佐倉愛里が見ていた世界   作:EXTERMINATION

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第8話 夕焼けの帰り道

四月の終わり。

 

高度育成高等学校は、春特有の少し浮ついた空気に包まれていた。

新学期が始まった直後の慌ただしさも落ち着き始め、

校舎にはようやく日常が戻ってきている。

 

昼休みの廊下。

窓から入る風。

ケヤキモールへ向かう生徒たち。

 

その全部が、どこか穏やかだった。

 

そして。

グラビアアイドル部もまた、少しずつ普通の部活になり始めていた。

 

放課後。

第三準備室の扉を開けた瞬間、長谷部波瑠加は思わず足を止めた。

 

「……なにこれ」

 

机の上に、大量の雑誌が積まれていた。

 

ファッション誌。

写真集。

女性向けライフスタイル誌。

そして何冊かのグラビア雑誌。

 

長谷部は思わず顔をしかめる。

 

「ゆきむー、また増えてる」

「資料収集だ」

 

幸村輝彦は真顔だった。

 

「最近、構図と生活感の関係について調べていて――」

「待って、もう研究室なんよ」

 

三宅明人が吹き出す。

その横で、一之瀬帆波が雑誌をめくっていた。

 

「でも、見てると結構面白いよ」

「ほなみん、順応早くない?」

「そうかな?」

 

一之瀬は困ったように笑う。

松下千秋は机へ頬杖をつきながらページを眺めていた。

 

「最近、生活感ある写真流行ってるのよね」

「生活感?」

 

長谷部が訊き返す。

松下は雑誌のページを指差した。

 

そこには、部屋で髪を乾かしている女性の写真。

窓際で飲み物を飲んでいる写真。

本を読んでいる写真。

どれも、いわゆるポーズではない。

 

自然な日常。

 

「こういう、作りすぎてない感じ」

 

松下が説明する。

長谷部はそのページを見つめる。

 

自然。

 

その言葉を、この部活で何度聞いただろう。

 

でも最近、少しずつ分かってきた。

自然って、何もしないことじゃない。

その人が安心している空気が写ることだ。

 

その時。

 

櫛田桔梗が雑誌を閉じながら言った。

 

「じゃあ今日は、日常っぽい撮影やってみる?」

 

三宅がすぐ反応する。

 

「いいな、それ」

 

星之宮知恵も乗ってくる。

 

「青春日常系ね!」

「ほしみーのジャンル分け雑すぎる」

 

長谷部が呆れる。

だが、内心では少し興味があった。

 

今までの撮影は、

 

窓際

放課後

 

みたいに、どこか写真を撮ることを意識していた。

 

でも今回は違う。

 

もっと日常寄り。

 

つまり。

 

素に近い。

 

その時だった。

 

「およー?」

 

突然、部室の扉が開いた。

長谷部は反射的に振り向く。

 

そこに立っていたのは、後輩の天沢一夏だった。

その後ろには七瀬翼の姿もある。

 

「なんか楽しそうなことしてるー!」

「天沢さん、急に入るのは……」

 

七瀬が困ったように止める。

だが天沢はまるで気にしていない。

勝手に部室へ入ってくる。

 

「何々?今日は何してるの?」

 

長谷部が呆れたように言う。

 

「撮影」

「えっ、撮って撮ってー!」

「話聞くの早すぎない?」

 

天沢はすでに窓際へ向かっていた。

七瀬は入口付近で完全に困っている。

 

「私は別に……」

「七瀬ちゃんもおいでってー!」

「えぇ……」

 

部室に笑いが広がる。

長谷部は少しだけ肩の力を抜いた。

 

天沢が来ると、空気が一気に軽くなる。

最初の頃なら、こういう乱入は嫌だったかもしれない。

 

空気を崩される感じがして。

 

でも今は違う。

この部室には、もうちゃんと自分たちの空気がある。

 

だから多少崩れても、大丈夫だと思える。

 

