二つ名が恥ずかしくなって新大陸へ逃げたオジサン   作:おじさん

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第1話 新大陸では誰も俺のことを知らない

 潮の香り、微かな鉄錆と獣の血の匂い、そしてむせ返るような濃密な魔力が混じっている。

 

 旧大陸の美しく整備された石畳の港とは似ても似つかない、無骨で雑多な船着き場。

 

 新大陸の玄関口と呼ばれるこの辺境の港町は、荒くれ者の冒険者や一攫千金を夢見る商人、多種多様な亜人種たちが入り乱れる混沌の坩堝だった。

 

 軋むタラップを降り、潮水と泥に塗れたブーツの底で新大陸の土を踏みしめる。

 

「……空気が重いな。だが、悪くない」

 

 俺は大きく深呼吸をし、肺の奥深くまでその重たい空気を吸い込んだ。

 

 旧大陸を逃げるように発った船が中途で嵐に巻き込まれて難破し、あわや海の藻屑というところで別の怪しげな商船に拾われる――という手痛いトラブルはあったものの、無事に辿り着けたのだから良しとしよう。

 

 むしろ、乗船名簿ごと海に沈んでくれたおかげで、俺の足取りは完全に消滅したはずだ。

 

 すれ違う獣人の荷運びが、俺の肩にドンと乱暴にぶつかる。

 

「っと、邪魔だぜ薄汚ぇおっさん! ぼーっと突っ立ってると海に落ちるぞ!」

「ああ、すまない」

 

 漂流のせいでボロボロになった外套を見下し、柄の悪い口調で舌打ちをして去っていく獣人。

 

 その背中を見送りながら、俺は自然と頬が緩むのを感じていた。

 

 怒りなど欠片もない。むしろ、歓喜に打ち震えそうだった。

 

 旧大陸ではこうはいかなかった。

 

 俺が道を歩けば、人々は恐れおののき、あるいは熱狂的な羨望の眼差しを向けて、神話の海割りのように道がパカッと開いたものだ。

 

 肩をぶつけようものなら、周囲の護衛や熱狂的な取り巻きがその者を即座に袋叩きにしていただろう。

 

 だが、ここでは誰も俺を見ない。

 

 俺が何者であるかなど、誰も気にしていない。ただの小汚い、遭難明けの三十代後半のおっさんとして扱ってくれる。

 

「ここなら……完璧に埋もれられる」

 

 安堵の吐息を漏らしながら、俺は港町の入り組んだ路地を歩き出した。

 

 露店の客引きががなり立て、怪しげな魔法薬の煙が路地に立ち込めている。

 

 その全てが新鮮で、心地よかった。何者でもないただの男として街を歩くという、かつては当たり前だった日常がひどく愛おしい。

 

 しばらく歩き回っていると、腹の虫が遠慮のない音を立てた。難破からの数日、ろくなものを口にしていない。

 

 見れば、路地裏に魔石のランプをぶら下げた、小汚いが活気のありそうな大衆食堂があった。

 

 開け放たれた扉からは、香ばしい煙と、食欲をそそる濃厚な出汁の匂いが漂ってくる。

 

 店内に入ると、むせ返るような熱気と騒音が出迎えた。

 

 円卓ではドワーフたちがジョッキを打ち鳴らし、カウンターでは傭兵風の男たちが丼を掻き込んでいる。

 

 俺は空いているカウンター席に腰を下ろし、壁に掛けられた木札のメニューから「濃厚豚骨風の白濁スープに太めの麺、燻製された白身魚と、炙り肉が乗った一杯」を注文した。

 

 やがて運ばれてきたドンブリから立ち昇る湯気。

 

 レンゲでスープをすすると、ガツンとした塩気と旨味が、遭難明けの五臓六腑に染み渡る。

 

 燻製魚の香ばしさと、ホロホロに崩れる炙り肉の脂が、太い麺によく絡む。最高だ。

 

 こういう、ジャンクで泥臭くて安上がりな味が食いたかったのだ。

 

 旧大陸で俺が食事をしようものなら、頼みもしない高級なフルコースが勝手に出てくるのは序の口。

 

 ひどい時には、俺がスープをすするだけで「見ろ、深淵が供物を飲み込んでいる……」「なんと静かで恐ろしい食事作法だ」などとヒソヒソ囁かれ、野次馬が集まってきたものだ。

