んでいた。

長谷部はその光景を見るたび、未だに少し不思議な気持ちになる。

ほんの数週間前まで、自分がこんな空間にいるなんて想像もしなかった。

 

「お疲れ、波瑠加ちゃん」

 

一之瀬が柔らかく笑う。

 

「ん、お疲れ」

 

長谷部は鞄を机へ置いた。

 

その時。

 

「遅かったわねー、部長」

 

星之宮知恵がくるくる椅子を回しながら言う。

 

「ほしみー、教師が一番くつろいでるのなんなの」

「顧問特権よ」

「絶対違うでしょ……」

 

長谷部はため息を吐きながらコートを脱いだ。

 

その時だった。

 

三宅が不意にカメラを向ける。

 

カシャ。

 

小さなシャッター音。

長谷部の身体が一瞬固まる。

 

「っ……!」

 

反射的に顔をしかめる。

三宅はすぐカメラを下ろした。

 

「悪い、癖で」

 

長谷部は少し黙った。

今の一瞬だけで、心臓が妙に跳ねた。

 

撮られた。

 

その感覚がまだ慣れない。

勝手に切り取られる感覚。

自分の知らない自分を見られる感覚。

 

長谷部は小さく息を吐いた。

 

「……別にいいけど」

「いや、よくないよな」

 

三宅は真面目な顔で言った。

 

「今のは完全に俺が悪い」

 

その即答に、長谷部は少しだけ目を瞬かせる。

三宅は誤魔化さない。

軽く流さない。

そのことが少しだけありがたかった。

 

幸村がノートから顔を上げる。

 

「だから言っただろ。撮影ルールはちゃんと決めるべきだと」

「分かってるって」

 

三宅は頭を掻いた。

 

「でも、波瑠加」

「なに?」

「今の反応、結構リアルだった」

 

長谷部は眉をひそめる。

 

「は?」

「嫌だったんだろ、撮られて」

 

その言葉に、長谷部は少し黙った。

 

嫌だった。

確かに。

でもそれを認めるのも少し悔しい。

 

「……まあ、急だったし」

「でも、それって多分大事なんだよ」

 

三宅はカメラを軽く持ち上げる。

 

「撮る側って、そういう反応ちゃんと分かってなきゃダメだろ」

 

部室が少し静かになる。

一之瀬も松下も、自然と会話を止めていた。

 

長谷部は三宅を見る。

三宅は珍しく、真面目な顔をしていた。

 

「見られるのが嫌な瞬間ってあるだろ」

「……うん」

「なのに、撮る側が楽しいだけで押し切ったら、それはただの暴力だろ」

 

長谷部は少しだけ視線を落とした。

その言葉は、妙に胸へ残った。

 

昔から嫌だった。

勝手に見られること。

勝手に評価されること。

身体だけを見られること。

 

だからこそ、この部活を始めたのに。

 

もし自分たちが同じことをしたら意味がない。

 

「明人って、意外とちゃんとしてるよね」

 

松下がくすっと笑う。

 

「だから意外ってなんだよ……」

 

三宅が不満そうに返す。

部室に少し笑いが広がる。

その空気で、長谷部の肩から少し力が抜けた。

 

星之宮が机へ頬杖をついた。

 

「じゃあ今日は、その辺ちゃんと考えながらやってみましょうか」

「やるって?」

 

長谷部が聞き返す。

星之宮は当然のように言った。

 

「初撮影」

 

その瞬間。

 

長谷部の身体がぴたりと止まった。

一之瀬が少し困ったように笑う。

松下は静かに長谷部を見る。

幸村はノートを閉じた。

三宅は何も言わない。

 

でも、逃げられない空気はあった。

 

長谷部は小さく喉を鳴らす。

 

分かっていた。

 

いつかはやる。

 

この部活にいる以上、避けて通れない。

 

それでも。

 

「……マジでやるの?」

 

思わずそんな言葉が漏れる。

星之宮はあっさり頷いた。

 

「もちろん」

「いや、でも準備とか……」

「だから今日は練習よ練習」

 