三宅がカメラを構える。

 

「じゃ、今日は本当に日常っぽくいくか」

「テーマは?」

 

一之瀬が聞く。

三宅は少し考えた。

 

それから笑う。

 

「放課後の部室そのまま」

 

その言葉に、長谷部は少しだけ目を瞬かせる。

 

放課後の部室。

 

つまり。

今この空間そのもの。

 

無理にポーズを取らない。

普通に話している。

笑っている。

 

そういう瞬間を撮る。

 

長谷部は少しだけ不思議な感覚になった。

 

最初は、撮られるだけで怖かった。

 

でも今は。

この空間自体を残したいと思っている自分がいる。

 

そして長谷部は、その光景をぼんやり見ていた。

 

その時だった。

ふと。

長谷部の視線が、天沢と七瀬の方へ止まる。

 

「……」

 

天沢一夏は制服の上からでも分かるくらいスタイルが良い。

 

動きも軽い。

姿勢も自然。

 

七瀬翼も、一見すると落ち着いた印象だが、

実際は天沢以上に発育が良い部類だった。

 

しかも二人とも、長谷部と違って身体を隠そうとしていない。

そこが妙に目に入る。

長谷部は無意識に思っていた。

 

――いや、この二人も普通に発育良いんだよね……。

 

しかも。

天沢は完全に見られることへ慣れている。

七瀬も軍人みたいに姿勢が良いせいで、立ち方が妙に綺麗だった。

 

長谷部は、つい、じーっと見てしまう。

その視線に、七瀬が気付いた。

 

「……?」

 

七瀬はきょとんとした顔で首を傾げる。

 

「どうかしましたか?」

 

その瞬間。

長谷部は我に返る。

 

「えっ、いや、その……!」

 

完全に挙動不審だった。

 

だが。

その横で、天沢がにやぁっと笑う。

 

「んんー?」

 

嫌な予感。

天沢は長谷部の視線の意味を、一瞬で理解した顔をしていた。

 

そして。

 

「んちゅ♡」

 

投げキッス。

 

「は!?!?」

 

長谷部が真っ赤になる。

さらに天沢は、わざとらしく身体をひねり、雑誌のグラビアみたいなポーズを取った。

 

「波瑠加センパイ、見すぎ見すぎ~♪」

「ち、違っ……!」

 

部室に爆笑が広がる。

三宅が吹き出しながらカメラを構える。

 

「天沢お前ノリ良すぎだろ!」

「えー?だって見られてたしー?」

「違うって!!」

 

長谷部は完全にパニックだった。

 

だが。

その瞬間。

長谷部は、ふと気付いてしまう。

 

今、自分は。

見ている側だった。

 

昔から。

自分はずっと、見られる側だった。

 

視線を向けられる側。

勝手に身体を見られる側。

だから、見られることばかり考えていた。

 

でも今。

 

自分は逆に、他人の身体を見ていた。

 

しかも。

 

「うあぁぁぁぁ……っ」

 

長谷部はその場で頭を抱えてしゃがみ込む。

 

「最悪だぁぁぁぁ……!」

「えっ、なんで!?」

 

天沢がケラケラ笑う。

長谷部は顔を真っ赤にしたまま呻いた。

 

「いやだって!今の完全に私が見る側だったじゃん……!」

 

部室にまた笑いが起きる。

松下が肩を揺らしていた。

一之瀬も笑いを堪えきれていない。

櫛田は机へ突っ伏している。

幸村ですら口元を押さえていた。

七瀬だけが少し困惑している。

 

「えぇと……そんなに気にすることだったんですか?」

「するよ!!」

 

長谷部が即答する。

 

だが。

叫んだあと。

 

長谷部は、ふと止まる。

 

見る側。

 

その感覚。

 

それは別に、いやらしい意味だけじゃなかった。

 

綺麗だと思った。

姿勢が。

立ち方が。

空気が。

 

