第三準備室の扉を開けた瞬間、長谷部波瑠加は思わず立ち止まった。
「……なにこれ」
部室の中が、昨日までと少し違っていた。
窓際には折り畳み式のレフ板。
壁際には三宅のカメラバッグ。
机の上には幸村が整理したファイル。
その横には一之瀬と松下が持ってきた雑誌。
そして黒板には、やたら丸っこい文字でこう書かれていた。
『グラビアアイドル部・本日の活動!』
その横に、星のマークとハートのマークまで描かれている。
犯人は考えるまでもなかった。
「ほしみー……」
長谷部が呆れた声を出すと、
教卓の椅子に座っていた星之宮知恵が得意げに振り返った。
「どう?部活っぽいでしょ?」
「教師が一番浮かれてるんだけど」
「青春は楽しまないと損よ?」
「それ、先生が言う台詞?」
星之宮はまったく悪びれない。
その横で、幸村が黒板を見ながら眉間にしわを寄せていた。
「活動予定を書くのは構わないが、装飾が多すぎる」
「ゆきむー、そこ気にする?」
「情報は簡潔に提示するべきだ」
「部活の黒板にまで合理性求めなくていいと思う」
長谷部が苦笑すると、三宅明人がカメラのレンズを磨きながら笑った。
「まあ、前より部室っぽくなったじゃないか」
その言葉に、長谷部は部屋を見回す。
確かにそうだった。
最初はただの空き教室だった。
寒くて、埃っぽくて、何もなくて。
そこに自分たちが集まる理由なんて、本当にあるのか分からなかった。
でも今は違う。
まだ仮部室。
まだ仮の部活。
それでも、この場所には少しずつ自分たちの空気が生まれていた。
「お疲れ様」
柔らかい声がして、長谷部が振り返る。
一之瀬が扉の前に立っていた。
少し遅れて、松下も顔を出す。
「今日はまた賑やかだね」
松下が黒板を見て笑う。
一之瀬も小さく笑った。
「星之宮先生らしいですね」
「ほら、帆波ちゃんは分かってくれる!」
星之宮が嬉しそうに言う。
長谷部は少しだけ肩をすくめた。
「ほなみんは優しいから合わせてくれてるだけだと思う」
「そんなことないよ」
一之瀬は困ったように笑う。
その自然なやり取りに、長谷部は少しだけ胸が温かくなる。
一之瀬は別クラスだ。
松下も、元々そこまで深く関わっていたわけではない。
櫛田にいたっては、まだ距離感が曖昧なままだ。
それなのに、こうして放課後になると集まってくる。
そのことが少し不思議で、少し嬉しかった。
そして最後に、もう一人。
「遅れてごめんね」
櫛田が部室へ入ってきた。
長谷部の身体が、ほんの少しだけ反応する。
昨日よりはましだった。
でも、まだ自然には振る舞えない。
「……櫛田」
口から出たのは、やはり名字だった。
櫛田は一瞬だけその呼び方を受け止めるように微笑み、
それからいつもの明るい声で言った。
「今日もよろしくね」
その声を聞いて、長谷部は小さく頷く。
「うん」
たったそれだけ。
けれど、昨日よりは少しだけ自然に返せた気がした。
全員が揃うと、幸村がノートを開いた。
「では、今日の活動内容を確認する」
「ゆきむーが完全に副部長みたいになってる」
長谷部が言うと、幸村は眼鏡を押し上げる。
「波瑠加が部長らしい仕事をしないからだ」
「痛いところ突かないで」
三宅が笑う。
「じゃあ役職決めるか?」
「え、今?」
長谷部が驚くと、松下が頷いた。
「でも必要かもね。何となく集まってるだけだと、続ける時に困るだろうし」
一之瀬も言う。
「役割があると動きやすいと思う」
星之宮が手を叩いた。
「いいじゃない!部活っぽい!」
長谷部は少し嫌な予感がした。
こういう流れになると、自分に負担が来る。
案の定、幸村が淡々と言った。
「部長は長谷部で確定だ」
「え、まだ言う?」
「言い出したのはお前だ」
「それはそうだけど……」
「責任を取れ」
「言い方が重い」
長谷部は顔をしかめたが、誰も反対しなかった。
むしろ全員が自然に受け入れている。
三宅が軽く手を挙げた。
「俺はカメラ担当でいいだろ」
「うん。みやっちはそれしかない」
「それしかないって何だよ」
幸村が続ける。
「俺は記録、機材管理、照明補助、活動計画を担当する」
「多くない?」
「誰かがやらないと回らない」
「ゆきむー頼もしすぎる……」
長谷部が本気で感心すると、幸村は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「別に大したことじゃない」