軽い。

でも、その軽さが少しだけ救いでもあった。

深刻にされると、逆に逃げたくなるから。

 

一之瀬がそっと言う。

 

「無理しなくていいからね」

 

長谷部は小さく頷いた。

その後、簡単な準備が始まった。

 

窓際の机をどかす。

カーテンを調整する。

幸村が照明の角度を細かく直す。

三宅はカメラ設定を確認していた。

 

その間、長谷部は落ち着かなかった。

何をしていても意識がそこへ向く。

 

撮られる。

 

その事実だけが頭に残る。

 

「波瑠加」

 

不意に松下が隣へ来た。

 

「緊張してる?」

「……まあ」

 

素直に否定できなかった。

 

松下は少しだけ笑う。

 

「最初はみんなそうじゃない?」

「まっちゃんは違いそうだけど」

「そんなことないよ」

 

松下は窓の外を見る。

夕焼けが、ガラスへ柔らかく映っていた。

 

「私も昔、自分の写真見るの苦手だったし」

 

長谷部は少し驚く。

 

「え、意外」

「よく言われる」

 

松下は苦笑した。

 

「でもね、自分の嫌な部分って、自分が一番見てるから」

 

その言葉に、長谷部は静かに耳を傾ける。

 

「他人はそこまで気にしてないことも多いのに、自分だけずっと気になるの」

 

長谷部は無意識に自分の胸元を押さえた。

制服越しでも分かる身体のライン。

 

昔から嫌だった。

 

視線を向けられる原因。

 

隠したかった部分。

 

松下はその動きに気付いていたが、何も言わなかった。

ただ静かに続ける。

 

「でも、嫌いなまま隠し続けると、余計にそこばっかり気になるのよね」

 

長谷部は小さく息を吐いた。

まるで心の中を見透かされているみたいだった。

 

その時。

 

「準備できたぞー」

 

三宅の声が飛ぶ。

長谷部の身体がびくっと揺れる。

 

星之宮が立ち上がった。

 

「じゃ、最初誰からやる?」

 

一瞬、空気が止まる。

 

すると。

 

「私からやるよ」

 

一之瀬が自然に手を挙げた。

長谷部が目を見開く。

 

「ほなみん?」

「波瑠加ちゃん、最初だと余計緊張しそうだから」

 

その気遣いが、一之瀬らしかった。

 

窓際へ立つ一之瀬。

夕陽が横顔へ当たる。

三宅がカメラを構えた。

 

そして。

 

カシャ。

シャッター音。

 

長谷部はその光景を見つめる。

 

一之瀬は自然だった。

無理に笑っていない。

でも柔らかい。

そこにいるだけで、空気が穏やかになる。

 

「……すご」

 

思わず漏れる。

松下も頷いた。

 

「帆波、こういう空気強いね」

「そんなことないよ」

 

本人は困ったように笑っている。

だが、その笑顔すら自然だった。

 

長谷部は少し羨ましくなる。

自分には絶対できない。

 

そう思った。

次は松下だった。

 

松下は窓際へ立つと、軽く髪を耳へかける。

それだけで雰囲気が変わる。

 

長谷部は思わず見入ってしまった。

 

綺麗だった。

 

でもそれは、作られた綺麗さでもあった。

 

立ち方。

姿勢。

目線。

指先。

 

全部が自然に見えて、ちゃんと整えられている。

 

「……やっぱまっちゃんってすごい」

 

長谷部が呟くと、松下は笑った。

 

「慣れだよ、慣れ」

 

その言葉が、長谷部には少し遠く感じる。

 

慣れる。

 

そんな日が本当に来るのだろうか。

 

そして。

次。

 

空気が少し静かになる。

 

三宅がカメラを下ろした。

長谷部を見る。

 

「……波瑠加」

 

逃げ場はなかった。

長谷部は小さく唇を噛む。

 

怖い。

でも。

 

逃げたくない気持ちもあった。

 