だから見てしまった。

 

それって。

 

今まで自分が考えていた視線とは、少し違う気がした。

 

その時。

 

櫛田が笑いながら顔を上げる。

 

「長谷部さん、最近ほんと分かりやすいよね」

「うるさい……」

 

長谷部はまだ赤い顔のまま小さく返す。

すると松下が、少し優しい声で言った。

 

「でも、それって悪いことじゃないと思う」

 

長谷部が顔を上げる。

松下は続けた。

 

「綺麗だなとか、いいなって思って見るのって、別に変なことじゃないでしょ?」

 

一之瀬も頷く。

 

「うん。波瑠加ちゃん、今のは嫌な感じじゃなかったし」

 

長谷部は少しだけ黙る。

その言葉を、静かに飲み込む。

 

昔の自分なら。

 

視線は全部怖いものだと思っていた。

 

でも今は違う。

見方にも色々ある。

綺麗だと思って見る視線。

憧れて見る視線。

好きだと思って見る視線。

その全部が、同じじゃない。

 

長谷部は小さく息を吐く。

 

そして。

 

「……なんか、また知らないこと増えた気分」

 

ぽつりと呟いた。

その言葉を聞きながら。

 

三宅は静かにシャッターを切った。

 

カシャ。

そこには。

 

顔を真っ赤にしながらも、少しだけ笑っている長谷部が映っていた。

 

長谷部が振り向く。

三宅が画面を見ながら言った。

 

「今のいい」

「え、何撮ったの?」

「波瑠加」

「は?」

 

長谷部は慌てて近付く。

画面を見る。

そこには、完全に油断していた瞬間。

 

ポーズも取っていない。

カメラも見ていない。

でも。

そこにいる自分は、思ったより自然だった。

 

長谷部は少しだけ黙る。

 

「……なんか、普通」

 

その感想に、松下が笑った。

 

「それがいいんじゃない?」

 

一之瀬も頷く。

 

「うん。すごく波瑠加ちゃんっぽい」

 

長谷部は少しだけ照れた。

 

昔なら、普通に写ることすら嫌だった。

 

身体のライン。

表情。

姿勢。

 

全部が気になっていた。

 

でも今は違う。

この部室で笑っている自分を見ても、前ほど嫌じゃない。

 

その時。

 

「波瑠加センパイってさー」

 

天沢が突然言った。

長谷部が顔を向ける。

天沢はにやにやしている。

 

「最初より全然かわいくなったよね」

 

数秒。

部室が止まる。

長谷部が真っ赤になる。

 

「は!?!?」

「いやマジで」

 

天沢は悪びれない。

 

「最初、ずーっと警戒してる猫みたいだったし」

「言い方!」

 

三宅が吹き出す。

櫛田まで笑いを堪えていた。

七瀬が小さく頷く。

 

「……確かに、最初より柔らかい印象になった気はします」

「七瀬さんまで!?」

 

長谷部は完全に居心地が悪そうだった。

 

だが。

その時だった。

松下がふっと笑う。

 

「でも、分かるかも」

「まっちゃんまで……」

 

松下は長谷部を見る。

その目は、からかっているわけではなかった。

 

「波瑠加、最近ちゃんとそこにいる感じするんだよね」

 

長谷部は少しだけ止まる。

そこにいる。

その言葉が、妙に胸へ残った。

 

昔の自分は。

 

ずっと隠れていた。

 

目立たないように。

 

見られないように。

 

縮こまって。

 

でも今は。

 

この部室で笑っている。

 

写真に写っている。

 

桜の下を歩いている。

 

そして、少しずつ。

 

そこにいる自分を受け入れ始めている。

 

その時。

 

カシャ。

またシャッター音。

 

長谷部が振り向く。

三宅が笑っていた。

 

「今の顔も、めっちゃ良かった」

「もうやだこの部活……」

 

長谷部が頭を抱える。

 

だが。

その顔は、ちゃんと笑っていた。

 