松下が微笑む。
「私はポージングとか見せ方の相談役、でいいかな?」
「まっちゃん、それめちゃくちゃ助かる」
長谷部は素直に言った。
松下は自然に見える。
でも、その自然さが努力で作られていることを、長谷部は少しずつ知り始めていた。
だからこそ、松下の言葉には説得力がある。
一之瀬は少し考えてから言った。
「私は……空気係?」
「なにそれ」
長谷部が笑う。
一之瀬も笑った。
「でも、みんなが緊張しすぎないようにできたらいいなって」
その言葉に、長谷部は少し納得する。
一之瀬がいると、部室の空気が柔らかくなる。
それは確かだった。
櫛田は軽く手を上げた。
「じゃあ私は表情作りとか、雰囲気作りかな」
その言葉に、長谷部の胸が少し動く。
櫛田は見せ方が上手い。
自然に見せることも、明るく振る舞うことも、場を整えることもできる。
それは長谷部にとって、まだ少し眩しくて、少し苦いものだった。
けれど同時に、この部活には必要な力だと思った。
長谷部は少しだけ息を吸う。
「……助かる」
短い言葉だった。
でも、嘘ではなかった。
櫛田は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから柔らかく笑った。
「うん。任せて」
星之宮は胸を張る。
「そして私は顧問兼、特別モデル兼、青春監督ね!」
「最後の何?」
幸村が即座に突っ込む。
「青春を監督するの!」
「意味が分かりません」
「ゆきむー、そこ真面目に受け取らなくていいよ」
部室に笑いが起きる。
長谷部はその笑いの中心にいながら、ふと不思議な感覚を覚えていた。
自分が作った部活。
自分が言い出した場所。
でも、もう自分一人のものではない。
みんなが役割を持っている。
みんなが少しずつ、この場所へ自分の何かを置き始めている。
それが、少しだけ怖くて。
でも、嬉しかった。
「じゃあ今日は、役割確認も兼ねて簡単な撮影練習をする」
幸村が言った。
長谷部は少し身構える。
「また撮影?」
「練習だ。今回は撮られることが主目的ではない。
撮る側、整える側、見せる側、それぞれの役割を確認する」
「言い方は固いけど、内容は分かりやすいね」
松下が笑う。
今回のテーマは「机に向かう放課後」になった。
派手なポーズはいらない。
誰かを待つでもない。
ただ、放課後の部室で過ごしている雰囲気を撮る。
最初はやっぱり一之瀬。
机に座って雑誌を読んでいるだけ。
それなのに、一之瀬がそこにいるだけで写真全体が柔らかくなる。
長谷部は横で見ながら、少し感心した。
「ほなみんって、何もしなくても雰囲気出るよね」
「そんなことないよ」
一之瀬は照れたように笑う。
櫛田がその様子を見ながら言った。
「一之瀬さんは、安心感があるんだと思う」
「安心感?」
長谷部が聞き返す。
櫛田は頷く。
「見てる人に警戒させない雰囲気っていうか」
その分析は的確だった。
長谷部は少しだけ驚く。
櫛田は、人を見るのが上手い。
それは知っていた。
でも、こうして部活の中で聞くと、その力がただ怖いものではないようにも思えた。
次は松下。
机に肘をつき、少し横を向く。
ただそれだけなのに、写真の印象が一気に大人っぽくなる。
三宅がシャッターを切りながら感心する。
「まっちゃんは角度分かってるよな」
「何となくだよ」
松下はそう言うが、たぶん本当に何となくではない。
自分がどう見えるか。
どうすれば落ち着いて見えるか。
松下はそれを知っている。
長谷部は思った。
自分もいつか、そうなれるのだろうか。
次は櫛田。
櫛田は椅子へ座り、机の上のペンを指先で軽く転がす。
視線を落とす。
それから、ふと顔を上げる。
その瞬間、三宅がシャッターを切った。
写真を確認した瞬間、部室の空気が少し変わる。
やはり上手い。
自然に見える。
けれど、作っていることも分かる。
長谷部はその写真を見て、複雑な気持ちになった。
羨ましい。
悔しい。
でも、綺麗だとも思う。
櫛田は画面を見ながら少しだけ苦笑した。
「私、ちょっと作りすぎかも」
その言葉に、長谷部は思わず顔を上げた。
櫛田が自分でそれを言うとは思わなかった。
「分かるの?」
長谷部が尋ねると、櫛田は小さく笑った。
「分かるよ。自分の顔だもん」