長谷部はゆっくり窓際へ歩く。

夕陽が制服へ当たる。

胸の奥がざわつく。

 

見られている。

 

その感覚だけで落ち着かなくなる。

 

腕を組みたくなる。

隠したくなる。

猫背になりそうになる。

 

その時だった。

 

「肩、上がってる」

 

三宅が静かに言った。

長谷部が少し顔を上げる。

 

「え?」

「そんな固まんなくていいって」

 

三宅の声は思ったより優しかった。

 

「別に上手くやる必要ない」

 

長谷部は少し黙る。

すると一之瀬も小さく頷いた。

 

「うん。今日は慣れるだけでいいと思う」

 

松下も言う。

 

「最初から完璧にやろうとすると疲れるよ」

 

長谷部はゆっくり息を吐いた。

窓の外を見る。

 

冬の夕空。

少しだけ赤い光。

 

そして。

 

長谷部は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

三宅がカメラを構える。

 

「そのまま」

 

カシャ。

 

シャッター音。

長谷部の心臓が少し跳ねる。

 

だが。

 

思っていたほど嫌じゃなかった。

 

怖い。

でも。

 

逃げたくなるほどではない。

 

その感覚に、自分でも少し驚く。

 

三宅が画面を確認した。

長谷部は恐る恐る近付く。

そこには、自分が映っていた。

 

ぎこちない。

 

少し緊張している。

笑えていない。

 

でも。

 

「……あれ」

 

長谷部は小さく呟く。

思っていたより、嫌じゃなかった。

 

三宅が画面を見たまま言う。

 

「ちゃんと前向いてるじゃないか」

 

その一言で。

 

長谷部は、自分でも気付かないうちに少しだけ笑っていた。

 

グラビアアイドル部の仮部室になった第三準備室は、

少しずつだが、本当に部室らしくなってきていた。

 

最初に入った時は、古い机と椅子が置かれているだけの、

ただの使われていない教室だった。

 

けれど今は違う。

 

窓際には三宅が持ち込んだカメラバッグが置かれ、

壁には幸村が書いた活動予定表が貼られ、

机の上には一之瀬と松下が持ち寄った雑誌が並んでいる。

 

星之宮が勝手に持ち込んだクッションまで置かれていて、

それについて幸村が「教師の私物化はどうなんだ」と真面目に指摘し、

星之宮が「顧問の癒やしも部活動の円滑化に必要なの」と謎の理屈で押し切った。

 

長谷部波瑠加は、その部屋の真ん中に立ちながら、

妙に落ち着かない気分で机の上の雑誌を見下ろしていた。

 

「……こうして見ると、グラビアって思ったより色々あるんだね」

 

長谷部がそう呟くと、幸村がすぐに反応した。

 

「当然だ。単に人物を撮れば成立するものではない。

テーマ、衣装、構図、光、表情、視線誘導。

見る側が受け取る印象は、かなり計算されている」

「ゆきむー、言い方が論文なんだけど」

「波瑠加が感覚で進めすぎるからだ」

「そこまで雑じゃないし」

「雑だろ」

 

三宅がカメラを拭きながら即答した。

長谷部は少しむっとする。

 

「みやっちまで言う?」

「だって部長、勢いだけで部活作ったじゃん」

「それは……否定しきれないけど」

 

部室に小さな笑いが起きた。

一之瀬は雑誌のページをめくりながら、柔らかい声で言う。

 

「でも、勢いがなかったら始まらなかったと思うよ」

 

その言葉に、長谷部は少しだけ救われた気がした。

一之瀬は別クラスなのに、

最近は放課後になると自然にこの部室へ顔を出すようになっていた。

 

最初は少し不思議だった。

どうしてそこまで関わってくれるのか。

でも一之瀬は、理由を大げさには語らない。

 

ただ、気付けばそこにいる。

 

その距離感が、今の長谷部には少しありがたかった。

 

松下千秋は雑誌の一ページを指で軽く叩いた。

 

「これなんか分かりやすいわね。同じ人なのに、ページごとに雰囲気が全然違う」

 

