「......これって、指輪......?」
「うん......。ふもとの街の、個人経営のアクセサリーショップ。そこで買ったの......」
箱の中に入っていたのは、ダイヤモンドのような作り物の宝石が取り付けられた、金属の指輪だった。
俺は指輪を指で摘み、指にはめてみる。
「どうして指輪を......?」
「......もしかしたらね?」
顔を隠しながら、七瀬は話し始める。
「もしかしたら、正道は今、私に不信感を抱いているかもしれない。なんでかは分からないけど、そう感じるの......」
「......っ! そ、そんなことは......」
そんなことは、あった。
実際、俺は七瀬に少しだけ、不信感を抱いている。
だが、何故そんなことを知っているかのように話すのだろうか。
「でも、でもね......? もし、その不信感が綺麗サッパリ無くなって、私のことを、信用できる交際相手として見れるようになったら......」
「なったら......?」
「......私の誕生日に、同じ指輪をプレゼントしてほしい......」
「同じ、指輪......」
つまり、七瀬を信じ、交際相手として普通に付き合えるようになったら。
その時は、結婚指輪のように、おそろいの指輪を身に着けたい。
おそらく、そういうことだと思う。
「......後悔したよね? 私の愛が重くて、こんなに思い上がってるって知っちゃって......」
七瀬は今にも泣きだしそうだった。
嫌われるかもしれない。
そんな思いで押し潰されそうになりながらも、覚悟して渡してくれたのだろう。
「七瀬......ごめん......!」
俺は謝った。
七瀬の気持ちも考えずに、ただ、好奇心に突き動かされ、渡してくれと要求したことを。
「な、なんで正道が謝るの......? そ、それより、私こそごめん......。一方的に、こんなもの渡しちゃって......」
「いや、いいんだ......」
俺は指輪の宝石を眺める。
取り付けられた作り物の宝石は、部屋の照明で光り輝いていた。
「七瀬......。お返し、楽しみにしててくれ......」
「......うん!」
そうは言ったものの、実際、七瀬を信じ、お返しができる気持ちになるかは分からない。
だが、今は、七瀬を落ち込ませないために嘘を付いた。
それが、とても苦しかった。
「......そうだ。そろそろ料理ができるんじゃないかな? 正道のお母さん、正道が帰る前から仕込んでたみたいだし......」
「そ、そうか......。じゃあ、そろそろ行くか......」
「うん」
俺と七瀬は立ち上がり、部屋を出た。
台所へ向かうと、いい香りが鼻を刺激する。
「わぁー! チキン!」
テーブルの真ん中に置かれている皿には、ローストチキンが盛られていた。
「先生に手伝ってもらってるパエリアも、もう少しで完成するから、楽しみにしててね」
母さんがそう言うと、調理中の先生が振り返り、ニコッと笑う。
「それじゃ、私たちは食器を用意しよっか」
「お、おう」
俺たちは食器を取り出し、テーブルに並べる。
その途中、パエリアのいい匂いを嗅ぐと、俺の腹が鳴った。
「ははは、正道のお腹鳴ってるー」
「そういえば、今日はボーっとしてて、昼食も食ってないからな......」
「じゃあ、いっぱいあるからたくさん食べな。正道の誕生日なんだから、遠慮はいらないよ」
「わ、わかった......」
そんな会話をしていると、いつの間にか食器は並べ終えていた。
特にやることが無くなった俺と七瀬は、椅子に座り、料理の完成を待つことにした。
「料理、楽しみだね!」
「そうだな......」
俺は七瀬に返事をし、何となく台所を見渡した。
すると、七瀬の背後に置かれている冷蔵庫に、マグネットで何かのチラシが貼り付けられているのを発見した。
カラフルな色合いから、イベントについて書かれていそうなチラシだが、俺の席からではよく見えない。
「ん? どうしたの?」
俺が何かを見ていることに気が付いた七瀬は、背後を振り向く。
「あー......。ふもとの街の花火大会、ねぇ......」
どうやら、花火大会のチラシのようだ。
ふもとの街で毎年行われており、この地域では数少ない大イベントである。
数年前までは家族で行っていたが、ここ最近は行った記憶はない。
「花火大会かぁ......。久ぶりに行ってみようかなぁ......」
おそらく俺は、周りからは勉強のし過ぎで、ストレスを溜め込んでいると思われているだろう。
実際は勉強がきっかけではないが、ストレスを溜め込んでいることには違いない。