その声は、いつもの明るさより少しだけ低かった。
長谷部は何も言えなかった。
櫛田にも、自分の顔を見て苦しくなる瞬間があるのかもしれない。
そう思うと、少しだけ櫛田が遠くなくなった気がした。
そして最後は長谷部だった。
逃げたいほどではない。
でも、やはり緊張はする。
椅子へ座る。
机の上には雑誌。
窓の外は冬の夕方。
三宅がカメラを構える。
幸村が照明を少し調整する。
松下が言う。
「背中、少しだけ伸ばしてみて」
長谷部は従う。
一之瀬が柔らかく言う。
「無理に笑わなくていいよ」
櫛田が少し考えてから言った。
「目線は、カメラじゃなくて雑誌の方が自然かも」
長谷部は雑誌へ視線を落とす。
全員が自分を見ている。
でも、不思議と嫌な視線ではなかった。
評価するための視線ではない。
値踏みする視線でもない。
自分をどう映せばいいか、一緒に考えてくれている視線だった。
カシャ。
シャッター音。
長谷部は少しだけ息を止める。
カシャ。
もう一枚。
三宅が言う。
「いい。さっきより力抜けてる」
「ほんと?」
「ほんと」
撮影が終わり、画面を確認する。
そこには、机に向かう自分が映っていた。
派手ではない。
特別綺麗でもない。
けれど、前より自然だった。
長谷部は少しだけ黙る。
「……これ、嫌じゃない」
その言葉が、ぽろっと出た。
部室が少し静かになる。
一之瀬が嬉しそうに笑った。
松下も小さく頷く。
三宅は少し得意げだった。
幸村はノートに何かを書き込む。
櫛田は、静かに長谷部を見ていた。
星之宮が椅子を回しながら言う。
「いいじゃない。大進歩」
長谷部は少し恥ずかしくなった。
「大げさ」
「大げさじゃないわよ」
星之宮は珍しく、少し真面目な声で言った。
「嫌じゃないって思えたなら、それは大事なこと」
長谷部は画面の中の自分を見る。
昔なら、すぐ目を逸らしていた。
写真に写った自分を見るのが嫌だった。
身体の形。
表情の硬さ。
立ち方。
全部気になって、全部嫌になっていた。
でも今は違う。
嫌じゃない。
その感覚は、小さいけれど確かな変化だった。
部活が終わる頃、幸村が本日のまとめを読み上げた。
「役割分担は暫定的に決定。撮影時は、撮影者、照明、被写体、
補助、雰囲気作りの役割を意識する。今後はテーマごとの撮影練習を行う」
「ゆきむーのまとめ、毎回ちゃんとしてて助かる」
長谷部が言うと、幸村は少しだけ目を逸らした。
「必要なことをしているだけだ」
「そういうところ、ゆきむーっぽい」
三宅が笑う。
一之瀬と松下は雑誌を片付け、櫛田は黒板の文字を消していた。
星之宮はなぜかクッションを抱えている。
長谷部はその光景を見て、ふと思った。
ここは、もうただの空き教室ではない。
誰かが持ってきたものがある。
誰かが書いた文字がある。
誰かが笑った跡がある。
誰かが悩んだ空気がある。
そして、自分が少しだけ変わった証拠がある。
帰り際、櫛田が長谷部の隣へ来た。
「長谷部さん」
「なに?」
長谷部は少しだけ身構えた。
櫛田は柔らかく笑う。
「今日の写真、よかったと思う」
長谷部は少し黙る。
素直に受け取るのが、まだ難しい。
でも、拒絶するほどでもなかった。
「……ありがと」
櫛田は少しだけ嬉しそうにした。
それだけで会話は終わった。
昔みたいに戻ったわけじゃない。
キョーちゃんとは、まだ呼べない。
でも、名字で呼ぶ声の硬さは、昨日より少しだけ薄くなった気がした。
部室の鍵を閉めたあと、長谷部は廊下で立ち止まる。
冬の校舎は静かだった。
窓の外はもう暗い。
でも、胸の中は少しだけ温かかった。
携帯を開く。
今日撮った写真が送られてきていた。
机に向かう自分。
少し俯いている。
でも、逃げてはいない。
長谷部はその写真を見つめる。
それから、いつものように雫のSNSを開こうとして、指を止めた。
今日は、少しだけ後でいい。
そう思った。
佐倉愛里を忘れたわけではない。
むしろ、ずっと会いたい。
ずっと知りたい。
けれど今は、自分の場所も少しずつでき始めている。
そのことを、ちゃんと感じていたかった。
「……部長か」
長谷部は小さく呟く。
まだ慣れない。
まだ恥ずかしい。
でも。
少しだけ、悪くないと思った。
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