長谷部は覗き込む。

確かに、同じモデルなのに印象が違う。

 

明るい笑顔のページ。

少し落ち着いた横顔のページ。

カメラを見ていない自然な仕草のページ。

 

服装や背景だけではない。

 

表情。

姿勢。

顔の角度。

 

それだけで、まるで別人みたいに見える。

 

「……すごいね」

 

長谷部は素直にそう言った。

松下は軽く笑う。

 

「見せ方って、そういうものじゃない?」

「見せ方……」

 

その言葉は、最近何度も聞いている。

でも長谷部には、まだ少し遠い言葉だった。

 

見せる。

自分を見せる。

その感覚が、まだよく分からない。

 

長谷部にとって身体は、長い間見せるものではなかった。

 

隠すものだった。

 

なるべく目立たないようにするものだった。

勝手に見られて、勝手に言われて、勝手に評価されるものだった。

だから、自分から見せ方を選ぶという感覚が、まだどうしても掴めない。

 

その時、部室の扉が軽くノックされた。

全員の視線が扉へ向く。

 

星之宮が明るく声を出した。

 

「どうぞー」

 

扉が開く。

そこに立っていたのは、櫛田桔梗だった。

長谷部の胸の奥が、ほんの少しだけ固まる。

櫛田はいつもの笑顔で部室を見回した。

 

「お邪魔しまーす」

 

その声は柔らかい。

以前と変わらないように聞こえる。

でも長谷部には、少し違って聞こえた。

佐倉愛里が退学したあの日から、

長谷部と櫛田の間には、見えない線が引かれている。

 

完全に敵対しているわけではない。

必要な会話はする。

佐倉が雫として芸能活動へ戻っていることも、櫛田が教えてくれた。

 

その意味では、長谷部は櫛田に感謝している。

 

けれど。

 

昔みたいには呼べない。

 

「キョーちゃん」

 

そのあだ名が、喉の手前で止まる。

今の長谷部には、まだ言えなかった。

 

「……櫛田さん」

 

代わりに出たのは、少し硬い名字呼びだった。

櫛田は一瞬だけ目を細めた。

だがすぐに、いつもの笑顔へ戻る。

 

「うん。星之宮先生に呼ばれて来たんだけど」

「私が呼びましたー」

 

星之宮が楽しそうに手を挙げた。

長谷部はすぐに振り返る。

 

「ほしみー?」

「だって、メンバー足りないでしょ?」

「いや、足りないとかそういう問題じゃなくて……」

 

長谷部は言葉に詰まる。

櫛田が来ること自体は、いつか必要になると思っていた。

 

櫛田は見せ方を知っている。

 

人にどう見られるか。

どんな表情をすれば好かれるか。

どんな声色を使えば場が和むか。

そういうものを、誰よりも理解している。

 

だからこの部活には、たぶん向いている。

向いているからこそ、長谷部は少し怖かった。

 

櫛田があまりにも上手くやってしまったら、自分はまた比べてしまう。

 

愛里とも。

一之瀬とも。

松下とも。

そして櫛田とも。

 

「一応、活動の説明を聞いてから決めてもらう感じでいいんじゃないか」

 

幸村が助け舟を出すように言った。

 

三宅も頷く。

 

「まあ、いきなり入れってのも変だしな」

 

櫛田はにこりと笑った。

 

「うん。私も無理に入るつもりはないよ。でも、ちょっと興味はあるかな」

「興味?」

 

長谷部が聞き返す。

櫛田は部室の中を見回した。

 

「だって、長谷部さんがこういう部活を作ったって聞いたら、気になるでしょ?」

 

その一言に、長谷部は少しだけ身構える。

悪意があるようには聞こえなかった。

でも、何かを見透かされているような気がした。

 

星之宮が明るく手を叩く。

 

「じゃあ今日は、櫛田さんにも参加してもらって見せ方の研究をしましょう!」

「研究って言われると急にゆきむーっぽい」

「俺を何だと思ってる」

 

幸村が真面目に返す。

松下が笑った。

一之瀬も少し安心したように微笑む。

 