 

 ここでは、隣で豪快に麺をすする大男も、俺の食べ方など一瞥もくれない。

 

 俺は一滴のスープも残さず飲み干し、銅貨5枚をカウンターに置いた。

 

「これで足りるか?」

「ほお、ナダメル大陸の銅貨か。充分だ」

 

 店主は雑に銅貨を摘み上げる。

 

 ただメシを食って金を払う。そんな当たり前の行為に、泣きそうになりながら、店を出た。

 

 腹が満たされると、今度は長旅と漂流の疲労がどっと押し寄せてきた。

 

 路地を少し進んだ先にある、熊の看板を掲げた宿屋の扉を押す。

 

「いらっしゃい。飯は終わったよ、泊まりかい?」

 

カウンターの奥から、恰幅の良い女将が顔を出した。

 

「ああ、泊まりだ。とりあえず十日ほど。いくらだ?」

「前払いで銀貨5枚。お湯を使いたいなら銅貨追加だ。……そこに名前を書きな」

 

 女将が差し出した古びた宿帳と羽ペンを見て、俺は一瞬だけペン先を止めた。

 

 名前。

 

 十五歳の頃。

 

 俺は冒険者ギルドの登録証に、自分の本名を捨てるつもりで、この世で最もカッコいい(と当時は信じて疑わなかった)名前を刻み込んだ。

 

 

『ヴィルヘルム・アルジェント・ヴァン・シュヴァルツァー』

 

 

 それが、俺の登録上の、そして旧大陸中に知れ渡った英雄としての名だった。

 

 さらにそこに『影を喰らいし虚無の暗殺者(シャドウイーター)』などという二つ名まで乗っかるのだから、今思い出すだけで全身から変な汗が噴き出してくる。

 

 

「……おい、どうしたんだい? 字が書けないのか?」

 

 訝しげに眉をひそめる女将に、俺は慌てて首を振った。

 

「いや、疲れでボーッとしていた。……俺の名前は、ヴィルだ」

 

 あの忌まわしい長ったらしい名前の、最初の二文字だけを切り取った、ごくありふれた響き。

 

「ヴィルね。はいよ、二階の突き当たり、201号室だ。階段はギシギシ鳴るから静かに歩きなよ」

 

 鍵を受け取り、きしむ階段を上って部屋に入る。

 

 狭い部屋には、藁を詰めただけの硬いベッドと、小さな机が一つあるだけだ。

 

 王都で宛てがわれていた、ふかふかの天蓋付きベッドに比べれば、天と地ほどの差がある。

 

 しかし、構わない。

 

 俺は潮水でこわばった外套を脱ぐのももどかしく、その硬いベッドに深く体を沈めた。

 

 軋むベッドの音が、今の俺には極上の子守唄に聞こえる。

 

 目を閉じると、王都を出る直前の光景が蘇った。

 

 吟遊詩人たちが広場で高らかに歌い上げていた、俺の武勇伝。

 

『おお、暗闇を纏いし者よ! その影は万物を飲み込み、虚無の果てへと誘う! 彼の者の名はシャドウイーター、恐るべき深淵の主よ――!』

 

「……っぁぁああああっ!!」

 

 俺は硬い枕に顔を押し当て、声にならない絶叫を上げた。

 

 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。

 

 魂がゴリゴリと削られるような羞恥心が、胃の腑をギュッと締め付ける。

 

 あんな歌が、今この瞬間も旧大陸のあちこちで歌われているのかと思うと、本当に海に身を投げたくなる。

 

……いや、つい数日前に海には放り出されたばかりなのだが。

 

「俺はもう……シャドウイーターじゃない。ただの、ヴィルだ……」

 

 誰に言い訳するでもなく呟き、薄い毛布を頭から被る。

 

 耳を澄ませば、一階から聞こえる酔っ払いどもの馬鹿騒ぎと、遠くで波が砕ける音だけが響いている。

 

 俺の黒歴史を歌う者は、ここには一人もいない。

 

 硬いベッドの感触と、新大陸の重たい空気に包まれながら。

 

 俺は過去の栄光と羞恥を、沈んだ船と共に海に置き去りにして、底知れぬ安堵とともに深い眠りへと落ちていった。

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