そう思った俺は、ストレス解消のために行ってみようと思い、遠くてよく見えないチラシを眺めながら呟いた。
だが、次の瞬間。
ぼんやりと映っていた七瀬、その反対側に映っていた母さんと坂月先生。
全員の体が一瞬だけビクっと震えたのが見えたような気がした。
花火大会に行きたい。
そんなごく普通の言葉に、何故そこまで驚いたのか。
ぼんやりとしか見えていなかったので、見間違えであるかもしれない。
だが、見間違えでなかったとしたら。
七瀬、母さん、坂月先生の三人は、どうして驚いたのだろうか。
「あー......」
七瀬は立ち上がり、花火大会のチラシを手に取る。
「な、何か都合が悪いのか......?」
「えーっとね......。......いや、都合は悪くないよ......」
口ではそう言っているが、目は明らかに泳いでいた。
「じゃあ、何でそんな反応をしてるんだ......?」
俺は七瀬に質問するが、七瀬はチラシをじっと見始め、俺のことを無視した。
「......あれ? これ、よく見たら中止のお知らせじゃん!」
「中止......?」
「えっと......。今年は資金難で厳しくて、中止になっちゃったんだってよ......」
「え、でも......。中止の連絡を、そんなカラフルなチラシで......」
「......下半分花火大会中止のお知らせで、上半分はスーパーのセールのチラシみたい。しかも、期限過ぎてる」
七瀬はチラシを持ち、母さんの元へ向かう。
「正道のお母さん。このチラシ、もう要らないですよね?」
「え、えぇ。要らないわ。七瀬ちゃん。捨てちゃってくれる?」
「分かりました! じゃ、捨てちゃいますね!」
七瀬はチラシをクシャクシャに丸め、ゴミ箱に投げ捨ててしまった。
「あ、料理がもう少しで完成しそうですよ」
料理中の坂月先生が、嬉しそうな声で俺たちに伝える。
「それじゃ、お皿に移して......と......」
坂月先生が皿にパエリアを移すと、母さんが皿をテーブルに置く。
見た目はとても良く、忘れていた空腹を思い出す。
「良い感じにできましたよ......!」
坂月先生がニコニコしながら、七瀬の隣の席に座る。
「あとは、飲み物を用意して......」
母さんが冷蔵庫からペットボトルを取り出す。
中身は、オレンジジュースと麦茶のようだ。
そして、俺と七瀬のコップにはジュースを、母さんと坂月先生のコップには麦茶を注ぐ。
注ぎ終えると、母さんは俺の隣の席に座った。
「それじゃ、準備も整いましたし......」
七瀬はコップを持つ。
「正道の十四歳の誕生日を祝って......」
俺と母さん、坂月先生も同じようにコップを手に持つ。
「かんぱーい!」
「「かんぱーい」」
「か、乾杯......」
俺たちはコップを一斉にぶつける。
そして、飲み物を口に入れた。
「さ、正道くん。召し上がれ」
「は、はい......」
坂月先生に促された俺は、パエリアをスプーンですくう。
見た目、匂いはとても良いが、果たして味はどうなのだろうか。
坂月先生が少しだけ不安そうに、じっと俺のことを見つめている。
そんな先生を気にしながら、パエリアを口に含み、咀嚼する。
「......美味しい」
「本当!?」
不安そうな顔が一気に嬉しそうな顔に代わる。
「実は、少しだけ不安だったんだ......。味付けが合わなかったらどうしようって......」
「......とても美味しいですよ。作ってくださって、ありがとうございます」
「えへへ......。嬉しいなぁ......」
坂月先生は後頭部に手を当て、恥ずかしそうに照れている。
「そんな美味しいなら、私もパエリアから......」
七瀬と母さんもパエリアを食べる。
「んー! 美味しい! 先生、お料理上手なんですね!」
「本当、すごく美味しい」
「まさか、こんなに褒められるなんて......。私、お手伝いして本当に良かったです......! おかわりもあるので、どんどん食べてくださいね!」
「はい!」
七瀬は返事をすると、パエリアをどんどん口へと運んでいった。
みんなが用意してくれた、俺の誕生日会。
賑やかで楽しい誕生日会。
この誕生日会が幻ではなく本物なら、俺はとても幸せ者だ。
「そういえば正道。あんた、今年は何か欲しい物ってある?」
母さんが、誕生日プレゼントは何がいいかを聞いてきた。
「欲しい物、かぁ......。......今は、うーん......」
「......去年もそんなこと言ってなかったっけ?」