けれど長谷部だけは、まだ少し緊張していた。

 

櫛田が部室にいる。

それだけで、空気が変わった気がした。

まず始まったのは、雑誌の分析だった。

幸村が黒板に大きく三つの言葉を書く。

 

『自然』

『作為』

『印象』

 

長谷部はそれを見て顔をしかめる。

 

「本当に授業みたいになってきた」

「実際、学ぶことは多い」

 

幸村は真面目だった。

 

「今日の議題は、自然に見える写真は本当に自然なのか、だ」

 

三宅が少し笑う。

 

「お前、言い方が硬いんだよ」

「なら明人が説明しろ」

「いや、俺は感覚派だから」

「使えないな」

「ひどくね?」

 

そんなやり取りを聞きながら、櫛田は雑誌を手に取った。

ページを眺め、少し考えるように言う。

 

「でも、自然に見える写真って、たぶん一番難しいよね」

 

長谷部は櫛田を見る。

 

「そうなの?」

「うん。だって本当に何も意識してなかったら、

写真として綺麗には見えないことも多いから」

 

櫛田は自分の髪を軽く耳へかける。

その仕草があまりにも自然で、長谷部は少しだけ見入ってしまった。

 

櫛田は続ける。

 

「でも、作り込みすぎると今度はわざとらしくなる。

だから自然に見えるように作るんだと思う」

 

自然に見えるように作る。

その言葉に、長谷部は小さく反応した。

 

櫛田らしい。

 

あまりにも櫛田らしい言葉だった。

 

櫛田は、ずっとそうやって生きてきたのかもしれない。

 

自然に優しい人。

自然に明るい人。

自然に好かれる人。

 

そう見えるように、自分を作ってきた。

 

長谷部はそのことを知っている。

 

知ってしまっている。

 

だから昔のように、ただ笑って「キョーちゃん」と呼ぶことができない。

 

星之宮が楽しそうに言った。

 

「じゃあ実践してみましょうか」

「実践?」

 

長谷部の声が少し上ずる。

 

星之宮はにこにこしている。

 

「同じテーマで、それぞれ違う見せ方をやってみるの。

テーマは……そうね、放課後に待っている女の子!」

「急に具体的」

 

松下が苦笑する。

一之瀬は少し恥ずかしそうに頬へ手を当てた。

 

「それ、ちょっと難しくないですか?」

「大丈夫大丈夫。青春っぽければ何とかなる!」

「ほしみーの基準雑すぎる」

 

長谷部は呆れながらも、内心では少しほっとしていた。

 

今日の中心は自分ではない。

 

櫛田の参加。

見せ方の研究。

 

なら、自分だけが撮られるわけではない。

 

最初は一之瀬だった。

窓際に立ち、少しだけ外を見る。

誰かを待っているような雰囲気。

けれど、一之瀬の場合は寂しさよりも温かさが出た。

 

待っている相手を信じているような顔。

 

三宅がシャッターを切る。

 

「一之瀬は空気が柔らかいな」

「そうかな?」

 

一之瀬は少し照れたように笑う。

 

長谷部は写真を覗き込む。

確かに柔らかい。

見ているだけで安心する。

 

それが一之瀬らしさなのだと思う。

 

次は松下。

 

同じ窓際。

同じテーマ。

 

けれど印象はまるで違った。

 

松下は少しだけ壁にもたれ、視線を斜め下へ落とす。

待っているというより、余裕を持って相手を迎えるような雰囲気。

 

大人っぽい。

落ち着いている。

三宅が感心したように言う。

 

「同じ場所なのに全然違うな」

 

松下は軽く笑った。

 

「待ち方にも性格が出るんだよ」

 

その言葉に、長谷部は思わず納得してしまった。

 

そして、櫛田の番になった。

部室の空気が少しだけ変わる。

櫛田は窓際に立つ。

最初はいつもの笑顔。

 

だが、三宅がカメラを構えた瞬間、表情がふっと変わった。

 