夕方。

 

撮影が終わった後。

部室には少し静かな空気が戻っていた。

 

天沢と七瀬は途中で帰り、星之宮は職員会議へ行った。

残ったのは、いつものメンバー。

 

窓の外は、少し赤くなり始めている。

長谷部は机へ頬杖をつきながら、今日の写真を見ていた。

 

どれも。

以前より自然だった。

 

作っていない顔。

笑っている瞬間。

誰かと話している横顔。

 

その全部が、知らない自分みたいだった。

 

その時。

櫛田が隣へ来た。

 

「見てるの?」

「うん」

 

長谷部は画面を見たまま答える。

 

櫛田も写真を覗き込む。

 

そこには、部室で笑っている長谷部。

天沢に振り回されている長谷部。

少し呆れた顔をしている長谷部。

 

そして。

 

自然に笑っている長谷部。

 

櫛田は静かに言った。

 

「長谷部さん、最近ほんと変わったね」

 

長谷部は少し考える。

それから、小さく笑った。

 

「……そうかも」

 

昔の自分なら、絶対言えなかった。

 

でも今は。

 

少しだけ。

 

変わった自分を認められる気がした。

 

櫛田はそんな長谷部を見ながら、柔らかく笑う。

 

今度は。

 

作っていない笑顔だった。

 

 

五月へ入り始めた高度育成高等学校は、すっかり春の色へ変わっていた。

 

桜はもう散っている。

その代わり、校内の木々には柔らかい緑が増えていた。

 

窓を開ければ風が入る。

放課後になっても、冬みたいな寒さはもうない。

 

そんな夕方。

第三準備室には、いつもの空気が流れていた。

 

三宅明人はカメラを机へ並べている。

幸村輝彦は活動記録を書き込んでいた。

一之瀬帆波は雑誌をめくりながら、時々松下千秋と何か話して笑っている。

櫛田桔梗は窓際で携帯を見ていた。

星之宮知恵はなぜかソファ代わりの長椅子へ寝転がっている。

 

そして。

長谷部波瑠加は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。

 

「……なんか、不思議」

 

ぽつりと呟く。

 

最初の頃。

この部屋へ入るたび、自分はずっと緊張していた。

 

身体を見られること。

撮られること。

他人と比べてしまうこと。

その全部が怖かった。

 

でも今は。

 

この部屋へ来ると、少し安心する。

それが不思議だった。

 

「何が?」

 

一之瀬が優しく聞く。

 

長谷部は少し考える。

それから、小さく笑った。

 

「いや、ちゃんと部活になったなって」

 

その瞬間。

部室が少し静かになる。

 

三宅が笑う。

 

「今さら?」

「今さら」

 

長谷部も少し笑った。

でも、本当にそう思った。

 

最初は、ただ佐倉愛里を知りたかった。

 

雫が見ている世界を知りたかった。

 

そのために始めた。

 

でも今は違う。

 

ここにはもう、

 

一之瀬の柔らかい空気。

松下の落ち着いた視線。

櫛田の不器用な優しさ。

三宅の真っ直ぐなカメラ。

幸村の細かすぎる分析。

星之宮の明るい騒がしさ。

 

その全部が積み重なっている。

長谷部は机の上の写真を見る。

 

最初の頃の自分。

肩が固い。

視線が逃げている。

 

笑えていない。

 

でも。

 

今の写真は違う。

 

ちゃんとそこにいる。

 

ちゃんと笑っている。

 

その時。

 

「じゃあ今日は初心に帰る?」

 

星之宮が急に起き上がった。

 

「初心?」

 

長谷部が聞き返す。

星之宮は笑う。

 

「最初の頃みたいに、普通の放課後を撮るの」

 

三宅が頷く。

 

「いいな」

 

幸村も珍しく反対しなかった。

 

「変化比較としても意味はある」

「ゆきむー、それ絶対研究対象として見てるよね」

「否定はしない」

 