思い出してみると、去年も同じことを言ったような気がする。
勉強の邪魔にならないように、そして、高校に合格して本気でここを出ていくという意志を見せるために、物欲を完全に消し去っていたせいだ。
「......うん。でも、欲しい物はあるから、手に入りそうな時に......」
「はいはい。分かってるわよ。それも去年聞いたわ」
そろそろ母さんに、遠くの高校を受験して一人暮らしをしたいと言ってもいいのでは、そう思った。
しかし、今はまだ言わない方がいいと判断した。
勉強のし過ぎで入院した後なのに、遠くの偏差値の高い高校に通いたいと言ってしまったら。
合格するかどうか分からない不安から、勉強にのめり込みすぎるに違いない、と思われてしまうだろう。
そんなことを思われてしまったら、勉強しないように見張られる可能性だってある。
だから、あくまで趣味で勉強をしているように見せかけるのだ。
そして、母親は倒れたから反省しているはずと思い込んでいるはずだ。
だから俺は、その隙をついて勉強をするのだ。
こんな何もない、退屈な田舎からいち早く出るために。
「ねぇ、正道! チキンも美味しいよ!」
七瀬はそう言うと、俺の取り皿にチキンを勝手に置いた。
「あ、ありがとな......」
俺はチキンを食べる。
「う、美味いな......」
「美味しいよねー。正道のお母さん、本当に料理上手!」
「あら、照れちゃうわね、ほほほほほ......」
本当に、本当にここは退屈なのだろうか。
ここには俺のことを気にかけてくれる家族も、彼女の七瀬もいる。
俺の居場所はここではない。
ずっとその一心で、中学生になってからずっと、ずっと勉強をしてきた。
しかし、その考えは間違いなのではないか。
ほんの少しだけ、そんな疑問が芽生えていた。
それから、俺たちは楽しく会話をしながら、食事を続けた。
俺と七瀬、母さん、坂月先生。
みんな笑顔で、とても居心地が良く、幸せな時間だった。
そんな状況でも、疑問は頭を離れることはなかった。
いや、そんな状況だからこそ、頭から離れることは無かった。
本当に、ここを出る必要があるのか。
そんなことを考えつつ食べていたせいで、食事量を調整できていなかった。
食事を終えた頃には、俺の腹はパンパンになっていた。
「ふぅ......。ご馳走様でした......」
腹をさすりつつ、声を振り絞る。
「正道、もしかしてお腹いっぱい......? ケーキ、どうする......?」
「ケーキ......。ごめん......。食いすぎて、もう......」
「じゃあ、冷蔵庫に入れたままにしておくね?」
「ああ......」
「......正道、大丈夫?」
「正道くん......。大丈夫ですか......?」
七瀬と坂月先生が、心配そうに俺のことを見つめる。
大丈夫、ではない。
食べ過ぎたせいで、若干気分が悪い。
「ごめん......。少し、横になっていいか......?」
「う、うん......」
「七瀬、ごめんな......。体調崩しちゃって......。今日はありがとな」
「ど、どういたしまして......」
「先生も、今日はありがとうございました......」
「こちらこそ、呼んでくれてありがとうね......。お大事に......」
俺は先生に頭を下げると、椅子から立ち上がり、自室へと向かう。
気持ち悪いせいか、少しだけ歩きにくい。
フラフラとした足取りで、踏み外さないように階段を上っていく。
部屋に入り、一目散にベッドへと向かい、倒れ込む。
「うぅ......」
意識が朦朧としてきた。
本当に、ただの食べ過ぎなのだろうか。
「なんなんだ......。マジで......」
俺は、目を閉じる。
辛い、とても辛い今の状況から解放されることを願って。
「......ねぇ、七瀬。今日の旅行、楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
名残惜しそうに、窓の外を眺める。
帰りたくない。
家に、帰りたくない。
出たい。
生まれたこの地を、出たい。
私の居場所は、あんなところではない。
あんなつまらない場所ではないはずだ。
......本当にそうなんだろうか。
「んぅ......」
目を開けると、少しだけ調子が良くなっていた。
だが、完全に良くなったわけではない。
「喉......乾いた......」
体が、水を求めている。
俺は水を飲むために、部屋を出る。
人の声は聞こえず、カエルの声が少しだけ響いているだけだった。
そんな中、ゆっくりと階段を降り、台所へ向かう。