大きく変えたわけではない。

笑顔を少しだけ弱めた。

目線を少しだけ外した。

手元の指先を軽く重ねた。

 

それだけなのに。

 

空気が一気に写真になった。

 

長谷部は息を呑む。

 

上手い。

そう思った。

悔しいくらいに。

 

三宅もシャッターを切りながら、少し驚いている。

 

幸村は真剣に観察していた。

一之瀬は素直に感心している。

松下は小さく目を細めていた。

 

カシャ。

カシャ。

シャッター音が続く。

 

櫛田は一枚ごとに少しずつ表情を変える。

 

明るく。

寂しげに。

照れたように。

安心したように。

 

まるで、求められる雰囲気を全部分かっているみたいだった。

 

撮影が終わると、三宅が画面を確認する。

 

「……すごいな」

 

三宅の素直な感想に、櫛田はいつものように笑った。

 

「そんなことないよ」

 

その笑顔を見た瞬間、長谷部の胸の奥に小さな棘が刺さった。

 

そんなことないよ。

そう言えることも含めて、上手い。

長谷部は自分でも嫌になるくらい、そう思ってしまった。

 

「長谷部さん?」

 

一之瀬が小さく声をかける。

 

長谷部ははっとする。

 

「……なに?」

「大丈夫?」

「大丈夫」

 

少し早口になった。

大丈夫じゃない時ほど、大丈夫と言ってしまう。

 

自分でも分かっている。

 

星之宮はそんな長谷部を見ていたが、すぐには何も言わなかった。

 

幸村が黒板へ向かい、櫛田の撮影について分析を始める。

 

「櫛田の場合、表情の切り替えが早い。

加えて、目線と手元の使い方が上手い。

カメラを意識しているが、意識しているように見せていない」

「ゆきむー、褒め方が理屈っぽい」

 

長谷部が言う。

幸村は平然と返す。

 

「事実だ」

 

櫛田は笑っている。

 

「ありがとう、幸村くん」

 

その笑顔を見て、長谷部はまた少しだけ複雑になる。

 

昔なら、何も考えずに混ざれた。

 

キョーちゃんすごいじゃん。

 

そう言えたはずだった。

でも今は言えない。

 

櫛田もそれを分かっているように見える。

だから余計に苦しい。

 

「じゃあ最後、長谷部さんもやってみる?」

 

星之宮が軽く言った。

長谷部は思わず固まる。

 

「え」

「今日のテーマ、部長だけやらないの?」

「いや、でも今日は見せ方の研究で……」

「だからこそよ」

 

星之宮は笑っているが、目は少し真面目だった。

 

「見ているだけじゃ分からないこともあるわよ」

 

長谷部は黙った。

 

分かっている。

それは本当にそうだ。

愛里を見ているだけでは分からなかった。

雫の写真を毎日見ても分からなかった。

 

だからこの部活を作った。

 

それなのに、自分だけ避けるのは違う。

 

長谷部はゆっくり息を吐いた。

 

「……やる」

 

三宅がカメラを構える。

 

「無理すんなよ」

「してない」

 

少しだけ強がった。

長谷部は窓際に立つ。

 

テーマは、放課後に待っている女の子。

 

何をすればいいのか分からない。

 

一之瀬みたいに柔らかく待つこともできない。

松下みたいに余裕を見せることもできない。

櫛田みたいに自然に作ることもできない。

 

長谷部はただ、窓の外を見る。

 

放課後の校舎。

 

夕方の空。

 

少しずつ暗くなる景色。

 

誰かを待つ。

 

その言葉で、頭に浮かんだのは愛里だった。

 

もうここにはいない親友。

待っても来ない相手。

でも、いつか会いに行きたい相手。

 

胸の奥が少しだけ締め付けられる。

その瞬間。

 

カシャ。

 

シャッター音が響いた。

長谷部は振り向く。

 

「今の撮った?」

「撮った」

 

三宅が答える。

 

「なんか、今のはよかった」

 

長谷部は少し戸惑う。

 

