二つ名が恥ずかしくなって新大陸へ逃げたオジサン 作:おじさん
寝床を揺るがすイビキで目を覚ます。
グガァァアアアアア……!! と鳴り、床が震える。
これが安宿。これこそが新大陸。
訳もわからず、嬉しくなる。
自分の存在が、ひどく小さく、どうでもよい。
この宿に泊まる全ての人は、俺の隣の部屋にいる男の身体を心配している筈だ。
そんなイビキをして、大丈夫なのか? さっき数秒息止まってたけど、大丈夫なのか!? と。
……まあ、再びいびきが鳴り始めたのできっと大丈夫なのだろう。
俺はパチリと目を覚まし、そのまま一階の食堂へと向かった。
丸テーブルにつくと、すぐに獣人の女給がやってきて「いる?」と問う。
メニューを選ぶのではない。「いる」か「いらないか」。
「殺る」か「殺られるか」のようなシンプルさに、思わず微笑んでしまう。
「いる」
「はいよ」
すぐさま、ドンッ! とテーブルに置かれた分厚い木皿。その上には謎の肉と硬そうなパン。上からはドロリとした謎のソースがかかっている。
もし旧大陸の道端で出会したなら、「すわ! モンスター!」と短剣を抜いていただろう謎の物質が皿の上にある。
「……これは何だ?」
「美味いよ」
そうか。美味いか。何だかは答えられないが、美味いならば、食べるしかない。
得体の知れない何かを口にいれる、という経験を楽しみながら、謎肉を喰む。
「……美味い!」
「そうだろ! ちなみに私は食べてない! ははははっ!」
笑いながら食堂の奥に引っ込んでいく女の姿を見送りながら、朝食プレートを平らげる。大雑把だが、香辛料が効いていて悪くない。
食後の薄いお茶を飲んで少し落ち着いたところで、一人の老翁が食堂に現れた。
ただの老人ではない。監視するような鋭い視線で辺りを見渡している。只者ではない気配だ。
ふと、目が合う。
「……」
「一つ教えてくれ。この辺で、ゆっくり釣りでも出来るようなところはあるか?」
「……ある」
老翁は懐から素早く紙を取り出し、卓上の羽ペンで地図を書き始めた。
「……ここに、行くがいい」
伝説の宝物か、あるいは裏社会の極秘指令でも渡すかのように、重々しく差し出される羊皮紙。
俺はそれを静かに受け取り、立ち上がる。そのまま店を出た。
#
始まりの港町から一時間ほど歩いた森の中。
生い茂った下草の先に、老翁の地図が示すその湖があった。
生命の気配が強く、魚が釣れそうな雰囲気がある。
俺は腰のマジックポーチから、旧大陸で買った釣り道具を取り出した。
いつか落ち着いたら、ゆっくり釣りでもしようと購入してから、ずっとポーチの底に追いやられていたものだ。
まさか、こんなゆったりとした日々を送れるようになるとは……。
湖の畔に折り畳み椅子を出し、どっこいしょと腰を下ろす。
その辺の土を掘って捕まえたミミズを針につけて、竿を振って遠くに投げた。
ぽちゃん。と間抜けな音。ひどく平和だ。
ゆっくり呼吸しながら、耳を澄ます。
鳥の囀り、虫の声、魚が水面で跳ねる音。
自分が自然の一部になったような感覚。勝手に瞼が落ちる。
改めて感じる。
俺は、新大陸に来たのだと。ただのヴィルとして生きていくのだと。
もう誰も、俺のことを「影を喰らいし虚無の暗殺者(シャドウイーター)」なんて呼ばない。静かに、ひっそりと暮らすのだ──。
しばらく森林浴を楽しんでいると、ぴくり、と竿に反応があった。
手首のスナップだけで軽く合わせると、確かな手応え。魔力も身体強化も使わず、ただの腕力と技術だけで魚との駆け引きを楽しむ。
やがて水面を割って現れたのは、丸々と太った銀色の淡水魚だった。
三時間で四匹。ちょうどいい。
俺は釣竿を湖から上げ、昼食の準備を始めた。
手頃な石の上で魚を抑え、マジックポーチからナイフを取り出す。
腹に刃を入れ、内臓を傷つけないように一瞬で抜き取る。手早く水で洗い流すまで、一匹につき十秒とかからない。
塩を振って串に刺す。
集めた落ち木をかまど状に組み上げ、火打石で着火する。魔道具を使えば一瞬だが、こういう不便な作業の手間すらも愛おしい。
やがて、パチパチと爆ぜる火の音とともに、魚の脂が落ちて香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。
表面の皮がパリッと焼き上がり、黄金色に色づいていく。
「さて、いただくとするか」
焼き上がった魚に手を伸ばしたその時──背後の草むらから、複数の足音が近づいてきた。
踏み込みが甘く、体重移動もバラバラ。しかし、若く活力に満ちた足音だ。
俺はふっと息を吐き、臨戦態勢を解いた。
「なんだ、モンスターかと思ったら人間のおっさんか」
赤髪で革鎧を着た若い男が俺を見て、残念そうに言った。腰には短剣。
「アレン! いきなりおじさんなんて言ったら失礼ですよ?」
金髪でゆったりとしたローブを着た女が焦った様子でフォローする。杖を持った回復士だろうか。
「こんなところで釣りとは……」
青髪で軽装の男が警戒した様子で俺を見る。背中には短弓。斥候兼、魔法士といったところか。
三人とも若く、生命力に溢れている。名をあげようと新大陸にやってきた、新米の冒険者のようだ。