部室に笑いが広がる。

 

撮影準備が始まる。

だが今回は、本当に自然だった。

誰も気負っていない。

 

一之瀬は普通に話している。

松下は雑誌を読んでいる。

櫛田は窓際で髪をいじっている。

星之宮はお菓子を食べている。

 

そして。

 

長谷部もまた、普通にそこにいた。

 

カシャ。

シャッター音。

 

長谷部はもう、以前ほど過剰に反応しない。

 

もちろん少し意識はする。

 

でも。

 

撮られることが、怖いだけのものじゃなくなっていた。

 

その時だった。

 

「長谷部さん」

 

櫛田が不意に声をかける。

長谷部が顔を向ける。

櫛田は少しだけ迷ったような顔をしていた。

 

それから、小さく言う。

 

「……最近さ」

「うん?」

「前より、話しやすい」

 

長谷部は少し止まる。

部室の空気が、ほんの少し静かになる。

櫛田は視線を逸らした。

 

「なんか、前はずっと張ってた感じしたから」

 

その言葉は、思った以上に真っ直ぐだった。

 

長谷部は少し考える。

それから、小さく息を吐いた。

 

「……まあ、最近はちょっと楽かも」

 

櫛田が顔を上げる。

長谷部は続けた。

 

「最初はさ、ずっと比べてたんだと思う」

「比べる?」

「愛里とか、ほなみんとか、まっちゃんとか……あと、櫛田さんとも」

 

櫛田が少し目を見開く。

長谷部は苦笑した。

 

「みんな自然に見えてたから」

「……そんなことないよ」

 

櫛田が小さく言う。

長谷部は少し笑った。

 

「うん。最近それも分かってきた」

 

その言葉に。

櫛田はほんの少しだけ、安心したような顔をした。

 

その瞬間。

 

カシャ。

三宅のシャッター音。

 

「みやっち!」

 

長谷部が叫ぶ。

三宅は笑いながら画面を見ていた。

 

「いや今の絶対いい」

「空気読んで!」

「読んだから撮ったんだろ」

 

幸村が小さく頷く。

 

「判断としては正しい」

「ゆきむーまで何言ってんの!?」

 

部室にまた笑いが広がる。

その笑い声を聞きながら、長谷部はふと思う。

 

昔の自分なら。

こんな風に笑われるのも嫌だった。

視線を向けられるだけで苦しかった。

 

でも今は違う。

 

今ここにある視線は、

 

馬鹿にする視線じゃない。

値踏みする視線じゃない。

傷付けるための視線じゃない。

 

それを知っている。

 

だから。

 

少しだけ平気になれた。

 

夕方。

撮影が終わる。

 

窓の外は、オレンジ色へ変わり始めていた。

 

長谷部は一人、部室の窓際へ立つ。

 

外を見る。

校舎。

グラウンド。

帰っていく生徒たち。

 

春の夕焼け。

その景色を見ながら、長谷部は静かに思う。

 

もうすぐ、自分たちは卒業へ向かう。

 

この時間も。

この部室も。

いつか終わる。

 

その事実が、少しだけ寂しかった。

 

その時。

 

「波瑠加ちゃん」

 

後ろから、一之瀬の声。

 

振り向く。

一之瀬は柔らかく笑っていた。

 

「今日の写真、見る?」

 

長谷部は少しだけ笑う。

 

「うん」

 

机へ戻る。

みんなが集まっている。

 

三宅が写真を表示する。

そこには。

 

部室で笑っている自分たちがいた。

 

特別なポーズじゃない。

完璧な構図でもない。

 

でも。

 

すごく楽しそうだった。

長谷部は、その写真をじっと見る。

 

それから、ぽつりと呟いた。

 

「……なんかさ」

「ん?」

 

松下が顔を上げる。

長谷部は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「今なら、愛里に会っても少しはちゃんと話せる気がする」

 

部室が静かになる。

その言葉は。

 