台所に入ると、そこには誰も居なかった。
俺は棚からコップを取り出し、水道水を入れる。
そして、中の水を少しだけ飲んだ。
水を飲むために顔を上げたついでに、時計を見る。
時刻は夜の十一時。
とっくに七瀬と坂月先生は帰り、母さんも寝ている時間だ。
仕事だった父さんも帰宅し、疲れてぐっすりと眠ってしまっているだろう。
「まだ、気分が優れないな......」
俺は水を飲み終えるまで、椅子に座って休むことにした。
薄暗い台所で、ボーっとしながら、少しずつ水を飲む。
そうしていると、ふと、視界にゴミ箱が入った。
七瀬がチラシを捨てたゴミ箱。
そのはずなのだが、中にあのチラシは入っていないような気がした。
「あれ......?」
俺は歯を食いしばって立ち上がり、ゴミ箱を覗き込む。
見間違えなどではなく、本当にチラシは入っていなかった。
元々入っていたゴミはそのまま残っており、チラシだけ無くなっていた。
「ど、どうして......」
もしかして、隠されたのではないか。
「あ、怪しい......」
あのチラシをこのまま無視してもいいのだろうか。
何故か、無視してはいけないような気がした。
俺は、ふらつきながらも台所を出て、チラシを探すことにした。
あまり音を立てると母さんと父さんが目を覚ましてしまうため、音を立てずに慎重に探す。
音を立てずに、タンスや押し入れを探していく。
もしかしたら、既に捨ててしまったかもしれない。
だけど、残っている可能性だってある。
だから、必死に探した。
そして、あのチラシは見つかった。
母さんの部屋のゴミ箱。
パンパンに詰まったゴミの下の方に、チラシはあった。
俺は取り出し、クシャクシャになったチラシを広げていく。
「な、なんで......」
俺はチラシを見た途端、頭が疑問で埋め尽くされた。
「どうして、七瀬と母さんは......」
七瀬と母さんは、花火大会の中止のお知らせが書かれていたと言っていた。
だが、目の前のチラシには、花火大会開催のお知らせが書かれていた。
体調不良ということもあり、頭が働かない俺は、そのチラシをポケットに突っ込み、部屋へと戻った。
どうして二人はわざわざ嘘を付いたのか。
そのことについて考えたかったが、そんな元気も無かった。
手すりを握りしめ、死に物狂いで部屋へと戻る。
そして、俺はすぐに寝ることにした。
目が覚めたら、調子が良くなることを信じて。
だが、そんな俺に訪れたのは、快調などではない。
死にそうなくらい辛く、まるで、病気にでもなったんじゃないかと思うほどの不調だった。
「ど、どうして......」
寝たところで、俺の体調不良は治らなかった。
むしろ、寝る前よりも苦しくなっている。
吐きそうになるのを必死に耐え、ビニール袋を必死に探す。
床を這い、部屋を見渡す。
偶然、机の下にビニール袋があることに気が付き、手を伸ばす。
ビニール袋を握り、急いで引き寄せて顔を突っ込む。
幸い、吐くことはなかったが、まだ吐き気は治まらない。
俺はビニール袋を枕の隣に置き、ベッドに戻る。
「あれ......。そういえば......」
こんなこと、前にもあったような気がする。
一ヶ月前から一ヶ月半くらい前。
刺身を食べて体調を崩した日。
今日の苦しさは、あの時と似ていた。
ということは、今回も食あたりなのだろうか。
だが、今回は前回とは違う。
前回の刺身とは違い、今回は火を通したパエリアとチキンである。
しかも、先生と母さんが二人で調理したはずだ。
火を通しても体調を崩すほど痛んでいるのであれば、流石にどちらかが気が付くはずだ。
チキンの過熱不足という可能性も捨てきれない。
だから、みんなの様子を確認するべきだ。
まずは、母さんの様子を確認することにした。
下の階まで行けるほどの調子ではなかったので、スマホで確認をすることにした。
母さんの連絡先を選び、電話をかける。
呼び出し音が数回鳴ると、母さんが電話に出た。
「正道どうしたの? 家に居るのに電話なんて......」
母さんの声を聞いた瞬間、俺の体中を冷えるような感触が襲う。
「あ、いや......。七瀬に電話をかけようと思ったんだけど、間違えちゃって......。ごめん......」
声を振り絞り、必死に誤魔化す。
そして、俺は電話を切った。
次に、七瀬に電話をかける。
再び呼び出し音が数回鳴り、七瀬が出た。
「正道おはよー!」
七瀬の元気な声を聞き、俺はスマホを落としてしまった。
母さんも、そして、同じ子どもである七瀬でさえ、元気そうだった。