「よかったって、何が?」

「分かんないけど。作ってない感じ」

 

その言葉に、部室が静かになる。

 

作っていない。

それは褒め言葉なのか分からない。

 

でも、長谷部には少しだけ嬉しかった。

 

櫛田が画面を覗き込む。

そして、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「……長谷部さんらしいね」

 

その声は、いつもの作った明るさとは少し違った。

 

長谷部は櫛田を見る。

櫛田も長谷部を見る。

 

少しだけ沈黙が落ちる。

 

昔なら、ここで軽口を叩けた。

でも今は、まだ無理だった。

 

長谷部は視線を逸らす。

 

「……どうも」

 

その一言だけ返した。

櫛田はそれ以上踏み込まなかった。

 

撮影後、全員で写真を確認した。

 

一之瀬の写真は温かい。

松下の写真は綺麗だった。

櫛田の写真は上手かった。

そして長谷部の写真は、不器用だった。

 

でも、その不器用さが妙に残った。

長谷部は自分の写真を見ながら、小さく呟く。

 

「なんか、全然違うね」

「何が?」

 

一之瀬が聞く。

 

「みんな同じテーマなのに、全然違う」

 

松下が頷く。

 

「だから面白いんじゃない?」

 

幸村がノートにまとめる。

 

「同じ題材でも、被写体の性格や経験が印象を変える。

つまり、見せ方は単なる技術ではなく、その人間の内面にも左右される」

「また難しいこと言ってる」

 

長谷部は苦笑した。

 

だが、今度は少し分かる気がした。

 

見せ方。

 

それはただ綺麗に映る技術ではない。

自分が何を隠して、何を出して、何を見られたくなくて、それでも何を伝えたいのか。

 

そういうもの全部が、写真には少しずつ出てしまう。

 

だから怖い。

 

でも、だからこそ意味があるのかもしれない。

 

部活が終わる頃、櫛田は帰り支度をしていた。

 

長谷部は少し迷ってから、声をかける。

 

「櫛田さん」

 

櫛田が振り返る。

 

「なに?」

「……今日は、ありがと」

 

言うだけで少し疲れた。

でも、言わないまま帰すのは違う気がした。

 

櫛田は少しだけ驚いた顔をした。

すぐに笑う。

 

「うん。また来てもいい?」

 

長谷部はすぐには答えられなかった。

でも、拒絶したいわけではなかった。

 

「……好きにすれば」

 

それが今の精一杯だった。

櫛田は、その返事だけで十分だというように微笑んだ。

 

「じゃあ、また来るね」

 

扉が閉まる。

部室に静けさが戻る。

長谷部はしばらく扉を見ていた。

 

キョーちゃん。

 

その名前は、まだ呼べない。

 

でも。

 

今日、ほんの少しだけ。

名字の向こう側に、昔の距離が見えた気がした。

 

三宅がカメラをしまいながら言う。

 

「波瑠加」

「なに?」

「今日の写真、残しとくぞ」

 

長谷部は少しだけ考えてから頷いた。

 

「うん」

 

そして、窓の外を見る。

 

冬の空はもう暗い。

 

でも、部室の中にはまだ少しだけ、夕方の熱が残っていた。

 

長谷部は小さく息を吐く。

 

佐倉愛里が見ていた世界は、まだ遠い。

 

けれど今日、自分は一つ知った。

 

自然に見えるものが、必ずしも自然とは限らない。

 

笑顔の裏にも、見せ方がある。

 

優しさの裏にも、努力がある。

 

そしてたぶん。

 

櫛田桔梗という人間も、自分が思っていたよりずっと複雑だった。

 

長谷部は机の上に置かれた写真を見つめる。

 

そこには、窓の外を見つめる自分が写っていた。

 

不器用で。

 

ぎこちなくて。

 

でも、逃げてはいない自分。

 

長谷部はその写真を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「……まだ、全然だけど」

 

誰に言うでもなく呟く。

 

「ちょっとだけ、分かった気がする」

 

その声は、冬の部室に静かに溶けていった。




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