この部活が始まってから初めて、長谷部が口にした前向きな未来だった。

 

一之瀬が嬉しそうに笑う。

松下も目を細める。

三宅は小さく頷いた。

幸村は静かに長谷部を見る。

櫛田は、少しだけ泣きそうな顔で笑っていた。

そして星之宮が、珍しく穏やかな声で言う。

 

「うん。きっと大丈夫よ」

 

長谷部は、その言葉を静かに聞いていた。

 

窓の外。

夕焼けが、校舎を赤く染めている。

 

長谷部は思う。

 

佐倉愛里が見ていた世界は、まだ全部は分からない。

 

でも。

 

その世界へ近づこうとした時間は、無駄じゃなかった。

 

この部室で笑った時間。

 

悩んだ時間。

 

写真を撮った時間。

 

全部が、自分を少しずつ変えていた。

 

長谷部は机の上の写真を見る。

 

そこには。

 

少しだけ大人になった自分が、確かに映っていた。

 

帰り道。

長谷部たちは、校舎から寮へ続く並木道をゆっくり歩いていた。

春の夕焼けが、学校全体を柔らかい橙色へ染めている。

 

風は穏やかだった。

昼間より少し冷たい。

でも、冬みたいな刺さる寒さじゃない。

 

髪を揺らすくらいの、優しい風。

長谷部は、その風を受けながら空を見上げた。

 

夕焼けの色が、少しだけ滲んで見える。

 

その隣では、一之瀬が静かに笑っていた。

松下は春風で乱れた髪を耳へかける。

櫛田は少し前を歩きながら、夕陽へ目を細めていた。

 

4人とも、特に大きな会話はしていない。

 

でも、不思議と気まずくない。

沈黙がちゃんと心地良かった。

 

長谷部はふと思う。

 

こういう時間を、昔の自分は知らなかった気がする。

 

誰かと比べて。

誰かを羨んで。

身体を隠して。

 

見られることばかり怖がっていた。

 

でも今は違う。

 

もちろん、全部を克服したわけじゃない。

 

今でも視線は少し怖い。

 

写真を見て落ち込む日もある。

 

愛里を思い出して苦しくなることもある。

 

綾小路のことを考えると、まだ胸がざわつく。

 

それでも。

 

今、自分はちゃんと前を向いて歩いている。

 

その実感だけは、確かにあった。

 

その時だった。

 

少し後ろを歩いていた三宅が、不意に足を止める。

 

カメラを持ち上げる。

長谷部たちは気付いていない。

 

夕焼け。

春風。

 

並んで歩く4人の後ろ姿。

 

一之瀬の柔らかい横顔。

松下の落ち着いた空気。

櫛田の少し儚げな笑顔。

 

そして。

 

その隣で、肩の力を抜いて歩いている長谷部波瑠加。

 

カシャ。

シャッター音が、夕暮れの中へ小さく響いた。

 

長谷部たちが振り返る。

 

「え?」

「みやっち?」

 

三宅は少し照れ臭そうに笑った。

 

「いや……なんか、今すげえ良かったから」

 

長谷部は少しだけ目を瞬かせる。

三宅が画面を見せる。

 

そこには。

 

春の夕焼けの中を歩く、自分たちが映っていた。

 

ポーズなんて取っていない。

カメラも見ていない。

ただ歩いているだけ。

 

でも。

 

その写真は、今までで一番青春だった。

 

長谷部はしばらく黙ったまま、その画面を見つめる。

 

風が吹く。

 

桜の残り花が、ほんの少しだけ舞った。

 

その光景の中で。

 

長谷部は小さく笑った。

 

「……なんかさ」

「ん?」

 

一之瀬が顔を向ける。

長谷部は夕焼けの空を見上げる。

 

「こういう景色、愛里にも見せたいなって思った」

 

その声は、少しだけ儚くて。

 

でも。

 

前よりずっと、優しかった。




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