つまり、過熱不足による食中毒などではない。
俺の考えが間違えかもしれないという可能性があるとわかり、俺の脳は勝手に次の可能性を考え始める。
「正道......? 大丈夫......?」
俺だけが体調を崩したのは何故なのか。
大人二人が管理した料理で、何故、俺だけがこんな目に合うのか。
「毒......?」
ただの中学生の俺なんかに毒や薬を盛って、どんな意味があるのだろうか。
だが、俺の思考では、それくらいしか思いつかない。
偶然調子を崩したという予想も思いついたが、食あたりと同じような症状が都合よく出るのだろうか。
分からない。
怖い。
俺の頭は、そんな恐怖に支配されていた。
母さんが怖い。
一緒に花火大会を隠ぺいした七瀬が怖い。
一緒に料理を作っていた坂月先生が怖い。
意味が分からなくて怖い。
俺を追い詰める世界が怖い。
生きていることが怖い。
「......嫌だ」
何もかもが嫌になった。
俺は床に落ちたスマホを無視し、布団に潜り込む。
もう、何も考えたくない。
それから、母さんや七瀬が心配してやってきたような気がするが、ほとんど覚えていない。
食事も運ばれてきたが、ほとんど喉を通らない。
どのくらい時間が経ったか、全く分からない。
調子は良くなってきたが、周りの人が、全てを恐れていた。
俺は恐怖を隠すために、俺は無意識に思考を停止させて生きていた。
そんな俺はまともな生活を送れるはずもなく、部屋に引きこもりっぱなしで、部屋から出るのは、コッソリとトイレに行く時くらいだ。
母さんに見られると、恐怖のせいで急いで部屋に戻ってしまう。
学校にも通わず、勉強もせず、ただ毎日起きて、恐怖し、倒れるように寝るだけの日々。
ほぼ死んでいるような、生き地獄の日々。
「なんで......」
なんで、ただ勉強を頑張り、ここから出ようとしただけの俺が、こんな目に合わなければいけないのか。
「どうして......」
どうして、七瀬と一緒に楽しく過ごしたいと思っただけの俺が、こんな目に合わなければいけないのか。
俺の精神は、限界を迎えてしまった。
「私がこんな目に......!」
言葉を発し終えると、俺の思考は停止した。
そして、自分が無意識に発した言葉を思い出す。
ほぼ停止していた脳を、必死に動かす。
「私が......? なんで俺、私だなんて......」
その時、視界が歪み、眩暈がした。
更に、頭痛と吐き気も襲いかかる。
俺?
私?
俺は私?
私は俺ではない?
私は、私?
「嘘......!?」
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
もしかして、今までのは全て幻だったのではないか。
それを確認するために、俺は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「ちょ......! どうしたの正道!」
勢いよく階段を下りる音を聞いた母さんが俺に大声で声をかけるが、それを無視して脱衣所へと向かう。
脱衣所の扉を開け、洗面台の鏡を覗き込んだ。
「嘘だろ......。本当に......!」
鏡に映り込んだ姿を見た俺の意識は、そこで途絶えた。
目が覚めると、正面には見知った天井。
俺は、今まで幻を見ていた。
俺の彼女は幻だった。
そして、俺自身も幻だった。
現実は、俺と彼女ではなく、私と彼氏......。
「正道、行ってらっしゃい」
玄関で靴を履いていると、母さんが台所から俺に声をかけた。
「行ってきます」
靴を履き終えた俺は立ち上がり、玄関の扉を開ける。
外に出て玄関の扉を閉めると、学校へ向かって歩き始めた。
一人で畑に囲まれた道を、とぼとぼと歩いていく。
何年も通っているので、一人で通学するのには慣れていた。
三十分ほど歩くと、学校に到着した。
玄関で上履きに履き替え、教室へと向かう。
教室に入ると、七瀬も坂月先生も居ない。
時計を確認すると、朝会の開始五分前だった。
俺は椅子に座り、誰もいない教室でボーっと過ごす。
朝会の時間になり、坂月先生が教室に入ってきたが、七瀬は姿を現さなかった。
「七瀬、遅刻かなぁ......」
俺は七瀬のことが気になり、ボソっと呟いた。
七瀬はいつも勉強ばかりしているので、家でも夜遅くまで勉強し、寝坊したのかと思っていた。
すると、坂月先生の口から衝撃的な言葉が発せられた。
「正道くん......。実は、さっき七瀬ちゃんのお母さんから連絡があって......。七瀬ちゃんが気を失って、病院に搬送されたらしいの......」
第4章 終